1.偶然事象に対する軽視への戒め
ある事が起こる確率が小さいからと言って、そうした事象を軽視するべきではない。
なぜならば、事象は単に偶然的に起っているというよりは、「意図」的に起るようだからだからである。
(この意図を作りだしているのは、我々全体を認識し得る存在であると推定される。
このため、双方が互いに知りえない場合にでも、意図的事象が起こり得るということになる。)
この意味では、その事象の生起確率が小さいことは、その事象が起こりにくいということを何ら保証するものではないからである。
例えば、前から自転車が走ってきてそれを避けようとした場合、ちょうど後ろからも自転車が来ているという場合には、後方の自転車に追突されてしまうことになるのである。
(このような事態を比較的よく経験したことより、常に背後にも注意する必要を感じることになった。)
なおこのような注意は、物事の背景に対する注意心をも養うことになる。
2.物事を細分化して、最善のものを選択すること
最善のものを選択するというのは、我々の行動においてはごく普通のことであるが、しかしながら最善のものを選択できていないとうことが少なくない。
これは、物事を他から切り離すことができないために、最善のものを選択できなくなっているということが多いからであると言える。
たとえば、誰かからある有効な助言が与えられたとき、その人が気にいらない場合には、その助言を受入れることができず、最善のものを選択できないということになりがちなのである。
そのようにならないためには、物事あるいは集団をできるだけ細分化して、より本質的なもののみを抽出するようにするべきである。
3.生起確率が小さい最善のものよりは、最も確実なものを選択する方が好ましい
最善のものというのは、物事が特定されることより、それが起こりにくくなるものである。
もしそれが起こらかったならば、何も得ることができないことになるのであるから、最善でなくても確実に起こり得る事柄を選択した方が得となるものである。
そして、そうしたものを積み重ねていけば、最善の事柄一つのみを得るよりも、大きな得を得ることにもなるのである。
(このことは、思考についても当てはまる。
思考に飛躍がある場合には、誤り得る確率が大きくなるのであるから、それは結果的に思考の節約にはならないということになりがちである。)
ということより、大きな幸せを得ようとするよりは、小さな幸せを重ねていく方が、実は大きな幸福感を得ることができるようになると言える。
4.未来を予測し、現在の行動を常に改めていくこと
現在から起こり得る事柄を常に予測し、悪い未来は回避し、良い未来へは速やかに追従していけるように現在の行動を常に改めることが肝要である。
(もちろん、行動全体としての意志の統一性は必要であるが。
あるいは、対象に対する意志行動に矛盾があってはならないが。)
一般に、我々は過去の行動習慣に囚われるあまり、悪い未来が起こることが予測できても、それに対する回避行動をとらないことが多いのであるが、実はそうした怠慢が悪い未来を未然に防ぐことができないでいる大きな原因であると思われる。
5.相手がある場合、相手の損得や好悪の情を常に考えておく必要がある
我々は感情的あるいは利己的に行動するものであることより、相手の行動は物事に対する好悪の感情やその損得によってある程度決定されるものであるから、それを考えることによって相手の行動を予測することができるようになるものである。
あるいは、相手が何を意図しているかということも、相手のことを考えることによってある程度推測可能となるものである。
しかしながら、現実には自分の損得のみを考えて行動することが多い。
これでは、相手の思う壷になりがちとなる。
詐欺師が容易に相手を騙すことができるのは、実は己の利己心のためであることが多い。
なぜなら、自分にとって都合の良さそうなことは、真実であると思いこみがちだからである。
一方、全く利己的な人というものは、自分のことしか考えることができないことより、相手の思惑に嵌まりがちなため、結局自己を利することにはならないということが多い。
という意味では、全くの利己主義者は自分を利することができないという矛盾した事態に陥るものである。
さらに、相手の同情や慈悲心にすがろうとすることは、できるだけ避けるべきである。
(依頼はしても、相手の同情等にすがるべきではない。
それを行なうかどうかは、相手の意志決定に任せるべきである。)
なぜなら、それは相手に自分の弱さや弱みを見せることになりがちだからである。
また、それは自分への厳しさにも欠けることにもなる。
6.危険が予測される場合には、その回避を優先すること
