中国の歴代王朝について


三皇五帝時代 前漢 後漢 三国時代
西晋 東晋 五胡十六国時代
南北朝時代 北朝時代 南朝時代 五代十国
中華民国 中華人民共和国

 中国史は複雑ですが、それがどのようにして起こったのかということを知れば、非常に面白いと思われます。

年代王朝名備考
古代三皇五帝時代 三皇とは、天皇(てんこう)、地皇(ちこう)、人皇(じんこう)のこと。あるいは、伏義(天皇)、女カ(地皇)、神農(人皇)とすることも多い。
 この後、五帝時代が続いたとされる。五帝とは、黄帝、センギョク、コク、尭(ぎょう)、舜(しゅん)のことで、これらは黄帝の子孫。
 五帝時代は、禅譲という形で政権交代が行われた。これは子孫の中で有能な者が次の天子になる、というもの。なお、中華思想では中国こそが世界の中心であり、この王となることは天子となることを意味した。
紀元前21世紀
〜前16世紀頃
伝説上の最古の王朝。開祖は禹。禹は黄帝の子孫で、舜からの禅譲だった。
 この禅譲は、父から引継いだ治水事業を完成させた功績による。 禹が天子になってからは、政権交代は世襲制となり、王朝時代が幕を開けた。
 世襲制は政権交代がスムーズに行くという反面、必ずしも優れた人物あるいは善良な者が国を治めることにはならないという欠点を持つ。 このため、必然的に国が疲弊・混乱したり、国防が衰えたりすることによって、王朝が転覆することになった。
 天子が他の一族の者に代替わりすることは「革命」ということで正当化された。 これは、天の意思が変わり天命が改まるということを意味するもので、王(皇帝)は引き続き天子となった。
夏王朝の最後の王は桀で、暴虐非道の王とされる。
〜前1050頃 実在が確認されている最古の王朝。当時は商(2)と呼ばれた。開祖は湯王(とうおう)。
 湯は桀の家臣で、諸侯の声望が高かった。 残虐な桀に対して湯は諸侯と共に挙兵し、桀を打ち破った。 このように悪い天子を武力で倒すことは、放伐(ほうばつ)と呼ばれる。
 殷王朝も夏王朝と同じような運命を辿り、30代紂王の時、暴虐な悪政や重税に対する怨嗟が高まり、殷は周の武王によって滅ぼされた。
 殷の時代では、政治は全て占いで決定されていたとされる。
前1100頃〜前256 開祖は武王。武王は文王の長男の発のこと。
武王は周成立後まもなく死亡し、その後は武王の弟の周公旦(「公」は王の次の位)が幼少の成王を補佐して摂政を行なった。
 文王は、殷時代末期の周の国(この時代はまだ統一国家ができていなくて、中国は諸国による連合国家であった)の王である姫晶(きしょう)のことで、西伯晶とも呼ばれる。 文王というのは謚(1)(おくりな)で、これは死後に与えられるもの。

 殷を討伐する周の軍師となる太公望を見いだしたのは、文王である。 大公望とは、姜尚(きょうしょう)のことで、呂尚とも言う。 大公望という名は文王の父である大公の時代から、長らく望んでいた人物であることを意味するもの。 この老人が釣りをしている際に見出されたことより、釣りをする人のことは太公望ともいう。 太公望は、漢の軍師であった張良、および蜀の軍師であった諸葛亮と共に中国三大軍師とされる。 因みに漢の成立には、張良に劣らず漢軍の元帥であった韓信の功績も大きいが、漢成立後は彼の力が怖れられて粛正された。

前771年、犬戎族の侵略に遭い、都を鎬京(長安)から洛邑(洛陽)に遷都した。 これは東周と呼ばれることになり、それまでのものは西周と呼ばれることになった。

 この時の王は幽王で、この遠因となったのは絶世の美女とされる褒(ほう)ジであった。 褒ジは周の属国から献上された女性で、生来の気質からなのか決して笑顔を見せなかった。 そのため、幽王は褒ジをなんとか笑わせようとしたが、どうしても笑わなかった。 ところが、烽火台から間違って狼煙が上げられ、諸侯が駆けつけた際、これが間違いだと分かった時の状況が可笑しかったため、くすりと笑った。 幽王はこれに感激して、何度も偽りの狼煙を上げることになった。 この結果、諸侯は狼煙が上がっても、また嘘だと思い、誰も駆けつけなくなった。 (しかし、この逸話は実話ではなく創作のようでもある。) このような状況の時に、以前に正妻の座に就いていた女性とこの太子(これは廃嫡された)も居た申侯一族が、異民族である犬戎と共闘して反乱を起こした。
この侵略を境にして周王室の力が弱くなり、春秋戦国時代となる。 また、東周時代から晋が韓・魏・趙の三国に分裂するまでの前403年までを春秋時代と呼び、これ以後は戦国時代と呼ばれる。
 春秋時代は春秋五覇と呼ばれる五つの強国として斉、晋、秦、宋、楚の国があった。

 斉は周の太公望が封じられた国で、当初は小国であったが、16代目の桓公の時代になると、名宰相の管仲を得て強国となり、諸侯の会盟で「覇者」となった。 しかし、管仲死後は内政が混乱し、桓公が没すると内乱状態となり、衰退した。

 斉の衰退後は、楚が領土を拡大して超大国にのし上がり、次々に他国を征服しようとしていた。 この手始めに宋を攻撃した。 宋は晋に援助を求めたため、楚は晋の文公(晋の19代目の献公の息子の重耳で、献公死後の後継者争いを逃れて、最終的に楚に亡命した。このため楚には恩義があった)と戦うことになった。 この後、楚は晋・宋・斉・秦の連合軍と戦う破目になった。 この決戦で楚が敗北して、晋が覇者として認められた。

 晋は武王の子が封じられた国で、晋の22代目の文公時代(前698〜629年)に覇者となったが、その後の秦との戦争(文公時代)や楚との戦争で負けてからは、君公の威光が弱まってきたためか、昭公時代(前532〜526年)の頃からは公よりも臣下の卿の力が強くなり、公は名目だけの存在となった。 当初は、韓・魏・趙・范・中行・智の六卿が強かったが、これらが相争い、結局、韓・魏・趙の三卿となった。 他の卿は、晋の実権を握ろうとして滅びたのだった。 晋の幽公時代に国が滅びて、三卿は諸侯に封じられ、それぞれ自分の名を国名とする諸国が起こった。

 宋は殷の紂王の弟を初代とする国で気位が高く、宋の襄公は斉の衰退後は宋が覇者になるべきだと考えていた。 そこで、大国・楚の後ろ盾を得ようとして、楚を含む周辺国と会盟を行なうことになった。 しかし、この会盟で楚の成王に捕えられてしまった。 どうにか釈放されたのだが、これを恨みに思って、宋はまず楚の同盟国の鄭(てい)に攻め入った。 鄭は楚に援助を求めたことより、宋は楚と戦うことになったが、宋が大国の楚に勝てる筈はなく、楚に敗北して弱小国に転落した。 (尤もこの敗北は下手なプライドが災いして勝機を逸したからのようだ。対戦でプライドが災いし負けるという例がよくあるが、これは君主などによく見られる鷹揚さからではないかと考えられる。鷹揚さといえば、劉邦も劉備もその傾向があり、共に戦いには弱かった。) 宋が没落する一方では、小国であった燕が領土を拡大して、他の大国と肩を並べるまでになった。 こうして、戦国時代には燕・斉・秦・楚・韓・魏・趙が戦国の七雄となった。

 春秋時代の後半も晋と楚の二大国は睨み合っていたが、前546年に停戦条約を結んだ。 しかし、両国とも相手国の征服を諦めたわけではなかった。 そこで、まず晋が江東にある呉をそそのかして楚を攻めさせた。 これに対して、楚は呉の南にある越をそそのかして、呉の背後から攻めさせた。 この結果、呉越戦争が始まった。
 この最中に、呉の僚王のもとに楚から伍子胥(ごししょ)が亡命してきた。 伍子胥は、楚の平王のもとに仕えていた伍奢(ごしゃ。楚の壮王に重臣として仕えた伍挙の子孫)の子。 費無忌の讒言により伍胥と平王との間に敵意が生じて、父の伍奢と兄が平王によって処刑されたことに復讐するためだった。 これは以下の事情に因る。

 伍奢は太子・建の侍従長を務めていたが、副侍従長の費無忌は自分のうだつが上がらないことに不満を抱いていた。 ある時、費無忌が太子への秦からの公女を迎える役目を仰せつかることになったのだが、公女が大変な美人であることが分かり、一つの策を思いついた。 それは、公女を太子へではなく平王に薦めることだった。 すると、自分は王の側近として仕えることになり、昇進できることになる。 平王もこの薦めにしたがって、公女を娶り、費無忌は王の側近となった。 しかし、太子が王位に就くとこの件で報復を受けることが予想され、費無忌は太子を廃嫡することを画策した。
 そこで費無忌は平王に、太子が公女を奪われたことを恨んでクーデターを起そうとしていると進言した。 伍奢がこの真偽を問われた際、費無忌の讒言を根拠のないこととして批判したことから、自身の立場が危うくなることと、この計画が失敗することを畏れ、伍奢も殺すように進言した。 さらに禍根を残さないように、伍奢の二人の優れた息子も殺すように進言した。 この結果、太子と伍奢、兄の伍尚が処刑された。 しかし、伍子胥は復讐を誓って、呉に逃亡した。

 話を戻して、呉の公子であった光は伍子胥の手助けによって僚王を葬ると(この辺りの事情は少し複雑で、公子になっていたものの王位には就けず、叔父の息子の僚が王位を継承することになった)、光(闔閭王)は呉王に即位し、伍子胥は外交顧問に就いた。
 呉が楚を攻撃する機会を伺っている間に平王と費無忌は死んだが、伍子胥の楚の王室に対する復讐の念は消えなかった。 闔閭王即位後の9年目にしてようやく楚に侵攻し、都を陥落させた。 そして、平王の墓から遺体を引きずり出して、この死体を何度も鞭打った。

 一方、越は呉が楚に攻め入っている隙を狙って、呉に攻め入った。 そうこうしている間に越王が死んでしまい、呉はこの混乱に乗じて越に攻め入ったが、大敗を喫し、闔閭王はこの時に受けた傷で死んでしまった。 死ぬ間際に息子の夫差を呼び、この仇である越王の勾践(こうせん)を討つように遺言した。 夫差はこの恨みを忘れまいとして、寝床に薪を敷いてこの上で寝るようになった。 このことが、臥薪嘗胆の臥薪ということである。 (しかし、攻め込んで破れたのであるから、これは逆恨みのようなものである。)
 しばらくの間この復讐の機会を待ち望んでいると、ようやく越が攻め込んでくる動きがあり、これを察知し、先制攻撃をかけて越軍を撃退した。 勾践は会稽山に逃れて、夫差側に和議を申し入れた。 夫差はこれを受け入れ、勾践が許しを請うたことから、勾践の命は助けた。 しかし、助けられた勾践はこの屈辱が忘れられず、この復讐を誓った。 なお、復讐するという意味の「会稽の恥を雪(すす)ぐ」という言葉はこの故事に由来する。 勾践もその敗北と屈辱が風化してしまわないように、動物の苦い肝を吊るして、食事の度に舐めることにした。 このことが、臥薪嘗胆の嘗胆ということである。 (しかしながら、これまたその恥は自分の方にあるわけであり、逆恨みのようなものである。この意味ではどちらも復讐心は風化していったと考えられる。一方、何の落度もなく父と兄を殺された伍子胥が復讐を忘れなかったは当然だった。)
 呉の夫差はもはや越は取るに取らない敵であると思って、覇者となるべく、斉に侵攻して勝利を収めた。 そこで、夫差は諸侯を集めて会盟を行うためにその地に向かったが、この隙を狙って越が呉の都に攻め入り、都は陥落した。 (なお、伍子胥が越を討つことを強く進言していたが夫差は聞き入れようとはしなかった。さらに伍子胥もまた父と同じように讒言を受けて、これを信じた夫差によって自害させられた。)
 夫差が帰国すると、宮殿は焼け落ちていた。 そこに越が東門から攻め込んできて、夫差は捕えられてしまった。 (これは伍子胥が予言した通りのようである。) 今度は、夫差が勾践に和議を申し入れて、許しを請うことになった。 勾践はこれを聞き入れて、夫差の命は助けるが、呉は滅ぼすと答えた。 しかし、それでは夫差は呉の人々(そして伍子胥にも)に合わせる顔がなく、また勾践に仕える積もりも無かったため、自害した。
 呉を攻め落とした越は、北に進軍していき、周王室から覇者として認められたが、慢心した勾践の越は次第に衰退していった。
 戦国時代に入ると、楚は魏で将軍として活躍した呉起を迎え入れて、宰相に任命した。 楚は呉起の働きによって強国となり、越は征服された。また、北の小国である陳と祭も併合して、楚は再び大国となった。

