礼拝

1999/5/2

Tペテロ1:13〜21

「聖でなければならない」


Tペテロ1:13〜21

一冊の本があります。

『美しい少年・ナザレのイエス』(新教出版 西阪著)という子供向けの絵本です。

その本の中に、こんな一節があります。

「ふたたび、イエス様のナザレの村での生活が始まりました。イエス様はやはり、お父様やお母様のお仕事を良くお手伝いになりました。学校での勉強もお続けになりました。

イエス様は、村中の人からかわいがられました。それは、イエス様が、誰にでも親切にやさしくなさったからです。弱いものいじめをしている子供がいると、イエス様は、いつでも優しくお慰めになりました。とりわけ、弱い人や、つかれた人や、年をとった人を、イエス様は、やさしくおいたわりになりました。イエス様のいらっしゃるところには、いつでも平和と幸福がありました。こうして、イエス様は、きよらかに、そしてたくましく、だんだん大きくなられました。」

「美しいイエス」

題にもありますように、この本は、渡辺禎雄という方の美しい版画の挿し絵と相まって、イエス様が本当に美しく美しく描かれた子供向きと言うより歌であり(所々に曲と歌詞がつけられている)また詩であるような大人向きの絵本であります。

この絵本は、1950年に書かれた本で、太平洋戦争が終わって5年目。日本の圧制から解放されたばかりの隣国、朝鮮半島でまた朝鮮戦争が始まったばかりの頃、著者が病院のベッドで、平和がいかに尊いものであるか、(言わば、)正義をかざしていきりたつより優しさを、強いことの美しさよりきよらかなることの美しさを。「日本の少年少女に、イエスの少年時代の物語を通して訴えなければと決心して」書いたと言います。

 

「キリスト者とは、・・・神の愛によって美しくされた人生を生きる人間のことである。(なのである。)」と、あるイギリスの牧師(バークレー)が言いました。

1:1516「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」

今朝は、特にこの言葉に心を留めながら、『聖でなければならない』と題させていただいて、教えられていきたいと思います。

さて、冒頭から、クリスチャンが聖であることを、あえて美しくあることという言いました。聖という事をみなさんに理解していただくために、少し世俗的な言い方をさせていただいたと思います。

ところで、みなさんは、この聖書の聖と書いて、あるいは聖いとも読む、この聖という言葉を聞くとどのようにご説明なさるでしょうか。

早速ですが、先ほどの御言葉を見ます。

1:16「それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。」

とペテロが言いました、書いてあるというのは、旧約聖書の、レビ記というところに書いてある言葉を引用しているのです。そこにも、神の民は、神の聖にならって聖でなければならないと言っています。ペテロも、クリスチャンは、神の聖にならって聖でなければならないと言うのです。

この節を理解するために、まずこの聖という言葉の意味についてご説明します。

例えば汚れた洗濯物を洗剤によってきれいにするのは、洗剤によって白く染めたり加工したりするのではなくて、むしろ、余分なもの、汚れを落とす、布地を汚れと分裂させるのがその役割です。聖書では、よく金属などを精錬することの例えが出てまいりますが、これも金であれば金以外のものを溶かしだし漉してしまって、金だけを取り分けることを意味します。

聖という意味の中心は、この取り分けるという意味があります。

パウロやペテロの時代、まさにこの世からクリスチャンが取り分けられる必要がありました。その何と言いましょうか低俗さはぎょっとするようなものでした。食(食事)ということにおいては、そのグルメ度たるや、記録によれば孔雀の脳が出され、ナイチンゲールという鳥の舌が出され、道徳という点で言えば、10人目の夫を持った金持ちの女性とか、5年のうちに7人目の夫をもった女性などという記述が平気で出てくる。中には、23人目の夫と結婚した女性が出てきて、しかも彼女は、夫にとっては、21人目の妻だとか。男女の関係ばかりではなく、同性愛、子供への性的虐待などごく日常茶飯事の事。どうせいずれ死ぬ運命。人もまた犬と変わらずに死ぬ。だとしたら犬のように生きてはいけないだろうか。刹那の快楽に明け暮れよう。まるで哲学を持っていたといわるのです(ヒエロニムス、カトゥルスのレスビア(ン)に対する助言など)。そのような異教の世界に生きるクリスチャンが、クリスチャンとして自覚をもって生きるためには、世の中から分離される必要がありました。

しかし今朝、みなさんに知っていただきたいことは、「なぜ」私たちが聖である必要があるのか、じゃあ、どうして刹那的な生き方をしてはならないのか、聖でなくてはならないのかということについては、十分な解答が与えられていませんね。今朝もう少し深く、なぜクリスチャンが聖でなくてはならないのか、三つの理由についてお話したいと思います。

さて、ただ私たちが聖でなくてはならない理由は、たしかに16節に書いてあります。なぜですか、神が聖であるからです。しかし、あえて今朝私たちが確認したいことは、ではなぜ、神が聖であれば、私たちも聖でなくてはならないのかということです。私たちが聖でなくてはならない理由を少しつっこんで考えてみたいのです。