ある危険が起こることが十分に予測される場合、あるいはそうした不安が強く生じる場合には、それに対する労力や物的・金銭的代償を払っていても、常に退却する心構えを持っていなければならない。
これは、無理にその行動を強行して新たな代償や労力を払うよりは、ずっと益のあることだからである。
よく損失の深みに嵌まるのは、それまでに失った金銭的代償を取返そうとして、その行動から逃れられなくなったからであることが多い。
しかもそうした場合には、ツキにも見放されるようになるものであるから、特に賭け事の場合には、損失が大きくなるということが多くなるだろう。
(ツキというものは、それを追いかけるほど、逃げていくものである。)
7.ある遠大なる事を為すには、まずそれを忘れる必要がある
ある事を為そうという想いが強いほど、特定の事柄に執着しがちとなる。
しかし、それはその事が為されるには逆効果となったり、あまり効果的でないということがよくある。
この場合には、まず目的とする事柄を一旦忘れて、現状に即して最善を尽くしていくということが有効となるものである。
(結果的には、当初の目的とはずれても構わないという認識でいる必要があるだろう。)
もちろん、その遥か彼方には目的とする事柄を見据えてではあるが。
特に時期については、最も効果的な時期が訪れることが十分に予測されるのでないかぎり、常に早い時期に訪れるものを選択していくべきである。
というのは、ある時期を逃すと、それだけ機会が失われていくものであり、また常に迷いが生じていくものだからである。
8.過去を悔やんだり、現在の苦境を思い悩んだりはしていけない
過去は過ぎ去ったものなのだから、それはどうしようもないものであり、それを悔やんだ見たところで、反省以上のものを得ることはできない。
また、現在の苦境を悩んでも、それに対して有効な手を打てることにはならないものであるから、それを悩んでみたところでどうにかなるものでもない。
見据えるものは、常に未来である必要がある。
というのは、未来に対してだけ有効な手を打てるからである。
それ以外は、過去への感傷や現状認識に留まらざるを得ないのである。
つまり、未来だけが過去の代償を払ったり、現状打開を行なえるものとなる。
9.未来のことで思い悩んだりしてはいけない
望ましくない未来が起こることが予測される場合、それについて思い悩むべきではない。
というのは、それが起こるかどうか分からないのであるから、それは悩みを倍増させてしまうからである。
不幸が大きく感じられるのは、実はそうした悩みで現状に対する悩みよりも倍増させてしまうからであると言える。
もっともそれに対する備えをする心構えは必要である。
ただ、それについて必要以上に思い悩むべきではないということである。
10.状況が変わる場合には、十分な検討を行なうべきである
ある状況から全く別の状況に移る場合には、常に十分な検討をするべきである。
もしそれをしない場合には、何度も後戻りをしたりするようになるものであるし、前の状況に戻ろうとしても戻れなくなる場合があるからである。
実際、全く別の状況に移るようになる場合でも、あまりよく考えもせずにその決定をしてしまうということがよくある。
これは、別の状況に移った場合のことをよく考えられなかったためであることが多い。
つまり、それは現状の認識のまま別の状況のことを考えてしまったことによるものだろう。
例えば、契約した後で契約する前の状況には戻れないということである。
また、物を壊した後でそれを元に戻すことはできないのである。
(元に戻るかどうかは、物自身あるいは情報系自身によるものであり、これは常に判断を行なう必要があるものであるから、感情に任せて行動してはならないのである。)
これは、友情や信頼の場合もそうである。
11.物は必要なもののみに限るのがよい
物の価値感はそれを欲求する度合によって決るものであるが、これは即ちそれをまだ所有していないという状況によって支えられているものである。
ところが、それを所有することになれば、その欲求は消えてしまい、その結果それに対する価値感は消失してしまう。
とすれば、不用なものを所有することには何の価値感も得られないということになる。
物の価値は、結局はその有用性もしくは情報性にあるのであり、その希少性にあるのではないということを知るべきである。
我々は、物の価値を希少性で測ったりすることがよくあるのだが、それは欲求の度合を高めるからにすぎない。
不用なものを所有することの害は、何も生活スペースを狭くするということだけでなく、それを購入するために払う資金や労力、時間を無駄にしていることである。