前771〜前206 前221年、秦の始皇帝(エイ政)が他の諸国を滅ぼして中国最初の統一王朝を建国した。 都は咸陽。政は秦の第30代王となった荘襄王(子楚)の子。
 子楚は、秦の昭襄王の子で太子となっていた安国君の子で、趙の人質の身となって冷遇されていたが、大商人の呂不韋が見いだして、公子にさせるべく暗躍した。 この念願が叶って、子楚が秦王となると、呂不韋は丞相の地位に就き(政が即位すると相国となった)、秦の実権を握った。  なお、子楚の后は朱姫で、彼女は呂不韋の愛妾であったが、子楚が見初めて、譲り受けた。 この1年後に生まれたのが政で、この出生には疑問が持たれていた。
 荘襄王が即位すると呂不韋は丞相に任ぜられ、この指導の元、秦は着々と領土を拡大して、戦国の七雄の中でも一際大国となっていった。

 秦が大国となった原因としては、次のことも挙げられる。 昭襄王(恵文王の子、武王の弟)の前の孝公時代に、孝公の庇護を受けた商鞅(しょうおう)によって政治改革(これは変法と呼ばれた)が行われ、秦は揺るぎない大国にのし上がっていた。 この改革の一つとして、農家の分家化の強制が挙げられる。 それまでは農家は大家族制だった。 この分家化は、次男以下を強制的に分家させて未開の土地に入植させる、というものだった。 これによって戸籍及び耕地が大幅に増え、国家収入が増大した。
 また、「軍功による爵位制」や「什伍(じゅうご)の制」も秦を軍事的強国にさせるのに役立ったと考えられる。 什伍の制は、国民に対して5軒か10軒毎に隣組を作らせ、納税や犯罪などに対して連帯責任を持たせるというものだった。 これは結果的に、秦の人民の結束力を高め、軍隊の強化に役立ったと考えられる。
 商鞅は秦を強国にさせ、国内の治安を高めたものの、厳しい法によって民衆から恨まれていた。 また、貴族の中にも商鞅を恨む者が多かった。 孝公死後は、商鞅は後ろ楯を失い、それまでの絶大な権勢を保つことはできなくなった。 そして、彼に恨みを持つ貴族の謀略によって罪に着せられ、秦から逃亡する破目に陥った。 しかし、最終的には捕えられて処刑された。 商鞅が死んだ後も、孝公の後継となった恵文王はこの改革を継承した。

 孝公時代以前では、春秋時代の繆(ぼく)公が挙げられる。 繆公時代には、西方の異民族である戎との戦いに勝利して領土を拡大し、秦の礎を築いた。

 他には、秦は周辺国であったことから、中央部の騒乱から逃れることができたことも大きいようだ。 特に二大国の晋や楚は互いに争って牽制し合い、どちらの国も中国を統一することにはならなかった。 となれば、棚ぼた式に大国・秦に覇権への運が巡ってくることになる。 (なお、晋が分裂して滅びた後、斉が再び強国として台頭し、戦国時代には秦、楚、斉の三国が覇権を求めて争うようになった。ただし、この斉は田氏の田和(でんか)によって乗っ取られたことから、それまでの太公望の子孫によって代々継がれてきた斉と区別して田斉とも呼ばれる。この三国の中で最も有力なのはやはり秦であった。) ただし、そのためには他の諸国を一掃できるくらいに強国となる必要があった。 でないと、他の諸国が連合して秦に向かってくることになるからである。
 実際、秦が圧倒的な強国となると、前318年に他の戦国七雄の諸国が連合して秦に挑んできたが、秦はこれと引き分けることができた。 しかし、秦が超大国となっても、この時点ではまだ他の諸国を滅ぼすまでには至らなかった。 このため、秦は六国連合に対しては、各国と個別に和平を結ぶという戦略(この策のことは「連衡」と呼ばれた)を取った。 (この戦略を説いたのが張儀だった。彼は魏に生まれた縦横家で、縦横家は外交政策を持って諸国を巡り歩いていた。一方、六国連合の「合従」策を説いたのが、蘇秦という人で、彼は洛陽生まれの縦横家だった。この二人の縦横家は同じ師のもとで学んだ者同士だった。) こうすれば、その国は秦と無駄な戦いをしなくて済むことになる。 逆に、秦と和平を結ばなければ、秦と戦わざるを得ないわけであり、これを拒否するのは全く利がないことになる。 こうして、六国連合は崩壊した。
 ただし、前247年の魏の信陵君(戦国の四君の一人で魏王の弟)を将軍とする魏・楚・趙・漢・衛の五ヶ国連合軍と戦った時には二度に渡り大敗した。 そこで秦は謀略を用い、信陵君が王位を狙っていると魏王に吹聴して、将軍の地位にあった信陵君を解任させることに成功した。 この解任は相当徹えたようで、解任後は酒色に溺れ、この四年後には死亡した。 信陵君がいなくなると、秦は魏を攻めた。

 話を戻して、荘襄王の治世は短く、在位3年で病に倒れた。 このため、幼少の政が即位した。 このとき、呂不韋は相国となり、これは丞相の上の位であり、呂不韋の権勢は揺るぎないものとなり、政が成人になるまでは政権は実質的に呂不韋が執り行っていた。 成人後は親政を行い、呂不韋の干渉を斥けた。
 後に呂不韋は失脚して歴史上は軽視されることになったが、秦が中国統一を図ることができたのは、始皇帝に因るというよりは、呂不韋の手腕に因るものと考えられる。 始皇帝は秦の遺産を引き継ぎ、この国の王として君臨でき、中国統一を図ることができたということになるだろう。 これは呂不韋にもできたことだろうが、彼では正式な後継者として認められないのであるから、絶対的な権力を持つことができない。 この意味では、能力に加えて(正式な後継として)絶対的な権威を持つことも重要となる。

 人々は一旦、権威ができるとそれを追従し、またそれに帰属することによって権能を利用しようとすることになる。 したがって、権威とそれに追従する人々とは相補的ということになる。 そのように、権威は皇帝自身の威光によるというよりは、それを求める臣下によって支えられるということになる。 一方、民衆は服従する人々であり、朝廷の決定に従うのみとなる。継承の正当性があり、治世が悪くならなければ、民衆はその決定に対して異議を立てようとは思わないものである。 何故ならば、民衆一人一人は国家というものに比べるとあまりにも弱小な存在だからである。 (ただし、何等かの原因で民衆が自発的に統一されると、これは国家権力に対抗し得るものになる。これとしては黄巾の乱(後漢時代)や赤眉の乱(新時代)、太平天国による乱(明時代)が挙げられる。) しかしながら、支配層に居る場合、これは小さな集団にすぎず、政権を求めて争うことになる。
 尤も、始皇帝によって万里の長城が築かれ(これは以前からあったものを繋げて完全にしたもの)、これが北方の騎馬遊牧民族である匈奴からの侵略防止に役立ったことは、後の中国の安定化に貢献した。 また、中国全土における幹線道路の建設、度量衡・文字・軌道の統一も、中国が一つの国に纏まることに貢献した。 しかし、万里の長城の建設だけでなく、巨大な阿房宮や皇帝陵の建設という大事業を行って、民衆に苦役を強いたり、焚書坑儒を行なって学者の弾圧や学問・文化の喪失を招いたことは批判される点である。 (なお、阿房宮と皇帝陵は後の項羽軍によって徹底的に焼かれたり破壊された。これらの建設は無意味であったが、この破壊も無意味であり、項羽が圧政を敷いた秦王朝の打倒に大いに貢献したとはいえ、重要な歴史的建築物の喪失を招いたという意味では、秦への侵攻過程で多くの人々を殺したことに加えて、大いに批判される点である。とはいえ、宮殿などが焼かれるのは戦争の常であるが。)
 なお、それは始皇帝の出生疑惑から生じたもののようでもある。 それと似たような例としては、明の建国者である朱元璋が挙げられる。 彼は貧農の四男として生まれ、お寺に小坊主として出されたが、寺でも食べられなくなり、乞食坊主として放浪した。 彼が皇帝になると、乞食坊主時代を知っている者は全て殺されたとされる。
 一般に皇帝は由緒ある家柄から出るのが普通であり、単なる農民から皇帝の座に就いた者は、朱元璋と漢の高祖・劉邦のみとなる。 劉邦も中国皇帝の座に就くと、彼の功臣を無慈悲にも粛正したが、このことは彼のことを知っていて、皇帝として権威が喪失することを畏れたからではないかと考えられる。 このことは王朝の基盤が弱い場合には、顕著になるだろう。

 ところで、始皇帝の側近に、丞相として仕えた法家の李斯(りし)が居た。 彼も始皇帝による中国統一において大きな貢献を為したとされる。 なお、法家としては韓非が有名であるが、彼も秦に仕官しようとして秦に赴いたのだが、韓非の才能をよく知っていた李斯は、自分の立場が危うくなることを畏れたようで、韓非を殺してしまった。 因みに、李斯が敷いた法の厳守による国家統治は、趙高による厳罰政治をもたらした言え、これによって処刑されたという意味では、因果は巡ると言える。

前210年、始皇帝の死後、政権は末子の胡亥に引継がれた。
 しかし、これは宦官の趙高の陰謀とされ、本来は長男の扶蘇が正式な後継者とされる。 趙高が胡亥を後継者にしたのは、彼が幼少の胡亥の教育係となっていたことによるようだ。 胡亥が政権に就くと、趙高による専横政治となった。 しかし、このような政治は内政の腐敗及び諸国の反乱を招き、長くは続かなかった。
 結果的には、始皇帝は秦による中国統一を図ったものの、この代償として秦の滅亡を招くことになった。
前202〜後8前漢 前202年、劉邦(高祖)が漢を建国した。都は長安。
 秦打倒において最も貢献したのは項羽であるが、彼は民衆の支持が得られず、人々は劉邦を支持するようになった。 最初は項羽が実権を握ったが、蜀の地に封じられていた劉邦が項羽に反旗を翻し、項羽と劉邦は相争うことになった。 劉邦は戦には弱く、劉邦軍を支えたのは、項羽軍から逃げてきた韓信であった。 韓信は軍神とも言える人間で、連戦連勝であったが、項羽を打ち破るまでにはかなり苦労した。 しかし、漢成立に偉大な貢献をした韓信も、この成立後には他の功臣とともに粛正された。
 劉邦は高祖として称えられているが、実のところ漢王朝の礎となったのは5代目の文帝のようである。 文帝は名君として知られている。
8年、帝位が外戚である王莽に禅譲され、を建国する。 しかし、短命(15年間)に終わり、その後まもなく漢朝が再興されたことより、当初の漢は前漢または西漢と呼ばれる。
 王莽は12代目の成帝の母である王太后の甥で、儒学者となっていた。 成帝は政務に関心が無かったため、政務は王一族に任されていた。 王一族の中では、清廉潔白な振舞いから人望が高くなった王莽が力をつけてきて、大司馬(陸軍大臣に当たる)の地位に就いた。 ところが、この権威の源であった成帝が急死し、失脚した。 しかし、後に幼少の平帝が即位すると、大司馬に返り咲き、周りを次々に粛正していった。 次に、自分の娘を平帝の后として送り込んだ。 その後、平帝が病に倒れ(これは王莽が誕生祝いに献上した酒に毒が入っていたためとされる)、この二才の子・劉嬰を帝位につけた。 このようにして、王莽が皇帝の正式な後継者と見なされるように工作した後に、幼い劉嬰を廃位させて皇帝の座に就き、新を建国した。 新という国号は、彼が以前に南陽群新野県に領地を得ていたことに因む。
 新を建国して、儒教を理念とする政治改革を行なったが、この改革で、異民族に与えていた「王」という称号を「侯」に格下げした。 これに反発したのが匈奴であり、この反乱を鎮めるために大軍を派遣したが、失敗した。 これによる軍事費の増大や二度にわたる大飢饉によって、庶民の苦境を招き、新に対する不満が高まり、各地で反乱が起きた。 この中で最も大きな反乱が、農民による赤眉の乱だった。 この農民反乱に乗じて、豪族による緑林の乱が起こった。 これを緑林の乱というのは、緑林山を拠点とする反乱軍だったことによる。 この反乱軍に担ぎ出されたのが、劉氏一族の劉玄だった。 緑林軍が初戦で勝利を収めると、各地の豪族も加わって反乱軍は大軍となり、都の洛陽に攻め入り、陥落させた。 王莽は最後まで戦ったが、結局反乱軍によって殺された。
25〜220後漢 25年、劉秀(光武帝)が漢朝を再興した。これは後漢または東漢と呼ばれる。都は洛陽。
 緑林軍が新を倒す際、これによって担ぎ出された劉玄が仮の皇帝(更始帝)として立てられた。 劉氏一族では、劉玄に続いて、劉エン(糸+寅)と劉秀の兄弟が加わり、劉エンを大司馬、劉秀を将軍として新に挑んだ。 新が倒れると、勇猛果敢で人望もあった劉エンが劉玄に警戒され、反逆の罪を着せられて処刑された。 また、劉秀も警戒されて、僻地となる河北の平定に向かわされた。 河北は王郎が支配していたが、劉秀は王郎を説得して同盟関係を結び、劉玄とは独立する道を歩んだ。 このように、新が倒れても依然として国内は混乱したままで、各地には帝位を目指していた豪族が残っていた。
 この中では劉玄のいる更始帝軍が最も有力なようであったが、劉玄は赤眉軍によって捕えられ、殺された。 そこで、劉秀はこの赤眉軍を討伐した。