一つ目の理由は、救われたクリスチャンが神様のご用に用いられるためです。

私は、プロントグラフという筆記具のセットを持っています。一定の太さの線が、0.1ミリ単位で正確に引ける、製図用のペンです。一本何百円もするペンです。しかし、私はこれを、メモをとったり、原稿を書いたりすることに使うことはありません。使う用途が違うからです。聖という意味には、取り分けるという意味があると言いました。先日、バイブルキャンプ場の支援会で、講師の先生が、クリスチャンの生きる目的は何ですかと尋ねられました。さすがベテランのクリスチャンが集っておられまして、即座に、席上からは、「神の栄光をあらわすためです」との答えが返ってきました。ちなみにおざく台キリスト教会の方です。

しかし、もし本当にクリスチャンが神様のご用のために用いられたいと願うなら、それにふさわしい道具にならなければなりません。いや、というより、神を信じて救われたクリスチャンは、既に造り替えられているとも言えるかもしれません。14節では、クリスチャンは以前とは違うと言います。また、

1:1819「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」と言いまして、銀や金、特に金はその性質を変えにくい金属です。3000年たっても、ピラミッドから当時のそのままの輝きをもって金の細工が発見されたりするのです。ペテロは、その銀と金を朽ちる物だと言い切って、それ以上の確かな確かなキリストの尊い血の契約によってクリスチャンは救い出され人なのだと言うのです。ちまたでは、誰かが「金持ち喧嘩せず(金持は計算に合わないことは決してしない)」と言い放ってひんしゅくをかっておりますが、まあ、あまり良い例ではありませんが、救われた人は、本当に尊い働きのために用いられる、神様のために用いられるのだから、低俗なものの考え方や習慣、欲望に流されるままというような生き方からは、解放されていなければならない。だから、聖でなければならないと言う事なのです。

私は釣りの道具をもっています。本当に良い道具というのは、狭い川では狭い川でしか仕えない釣り竿、広い川では広い川でしか仕えない道具が本当に良い道具です。このサオは、狭い川でも広い川でも、下手をすれば湖でも海でも大丈夫ですよ、などというサオは、たいてい安物でありまして、たしかにどこでも使えるのですが、どこでも中途半端で本当は使えないのです。勝って損したということになるのです。

救われた人は、余分な考えは捨てて、まさに聖めわかたれ、聖でなければならないのです。そういう人こそ、いっそう神様に用いられる人になるのです。

 

救われた者が聖でなければならない第2の理由は、聖でなければ聖である神様とコミュニケーションがとれないからであります。

神は、出エジプト記で(3章)、モーセを呼びました。そして、私に近づいてきなさいとおっしゃいました。彼に、神が、その秘められた計画を明らかにするためでした。モーセとコミュニケーションをとるために。

「モーセ」。神は語りかけられたと書かれています。モーセは答えました。「はい。ここにおります。」そして、神はおっしゃいました。

「あなたの足の靴を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」と。

神様とコミュニケーションを始めるために、神様は、聖であることを求められました。

日本人と話すなら日本語で話さなければならない、アメリカ人と話すなら英語で話さなければならない、同じように、神様と話そうと思うなら、聖でなければならないのです。標準語で話す人が、関西弁で話すのは相当にしんどいことですが、関西に住んで関西の人と心を通じるためには、是非関西弁をマスターしなければなりません。はじめは長野県人としてのアイデンティティーを(自分を)、失ったようにさえ思ったものです。なぜ、肉欲のままに、自分の好き放題に、生きてはならないのかと言って、また、私たちは自分自身に正直でありたいというのです。自分を失いたくないと考えるのです。しかしその結果が、人を傷つけ、人を理解せず、わがままに過ごしている場合があるのです。

私が、苦労しても英語を多少マスターし、アメリカの人とは、英語でコミュニケーションを図ったとき、やはりそれは圧倒的に心が通じるのです。私は関西弁で話し、関西の人と心を通じ合うことによって新しい自分を発見し、変わったと思います(成長したとはいいませんが・・でも、自分流にこだわっていたなら私は変化もしなければ、成長もなかったはずです。)。

私たちが聖くあろうとすることは、無駄ではありません。

私たちは、考えるかもしれません。クリスチャンになると、何か不自由になるような気がする。あれはだめ、これはだめ、クリスチャンになると息がつまりそうだと。聖さの中身については、2章以下で、悪口言ってはいけない、ごまかしてはだめ、人に悪意をもってはいけない、夫としてはこう、妻としてはこうと、具体的に書かれています。好色や、情欲、酒飲んで騒ぐこと、そういうことは、もう十分でしょう(4:3)。新しい聖い生き方をしなさいと言います。息がつまりそうだと。

しかし、聖さを身につけることは、神様との交流を盛んにすることであり、神様との交流が盛んになるほどに、幸せという事においても、嬉しいということにおいても、愛されているという人生の満足ということにおいても、本当に満たされてくることを経験するのです。英語を十分話せない私はずいぶんたくさんの良い物を失っていると感じることがあります。しかし、私は言います。聖さに踏み出すことを躊躇している人は、聖い生き方を軽くみているような人は、神様から受ける多くの恵みを失っている可能性があると。