特に時間の浪費については、自分が為すべきことを見つけた後で、それを後悔するものである。
というのは、そのときになって初めて時間が有限であることを知るからである。
つまり、何事かを為すには必ず時間がかかるのであるが、自分が自由に使える時間を知った後は、その有限さに応じて為されることに限りをもたらすからである。
(それまでは自由な時間は浪費しても良いと考えてしまっているのだが、これは一方では至福な状況をもたらすことを可能にしているが、他方では時間の浪費ということをないがしろにしてしまっているのである。)
必要なものでも(特に一時的に必要なもの)、他で代用できるならば、あるいは誰かと共用できるならば、その方が良いものである。
12.教養を高めることの勧め
物事に対する喜びの源泉が何であるかということを考えた場合、それは情報的認知によるものであると考えられる。
ただしそれは新規な情報的認知であるということが条件になるが。
例えば、小さい頃には全てのものが楽しく思えたことだろう。
これは、物事に対する情報的認知が十分でなかったことにより、多くの事柄に対して新規な情報的認知が生じて、それによる喜びを十分に感じることができたからであると言える。
という意味では、物事をよく知っていない方が幸福でもあるということになるが、しかしいずれは知ることになるものである。
それから避けることは難しいだろう。
これは、我々の物事を知ることに対する喜びが生じるということでも促進されるものであるが。
かくして、表面的に知ることができる事柄は何れ皆知りえることになって、そのときには世界は陳腐なものに見えてくる筈である。
例えば、ある場所に長く住むとその界隈のことは皆知りえて、その時にはその場所はかなり陳腐な場所という認識に変わることになるものである。
これは、大都市であるか否かにはほとんど関係がない。
大都市かどうかの違いは、その場所に対する認知の時間が他よりも多少長くかかるということにすぎない。
さて情報的認知ということでは、周りの世界の表面的認識によって得られるものよりは、物事に対する他との関連性の洞察や、物事の内部の詳細な認識によって得られるものの方が多いものである。
また、書物等による情報の認知によっても様々なことを知りえることになるものである。
もし書物もなく、何事も知りえることができなければ、内部の思考により、常に何事かを考えることができるということになり、退屈をまぎらすことができることになる。
たとえ、何か意味のあることを考えることができなくても、潜在意識的には何事かを考えているという状態を引起こし、それが幸福な状態をもたらすことになるものである。
そうした情報の認知や生成において重要なことは、多くの事柄を知っている必要があることである。
つまり、教養を高めているということが必要になる。
教養を高めることの意義は、その時代背景で比較的よく知られている事柄を知っておくということであると言える。
つまり、物事に対する関連的認知を高めておくということが、教養を高めるということの意義ということになる。
一方、専門的知識のみを高めるということは、限られた事柄についてのみ関連的認知を高めるということなので、至福的状態は分裂的となるものである。
例えば、英語を知らなければ、英語で書かれたものを読むことができないのであるから、その情報の認知ができないということになる。
また、書物に比較的高度な数式が書かれているものであれば、その書物の理解は困難となるだろう。
さらに文章に対する読解能力に欠ける場合にも、書物の理解を困難にさせるものである。
それに物事をよく知っていれば、ある情報と関連する事柄を比較的良く引き出せることになるものである。
そしてそれによる喜びが生じることになる。
また、物事をよく知っていれば、何事に対しても常に何かを考えることができて、あまり退屈しなくなるものである。
しかし、周りの世界に対する表面的な認識が知識のほとんどあれば、全ては独立していて、物事の関連性をよく知ることはできなくなるものである。
(そのような人の場合、新規な情報的認知を得ることができない場合には、退屈してしまって、生きていることにおける喜びを感じられなくなってしまうだろう。
そして、その人は何か情報的刺激を与えてくれるような人にすがらなければならないという行動性をもたらすことになるものであるが、このことは相手にとっても自分にとってもあまり望ましいことではないだろう。
相手に対してあまり望ましくないという意味は、相手にすがろうとする場合、自分の方へ関心を引きつけるために、相手に対して不愉快な事を為すことが少なくないということにもよる。)