 後漢王朝は、3代目の章帝までは皇帝らしく君臨していた。 しかし、世襲制の欠点として皇帝が若くして亡くなると、幼少の者が帝位に就くことである。 すると、政治は母方の一族である外戚によって維持されることになる。 もし皇帝が外戚の支配から逃れようとしたり、別の者が帝位に就こうとするならば、宦官の助けを借りることになる。 その結果、皇帝とは名ばかりで、実権は外戚あるいは宦官が握るようになる。 このようになると、必然的に謀略や陰謀、汚職が蔓延って王朝が弱体化し、その結果政権内あるいは民衆などの反乱や他国からの侵略を招いて、王朝は終焉を迎えることになる。
 政治が腐敗し賄賂が蔓延ると、このツケは社会の底辺を支える民衆(主に農民)が負うことになる。 後漢末には内政が腐敗し民衆は窮乏を極めた。 生活が苦しくなれば何かにすがろうとするのは自然な心情であり、人々は自然に宗教を求めるようになる。 これに乗じた太平道(これは病気を治すという触込みだった)の首領・張角が農民の支持を集めて、184年にこの農民反乱である「黄巾の乱」を起こした。 黄巾賊には盗賊なども加わり、各地で略奪や暴行を行なったことより、民衆の間でもこの討伐が望まれた。

184年、黄巾の乱が起こる。
 黄巾賊討伐のために軍が編成され、この大乱は鎮圧された。 しかし、この結果、各地で群雄が割拠することになり、再び戦国時代が訪れた。
 この大乱の渦中に霊帝が亡くなり、後継者争いが発生した。 霊帝には劉弁と劉協の二人の息子がいたが、彼らは異母兄弟だった。 劉弁の方が兄で外戚は帝位に就く権利を主張したが、宦官は暗愚な劉弁よりも聡明な劉協を支持した。 結局、兄の劉弁が即位したが、外戚はその事態を憂え、この母の兄で大将軍の座に就いた何進が宦官達を抹殺する計画を立てた。 表向きは、漢朝腐敗の原因となった宦官達を討伐するというのが大義名分であった。 しかし、この陰謀は宦官側に漏れ、何進は宦官側によって殺された。
 何進の宦官誅殺計画に呼応して都にいた武将の袁紹が、これに激怒して宮廷に火を放ち、宦官二千人を殺した。 そこで、皇帝は劉協を引連れ、宮殿から脱出して小平津に逃れた。 この時、宦官誅殺のために都に向かっていた董卓軍と出会った。 董卓はこの好機を捉え、皇帝を戴いて洛陽に乗り込んだ。 そして、何進軍の兵を自軍に取り込み、圧倒的な軍事力によって権力を握った。
 さらに董卓は外戚の力がある劉弁を廃位させて、(異母)弟の劉協を即位させようとした。 そこで、董卓は温明園で宴会を開き、諸侯を前にして、暗愚な小帝である劉弁を廃して聡明な劉協を即位させるという提言を行なった。 多くの諸侯は董卓の圧倒的な軍事力を恐れて何も言わなかったが、その中で丁原がこれに反対した。 董卓は激怒して丁原に斬りかかろうとしたが、その時、丁原配下の豪傑・呂布が立ちはだかった。 董卓の参謀・李儒(ただし正史にはこの人物の記載がない)は呂布に気付き、董卓を制止したため、丁原らは退散し、宴会は終了した。
 邪魔な丁原を排除するために、董卓らは呂布を自軍に取り込むことを図り、駿馬として名高い名馬・赤兎馬を与えることを約束して、呂布に丁原を裏切るようにそそのかした。 呂布も丁原軍に居るよりは権力を握った董卓の部下になった方が利があるわけであり、呂布はこれに応じて主君の丁原を斬り、丁原軍とともに董卓に下った。 こうして董卓は呂布という強い武将と丁原軍を手中にし、権勢は揺るぎないものとなった。
 もはや董卓に反抗する者は誰もいなくなったことから、協皇子(献帝)を即位させた。 また、宮廷の要職を董卓の配下の者に代えた。 これらのことによって権力を完全に掌握すると、董卓は宮廷内で己の意のままに振舞い、数々の悪行を行なった。 このため董卓は宮廷内や各地の豪族達の反感を買い、袁紹を中心とする反董卓連合軍が形成された。

 反乱軍が洛陽に向かっているという報を聞くと、董卓軍は水関と虎牢関という二つの要塞に入って迎撃体制を整えた。 水関の戦いでは董卓軍は破れ、董卓と呂布が守っていた虎牢関では関は破られはしなかったものの連合軍を撃退することはできなかった。 いずれは敗北することを予期したためか、董卓らは洛陽から逃れることを決心し、洛陽の豪族や陵墓から財宝を奪ってから都を焼き払い、長安に遷都した。

 董卓が洛陽を廃虚にしたことで、連合軍側は都・洛陽の漢王朝を董卓の手から奪還するという目的を見失い、また袁紹が董卓追撃を見送ったことから、諸将はそれぞれの国に帰ることになった。 (このことは、連合軍側は反乱軍であり、自軍の保存を第一に考えたためと考えられる。連合軍といえども、共通の敵がいなくなれば連合軍の間での勢力争いが起こるからである。袁紹は特に保守的であり、敵を撃破するよりも自軍の温存を優先するようであった。袁紹は大軍を擁している間は反乱軍の盟主に収まることができたが、そうでなければ乱世から消え去る運命であった。)
 しかし、袁紹は大軍を擁したまま帰る場所もなく、兵糧も欠乏し身動きが取れなくなった。 そこで、冀州の太守・韓馥を半ば脅すような形で、この地を譲り受けた。 というのは、冀州の北には幽州があり、この地を支配していた公孫サンが冀州を狙っていたからである。

 長安遷都後の董卓であるが、彼は呂布を重用し、彼を養子にして自身の護身役を努めさせていた。 しかし、呂布は自分に利があると見れば主君を裏切ることも辞さないという、よくありがちな性格であり、呂布は王允による董卓暗殺計画に乗せられ、董卓は呂布に殺された。(もともと彼は忠義心に薄く、自分に利があると見ると主君を簡単に裏切るような性格であったし、また董卓のような者の配下に甘んじるような人間でもなかったためこの説得は容易だったろう。なお、呂布のこのような振舞いが三国時代の覇権争いを非常に複雑にしたといえる。というのは、彼の行動は予測不可能であり、しかも彼の行動如何によって軍事情勢が大きく変ってしまうからである。)
 これに対して、董卓軍の郭シと李カクを将とする軍が長安に攻め入り、呂布を追い出し、董卓暗殺に関った者を処刑した。 呂布はこの後、袁紹の元に身を寄せたが、後に袁紹とは袂を分かつことになり、陳留太守・張バクに迎え入れられる。
 そして、李カクは車騎将軍(後漢の将軍号で、三公の位に匹敵する四将軍の一つ)の座に就き、朝廷の実権を握った。 しかし、郭シとの権力争いが起こり、両者が長安を戦場とする市街戦を演じ、結局董卓軍は瓦解した。
 その結果、覇権争いは董卓軍から各諸侯・軍閥に移ることになった。 この中では、袁紹と袁術の袁氏(異母)兄弟が二大勢力だった。 袁氏は四代続けて三公(後漢時代の三公九卿制という官僚機構の最上位の官職)を輩出した名門で、朝廷内で権勢を誇っていた。 しかし、袁紹と袁術は仲が悪く、両者は対立していた。

 ところで、袁紹と対峙することになった公孫サンは袁術と手を組んで、袁紹の脅威に備えようと公孫サンの弟の公孫越を使者として送った。 公孫越は袁術の元に留まり、袁術軍に加わった。
 袁紹と袁術との戦いで公孫越が袁紹軍に討たれると、これに機に公孫サンは袁紹と戦うことになったが、結局は敗れ去った。 この結果、袁紹は華北を制することになった。
 一方、袁術は袁紹と曹操の連合軍(この同盟は強敵に対しては連合を組むというよくありがちなものであった)と戦って敗北し、後の呉ができる揚州に逃れ、この地を支配した。 袁術配下には一軍閥の首領・孫堅がいて、彼は勇猛果敢なことで董卓にも恐れられていたほどである。 孫堅は袁術の命令で荊州の劉表を攻撃したが、郊外を単騎で行動しているところを射殺された。 もし孫堅が生きていれば、曹操ではなく彼が覇者となっていた可能性が高い。

196年、曹操が献帝を庇護下において実権を握った。都は許昌(予州にあり洛陽に近い)。
 華中は華北を制した袁紹と華南を制した曹操との覇権争いになった。 ただし、曹操が華南を制する前には、ボク陽を狙っていた張バクの呂布と二年余りも対戦することになったが、鋸野の戦いで勝利を収めた。
 一方、敗走した呂布は除州を治めていた劉備を頼ることになった。 しかし、袁紹に加担する劉備が袁術討伐に遠征している間に下イ城を奪い、戻ってきた劉備らには小沛城を与えて、除州勅使を名乗った。 これでも劉備が呂布と組まざるを得ないのは、曹操などの敵に囲まれていたからである。 とはいえ、呂布が劉備との連帯を重視したわけではなく、再び敗走させている。 また、呂布の抱き込みを図った袁術の縁談申し込みも断ったことから、全く孤立してしまった。 これは曹操の除州討伐を招き、篭城の末、部下に捕えられて曹操に引き渡され、遂に殺された。 (このとき、呂布は曹操に下ることを述べたが、流石の曹操も呂布だけは受け入れることはできず、死罪にした。) この結果、曹操による華南の平定が成った。
 袁紹とは、200年の官渡の決戦で勝利を収め、これによって曹操は北中国をほぼ手中にした。 しかし、まだ袁紹の残存勢力や北方異民族の勢力があり、北中国を完全に平定するにはさらに7年の歳月を要した。 また、この間に都を冀州のギョウに移した。

220年、献帝が魏王の曹丕に禅譲し、後漢王朝は終焉を迎えた。

 漢王朝の実権は既に曹操の時代から失われていたが、曹操が王朝の簒奪を行なわなかったのは、まだ蜀や呉が残っていたからで、これらの国を滅ぼすためには、皇帝の権威を利用する方が良かったためと考えられる。 事実、曹丕が魏帝として即位するや否や、この翌年に蜀の劉備が蜀漢を建国し、この帝位に就いた。 これは魏帝国を滅ぼす意思の現れと考えることができる。
 曹丕は曹操の次男で、曹操の死後、魏王は曹丕に引継がれた。 漢王朝は既に魏に乗っとられていたわけであり、曹丕が魏王の座に就くと、即座に皇帝の座に就こうとした。 曹丕のこの禅譲は、実のところ献帝を脅しての簒奪だった。
220〜265三国時代 後漢滅亡後(もしくは黄巾の乱以後)の魏・呉・蜀の三国鼎立時代。 ただし、王朝の継承性からいえば、この時代は魏の時代とした方が分かり易い。
220〜265 魏は曹操を初代魏王とする国で、戦国時代の魏や後に起こった北魏(後魏とも)と区別するために曹魏(または前魏)とも呼ばれる。
 曹操は、宦官として重用された曹騰を祖父に持ち、父はこの養子となった曹スウだった。 曹操が二十歳の時、洛陽北部尉(「尉」は軍の司令官という意味のもので、この場合は洛陽県の警察部長に相当する)に任命された。 黄巾の乱の討伐軍に加わり、この功績により済南国の相に任命された。
 反董卓連合軍に加わり、曹操軍は足並みの揃わない連合軍の中で先陣をきって単独で出陣したが敗北を喫した。 この後、出直しを図った曹操は東群太守に迎えられ、着々と権力基盤を築いていき、エン(六/兄)州を本拠地として持った。
207年、袁氏が滅亡し、曹操が華北を制した。

