春秋時代は春秋五覇と呼ばれる五つの強国として斉、晋、秦、宋、楚の国があった。
斉は周の太公望が封じられた国で、当初は小国であったが、16代目の桓公の時代になると、名宰相の管仲を得て強国となり、諸侯の会盟で「覇者」となった。
しかし、管仲死後は内政が混乱し、桓公が没すると内乱状態となり、衰退した。
斉の衰退後は、楚が領土を拡大して超大国にのし上がり、次々に他国を征服しようとしていた。
この手始めに宋を攻撃した。
宋は晋に援助を求めたため、楚は晋の文公(晋の19代目の献公の息子の重耳で、献公死後の後継者争いを逃れて、最終的に楚に亡命した。このため楚には恩義があった)と戦うことになった。
この後、楚は晋・宋・斉・秦の連合軍と戦う破目になった。
この決戦で楚が敗北して、晋が覇者として認められた。
晋は武王の子が封じられた国で、晋の22代目の文公時代(前698〜629年)に覇者となったが、その後の秦との戦争(文公時代)や楚との戦争で負けてからは、君公の威光が弱まってきたためか、昭公時代(前532〜526年)の頃からは公よりも臣下の卿の力が強くなり、公は名目だけの存在となった。
当初は、韓・魏・趙・范・中行・智の六卿が強かったが、これらが相争い、結局、韓・魏・趙の三卿となった。
他の卿は、晋の実権を握ろうとして滅びたのだった。
晋の幽公時代に国が滅びて、三卿は諸侯に封じられ、それぞれ自分の名を国名とする諸国が起こった。
宋は殷の紂王の弟を初代とする国で気位が高く、宋の襄公は斉の衰退後は宋が覇者になるべきだと考えていた。
そこで、大国・楚の後ろ盾を得ようとして、楚を含む周辺国と会盟を行なうことになった。
しかし、この会盟で楚の成王に捕えられてしまった。
どうにか釈放されたのだが、これを恨みに思って、宋はまず楚の同盟国の鄭(てい)に攻め入った。
鄭は楚に援助を求めたことより、宋は楚と戦うことになったが、宋が大国の楚に勝てる筈はなく、楚に敗北して弱小国に転落した。
(尤もこの敗北は下手なプライドが災いして勝機を逸したからのようだ。対戦でプライドが災いし負けるという例がよくあるが、これは君主などによく見られる鷹揚さからではないかと考えられる。鷹揚さといえば、劉邦も劉備もその傾向があり、共に戦いには弱かった。)
宋が没落する一方では、小国であった燕が領土を拡大して、他の大国と肩を並べるまでになった。
こうして、戦国時代には燕・斉・秦・楚・韓・魏・趙が戦国の七雄となった。
春秋時代の後半も晋と楚の二大国は睨み合っていたが、前546年に停戦条約を結んだ。
しかし、両国とも相手国の征服を諦めたわけではなかった。
そこで、まず晋が江東にある呉をそそのかして楚を攻めさせた。
これに対して、楚は呉の南にある越をそそのかして、呉の背後から攻めさせた。
この結果、呉越戦争が始まった。
この最中に、呉の僚王のもとに楚から伍子胥(ごししょ)が亡命してきた。
伍子胥は、楚の平王のもとに仕えていた伍奢(ごしゃ。楚の壮王に重臣として仕えた伍挙の子孫)の子。
費無忌の讒言により伍胥と平王との間に敵意が生じて、父の伍奢と兄が平王によって処刑されたことに復讐するためだった。
これは以下の事情に因る。
伍奢は太子・建の侍従長を務めていたが、副侍従長の費無忌は自分のうだつが上がらないことに不満を抱いていた。
ある時、費無忌が太子への秦からの公女を迎える役目を仰せつかることになったのだが、公女が大変な美人であることが分かり、一つの策を思いついた。
それは、公女を太子へではなく平王に薦めることだった。
すると、自分は王の側近として仕えることになり、昇進できることになる。
平王もこの薦めにしたがって、公女を娶り、費無忌は王の側近となった。
しかし、太子が王位に就くとこの件で報復を受けることが予想され、費無忌は太子を廃嫡することを画策した。