なお、物事に対する理解や関連性の洞察あるいは内部的な思考により喜びが生じるという意味では、飲酒は控えた方が良いものである。
というのは、酔いは脳の興奮性を弱めるものだからである。
つまり、飲んだ時は確かに酩酊気分が一種の至福状態をもたらすが、それが冷めた後ではその至福状態は消えせ、しかし脳の不活性さはまだ残すことになり、これが情報生成性の低下をもたらすことになって喜びを減じさせることになるからである。
そして、消えかかった至福状態を元に戻すためには、また飲酒にふけるということになり、これが継続的に繰り返されることになる。
このことは、最終的には知性の低下を引起こすことになる筈であり、あまり望ましいことではない。
飲酒は偶には良いが(特に脳の異常な興奮を鎮めるには良い)、習慣になってしまうのはあまり良くないだろう。
13.人の認識は常に相対的であることを知るべきである
物事を判断する場合、その是非や優劣などの明確な理由付けが見当らないときには、物事を相対的に判断して、どちらが正しいか、あるいはどちらが良いかということを決定づけようとするものである。
例えば、誰が賢いかという判断は、その絶対的判断基準を持たないものなので、相対的に判断するということになる。
そうした判断で最も簡単かつ明瞭なのは、ペーパーテストを行い、その答案の点数によって知的優劣を判断することである。
さて、そうした相対的判断はかなり普遍的に見られるものであり、およそ絶対的判断基準があるような場合でも、相対的判断によって物事の是非をつけようとしたりするものである。
例えば、誰かにお小遣いを上げるという場合、その額の多少によって、感謝に値するかどうかを判断しようとするものである。
この場合、額の多少に関らず、貰う側は相手に感謝するべきなのであるが、それが習慣化している場合には、それを当然のことのように思い、それ自体には感謝しないようになるものである。
では、何によって感謝の気持ちを持つかということになるが、それは過去に貰った額との相対的判断あるいは他の誰かに貰った額との相対的判断によって為されることになるものである。
(善意も習慣になれば、それは義務的なものになってしまう。)
また、誰かに物を上げた場合、そのときには相手は感謝の気持ちを表わすことになるものであるが、その物が自分の所有物として定着したときには、その状況から物事が判断されることになる。
つまり、その場合では、その物を相手から貰ったものだという認識は消えうせて(もちろん、記憶としては持っているのだが、感情的にはそれはもはや過去のものになっていて、感謝の意は既に失われているのである)、その状況から自分の願望を相手に強要するようになることが少なくない。
これでは相手に物を上げたのが厄の元のようになってしまうことになる。
そのような訳で、相手が感謝の意を表わすのは、貰った当初だけであるという認識を持っておくことが大事である。
また、その後どのような依頼等が発生するかを考えておかないと、余計な責務を負うようになるということを認識しなければならない。
同様に、依頼もそれを受諾した時には、相手から感謝もされようが、しばらくすれば、それは当然のことであるかのように判断するようになるものだということは、覚えておく必要がある。
もちろん、その感謝の気持ちをずっと持ちつづけている人もいるが、そうした人は希なのではないかと思われる。
14.近接した者とは心理的な距離を置く方がよい
人間とは利己的想いを満たそうとするものであるが、これは最もそれが容易となる対象に対して行われるものである。
これは相手が自分よりも弱い立場にいる者または親近感を持つ者で、距離的に近い場所にいる者が該当することになる。
特にこの二つの条件を満たす者は、利己心を満たすための格好の対象となりうる。
したがって、近接した場所にいる場合には、自分が相手よりも弱い立場の者であることを認識させたり、親近感を与えたりするようになると、相手は何かと自分の利己的想いを達成しようとする行動が現われてくるようになるものであるから、これを避けるためにはそのような者とはできるだけ心理的距離を置くようにした方がよい。
特に会話は相手がどのような人間かの認識を容易にさせるものであり、禍がもたらされるようなことが予想される相手とはできるだけ話さない方が賢明である。
というのは、一般に異性の場合、しかもあまり異性との接触がないか、または異性からはあまり相手にされないような人の場合には、異性に対する関りの欲求が強いのであるが、この欲求の強さは相手が自分のことを嫌っているかどうかなどには無頓着になり(同性に対してはこうした欲求はないのであるから、世間的常識を弁えた行動性をとるようになるものであり、この場合には世間的には常識人とみなされることが多いだろう。しかしながら、一旦欲望に突き動かされるようになった場合には、世間的常識に反するような行動を容易にとるようになるものであることに注意しなければならない)、自分の欲求のみを達成しようとするものだからである。