208年、荊州の劉表が病死すると、この後継者問題で混乱している時に攻め込み、荊州を支配下に置いた。 しかし同年、呉との決戦である赤壁の戦いで大敗し、華南の制圧には失敗した。この結果、三国鼎立時代が訪れることになる。

213年、曹操は中国統一を諦めて、自分の領土となる魏を建国し、魏公となる。

216年、漢中の張魯、西涼の馬超・韓遂軍を討伐し、函谷関以西の平定が成り、曹操が魏王を称した。 また、漢の丞相となり、漢王朝の実権を握った。

 曹操が献帝より魏王の称号を得た時、皇位継承権の資格も認められたが、曹操が帝位に就かなかったのは、衰えたとはいえ漢王朝の威光(及びこれに対する忠誠)を利用しようとするものだったろう。 まだ、蜀や呉が健在だったからである。
 一方、曹丕の場合にはこの威光を利用することはあまり叶わないわけであり、となれば皇帝となる方が己や家臣の野望を満たすのに都合が良かったのだと考えられる。

220年、曹操の死後、長男・曹丕が魏王を引継いだ。 この後まもなく漢帝の禅譲により帝位(文帝)に就き、漢を排して魏を建国した。都は洛陽。

 曹丕の忠臣の一人が司馬懿で、彼は曹操に強制的に召し抱えられた臣下であったが、曹操時代には軍事的にも内政的にもあまり貢献しなかった。 しかし、学問好きな曹丕とは親しくなり、曹丕の時代になると重用され、魏帝国の建国に貢献した。 そして、曹丕の死の前年には撫軍大将軍に任命された。

226年、文帝・曹丕が病没し、太子の曹叡が帝位(明帝)に就く。

 魏帝国も曹叡の時代になると統治への関心が薄れて、各地で反乱が起こるようになった。 このため、司馬懿は政治に関るよりも出征することが多くなった。 ただし、この頃は軍の実権は大将軍となった曹真が握っていた。
 しかし、228年に蜀が北伐を開始するようになると、曹真は大司馬に、司馬懿は大将軍の地位に就いた。 なお、魏の文官官僚機構では大司馬と大将軍は共に五上公の一つであり、これらの実権は軍事だけでなく政治全般に及んだ。
 曹真が死亡すると、司馬懿は軍の最高責任者となった。 諸葛亮との戦いでは、直接対決を避けて、蜀軍の兵糧が尽きるのを待つという作戦を取った。 このため、蜀軍は遠征しては退却するということを繰り返した。 結局、諸葛亮が五丈原で病没すると、北伐は終了となった。
 諸葛亮の後任を託されたのは魏から下った姜維であったが、諸葛亮でも為しえなかった北伐が成功するとは見なされなかったことより、姜維による魏への出兵に対しては少ない兵しか与えられなかった。 こうして、魏はほぼ安泰となった。
239年、明帝・曹叡が死去すると、この養子の小帝・曹芳が即位した。
 曹叡の死に際に際し、司馬懿と曹真の長男・曹爽に曹芳の補佐を頼んだ。 曹芳の即位時には、司馬懿は太傅となり、位人臣を極めた。 しかし、これに伴って曹氏一族との対立が強まることになり、曹爽は司馬懿の排斥を画策するようになった。
 そこで、司馬懿は先手を打ってクーデターを起し、曹芳を殺して政権を握った。 高齢の司馬懿が亡くなると、長男の司馬師が後を継ぎ、大将軍などを歴任した。 司馬師の朝廷での権力拡大を恐れた一派が司馬師を誅殺する陰謀を企てが、これは発覚して、関係した一族が処刑された。 こうして政敵を排除すると、政務を省みない曹芳を排して、曹丕の孫・曹霖の子・曹髦(そうぼう)を擁立した。 (このことは朝廷における曹芳及びこの一族の影響力を排除し、しかも自分の権勢をより向上させるためものと考えられる。つまり、皇帝に擁立された側は司馬師に全く頭が上がらなくなるからである。そのように面倒なことをするよりも、自分が帝位に就いた方が物事が簡単であるが、それを行なうと帝位の簒奪を行なったと見なされて、朝廷内や国民の反感を買うことになる。王朝が別の一族に変わるためには禅譲という形を踏まえた方が、後の安泰に繋がることになる。) 翌年、司馬師が病没すると、弟の司馬昭が家督を引き継いで、大将軍に任命され、政権を握った。
 しかし、曹髦は司馬氏の狙いが分かっていたことから、司馬昭に対して反旗を翻して挙兵したが、これは鎮圧され、曹髦は殺された。 そこで司馬昭は燕王曹宇の子・曹奐を擁立し、自身は丞国の位に就いた。 263年に司馬昭が蜀征伐に成功すると、後にはこの功によって晋王に封ぜられた。
265年、魏帝五代目の曹奐(元帝)の時、司馬炎によって政権を奪われる。
 265年、司馬昭が没すると、長男・司馬炎が晋王および相国の位を継いだ。 同年、司馬炎は曹奐の禅譲により皇帝の座に就き、魏朝は滅んだ。
222〜280 呉は遜権によって建国された国で、遜呉とも呼ばれる。孫権は孫堅の次男で、孫策の弟。
 孫堅は黄巾の乱の際、その勇猛ぶりで名を馳せた。兵法家として有名な孫子(孫武)の子孫を自称し、計略の才も高かった。 189年、反董卓連合軍に加わり、袁術の指揮下に入った。 192年、袁術配下の孫堅は袁紹と同盟していた荊州の劉表を攻めることになったが、この戦いで戦死した。
 孫堅の死後、家督を継いだのが長男・孫策であり、孫策も袁術の配下に加わることになった。 孫策も孫堅に劣らず勇猛果敢で戦上手であったことより数々の戦に勝利を収め、わずか6年で江東六群の地を手中にした。 しかし200年、孫策26才の時に暗殺された。 これまた、父の孫堅と同様に惜しまれる死だった。
 孫策の後を継いで江東の地を支配したのが弟の孫権だった。
208年、赤壁の戦いで勝利し、魏の侵略を斥ける。
 曹操は華北の平定が成ると、中国統一に向けて南進することになった。 この手始めとして荊州の地を得て、さらに呉も支配下に置こうとした。 呉の重臣達はこれに対して、曹操と戦うかどうかで意見が分かれた。 (これを定めるのは民意ではなくて、国の上位層に収まり、国民を支配する人々となる。というのは、支配する者が変われば、支配層に大きな変化が生じることになり、これへの抵抗が生じるからである。この変化として代表的なのは、他国による支配の他には皇帝や王の死がある。)
 最終的には周瑜らの抗戦派の意見が通り、呉は魏と戦うことになった。 このとき、孫権は荊州に居た劉備と同盟を結び共に戦うことにした。

 孫権・劉備の反曹操同盟軍が赤壁の戦いで勝利を収めると、劉備は荊州の一部を本拠地ができるまで借りるという約束で得た。 後に劉備が益州を手に入れ、この地に収まった後も、荊州を手放さなかったことが呉との戦争の原因となる。 このことは信義を重視する劉備にとっては重大な過失だったろう。 なぜなら、後に関羽と張飛を死に至らしめ、さらには自身の病没を招くことになったからである。 劉備の死後、この意思を継いだのは諸葛亮と劉禅であったが、この暗君・劉禅の元では蜀が中国統一を果たしたとしても、曹丕の魏より良かったとはいえないのであるから、天命(これは幸運と言ってもよいが)は蜀に下らなかったのだろう。 蜀が天下を制するためにはやはり劉備(さらには関羽と張飛)が必要だったと考えられる。

220年、曹丕が漢朝を廃して魏朝の帝位に就くと、翌年、呉の孫権は呉王に封じられた。武晶に遷都。
 曹丕が漢朝を廃すると、劉備はこれに臣従する必要もないことから、翌年に蜀漢を建国して、この帝位に就いた。 219年に呉が関羽を討ち取っていたことから、いよいよ蜀が呉に攻め入っていることを恐れた孫権は魏と同盟を結ぶことにし(なお、強者に対しては弱者同士が連合を作るのが常で、国の強弱関係が変わると連合も変わるようになる)、魏帝・曹丕に臣従を誓い、呉王の承認を得た。 また、都を荊州の武晶に移して、蜀の侵攻に備えた。

222年、夷陵の戦いで蜀を退けると、魏朝より独立した。

 蜀の脅威が無くなれば、呉は魏と同盟を結んでいる必要が無くなることから、これを破棄して、再度、呉は蜀と同盟を結ぶことにした。 このため、魏は数万の大軍で濡須(じゅしゅ)に攻め込んできたが、呉の濡須督・朱桓がよく守り、これを撃退した。
229年、孫権は皇帝に即位し、建業(南京)に還都した。
 この即位は蜀も承認したことから、都を武晶から建業に戻した。

252年、孫権死後、七男(末子)の孫亮が継いだ。

 当初の皇太子は孫権の長男の孫登で、こちらは聡明で孫権の後を継ぐのにふさわしかったが、241年に33歳で病死した。 この後、242年に孫権の三男の孫和が皇太子となったが、姉の讒言で廃され、後に自殺した。 250年、次の皇太子には孫権の七男の孫亮が立てられ、孫権の死後、呉の皇帝(幼帝)となった。 孫亮は諸葛恪の輔政を受けた。 諸葛恪は諸葛瑾の長男。才知・才略は叔父の諸葛亮と匹敵するほどで、数々の戦功により、246年には大将軍に昇進し、252年には太傅となり実権を握った。 しかし、諸葛恪の専横を憎んだ遜リンのクーデターによって殺された。
 258年、孫亮は親政を始めた。そして暴政を行なう大将軍の遜リンを誅殺しようとしたが、これに失敗した。この結果、遜リンによって廃されて会稽王に降格された。260年、さらに降格され、邦地に赴く際に自殺(毒殺?)した。

258年、遜亮が廃されたことから、六男の孫休(景帝)が継いだ。

 遜亮を廃した遜リンは、遜休を帝位に就けた。 しかし、遜亮は遜リンが謀反を企ているということから、誅殺した。
 景帝は30歳の若さで病死したが、これも疑惑が残るところである。

264年、遜休の後を孫和の長男・孫晧(末帝)が継いだ。

 呉の混乱の最後を飾る皇帝。英明であるとの吹聴から朱太后によって皇帝に迎えられたが、実際には酒色を好む粗暴な人物で、朱太后も殺され、国がさらに乱れた。 280年、呉は(西)晋によって滅ぼされた。 そのように国が滅ぶ時は、圧政・暴政を行なったり、内部から腐敗あるいは分裂していくことが大きな原因となっている。
221〜263 221年、劉備によって(蜀)漢が建国される。
 曹丕が漢を廃して魏を建国したことより、漢を建国する。 以下では、主にこの経緯について記述する。
184年、劉備23歳の時に関羽、張飛と義兄弟の契りを結び、黄巾賊討伐のための義勇軍として挙兵し公遜サンの配下となる。この討伐の功により安喜の尉となる。
 劉備は中山靖王・劉秀の後裔を自称するが、家は貧しく、曹操や孫権のように豪族の出身ではなかった。 また、武力や才略も高くはなかったことから、行動と志を同じくする者を配下に加える必要があった。 小人数で行動する場合には軍師は特に必要でないことから、強い武人のみが必要となるが、これが二人の豪傑である関羽と張飛である。 彼らは極めて強い武人であったことから、劉備の守護と軍功を立てることに貢献した。 劉備が蜀を建国するまでに至ったのは、この二人の存在が大きい。 小人数の軍団であれば、たとえ敗戦したとしても、彼らが生き長らえる限り、復活が可能である。 したがって、初期における劉備の才略の乏しさは、決して欠点ということにはならない。 この点が、曹操や孫策(孫権は遜策が得た領地を引継いだもの)との違いということになるだろう。
 劉備の最大の優位点は人を惹きつける力であり、これによって軍師・諸葛亮などや他の豪傑を配下に加えることができた。 この意味では、敗戦しながらも各地を放浪したことは決して無意味なことではなかった。 むしろ、これこそが彼にとって必要なことだったと考えられる。 そのように考えれば、一介の草履売りから蜀漢の皇帝になるという特異的な出世は、何も単なる偶然とはいえない。 劉備は劉邦と似たタイプの人物と考えることができ、彼もまた中国統一を果たす可能性は十分にあった。
 さて、劉備は官職に就いたものの、安喜県の巡察にきた提郵の横暴に怒り、彼を縛り上げて鞭打ったため、官職を捨て、野に下った。
蜀を治めることになったのは劉備であるが、これには紆余曲折がある。
劉備は関羽や張飛らと共にする流浪の軍団だった。 幾多の経緯により、荊州の劉表を頼って落ち着くことになった。
しかし、207年に華北を平定した曹操は、天下を取るべく、まず荊州を攻めることになった。 結局、劉備軍は敗れ、敗走した。
次に曹操が狙ったのが江東の孫権であり、曹操はこれを力で服従させようとしたが、交渉は決裂し、両者は争うことになった。 これが赤壁の戦いであり、魏軍はこの決戦に敗れた。 この混乱に乗じて、劉備軍は荊州を奪回することに成功した。

