礼拝

1999/5/16

Tペテ1:22〜25

「生ける神の言葉」


Tペテロ1:22〜25

肥田日出夫氏(経済学者)の『聖書の論理が世界を動かす』(新潮社)という本を以前にご紹介しましたが、「聖書の論理が世界を動かす」とは、何ともクリスチャンにとってもここちよい刺激的な題ではあります。たしかに、この本は、西洋人のものの考え方、いや既に日本人の物の考え方の中にさえ、聖書によって導かれ、聖書が影響力を与えたような考え方が、あらゆるところにあるのだと言うことを言うのですが(西洋人の物の考え方のグローバルな事。西洋が経済大国でなく生活大国を実現できる理由。自由や自立の強調など・・)、確かにこれ(聖書)は、洋の東西を問わず、多くの人に認められているわけです。それは真理と呼べるものではないでしょうか。聖書の中には、確かに私たちを幸せに導く真理がいっぱいあると結果的には、この本は述べています。しかしこの本の本当の目的はそれを、良いにしても悪いにしてもあぶり出してやろうという本なのです。(みなさんにも読んでみることをお勧めします。往々にして、キリスト教暴露本、批判本がそのままキリスト教推薦本になっているというケースが良くあることです。今回、教会推薦図書には含めませんでしたが、隠れた推薦図書としてあげておきます。¥900

で、この本の第19章は、「それではキリスト教の弱点は何か?」ということになっているわけです。みなさん何だと思いますか?肥田氏はこのように言います。

「キリスト教の限界(欠点)は、現象としては色々なかたちで現れてきますが、(結局、)そのおもなる原因をたどりますと、ほとんどの場合いきつく一つの点があります。(それは、)教典が難しいことがそれです。」と。

私に言わせると、2000年前から、あるいは4000年、5000年前に書かれた書物が今の時代に難しいのは当たり前で、それでも感動をもって読めるという事がむしろ驚異だと思いますし、彼自身が、そう言いながらも、いかにこの時代の中に聖書が影響力を与えているか、驚異をもって書いているのです。本当に難しかったら、そうはならないはずです。まあ、幾分は納得するわけではありますが。

 

1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」

今朝、私たちはこの言葉をとりわけ印象深く聞きます。早速聖書を見ていきましょう。

この言葉ですが、イザヤ書40章の言葉をペテロが引用しています。そこは、今、祈祷会で学んでいますが、バビロニア帝国に連れて行かれたイスラエルの人々が、ついには解放されると言う預言の言葉です。ですから「その栄え」とは、バビロニア帝国の栄光を示しています。バビロニア帝国の前身アッシリア帝国の首都ニネベが、1820年にはじめて発掘されたときの、考古学者レイヤードの驚きが記されています。「私はこの壮大な建物・・少なくとも71に及ぶ広間や部屋、壁画はほとんど例外なくアラバスター(石膏)の浮き彫りに飾られ、ざっと計算したところ、つなぎ合わせると、2マイル(3キロ)に及んだ。」(大英博物館「アッシリア大文明展」)このアッシリヤを亡ぼしたバビロニア帝国をイスラエルの人々が見たとき、圧倒され萎縮した事だろうと想像するのです。しかし、そんな彼らに聞こえてきたのは、その栄えは草の花のよう。しおれ、散ると。しかし、それでも神の約束は変わりないと。2000年の歴史を顧みながら悠々と語るのではありません。何もないところでそれを信じたのです。彼らは御言葉通りに帰還しました。そして、御言葉通りにバビロニアは滅びました。

ペテロは、ローマの迫害が近づく中で、この書を書いたと繰り返し述べてまいりました。今、ペテロは、この「栄え」をローマに見ています。しかし、彼は何か浮き足立ったような楽観的な物の考え方をしているのはありません。彼は、これからクリスチャンに、教会に起きようとすることが、「燃えさかる火の試練」(4:12)であることを、氷のような冷めた冷静さな目をもって見ています。しかし、その冷静な目をもって、彼は言うのです。教会など一息で飲み込んでしまうように見える(ここ)ローマも、実はしおれる草であり散り行く花のようなものだと。しかし、それでも御言葉は残ると。御言葉こそ真理だと。

「あなたがたに宣べ伝えられた福音」すなわちこれです。聖書です。と掲げてみせるのです。

 

聖書が時代によって変わらない、真理であることを繰り返し彼は述べます。

1:23 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」

いつまでも変わることのない、神のことばと。

 

ただ、今朝は、この神のことばの、もう一つのペテロの表現に注目したいのです。

この23節で言えば、「いつまでも」の前の言葉です。そうすなわち「生ける」という言葉です。生ける(生きている)言葉です。というのです。

この22〜25節の全体で感じ取っていただきたいのですが、みなさんは真理というとどういうふうにご説明しますか?例えば、1+1は2。これが真理。底辺×高さ÷2=三角形の面積など。これは、本当に変わらない真理です。