つまり、相手に迷惑をかけないという世間的道徳をないがしろにしてまで、相手の関心を惹こうとするものだからである。
たとえば、親密にしている異性がいない場合には、誰でも熱心に異性を求めるものであり、それは相手が自分のことを嫌っているかどうかは全く無関係となり、自分の方に振り向かせることのみ熱心になるものである。
ついでながら、世の中に悪が蔓延る大きな原因の一つが、個々の欲望であると言える。
したがって、誰かの欲望を満たすようになると、こちらに非は全くないにも拘らず、多くの禍をもたられるようになるのである。
このことは、美人が多くの男性の関心を集め、そのために彼女には非が全くないにも拘らずしばしば禍がもたらされるようになるのと同じことである。
さて一般に何が利己的動機となるのかが分からないことが多いものであるから、そうした事態のことを軽視しがちになるのであるが、後で禍を招かないようにするためには、特に空間的に近い場所にいる者には注意が必要である。
(キリストは汝の隣人を愛せよと述べたのであるが、現実にはそうした人によって禍がもたらされることが多く、このことは別の解釈を必要とするだろう。
つまり、隣人といってもただ側にいるだけの人を愛するということはできないのであるから、そうした人までも無理に愛する必要はあまりないと考えられる。)
もちろん親しくしている人の場合にはそうした禍が生じることは比較的希だろう。
私がそれを言うのは、親しくしようとする意図は持たないだろうと想定される人(これは何も相手の性格等の非を言うものではなくて、知性的あるいは感情的な親和性がない場合にはそのようになることが多いからであるが)、あるいはそれを判断することができない人に対してである。
15.個人的な事柄はできるだけ語らない方が良い
自分のことに関する事柄はできるだけ語らないようにした方が良い。
(ただしこのことは他者との関りをあまり持つ必要がない人に限られるだろう。
他者との関りを強く持つ人あるいはそうした意図を持つ人の場合には、この方針はあまり推奨されない。)
これは、それを相手が利用しようとすることが多いからである。
例えばお金を多く持っているということを自慢した場合には、それを借りようとする人が出てくるものである。
その結果、お金の貸し借りが元で禍が生じることがよくある。
一般に人間とは他人が所有するものを所有したいという感情が強いことより(これは何も他人がそれを持っているから自分も欲しくなるからということではなくて、単にそうした物があることを知り、それを所有できる可能性を認識するからであるが。つまり相手に依頼することによって、それを借りられるようになるからである)、自分が所有しているものを相手に教えた場合には、それを利用しようと考える者が多いのであるから、自分が所有している事柄についてあまり自慢したりするべきではないのである。
また、自分の悩みや不幸も(それを解決できる見込みがあまりなさそうな)他人に語るべきではない。
というのは、他人はそれに同情するよりは、それを認識することによって自分の境涯の優位性を認識しようとするものだからである。
(そうした優位性の認識を持とうとすることは、どんな人間にも備わっている本来的な心理的欲求なのだろう。
このため、一般に他者に対する優位性をあまり持ち得ない人ほど、他人を虐待してでも自己の優位性を認識しようとするのだと考えられる。)
つまり、そうした認識を持つたいがためにそれに対する誹謗・中傷を行ないがちになるものだからである。
また、善意めかしてそれを指摘する場合もあり、これは善意を装っているだけにそのことを無闇に怒れなくなるので、常にそれを指摘されがちになるものであるから、余計気に障ることになるものである。
しかしながら、自己の優秀性を示す話題も、相手に羨望を与え、ひいてはそれが相手に劣等感を抱かせたりすることにもなるので、それもあまり良くはない。
もし自己の優秀性を示したい場合には、そのことを自ら語るのではなくて、相手にそれを認識させるようにするべきである。
16.他者を蹴落として自分の評価を高めようとする者には注意しなければならない
一般に人の価値を絶対的に測る基準や判断がないことが多く、そのために人の価値を他者との相対比較によって為そうということがよく行われる。
したがって、比較されるべき人間が何人かに限られる場合、他者を蹴落とすことは、自分への評価を高めることになるものである。