ところで、後漢末の頃、益州(後の蜀)の刺史の不正を調査するために朝廷から遣われた劉焉は、この地に留まり、帰らなかった。 また、この帰還の説得のために息子の劉璋が派遣されたが、これまた益州に留まることになった。 こうして、益州は劉焉が支配することになった。 劉焉病没後は、劉璋が後を継いで益州の太守となった。
しかし、劉焉の頃、漢中に駐留することになった張魯が従わなくなり、これに怒った劉璋は張魯の親族を殺害した。 このことによって益州と漢中とが対立し、争うことになった。 劉璋は張松を遣わして曹操の助力を得ようとしたが、曹操からは相手にされず、仕方なく荊州の劉備を頼ることになった。 これにより、劉備軍は益州に入ることになったが、もともと益州を手に入れて、天下三分の計を考えていた劉備軍にとっては、願ってもないことだった。 しかし、劉備はこれを仁義に悖るものと考え、あまり気が進まなかった。
ところが、益州を劉備に差し出してこの地を治めさせようとした張松の計画が露見すると、張松は捕らえられて殺された。 これにより劉備軍に疑いの目がかけられることになり、劉備軍は進退窮して成都に攻め入ることになった。
214年、これが成功して成都は陥落し、劉備は益州を手に入れることになった。 ただし、この戦いで諸葛亮と並ぶ軍師であるホウ統を失うことになった。

劉備の入蜀後、荊州を任されていたのは関羽だったが、関羽が曹仁討伐の遠征に出ているとき、部下の裏切りによって居城を呉軍に奪われた。この状況の中、曹仁との戦いに敗れて敗走するものの、戻る場所を失った関羽は孫権軍に迎え討たれて戦死した。これは、219年のことだった。
220年、曹丕が魏帝となり漢朝を廃したのに伴って、この翌年、蜀漢を建国し、この帝位につく。
関羽の仇を晴らすべく、呉討伐の準備が成り、呉に侵攻するが、呉に攻め入る前に張飛が部下に殺され、桃園で生死を誓いあった三人は劉備ただ一人となった。 結局、劉備は呉征伐のために大軍を繰り出したものの、夷陵で大敗を喫した。 劉備はこの敗戦で白帝城に逃がれたが、間もなく病没した。
この後、諸葛亮は劉備の子である劉禅を帝位につけたが、実権は孔明が握っていた。 以来、積年の悲願である魏討伐の北伐を何度か行ったものの不成功に終わり、諸葛亮は戦場で病死した。 (なお、この蜀の北伐に対して魏の大将軍となって魏軍を動かしたのが司馬仲達(司馬懿)であり、この子孫が後に魏の政権を奪い、晋を建国することになる。)
諸葛亮の死後、蜀は一層衰えたが、それでも魏の侵攻にさらされなかったのは、蜀が要害の地だったことによる。 しかし263年、遂に蜀は魏に滅ぼされた。

265〜316西晋 265年、魏帝の禅譲を受け、晋王・司馬炎(武帝)が即位し、魏を廃して国号をとした。都は洛陽。 後に晋が分裂して東晋ができたことから、これは西晋と呼ばれる。
 司馬炎は司馬懿の次男である司馬昭(晋の太祖文帝)の長子。 司馬昭の時に帝位簒奪の条件が整っていたことより、司馬昭の死後、この後を継いだ司馬炎が難なく帝位の禅譲を受けた。 なお、このことは曹丕の場合と同じであり、まさに歴史は繰り返された。
 司馬炎が晋を建国しても、呉がまだ健在であり、中国統一は成っていなかった。
280年、呉を滅ぼして中国を統一した。
 孫権死後の呉は後継者争いによって弱体化していた。 279年、晋は呉に侵攻し、翌年呉王が降伏して、呉は滅んだ。

 司馬炎は、魏朝の凋落が曹氏一族よりも司馬氏一族の方の権勢が強かったことに因ると考えて、晋の安泰を図るためには、晋国を司馬氏一族で固める必要があると考え、司馬一族を各地の王に封じて、他の一族による反乱を抑止しようとした。 しかし、武帝が没すると、これらは権力闘争を行なうようになり、司馬氏の弱体を招くことになる。
 結局、同族といえども、ある集団が定まるとその中で権力争いが生じることになる。 一族が団結しているのはこれを脅かす他の一族が存在しているからに他ならず、この脅威が無くなれば、内部で権力闘争が起こることになる。 つまり、一族といえども本質は他の一族の集合と同じということである(同族性あるいは同質性は他の一族の存在によって規定されるからである)。 したがって、権力者集団において支配の階層性が欠如するようになると、同族内においてもこの階層性を定めるための闘争が生じることになる。 一族の階層性において代表的なものは親と子、そして兄弟間の上下関係であり、親の死が同族支配での階層性崩壊の主たる原因となる。 このため、君主が世襲制によって引継がれる国家というのは、数代経ると必然的に凋落することになる。
 そうした中では殷や周が長く続いた。 また、日本では徳川時代が長く続いた。 これらは外部の脅威が少なく、また主権の維持に努めたからと考えられる。

290年、司馬炎の次男・司馬衷が恵帝となった。
 289年に司馬炎が没したことから、267年に皇太子になっていた司馬衷が皇位を継いだ。 しかし、恵帝は暗愚な帝王として知られ、司馬炎が司馬衷を皇太子にしたのは疑問が残るところである。 このような王であることから、政権は皇后の賈氏が握った。
 301年、皇太后(武帝の皇后)と皇后との対立により晋王朝が分裂し、「八王の乱」が起こる。 この乱により7人の王が死に、東海王・司馬越が残った。 恵帝は王位を巡る争いに翻弄されたが、司馬越が恵帝を得て政権を握った年(306年)に食中毒により死去した(これは毒殺説が強いようだ)。
 この内乱では北方異民族を傭兵にして戦っていた。 また、戦乱によって華北の地が荒廃し、また戦乱を避けるためにも農民は華南に移動した。 この結果、華北には北方異民族が進出してくることになった。
306年、司馬熾(懐帝)が即位した。
 恵帝の死後、皇太弟に立てられていた、司馬炎の二十五男で豫章郡王の司馬熾が即位した。 しかし、実権は司馬越に握られていた。
 306年、漢を標榜する劉淵が匈奴を率いて河北に侵攻した。 後に劉淵が病死すると、後継争いの結果、息子の劉聡が引き継いだ。 劉聡は、劉淵の甥・劉曜に攻撃の指揮を任せた。
 311年、劉曜が洛陽を陥落させた。懐帝は捕えられ、後に会稽公に封じられた。 しかし313年、劉聡によって殺された。
313年、呉孝王・司馬晏の子の愍帝が即位した。
 313年、洛陽の陥落後に長安に逃れた司馬?が皇太子に立てられ、懐帝の死後、即位した。 晋軍は洛陽陥落後も後退を続け、316年、劉曜が長安に迫ると降伏し、愍帝は捕えられた。 しかし、即座に殺すことはしないで愍帝は懐安侯に封ぜられた。 ここに至って晋は滅亡した。 後に、愍帝は懐帝と同様に殺された。
 なお、晋の滅亡により、華北は混乱し、様々な国が起こった。 華北のこの時代は五胡十六国時代と呼ばれる。
317〜420東晋 316年、司馬睿(元帝)により、東晋が建国された。都は建康(南京)。
 司馬睿は司馬覲の子で、司馬懿の曾孫に当たる。 307年、安東将軍・都督揚州諸軍事に任ぜられ、建康に鎮座した。 最後の晋帝である愍帝のとき、丞相・大都督中外諸軍事となった。
 華北の方の晋が五胡の乱により滅亡すると、翌年、司馬睿(しばえい)が晋王を称し、建康(南京)に晋を再興した。 これは東晋と呼ばれ、元の晋の方は西晋と呼ばれることになった。 呼称は紛らわしいが、西晋は東晋の領域を含んでいる。
 こうして中国は、華北を占領した五胡による分割統治(代、(前)涼、漢、(前)燕、成漢)と、東晋による統治に分かれた。 この後、華北を統一することになる北魏を元にした北朝時代と、東晋を継いだ宗を元にする南朝時代に分かれる。 歴史的な経緯としては、晋の分裂を以って、これ以降を南北朝時代とする方が分かり易いが、五胡十六国は正統な王朝ではないことから、これは除外され、正統王朝としては東晋のみがあった。
371年、七代廃帝・司馬奕の後を継いで、八代簡文帝・司馬cが即位した。
 元帝(司馬睿)の末子。廃帝の頃は、桓温が実権を握っていた。 桓温は司馬奕を廃して、丞相・録尚書事であった司馬cを帝位に就けた。
372年、簡文帝の後を継いで、九代孝武帝・司馬曜が即位した。
 簡文帝が没すると、皇太子の司馬曜が帝位に就いた。 実権を握っていた桓温が没すると、小帝の司馬曜の代りに太后が摂政を行なった。 後に親政を行なうようになり、会稽王・司馬道子を重用した。
 383年、北伐を行い、前秦を大いに破った。 北伐は、華南に逃れていた華北地方の人々が華北を他民族の支配から奪還するためのものでもあった。 しかし、北魏が起こり、華北を統一して漢民族との融合が行われるようになると、華北の奪還は無理となった。
 396年、孝武帝は飲酒による急性中毒で死亡した。
372年、孝武帝の後を継いで、十代安帝・司馬徳宗が即位した。
 孝武帝の長男。小帝であることから、朝政は司馬道子が行った。 403年、桓玄が建康を占領して実権を握り、帝位を簒奪した。 後に桓玄が劉裕に敗れると復位したが、政権は劉裕に握られた。 418年に劉裕に殺された。
 なお、劉裕は399年に起きた反乱の鎮圧軍に加わり、このときの軍功により大将軍に昇進した。 
418年、十代安帝の後を十一代恭帝・司馬徳文が継いだ。二年後に劉裕に禅譲し、東晋は終焉した。
 孝武帝の子で、安帝の弟。 安帝が死去すると、大司馬・司徒の司馬徳文が帝位に就いた。 劉裕に禅譲した翌年、(用済みとなったためか)劉裕に殺された。 
317〜439五胡十六国時代 317年、劉聡が晋を滅ぼして、漢を建国する。
 建国後すぐに劉聡が死に、劉曜が推挙されて、趙を建国する。また、別の武将の石勒も趙を建国した。 これらの趙を区別するために、前者を前趙、後者を後趙と呼ぶ。
 趙の後には(前)秦が起こり、華北を統一したが、まもなく東晋の北伐によって国勢が劣ろえ、この結果、北魏、西秦、前秦、後秦、西燕、後燕に分裂した。
南北朝時代 中国が北朝と南朝に分裂していた時代
398〜581北朝時代 396年、拓跋珪が北魏(398〜534)を建国した。
 北魏の初代道武帝。廟号は太祖。拓跋寔君の子。 魏は鮮卑族(トルコ系遊牧民族)拓跋部の出身である拓跋氏によって建国された。 これは他の魏と区別するために北魏と呼ばれる。
 鮮卑族は拓跋氏がを建国したが、前秦に滅ぼされた。 前秦が滅ぶと、拓跋珪が代の旧民を糾合して代王の位に就き、国号を魏とし、都を盛楽に定めた。 鮮卑族の統一が成ると、397年に後燕を破り、翌年、平城に遷都し、帝を称した。 また、北方民を漢人と同じく戸籍に編入するという漢化政策を行なった。 402年には後秦を破った。
 晩年には性質が粗暴となり、409年、次男・拓跋紹に殺害された。
409年、道武帝の後を二代明元帝・拓跋嗣が継いだ。
 道武帝(拓跋珪)の長男。初代の漢化方針を受け継ぎ、漢人との融合を図った。また、農業を重視して領国の充実を図った。
423年、明元帝の後を三代太武帝・拓跋Zが継いだ。
 明元帝が崩ずると、長男の拓跋Zが帝位に就いた。 夏・北燕・北涼を滅ぼして、439年に華北の統一が成った。 450年、(宗の侵略を受けためか)宗(文帝時代)に侵攻し、大勝した。 しかし、長江を渡る直前に引き返し、中国統一は成らなかった。
 晩年、宦官の宗愛により殺された。これは宗愛の讒言により、皇太子の重臣が殺され、これにショックを受けた皇太子が病没した責任を問われるのを恐れたためとされる。
452年、太武帝の後を四代文成帝・拓跋濬が継いだ。
 太武帝を殺した宗愛は拓跋余を帝位に就けたが、これも殺した。 そこで陸麗らが宗愛を誅殺し、太武帝の孫に当たる拓跋濬を擁立した。 文成帝は小帝であったことから、陸麗らが補政を行なった。
452年、文成帝の後を五代献文帝・拓跋弘が継いだ。
 文成帝の長男。若くして亡くなった文成帝の後を皇太子・拓跋弘が帝位に就いた。 これまた小帝で、母の馮太后が称制した。 南朝の宗を討ち、淮北の各州を奪った。
 469年に親政を行い、長男の宏を皇太子とした。 471年、皇太子に帝位を譲った。(このことは馮太后が政権を握っているためのものと考えられる。) 476年、馮太后に憎まれ、毒殺されたようだ。
471年、献文帝の後を六代孝文帝・元宏が継いだ。
 献文帝の長男。父より帝位を譲り受け、五才で即位した。 政権は祖母の馮太后が握った。
 490年、馮太后が没すると、親政を行なった。 孝文帝は漢化政策をさらに押し進めた功績が大きい。 494年、平城での旧弊を廃するために洛陽に遷都すると、胡服・弁髪を廃し、言語を漢語に定めた。 自身も、北方民族の性である拓跋から元に改めた。 しかし、この急激な漢化政策は北方民族の不満を昂じさせた。 499年、33歳の若さで病没した。
499年、孝文帝の後を七代宣武帝・元恪が継いだ。
孝文帝の次男。孝文帝が没すると、16歳で即位した。 501年に親政を行なうようになると、外戚の高肇に政治を委ねた。 在位中は、暴政などにより、国家財政が傾き、政治は腐敗した。 軍事的にも敗戦を重ねた。 また、各地で乱が相次いで起こった。
515年、宣武帝の後を八代孝明帝・元?が継いだ。
宣武帝の次男。六歳で即位したことから、母・胡太后が政権を握り、元雍らの輔政を受けた。 520年、懇意の侍中・元叉が政権を奪った。
 523年、辺境の守備隊の反乱である「六鎮の乱」が起こり、これに対して政府軍が当たったが、全く歯が立たなかった。 このため、異民族の将軍・爾朱栄(じしゅえい)が鎮圧した。 これにより、北魏の実権は爾朱栄が握ることになった。
 525年、胡太后・元雍らが政権を奪回し、鄭儼らを重用した。 母子間の対立が深まり、528年、孝明帝は爾朱栄に胡太后を殺すように依頼したが、この陰謀は発覚し、孝明帝は鄭儼らによって毒殺された。
525年、孝明帝の後を九代孝荘帝・元子攸が継いだ。
 彭城王元?の三男。孝明帝が毒殺されると、爾朱栄は元子攸を擁立した。 しかし爾朱栄が朝政を専横したため、胡太后によって誅殺された。 この仇を討つために爾朱兆が反乱軍を立ち上げたため、政府軍はこの軍と戦ったが、敗れて孝荘帝は殺された。
 そこで、爾朱世隆、爾朱兆らは十代東海王・元曄を擁立したが、翌年これを廃して、十一代前廃帝・元恭を擁立させた。 しかし、即位した翌年、丞相・高歓が爾朱氏を討ち、前廃帝を廃して、十二代後廃帝・元朗を擁立した。 ところが、翌年(532年)には高歓はこれも廃して、十三代孝武帝・元修を帝位に就けた。
534年、北魏は東魏西魏に分裂した。
 534年、高歓による帝位の剥奪が度重なることから、元修は兵を集めて、高歓を討とうとした。 しかし高歓の大軍が洛陽に迫ると、元修は洛陽から逃れて、関西大行台の宇文泰を頼った。 後に元修は宇文泰に毒殺された。 この結果、北魏は東魏と西魏に分裂した。