 

最後に、救われた者が聖でなければならない第3の理由は、聖であろうとすることは、それが神の国で暮らすための準備だからです。というより、神に会うために準備だからです。

ペテロは言います。

1:17「あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。」と。

「地上にしばらくとどまっている」間に備えるのです。神を恐れ、聖くあろうとする期間は、そう長くはありません。「しばらく」なのです。

神の国では聖い事が普通なのです。このしばらくの間に、そこの住人にふさわしい姿になるために備えるのです。

また、この聖さの説明の最後で、ペテロは、このように締めくくります。

1:21「あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。」

恐らくクリスチャンが聖くあろうとすることの最大の理由、あるいは動機は、いずれの日かに、キリストにあるいは神に会うために供えているからだと言えます。

聖くあろうとする人が、なぜ聖くあろうとするのか、一番の理由は、いずれ、神様に会う日が来ることを知っているからです。また神様に自分の生き方を報告する日があることを知っているからであります。

もうすこし、おおざっぱな言い方をしましょう。

前回から言っておりますように、ペテロは、クリスチャンが神様によって特別扱いされた凄い存在なのだということを強調しています。今は目に見えないように思うけれど、いずれ明らかになる日が来ると言います。ペテロは神の国を思って酔っぱらっています。神に会う日を思って普通でなくなっている。そういう人がいるかもしれませんが、真実を当てています。クリスチャンは神の国を思って酔っぱらっている人です。救われた人が、一見役にもたたないような聖さということに関心があるのは、最大の理由はそこにあるのかもしれません。

マザーテレサの下を、ある一人の修道士?が尋ねました。彼は、マザーテレサの働きの中で、ある部門で働く人でした。彼は、彼の上司が、彼のやることにいちいち文句をつけ、やりたいことを規制することに腹をたてていました。

彼は、テレサ女史に言いました。「私はハンセン病の施設で働いていいます。私は、ハンセン病の人たちと共に生きることをこそ望んでいるのです。私のすべての努力を、そのために使いたいのです。」

彼は、きっとテレサ女史が自分に同意してくれるだろうと思ったのかもしれません。しかし、彼女は言いました。彼女は、彼を見つめ、また、にこやかに言いました。「あなたの使命は、ハンセン病の人たちのために身を献げることではなくて、キリストに結びつくことが、あなたの使命ですよ。」と。

『マザーテレサとその時代』という映画を撮ったスタッフの一人が、テレサ女史が、あまりにも、「神様のためにこのことをしている。」と繰り返すことに疑問を感じたと述べていますが、確かに、彼女は、神様に仕えることが第一の動機でした。

『キリストの証人たち』というクリスチャンの伝記を集めた本を何冊か持っています。そのなかに、ハンナ・リデルという人がいます。日本で最初のハンセン病施設を作ったイギリスの女性であります。あるカトリックの神父(岩下壮一神父:御殿場に復生病院というやはりハンセン病の病院を作った方。)が、彼女が作ったその熊本の回春病院を尋ねた感想が書いてあります。彼が感心したのは、療養所の玄関に作られた日時計でした。

「(ハンセン病の)療養所を見学して日時計に感心して帰って来るのはよほど馬鹿者には違いない。(ただし、)そういわれても私には不服はない。日本中にあんなにゆったりした気分にする療養所がどこにあるだろう。」のどかな日時計を作った事に心から感心しておられるのです。

また、こう書きました。

「不幸なる病気のために、社会と絶縁せねばならなかった患者たちをしてその苦悩を忘れてほがらかに、天日と共に生き、天日と共に眠らせたい。・・・温かい光に思う存分ぬくもった後に、落日の栄えの内に父なる神のふところにいこわせたい。これこそ女史の心からの願いでありまた希望だったのである。」と。

日時計なんか作るよりベッドを一つでも多く作った方がいい、そう考えるのが現実的で、こういう事をするのは、まるで夢見る人間のする事だと馬鹿にされるのかもしれません。

 

さて、神を思い、神の国を思い、いや、神の国にもう生きているかのごとくに振る舞う。聖く生きるということは、真に聖いという事について、考えはじめたばかりではあります。2章からずっとその事に思いを巡らします。

神を愛し、神の国を思って酔い、あるいは、夢見て生きる今週の歩みでありましょう。神と通じ合えるような、聖い心の生き方でありましょう。

そして、その結果が、おのずから、自分の欲望のために生きるのではなくて、結果としてかえってもっとも現実的で、有益な働きとして実を結ぶのではないでしょうか。

最後に、マザーテレサに思いを巡らしました。ハンナ・リデルに思いを巡らしました。神に思いを巡らした人たちです。キリストの美しさに思いを巡らした人たちです。

今週の歩み、私たちもまた、彼女たちのように、まさに「神の愛によって美しくされた人生を生きる人間」でありたいと願います。

祈りましょう。