そうした結果、世人の評価は他者を蹴落とした者を高く評価するという事態になりがちである。
一般に、批判する者は批判される者よりも賢いと思われがちなのである。
(それが、批判的傾向を助長している原因にもなっているのであるが。)
もしそういう傾向の者がいるならば、そうした者とはできるだけ関らない方が賢明である。
17.「神」の意志には従う方が賢明である
物事が起こるには、三種類のものが考えられる。
一つは自然法則の結果によって生じるもの、一つは人間などの意志によるもの、そして最後が神の意志によるものである。
(自然法則は物質の変化における大きな枠組みを規定するものに他ならないと考える。
こうしたものが存在しないと、物事は滅茶苦茶なものになってしまう。
そして、その枠組みの中の変化要因として、意志による決定があると考える。)
神は個々の人間を包含したものということでは、人間に生じる意志も神の意志の現れと考えられなくもない。
ということでは、その区別の判断を要するということになるのだが、それは難しいだろう。
ただ人間の意志による場合には、欲念やその者の知的判断傾向が内在されているのが普通であり、その存在性を考えることで、神の意志による場合とを区別できるだろう。
また、自然現象も単なる自然的偶然によって生じたものと、何かの意志によって生じたものとの区別は難しく、どれが神の意志によるものなのかは判断に迷うところである。
ただ、偶然的に起こり得ることが難しいものは、神の意志が働いていると考えることができるだろう。
事実、偶然的に起こるのは難しいと考えられるようなことでも、よく起こる傾向が認められるのである。
これは、物事が単に自然法則のみの結果によって生じているだけではないと想起させるものとなる。
さて我々は物事が自分の思い通りにならないと憤ったりするものであるが、もし神が個々の者達に良かれと思って事象を引起こしているならば、それは当然の結果と言えるだろう。
というのは、結果を知ることなしに何事かを為してそれが良くなるという確率は良くて半分程度だろうから、神が良くない事象を抑制しているとすれば、己の意志行動の半分程度は思い通りにはいかなくなるだろうからである。
(しかし、正しい行為が限られているなら、間違った行為を為す確率の方が遥かに高いということも、自分の思い通りにいかなくなるということの大きな原因でもある。
この場合には、その原因を突き止め、正しいものに己を導いていくしかない。)
多くの知識を得て、自分からの意志顕現が著しくなるほどに、「神の意志」に逆らおうとするものであるが、そうした場合ほど神の意志が実に貴重なものであることに気づかされるようになるものである。
つまり、やはりそれは正しくない行為であったと気づかされるようになるものである。
あるいは、そうするべきであったと気づかされるようになるものである。
そうした判断が神には容易であるのは、神は全体を知りえるものだからだろう。
それは未来をも含めたものであるが。
全てを知る存在にとっては、何が良くて何が悪いかは自明なものとなるものである。
(なお、親が子供によく忠告することができるのも、親の方が知的判断に勝れているからというよりは、親の方が長く生きているということの必然的結果であると考えられる。)
ただ、そうした意志に自分を従わせることができるためには、己の意図や欲念を自在にコントロールできる必要があるのだが、これはなかなか難しいことである。
18.信の基準…自己実証主義
物事の因果関係を追及していくと、それ以上に因を追及できなくなるものであり、そのために第一事象あるいは第一事由しか残らなくなるものである。
それらのものは因果的あるいは関係的に説明不可能なものであるから、それはただ信じる以外にないものとなる。
そうした場合、何を信の基準に置くかというということが問題になる。
誰かが、それを正しいと言ったとしても、その者が考え違いをしていたり、嘘を言っている場合もあるのだから、それは信の基準にはなり得ない。
では、何を信の基準とするべきかということになるが、これは自分で見たり、考えたりしたことのみを信じるという自己実証主義にするべきであると考える。
例えば、数学上の公式や定理を正しいと信じるためには、それを自分で証明した後でなければならない。
あるいは、その証明を追認した後でなければならない。
また、物理的法則の場合には、自分で実験してそれが正しいと認識した後でのみ、その法則が正しいと信じるべきである。
(こうすることによって、言外となっている、その法則が成立するための仮定や条件について知ることができると考える。)