そこで費無忌は平王に、太子が公女を奪われたことを恨んでクーデターを起そうとしていると進言した。
伍奢がこの真偽を問われた際、費無忌の讒言を根拠のないこととして批判したことから、自身の立場が危うくなることと、この計画が失敗することを畏れ、伍奢も殺すように進言した。
さらに禍根を残さないように、伍奢の二人の優れた息子も殺すように進言した。
この結果、太子と伍奢、兄の伍尚が処刑された。
しかし、伍子胥は復讐を誓って、呉に逃亡した。
話を戻して、呉の公子であった光は伍子胥の手助けによって僚王を葬ると(この辺りの事情は少し複雑で、公子になっていたものの王位には就けず、叔父の息子の僚が王位を継承することになった)、光(闔閭王)は呉王に即位し、伍子胥は外交顧問に就いた。
呉が楚を攻撃する機会を伺っている間に平王と費無忌は死んだが、伍子胥の楚の王室に対する復讐の念は消えなかった。
闔閭王即位後の9年目にしてようやく楚に侵攻し、都を陥落させた。
そして、平王の墓から遺体を引きずり出して、この死体を何度も鞭打った。
一方、越は呉が楚に攻め入っている隙を狙って、呉に攻め入った。
そうこうしている間に越王が死んでしまい、呉はこの混乱に乗じて越に攻め入ったが、大敗を喫し、闔閭王はこの時に受けた傷で死んでしまった。
死ぬ間際に息子の夫差を呼び、この仇である越王の勾践(こうせん)を討つように遺言した。
夫差はこの恨みを忘れまいとして、寝床に薪を敷いてこの上で寝るようになった。
このことが、臥薪嘗胆の臥薪ということである。
(しかし、攻め込んで破れたのであるから、これは逆恨みのようなものである。)
しばらくの間この復讐の機会を待ち望んでいると、ようやく越が攻め込んでくる動きがあり、これを察知し、先制攻撃をかけて越軍を撃退した。
勾践は会稽山に逃れて、夫差側に和議を申し入れた。
夫差はこれを受け入れ、勾践が許しを請うたことから、勾践の命は助けた。
しかし、助けられた勾践はこの屈辱が忘れられず、この復讐を誓った。
なお、復讐するという意味の「会稽の恥を雪(すす)ぐ」という言葉はこの故事に由来する。
勾践もその敗北と屈辱が風化してしまわないように、動物の苦い肝を吊るして、食事の度に舐めることにした。
このことが、臥薪嘗胆の嘗胆ということである。
(しかしながら、これまたその恥は自分の方にあるわけであり、逆恨みのようなものである。この意味ではどちらも復讐心は風化していったと考えられる。一方、何の落度もなく父と兄を殺された伍子胥が復讐を忘れなかったのは当然だった。)
呉の夫差はもはや越は取るに取らない敵であると思って、覇者となるべく、斉に侵攻して勝利を収めた。
そこで、夫差は諸侯を集めて会盟を行うためにその地に向かったが、この隙を狙って越が呉の都に攻め入り、都は陥落した。
(なお、伍子胥が越を討つことを強く進言していたが夫差は聞き入れようとはしなかった。さらに伍子胥もまた父と同じように讒言を受けて、これを信じた夫差によって自害させられた。)
夫差が帰国すると、宮殿は焼け落ちていた。
そこに越が東門から攻め込んできて、夫差は捕えられてしまった。
(これは伍子胥が予言した通りのようである。)
今度は、夫差が勾践に和議を申し入れて、許しを請うことになった。
勾践はこれを聞き入れて、夫差の命は助けるが、呉は滅ぼすと答えた。
しかし、それでは夫差は呉の人々に合わせる顔がなく、また勾践に仕えるつもりも無かったため、自害した。
呉を攻め落とした越は、北に進軍していき、周王室から覇者として認められたが、慢心した勾践の越は次第に衰退していった。
戦国時代に入ると、楚は魏で将軍として活躍した呉起を迎え入れて、宰相に任命した。
楚は呉起の働きによって強国となり、越は征服された。また、北の小国である陳と祭も併合して、楚は再び大国となった。