【東魏〜北斉】

534年、東魏には初代孝静帝・元善見が帝位に就いた。

 北魏の孝武帝が都から逃れると、実権を握る丞相・高歓は、清河王・元亶の子である元善見を擁立した。 北魏は分裂したことから、これは東魏と呼ばれることになる。
 547年、寵臣らと共謀して、朝政を専横する高澄(高歓の長男)を誅殺しようとしたが、これは発覚して、孝静帝は幽閉された。
550年、丞相・高洋が帝位につき、東魏の国号をとした。この斉は以前の斉と区別するために、北斉と呼ばれる。 
 高歓の次男。549年、高澄が蘭京らに殺されると、高洋は叛乱者を殺して、丞相の位を受け継いだ。 さらに、高洋は孝静帝に禅譲を迫り、帝位に就いた。後に、孝静帝は殺された。
 高洋は度々他国に侵攻して勝利し、領土を拡大した。 また、長城の修築など大工事を行なった。 晩年には粗暴になり、臣下や人民を理由もなく殺したりした。
559年、文宣帝の後を二代廃帝・高殷が継いだ。
 文宣帝の長男。文宣帝の死を受けて、楊?らに擁立されて帝位に就いた。もともとは皇太子であったが、文宣帝の気まぐれにより廃された。
 楊?は、高歓の子で廃帝の叔父に当たる高演や高湛を排斥しようとして、彼らの権限を削ろうとした。 これに対して、高演らは太皇太后・婁氏の命令を得て、高演ら一党を殺した。 そして、廃帝を廃して、高演が帝位に就いた。しかし翌年、落馬して負傷し、これが原因となって没した。 そこで、高演の弟・高湛が帝位に就いたが、翌年には高湛の長男で太子の高緯に帝位を譲った。
565年、四代武成帝・高湛の後を五代後主・高緯が継いだ。
 武成帝の長男。父より帝位を譲られたが、小帝のため、政治は高湛がみた。 568年、父が病没したため親政を行なったが、政治には無関心で、穆提婆らに任せた。 穆提婆らは外戚・大臣たちを誅殺したため、朝政は腐敗した。
 576年、西魏に平陽を攻められ、北斉軍が壊滅的となったことより、六代安徳王・高延宗に帝位を譲った。 しかし、高延宗の軍は晋陽において北周に大敗して、高延宗は捕えられた。翌年には自殺した。 このため、七代幼主・高恒(高緯の長男)が帝位を継いだ。 しかし同年、北周の大軍が押し寄せてきたため、逃亡したが、父の高緯とともに捕えられた。幼主は翌年に殺され、北斉は滅んだ。

【西魏〜北周】

535年、西魏の初代文帝・元宝炬が帝位に就いた。

 534年、孝武帝が長安の宇文泰を頼って逃れてくると、翌年、宇文泰は孝武帝を毒殺して、太宰・録尚書事に任ぜられた元宝炬を帝位に就け、実権は宇文泰が握った。
551年、文帝の後を二代廃帝・元欽が継いだ。
 文帝が没すると、皇太子に立てられていた元欽が帝位に就いた。 しかし実権は宇文泰に握られていたことから、宇文泰を殺そうとしたが、これは発覚して、廃された。
554年、廃帝の後を三代恭帝・元廓が継いだ。
 宇文泰が廃帝を廃位させると、文帝の四男・元廓を帝位に就けた。 宇文泰の死後、子の宇文覚に帝位を譲った。
557年、初代孝閔帝・宇文覚が帝位につき、西魏の国号を(557〜581)とした。
 宇文泰の三男。宇文泰が没した後、周公に封じられた。 この周は以前の周と区別するために、北周と呼ばれる。
 宇文泰が没すると、宇文覚は西魏の恭帝に禅譲を迫り、帝位に就いた。 しかし、朝廷の実権は宇文護が握っていたため、これを除こうとしたが発覚し、宇文護に殺された。 
557年、孝閔帝の後を二代明帝・宇文毓が継いだ。
 宇文泰の長男。宇文護が孝閔帝を廃した後を受けて、宇文毓が帝位に就いた。 しかし、政務の実権は宇文護が握っていた。 三年後に親政を行なったが、翌年、食中毒により崩じた(毒殺のように思われるが)。
560年、明帝の後を三代高祖武帝・宇文?が継いだ。
 宇文泰の四男。17歳で即位したことから、宇文護が政務を専断した。 572年、宇文護を誅殺して排斥すると、親政を行なった。
 575年、弱体化した北斉に攻め込み、557年に滅ぼした。 こうして、華北は北周により統一された。 翌年、突厥に親征したが、途中で病没した。
 なお、武帝時代に隋の初代皇帝となる楊堅の娘が宇文贇の后となる。
578年、武帝の後を四代宣帝・宇文贇が継いだ。
 武帝の長男。武帝が没すると、帝位を継いだ。 宣帝は父を嫌っていたためか、武帝の旧臣を粛正して、人事を一新した。 宇文贇が帝位に就いたことより、随国公・楊堅は外戚となり、大後承に任ぜられた。
 洛陽宮を改修させ、豪華な宮殿とし、洛陽に遷都した。 しかし、政務にはあまり関心が無かったようで、帝位を皇太子・宇文衍に譲り、自身は天元皇帝を称した。 この翌年、酒色にふけったためか、精神を病み、没した。
580年、宣帝の後を五代静帝・宇文衍が継いだ。
 宣帝の長男。父から位を譲り受け、七才で即位した。 翌年、大上皇の父が亡くなると、実権は楊堅が握った。 楊堅は自分に反対するものを粛正していき、最終的に静帝から帝位を譲り受けた。 こうして、北周は滅んだ。
420〜479南朝時代 【宗(420〜478)】

420年、東晋の劉裕が帝位につき、国号を宋とした。都は建康(南京)。後に中国を統一した宗と区別するため、これは劉宗とも呼ばれる。

 宗の初代武帝。廟号は高祖。貧しい猟師の出自であったが、399年に起きた孫恩の乱の鎮圧軍に参加して軍功を上げ、将軍の地位に就いた(3)。 また、政治が乱れ、各地で反乱が起っていたことから、文官よりも武官の方が実権を握るようになっていた。
 このような時、朝廷では桓玄と外戚の司馬道子が対立していた。 桓玄が司馬道子を放逐して実権を握ると、帝位を簒奪した。 そこで、劉裕が桓玄を討ち、東晋の安帝を復位させたが、実権は劉裕が握ることになった。 実権を握ると、劉裕は南燕や後秦などと戦って勝利し、領土を拡大していった。
 418年、劉裕は安帝を殺させると、安帝の弟の司馬徳文(恭帝)を帝位に就け、自身は宗公から宗王となった。 しかし、これは禅譲を意図したもののようで、2年後には禅譲という形で帝位を奪い、翌年には殺した。 これで待望の皇帝となったわけであるが、57歳と高齢で即位したことより、在位3年で崩じた。
422年、武帝の後を二代少帝・劉義符が継いだ。
 武帝の長男。父が没すると、16歳の皇太子・劉義符が帝位に就いた。 政治には関心が薄く、遊行に興じたため、北魏の侵攻により、領土を奪われた。 即位2年後、徐羨之・傅亮・謝晦らによって廃位させられた後、殺された。
424年、少帝の後を三代文帝・劉義隆が継いだ。
 武帝の三男。小帝を廃位させた徐羨之・傅亮らは宜都王・劉義隆を擁立した。 しかし、2年後には廃立の前科を問い、徐羨之・傅亮らを処刑した。 (これは謀反を疑ったためと考えられる。)
 450年、北魏を討とうとしたが、大敗した。 453年、皇太子・劉劭が巫蠱(これは重罪と見なされたようだ)を行なっていることが発覚し、廃位しようとしたが、逆に謀反を起こした皇太子に殺された。
453年、文帝の後を四代孝武帝・劉駿が継いだ。
 文帝の三男。文帝が皇太子に殺されたことから、弟の江州刺史・劉駿が兄を討って、帝位に就いた。 しかし、南郡王・劉義宣らが叛意を示して起兵したことから、これを討った。 また、459年、竟陵王・劉誕が叛くと、これを討った。
449年、孝武帝の後を五代前廃帝・劉子業が継いだ。
 孝武帝の長男。父が没すると、皇太子の劉子業が帝位に就いた。 しかし、性質が凶暴なためか近臣らは帝を廃そうとしたが、これは発覚して、ことごとく殺された。 この後も誅殺される者が相次いだが、遂に帝は寿寂之らに殺された。
465年、前廃帝の後を六代明帝・劉ケが継いだ。
 文帝の十一男。前廃帝が殺されたことより、衛将軍・南豫州刺史の劉ケが帝位に就いた。 これは一族の了承が得られたものではなかったようで、周りを敵に囲まれた状態だった。 明帝は帝位を奪われることを恐れたためか、文帝の子をことごとく殺した。 これにより、皇帝一族の代りに他の武将が台頭するようになった。 その一人に蕭道成(しょうどうせい)がいた。 
472年、明帝の後を七代後廃帝・劉cが継いだ。
 明帝の長男。父が没すると、皇太子・劉cが10歳で帝位に就いた。 このため、政務は実権を握るようになった蕭道成が行なった。 477年、蕭道成を除こうとしたが失敗し、蕭道成に殺された。
477年、後廃帝の後を八代順帝・劉準が継いだ。
 明帝の三男。後廃帝を殺して廃した蕭道成は、劉準を擁立した。 しかし、8歳(?)の順帝に政務能力はないため、蕭道成が政務を専断した。 2年後、蕭道成が簒奪して、帝は汝陰王に落された。 順帝が宮殿を出る際、皇帝一族の間で殺し合いが頻繁に行われたことから、「後世に生まれ変わるなら帝王の家には生まれるまい」という言葉を残したとされるが、これは劉裕の血筋のようなものであったと考えられる。 つまり、武にだけ頼り、信義を軽視したことによるものと考えられる。 なお歴代、王朝の変遷が多いのは、世襲制では政務能力のない子供を帝位に就けることが多いためといえる。 