それ以外の正しいと言われていることについては、とりあえず真であると仮定するに留めるべきであると考える。
(物理の場合には、真理的言明は存在せず、全ては第一仮設から導出されているのであるから、その仮設から如何に明証に導出された法則でも、それは所詮仮設に留まるものにしかならないのである。
おそらくは、多くの場合にそれは正しいことだろう。
しかし、だからと言って、それが常に正しいものであるという保証は得られないものであると認識するべきである。)
そうしたことを守りさえすれば、単なるドグマに浸されているが故の、思考における自己規制から解放されることによって、それまでは思考の枠から外れていた新たな発見を見いだすことができるようになると考える。
19.人と関ることは、喜怒哀楽の中に引き込まれることであると認識するべき。
人間とは、集団性を志向するものであることより、孤立を避ける傾向がある。
だから、誰かと関るようになると、相手はその関りを強めようとするものであるし、ましてやその関りを解消しようとするならば、それを拒絶しようとするようになるものである。
もっともこのことは、相手が自分との関りを求めている場合であるが。
さて、人間同士の関りを強めるに当たって、意識的結合性ということを考える必要があるだろう。
これは物事の同一的認知によって引起こされると考えるのだが、それ以上に重要なのは、感情的認知の同一性であると考える。
つまり、同一感情を共有している者同士には、強い連帯性が生じると考えられる。
逆に考えると、強い連帯性を生じさせるためには、ある感情を生じさせれば良いということになる。
こうしたことから、人々が関るようになるとき、その人々は他者に対して比較的強い感情即ち喜怒哀楽といった感情を生じさせるようなことを為すようになると考えられる。
事実、私の場合においてはそうしたことが顕著に認められた。
このため、もし静謐な人生に幸福を見いだしているなら、できるだけ他者とは関らないようにするのが良いだろう。
というのは、大抵の人は感情的認識が理知的認識よりも優勢なものであり、しかも感情的認識が他者との繋がりを強化するものであるから、必然的に感情を刺激するようになることを為そうとするものだからである。
もちろん、喜怒哀楽の中に幸福を感じている人、あるいは集団性の中に幸福や安寧を感じている人は、そうする必要が全くないことは言うまでもない。
なお、支配系統が確立される場合には、いつでも人間の欲望が顕になるものである。
この欲望の中には、性的なものもあれば、金銭的なものもあり、また暴力的なものもある。
例えば、家庭の中での夫あるいは妻の支配系統の確立によって、妻や子供に対する虐待がなされたりすることになる。
また、支配系統が確立される端的なものとしては軍隊が挙げられるが、この場合でも下位の者に対する虐待が行われることはよく見られることである。
これは相手が従順性を示すことによって、自己の安全が保証されるためであるが。
(この従順性は、上位側の者が一部の下位の者達よりも多いか強いために生じることになる。このことは集団がピラミッド構造的な支配権(そうした構造が一般的なのは、支配力の収束性や集団内からの受益性と関係するように考えられる)を確立しさえすれば、容易に生じることになるのだろう。)
一般に自分が不利益を蒙らず、また自分の安全が保証される場合には、大抵の場合、個々の欲望が顕になってくるものである。
そうした言動は個々の問題であるのだが、しばしばその責任が上位の権威者に転嫁されることがよくある。
(これは要するに、その権威者が集団に対する支配権あるいはカリスマ性を強く持っていて、かつ集団内の暴力に対して容認性を示しているということにすぎないだろう。
その容認性こそが、その悪の本質であるにすぎないといえる。)
しかしながらこれは本質を見誤っていて、これは上位の者の資質とはあまり関係がないことが多く(というよりはその者の資質が一般の人間の資質と大きく異なるならば、その集団内では権力者として容認されないと考えられ、このために人間的に優れた者が集団を統率するということは希であると考えられる。なぜならば、個々の者は自己の欲望を達成したいがために集団を形成するようになるものであり、それを抑制するような者はこの目的に反するからである。もちろん、支配系統が確立された後には、人間的に優れた者が集団を統率するということはありうる。これはその者がその支配系統に「ただ乗り」することが可能なためであるが。もっともこの逆の場合もよくあるが)、このためそうしたことは多くの集団に見られることなのである。
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