しかし、聖書の真理がまるで硬いダイヤモンドか、無味乾燥な数学の定義や定理のように考えているとすれば、それだけでは間違いです。

聖書の真理は実にダイナミックで、まるで生き物のように圧倒的な存在感と動きをもって、ある時には迫ってくるような迫力を持って、そして、細菌か何かのように、浸食し、影響力をあたえないではおかないような、生きたものとしての真理だという事なのです。

もっとも真理そのものの中には、すでにそれが必ず良い結果を生むという実践とは切り離せないという事を含んではいます。

ペテロは、これも前回述べましたように、2章からは、キリストを信じた者の、実践、クリスチャンはどう行動するのかということが展開されます。御言葉が、実践と実行を生み出していく、いや、むしろ、生み出さざるを得ないものであることを、述べるのです。真理というのは、なぜ真理なのかといえば、1+1は2、底辺×高さ÷2=三角形の面積という真理を使うと、例えばそれで鉄板が無駄なく切れるとか、その鉄板を使って船を造ると、正確に作れて沈まないという結果を生む。真理はそのように必ず良い結果を生むのですし、生むからこそ真理なのです。1+1が3という計算をしていて、船を造ったらとんでもない船が出来て船が沈んだ。ああ、やっぱり1+1は2なんだと、結果を見ると、真理であるかどうかがわかるのです。

しかし、聖書の真理というのは、もっと圧倒的なダイナミックな力をもっているのです。

今日のところを読んでいて、何より象徴的なのは、この真理、神のことばが例えられているのは、ダイヤモンドとか、金だとか、そういうものに例えられているのではなくて生きている、(何ですか?)種であるということです。(福音書の中にイエス様が神の国を例えているように)

それは、今日の所の、この言い方の中にも、表れています。

1:22「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」

薬の効能書きみたいではあります。

この薬を飲むと、最初はボーとしてきますが、そのうちに少しずつ頭痛が取れてきます。そうしたらもう、以前のようにはつらつと仕事に励んで下さい。まあ、効能書きにはそこまでは書いてありませんが・・

聖書には、あなた方が、真理に従うと、魂が清められていきます。そうすると、偽りのない兄弟愛を抱くようになります。そうしたらもう、恐いものはありません。正々堂々と疑心暗鬼になることなく、心から熱く愛し合って下さい。この薬によってきく愛という効果は、軌道を外れるとか、嫉妬に変わるというようなこともありません。非常にいい薬で、まさにこれしかないという決定版の薬です。真理です。

(わかりやすいでしょう?)でも本当にそういう意味なのです。誤解しないように良く見ていただきたいのですが、愛し合うのはもはや、命令ではありません。ギリシャ語でも過去形で書かれていますが、愛はすでに御言葉を、また生きる真理の言葉であるキリストを信じる者の心に生じているのであって、愛し合うのは、命令ではなくて、許可であり、勇気を与える励ましであるのです。注意深く、良く読んで下さい。

そして、聖書の真理というものはそういうものだという事です。それを信じると、まるで種が芽を出し葉を出し、花を咲かせるように成長しはじめる。生き物のように自動的に圧倒的な力を発揮しはめるということです。(また、最近の新聞で、朝日朝刊5/9『勝った負けたより、人の幸せを祈りたい』の記事で、29年間の商社マン生活に終止符を打って牧師になる学びをしている人ということで紹介しておりましたが、こうした転身が記事になることに驚いた。あまりにもクリスチャンの世界では当たり前だからです。「神様が背中をけ飛ばしているように思った。」と転身の思いを述べていますが、ありうることです。真理に従う者はいつもそのようなのです。)さらに話が強調されているのは、また、23節にあるように、それが朽ちる種ではなくて、朽ちない種だ。種は朽ちないという意味だけではありません。もっと話が飛躍しているのは、御言葉が種だと言いながら、草や花は散りしおれるけれど、この植物は、朽ちない枯れない散らない種だということです。それが、これ(聖書)だと。福音だと。キリストだと。

22節の内容に注目していただきたいのですが、その真理の効能が、愛に実を結ぶという事です。

宮村武夫先生は、新聖書講解のなかでこう言っています。

「真理とは何か。真理に生きるとは何か。真理に生きるとは、主イエスにある神の愛に生きること。神に呼びかけ、それに自分が答えて従うという人格的交わりの中に生きることが真理に従う生き方なのである。」と。

結局私たちが今朝、一番注目したい言葉は、実は、真理と言うより、真理に従うという従うという事と真理がセットで語られている事であるということだと思うのです。

御言葉も、聖書も、これは真理ですが、誤解を恐れずに言えば、少なくとも私にとっては、このままでは真理ではありません。これを信じ、すなわち、ここに書かれていること、神様を信じ、私たちの罪を赦し、神の子どもとさせて下さるという約束を信じること。従うことで、はじめてこの言葉が真理となり、結果を出していくということです。