【斉(479〜502)】

479年、宗の斉王・蕭道成が宗の順帝の禅譲を受け、斉を建国した。都は建康。この斉は、戦国時代の斉や、北朝の末期に起こった(北)斉と区別して、南斉とも呼ばれる。

 斉の初代高帝。廟号は太祖。漢の宰相・蕭何の子孫を自称した。宗の(中期〜)末期には皇帝一族は凋落し(一族同士で殺し合ったため自滅した)、また皇帝に叛意(実質的には蕭道成に対する叛意)を示した劉一族を討って、実権は蕭道成が握っていた。 最後の順帝(小帝)は蕭道成が擁立したもので、自分の意のままとなる順帝に禅譲を迫り、帝位に就いた。

 なお、皇帝の氏族でない者が帝位に就く前に、自分の意のままとなる皇帝を擁立してから禅譲を受けるというパターンは頻繁に見られるが、これは叛意を示す皇帝一族をことごとく討つための布石と考えられる。 もしいきなり帝位を奪ったのでは、それらを討つ名分が立たないことになる。 そして、もはや敵がいなくなった頃(1〜2年後)、自分が擁立した皇帝から帝位を簒奪するということになる。 このような欺瞞は、朝廷内部の人間には自明なことであるだろうが、多くの一般庶民は与り知らないことなので、国民を欺くことができたのだろうと考えられる。

482年、高帝の後を二代武帝・蕭サクが継いだ。
 高帝の長男。父が没した後、皇太子・蕭サクが帝位に就いた。 武帝の遺詔により蕭鸞が尚書令となり、後に実権を握ることになる。 
493年、武帝の後を三代廃帝・蕭昭業が継いだ。
 文恵太子(蕭長懋)の長男。武帝が崩ずると、皇太孫の蕭昭業が帝位に就いた。 まだ若く、政務能力がないため、蕭子良と蕭鸞が輔政にあたった。 昭業が即位すると、待中・尚書令であった蕭鸞は、大将軍・中書監・開府儀同三司の位にも就いた。 蕭子良が亡くなると、蕭鸞が実権を握った。 後に、蕭鸞の排斥を目論んで蕭鸞を西州に左遷しようとしたが、蕭鸞は兵を宮中に入れて帝を殺した。
494年、三代廃帝の後を四代廃帝・蕭昭文が継いだ。
 恵太子の次男。蕭鸞が三代廃帝を殺して廃位させると、小帝となる蕭昭文を擁立した。 しかし、蕭鸞は四ヶ月足らずでこれを廃位させた。
494年、四代廃帝の後を五代明帝・蕭鸞が継いだ。
 蕭道生の子。蕭鸞は傀儡の四代廃帝を廃位させると、自分が即位した。
498年、明帝の後を六代東昏侯・蕭宝巻が継いだ。
 明帝の次男。父が没すると、皇太子・蕭宝巻が帝位に就いた。 しかし、大臣を誅殺するなどの暴政や、甚だしい乱行により、人心は帝から離反した。 蕭衍の兄も帝により殺されると、501年、蕭衍は挙兵し、建康を陥落させた。
501年、東昏侯の後を七代和帝・蕭宝融が継いだ。
 明帝の八男。都を占領した蕭衍は、江陵にいた蕭宝融に帝位に就くように勧め、これにより帝位に就くと、宮殿に幽閉していた東昏侯を殺した。 翌年、蕭衍に帝位を譲ると、まもなく小帝の蕭宝融は殺された。 即位した蕭衍は梁を建国したことより、これで斉は滅んだ。 (蕭鸞の子孫も彼が行なったことと全く同様の運命に至ったという意味では、まさに因果は巡るというところである。このパターンは毎回繰り返されたことであるが、少年であるが故に容易に騙された、ということかもしれない。)

【梁(502〜556)】

502年、斉の雍州刺史・蕭衍が和帝の禅譲を受けて帝位につき、国号を梁とした。

 梁の初代武帝。廟号は高祖。蕭順之の子。皇帝一族であることから、本来であれば斉を継承するところであるが、謀反を起こして政権を奪取したことから、斉を継承するべきではないと考えたのだろう。 また、どこかの領地を治めたわけではないことから、国名は領地名とは無関係なようである。
 南朝の中では安定した治世が長く続き、名君として知られる。 武帝は武人としてだけではなく、文人としても才能が高かったようである。 また、仏教にも傾倒した。 武帝の功績として、国立大学を設立して一般人に入学を許可し、この国家試験に合格すれば、家柄に関係なく誰でも高級官吏に採用する制度を作ったことである。 後に、この制度は科挙として知られることになる。
 547年、東魏の将軍・侯景が自分が制圧している13州をもって梁に帰順しようとしたため、これを受け入れた。 このため、東魏はこの討伐軍を送ることになった。 これに対して梁は、甥にあたる蕭淵明を司令官として防衛に当たったが、惨敗し、蕭淵明は捕えられた。 また、侯景も軍勢を多く失った。 そのうちに東魏の蕭淵明を通して和議の申し入れが来たが、これを知った侯景は自分の身を案じたようで、先手を打って反乱を起し、都・建康を襲い陥落させた。 帝は幽閉されたが、2ヶ月後には死去した。
549年、武帝の後を二代簡文帝・蕭綱が継いだ。
 武帝の三男。531年、昭明太子が亡くなると皇太子となり、武帝が没すると、侯景は蕭綱を帝位に就かせた。
 551年、侯景は簡文帝を廃した(この経緯は不明)後、殺した。
551年、簡文帝の後を豫章王・蕭棟が継いだ。
 王蕭歓の子。侯景が簡文帝を廃すると、蕭棟を擁立したが、在位四ヶ月で廃位させられ、幽閉された。 翌年、侯景が敗走すると救出された。
552年、蕭棟の死後、武陵王・蕭紀が帝を称した。
 武帝の八男。552年、蕭棟が廃位すると、蜀において帝を称した。 そこで、江陵の蕭繹を討って梁を制しようとし、翌年、西陵まで進んだが、蕭繹に敗れて没した。 また、蜀の成都は西魏に奪われた。
553年、蕭紀の死後、湘東王・蕭繹が帝となった。
 武帝の七男。552年、蕭紀が帝を称すると、彼自身も江陵で即位した。 翌年、攻めてきた蕭紀の軍を撃破し、蕭紀が亡くなると、晴れて帝となった。
 554年、雍州刺史・蕭?が西魏の兵を引き入れて、江陵を陥落させ、蕭繹を殺した。 (このように、依然として皇帝一族の間で殺し合いが続いた。)
555年、蕭繹の死後、蕭淵明が帝となった。
 梁の貞陽侯。侯景が梁に降ると、命により東魏の討伐軍を迎え撃ったが、敗れて東魏に捕えられた。 江陵が西魏によって陥落させられ、蕭繹が亡くなると、東魏から代った北斉の文宣帝(高洋)が、蕭淵明を梁主として建康に送った。 これに対して、王僧弁は東関を守らず、蕭淵明を擁立して、即位させた。 同年、陳覇先が王僧弁を襲って殺し実権を奪うと、廃位させられた。
555年、蕭淵明の廃位後、敬帝・蕭方智が帝となった。
 元帝(蕭繹)の九男。553年、江州刺史となった。 554年、西魏が江陵を攻めて、元帝が殺されると、王僧弁と陳覇先により、太宰として都・建康に迎えられた。 555年、王僧弁が北斉が送り返してきた蕭淵明を帝に擁立すると、蕭方智を皇太子とした。 同年、王僧弁が陳覇先により殺されると、後ろ楯を失った蕭淵明は廃位させられて、蕭方智が帝位に就いた。 翌年、攻めてきた北斉軍を陳覇先が撃破した。 557年、陳覇先が太傅に昇進し、陳王に封ぜられると、陳覇先は敬帝から帝位を奪い、即位した。 これにより、梁は滅んだ。

【陳(557〜589)】

557年、梁の陳覇先が帝位につき、国号を陳とした。都は建康(南京)。

 陳の初代武帝。廟号は高祖。貧農の出自であったが、建康に出て油庫吏となった後、新喩侯・蕭暎に伝授用として仕えた。 蕭暎が軍の長官になると、この下で陳覇先は広州刺史参軍となった。 交州の李賁の乱の平定に加わり、振遠将軍・高陽太守に任ぜられた。 550年、梁に下ってきた侯景が反乱を起こして都・建康を陥落させ、実権を奪うと、侯景討伐のために挙兵し、この北上途中、王僧弁の軍と合流して侯景軍を破り、侯景を討った。 こうして、陳覇先は王僧弁とともに梁の実権を握ることになった。 これ以降、帝位に就くまでの経緯は上述の通りである。
 しかし、高齢(54歳?)で帝位に就いたことから、在位2年で没した。
559年、武帝の後を二代文帝・陳?が継いだ。
 始興昭烈王・陳道譚の長男。陳覇先の甥に当たる。 侯景の乱のとき、叔父の侯景討伐を助けた。 また王僧弁を討つときにも参加し、この将を討ち、軍功を為した。 陳覇先が即位すると臨川王となり、後に南皖に鎮した。 武帝が没すると、宣皇后と中書舎人の蔡景暦らにより帝に立てられた。
 なお、謚号は文帝であるが、北斉の侵略を撃退したり、各地の乱を平定したことから、武帝の方が妥当のようである。 しかし、既に初代武帝がいるため、この謚号は使用できないことから文帝に落ち着いたのだろう。
566年、文帝の後を三代廃帝・陳伯宗が継いだ。
 文帝の長男。文帝が没すると、皇太子・陳伯宗が帝位に就いたが、小帝のため、政権は安成王・陳?が握った。 568年、太傅になっていた陳?は、宣太后の命を賜り、帝を廃した。 
569年、廃帝の後を四代宣帝・陳?が継いだ。
 陳道譚の次男。廃帝が即位して、2年後、政権を握っていた陳?が帝を廃して、自身が帝位に就いた。
582年、宣帝の後を五代後主・陳叔宝が継いだ。
 宣帝の長男。父が病没すると、皇太子・陳叔宝が帝位に就いた。 しかし、政務には関心が薄かったようで、政務を宦官に任せ、自身は遊興にふけった。 このため、国が乱れた。
 589年、華北を統一した北周を引継いだ隋が南下し、都・建康が陥落した。 後主は捕えられて長安に送られた。5年後、洛陽で没した。