私たちの心の中に愛が生じてくるのは、生きている神様が、私を、かけがいのない存在として「あなた」と語りかけてくださる、私も、その神様をあなたと語りかけ、私と自覚する。真理というのは、少なくとも聖書における真理というのは、そういうかたちでだけ真理になるのです。そうすると、本当の愛がわかってきます。生じてくる本当の愛を、兄弟愛だとペテロは例えます(:22)。そうです。兄弟、すなわち家族というのは、他の集団とは根本的に違います。どう違うのか。家族の中では、例えば会社では、時に思うことがあるかもしれません。この会社の中では、自分はいてもいなくてもどうでもいい、自分がいなくてもすべては何事もなく進行していく。自分の代わりなどいくらでもいる。機械の一部分にしか過ぎない私。単なる消耗品に過ぎない私。ところが、家族は違います。そういう基準では物事を量りません。家族というのは、そういう能力主義に支配されない場です。一人一人をその人なりに尊い存在として受け入れるのが家族です。神を信じると、その人は、罪人であっても限りなく愛する愛を受け入れます。そうすると、あなたのお隣に座っている人を、同じ愛をもって受け止める準備が出来ているのです。だから大胆に愛せるようになる。というわけです。まずは、隣の人から。そして、それは、ある人が、教会は愛の学校であると言いました、愛が教会の中で止まってならない、そこで挫折しそこで学び出ていって愛を実践するものにならなければと言いましたが、大きな広がりをもって愛は広がっていくのです。真理は、そのように最初は、からし種のように小さく見えますが、結果は目をみはるものになっていきます。

それは絵に描いた餅になることはありません。23節を見ますと、新しく生まれる。人は、真理に従うことによって本当に変わるのだというのです。

 

真理とは・・・・。私たちを愛したもう神を信じることです。イエス・キリストを私たちの救い主と信じることです。この真理は、ダイナミックな躍動と広がりをもった真理です。そして、とこしえに朽ち果てることのない真理です。何と優れた真理でありましょうか。

 

今朝、最後に、林文雄というライ病の人々のために尽くした医者(星塚敬愛園園長)についてお話したいと思います。

昨年、東村山教会で特伝のご奉仕をさせていただいた折り、朴由喜兄(富士宮教会)から、久しぶりに声をかけられました。「お久しぶりです。」しゃべり方にしても歩き方にしても、ちょっと変わっていると思っていたのですが、メモに住所を書いていただいて初めて気がつきました。彼の住所は、多摩全生園(ハンセン病:ライ病)だったのです。彼はライ病だったのかと思ったのです。林さんは、クリスチャンホームに生まれたのですが、この多摩全生園という東村山のライ病院の話を聞き、あるいは、そこのライの標本などを見ていて、異様な感動を覚えたというのです。しだいに、彼は、「ライ病院に行こう。ライ病院に行って不幸な人たちの友となろう。」思い始めます。その思いは押さえられないものでした。(『キリストの証人たち2』)

ついに彼は、父の怒りをかいながら、東村山行きを決めるのです。

非常に印象深い一言があるのですが、彼は、こう言っています。

「教科書を読んでいると、レプラ(ラテン語:ライ)という字がおどろように出てきたり、臨床講義で教授がこの言葉を口にするとき、わが胸は早鐘(はやがね)の如くに打ちたたかれた。」と。

キリスト者として自分はこの人たちのために生きるのだと思ったのです。その思いは、何か押し出されるようなものでした。

この林さんが医者になろうとしたとき、縁談がありましたが、これも相手からさっさと断られました。でも、言います。「自分はもう結婚どころではない。自分はただ、今ひたすらに患者の所に行きたい。そう思ったのです。」と。

彼は47才で、結核で死にます。

しかし、彼の証を読んでいますと、本当に彼が、気負うことなく、軽々とした人生を歩んでいるのに驚かされます。まさに押し出されるようなキリスト者としての歩みでした。

死ぬとき、彼の入院していた結核の患者たちが、患者の身で彼の病床を尋ねられなかったので、館内の有線放送を通じて、讃美歌を歌い、祈り、見舞いの言葉を贈りました。それを聞いた彼は、病床でペンをとります。それが彼にとってのクリスチャンの生涯の最後の言葉となりました。絶筆となりました。

「ありがとう。こんなこと。聞いたことなし。ありがとう。ありが十。ありが百匹。こんな幸福者なし。」

人を愛することに彼は気負いがありません。むしろ、彼の力と言うより何かに押し出されるようにして、歩んだことを思います。

彼が、結核に倒れたときに、ノートにこのように書きました。

「病中久しぶりに祈りの時が与えられた。ただ感謝のみであった。母や妻に心配をかけてすまぬが、ともかく・・恵みのゆえに生かされ、福音の油を注がれ15年(救われてからという意味)。なんで不足が言えよう。今天国に召したもうもハレルヤである。ありがたいことだ。まだご用があれば支えられるであろう。すべてエホバ・エレ(わが神)、御心のままに進まん。」

 

「真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟(家族)愛を抱くようになった」私たちの先達の言葉と理解します。

1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。

1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

御言葉に従い、神を信じ、この真理に従い、豊かにされていく信仰の歩みを、今週もここから歩み始めましょう。