【追記】
 華中では、三国時代の呉から、東晋→宋→斉→梁→陳と変遷を繰り返したことより、三国時代から南朝時代までは六朝時代と呼ばれる。 なお、この時代の文物が朝鮮の百済を通じて日本にもたらされた。
581〜618 581年、北周の随国公・楊堅(文帝)が帝位を譲り受け、国号を隋とした。583年、大興(長安)へ遷都した。587年には後梁を滅ぼし、589年に陳を滅ぼして中国を統一した。
 楊忠の子。廟号は高祖。北周末期、実権を握っていた外戚の楊堅は、(実質的には)静帝(8歳)を廃位させ、自身が帝位に就いた。 後に、静帝は殺された。
 中国統一後は、荒廃した国土の再建に力を注いだ。 これとしては、万里の長城の修復や、運河の拡張工事が挙げられる。 また、科挙と呼ばれる制度を創設し、政治を皇帝一族あるいは宦官が支配するという旧弊を改めて広く民間に門戸を解放し、優秀な人材を登用した。 
604年、文帝の後を二代煬帝・楊広が継いだ。
 文帝の次男。(楊広の謀略によって)皇太子だった長男が廃嫡されると、楊広が皇太子となり、文帝が崩じた後(これは楊広による毒殺説が根強い)、帝位に就いた。 (これこそが隋の滅亡の原因となるものであった。というのは、煬帝は文帝の統治を根本からひっくり返すことになったからである。つまり、質素倹約から豪壮華美を求めるようになったからである。秦の滅亡もそれが原因であったといえる。結局、民衆の安泰無くして国家は成立しないということだろう。権勢に溺れると民衆を単なる僕と看做すようになり、そして君子たる自己の存立は民衆の上に成立つものであることを忘れてしまうのであろう。)
 楊広が、人民を虐待したという意味の煬帝(ようだい)という諮号で呼ばれるようになったのは、大規模な公共事業に多くの人民を駆り立てたからである。 この公共事業としては、200万人を動員したとされる洛陽宮の造営、そして黄河と長江(揚子江)を結ぶという、全長2000キロに及ぶ大運河の土木工事が挙げられる。 大運河の工事には女性や子供を含む500万人が駆り出され、奴隷同然に働かされ、多数の死者が出たとされる。 (これによって南北の交通と流通は飛躍的に向上したが、これは後の評価である。) また、中国を統一して大国となった隋に唯一服属しようとしなかった高句麗に三度も侵攻したが、これは失敗に終わった。
 公共事業での苦役、高句麗征伐での敗北(大軍を擁しながらのこの敗北の原因は、煬帝が全軍の行動を統制しようとし、攻撃が迅速果敢とならなかったからのようだ。また、臣下には親征を諫める者が居たが、煬帝はこれを無視した。なお、煬帝の敗北は、後漢の頃の曹操に対する袁紹の敗北と似ている。攻撃は臨機応変、迅速を旨とするものであるが、威風堂々とした威厳を保とうとするとそれらを蔑ろにすることになる。「王者」の弱さもそこにある。皆の信望を得ようとする余り、行動が衆人と同じになってしまうのである)、および財政悪化から生じた重税は、当然のことながら多くの人民の反発を招くことになった。
     特に高句麗征伐を強引に行なったことが隋滅亡の直接的原因になったようである。 そのように勇者というのは勇を誇って自滅するようになるものである。煬帝治世における隋の滅亡は殷の滅亡と似ている。
     能力的に優れた者が必ずしも国家の安泰に結びつかないという意味では、矛盾的である。 このことは誰しも人間的な弱さを持ち、それから破綻が生じるからだろう。 それはその者自身には分からず、他人だけが分かることになる。 このことは常に自己を正当化しようとする心情からであり、したがってそれは客観的にしか分からないのである。 自己を客体として認識し得る者のみが、それから逃れることができるのだが、これは主人たる「君子」には難しいことである。 非情ではあったが、非凡な才能により中国史上初の女帝となり、権力を永らく維持し得た則天武后も、最後には人間的弱さから聡明さを失い、自滅したといえる。
また、生活の困窮から多数の盗賊を生み、彼らは群盗を成すことになった。 そして彼らは討伐軍(これも一大勢力となると反乱軍に変貌することになったが)や反乱軍に吸収されていった。
 613年、二度目の高句麗親征のとき、皇帝の留守を狙って礼部尚書・楊玄感が造反したが、これは結局鎮圧された。 (楊玄感は楊素の子。楚公・楊素は大功(文帝の死後、漢王等の造反を討伐した)があったことから、煬帝の治世で司徒となった。しかし、この功績から驕慢に振る舞うことが多かったため、煬帝に嫌われることになった。 楊素の死後も、楊玄感は猜疑心の強い煬帝を畏れていた。) なお、この造反で参謀長となったのが、楊玄感と親交のあった李密だった。 李密も結局、捕えられたが、逃げ出すことに成功した。 しかしこの乱以降、各地で反乱が起こるようになった。

 後に李密は擢譲の軍に加わり、戦功を立ててこの盟主となり、魏公を名乗った。 人々は、李密こそ隋にとって変わるべき人物と見なすようになっていた。 (予言書の図讖(としん)に、李氏が天子になるということが記載されていたが、李密がその人間であると思われていた。) 後に、李密は明らかに造反したわけでもない擢譲を、暴虐などを行って上下の規律を乱しているとして殺すことになったが、この処置は疑問の残るところである。 というのは、これによって他の将達が李密への臣従に不安を抱き始めたからである。 (なお、彼は擢譲がいなくなることによって驕慢となったが、このことも李密の衰退を招く原因になった。)

 617年、黄河氾濫を契機として各地で反乱が起こった。 煬帝は中原での騒乱を避けようとして江都に移っていた。 都が陥落した場合には、丹陽へ遷都して、江南だけを確保しようとしていた。 しかし、煬帝に従ってきた警護兵は元の地に帰りたがっていた。 このため、逃亡兵が多かった。 警護兵を統率していたのは、虎賁郎将・司馬徳戡であったが、彼は多くの兵の逃亡の責任を負わされて誅殺されることを畏れていた。 そこで、司馬徳戡らは逃亡計画を謀議して、この同士を集めることになった。
 そのことを同士から宇文智及(宇文述の子)が知ると、彼は天下を狙うことを進言した。 そこで、彼らは宇文智及の兄である宇文化及を盟主に立てた。
 彼らは反乱を起し、煬帝を捕えて殺した。 この後、宇文化及は大丞相を自称し、全ての権限を握った。
 宇文化及は大軍を率いて東都(洛陽)に進んだが、重い荷物を抱えた兵達は疲労し、宇文化及を恨んだ。 暗愚な者を盟主にしたことを憂えた司馬徳戡らは造反を企て、自分が盟主となろうとしたが、これは発覚し、司馬徳戡は殺された。
 都に進んだ宇文化及の軍は、都を狙っていた李密軍と対峙することになった。 東都は宇文化及の軍がやってくると、東都の越王は李密の反乱を赦して、宇文化及を討伐するように敕書を送った。 このため両軍が戦い、宇文化及の軍は敗れた。 そこで、宇文化及は敗残兵をまとめて魏県へ向かった。 李密は宇文化及を無能であるとして、逃亡した宇文化及を捨ておいた。 (李密軍は宇文化及軍と戦って勝利を収めたものの、これによって多くの兵を死なせ、軍が弱体化したことも関係するだろう。これは朝廷側が狙ったことでもある。) しばらくして宇文化及は魏県の秦王を毒殺し、この帝位に就いたが、竇建徳軍と戦って敗れ、殺された。

 宇文化及を討伐した李密軍は都に迎えられることになるが、これを心よく思わなかった王世充は反乱を企て、東都の実権を握り、李密軍を迎え討つことになった。 王世充は、李密を討伐するために、江都にいる煬帝から派遣され、東都の守護を任されていた者であった。 この反乱は、宇文化及を討伐した李密がやってきてこの部下になると、王世充らが粛正されることを畏れたものだった。
 王世充は実権を握ったものの、東都は飢餓に陥り、切羽詰まった王世充は李密軍に決戦を挑むことになった。 李密軍はこれまで王世充らの軍と戦い、度々勝利を収めていて、李密は王世充を軽んじていた。 李密は最初、臣下からの進言によって、守備を固めて敵の糧食が乏しくなったところを撃退する策をとろうとしたが、他の将達の主戦論に惑わされて、真っ向から王世充軍と挑むことになった。 結果は、死力を尽くして戦った王世充軍に大敗を喫した。

     この敗北が無ければ、李密が中国を制することになっただろうことは十分に考えられた。 しかし、勝敗は戦の常であるとしても、確実に勝てる策を無視しての敗北は、李密に運が無かったということだけでは、彼の決断を容認することはできない。 それは彼の完全な失敗と見なされるからだ。
 そこで、李密らは長安に居た唐公・李淵に帰順することにした。 しかし、将や州県の大半は、李密が李淵に帰順したことから、彼を見限って隋に投降した。
 後に李密は、山東に出向いて己への帰順を図り王世充を討つという進言を李淵に行ない、山東に向かった。 ところが、彼の造反を怪しんだ李淵は彼を長安に呼び戻そうとした。 しかし、李密はこれに応じず造反した。 (彼は李淵に優遇されないことを憂慮して、また一旗挙げようとしていたのである。) しかし、この逃亡中に討たれた。 この結果、中国を制するのは李淵か王世充ということになった。

 さて、煬帝の訃報(618年のこと)が東都へ届くと、越王(皇泰主)が即位することになったが、朝政は王世充が専断していた。 王世充が李密を敗北させた後は、皇泰主から帝位を簒奪した。 しかし、王世充は他の将達の人望がないようで、次々と李淵に降伏するようになった。
 620年7月、遂に李淵は、李世民に諸軍を統率して王世充を攻撃するように、命令を下した。 この攻撃で、世民は軽騎を率いて世充軍の偵察に出たところ(大軍を統率する者にしてはこの行動は軽率すぎるように思われるが、彼自身はまだ若かったために勇猛であったのだろうと思われる。しかしこのような行動は後も変らなかったが、天命があったようで死ぬことはなかった)、この軍隊と遭遇して包囲され、危うく殺されかけたが、何とか危地を脱した。 (李世民こそが唐建国に最も貢献した者であるから、もし彼が死んでいれば、唐建国は危ういものだった。これ以後も何度か死にかけるが、危地を脱した。この意味では、天が世民に味方したともいえる。) 621年、李世民は遂に洛陽に迫った。 洛陽の守備は堅固であったが、これを包囲して陥落させた。

617年、煬帝の後を、三代恭帝・楊侑が帝を称した。
 元徳太子楊昭の子で、煬帝の孫に当たる。 隋の都・長安を陥落させた李淵によって、帝に擁立された。 翌年、煬帝が宇文化及らに殺害されると、李淵に帝位を譲った。
618年、煬帝の後を、越王・楊?が帝を称した。
 隋の皇泰主。恭帝。 煬帝の死後、東都(洛陽)では越王を帝位に就けた。 翌年、造反した王世充によって廃位され、まもなく殺された。 王世充は鄭帝を称した。
618〜907 618年、李淵が随の恭帝から禅譲を受け、帝位に就いた。国号を唐とした。
 唐の初代高祖。唐国公・李モの子。母は独孤氏で、煬帝の従兄にあたる。
隋末の混乱時に、李淵が挙兵して長安を陥落した(617年)。 煬帝は江都に逃げていたことから、代王・楊侑を隋の恭帝(小帝)として擁立し、自身は大丞相となり摂政した。 この長安陥落が江都での造反を誘起し、煬帝が殺された。 618年、煬帝の死後、恭帝から禅譲を受けて即位した。 (これまた、恭帝の擁立は自身が権力基盤を固めるまでの暫定処置ということになる。 なお、翌年、恭帝は死去したが、このことはこれまで何度も繰り返されたこと。)
 長安を陥落させたのは、主に子の李世民の手腕であったことから、李淵と共に唐建国に名が挙げられることが多いようだ。
 李淵が帝位に就くと、長男・李建成を皇太子に、次男・李世民を秦公に、四男・李元吉を斉公にした。
     実は、李淵は唐建国に大功があった李世民を皇太子にしたかったようだが、彼はそれを辞退したとされる。 しかし、これが兄弟同士の反目を招くことになる。配下に自分よりも極めて優れた者が居ることは、脅威となるからである。 つまり、たとえ配下の者が信義を尽くそうとしていても、帝位に就いた者はそれが失われることを極度に畏れ、(特に小人は)そうした信義に依存するよりは根絶を考えるようになるからである。 そのように、最初に信義を破る者は、どちらかといえば権力的に上位の者となる。
 李淵が唐を建国したもののこの勢力範囲は関西で、河南では王世充が鄭を建国し、鄭王を称していた。 また、河北では群盗から身を起こした竇建徳が夏を建国していた。
 王世充を討伐しようとして唐が鄭を攻撃すると、敗勢が色濃くなった王世充は竇建徳に援軍を請うことになった。 夏は鄭と国交を断絶していたが、鄭が敗れると夏の存続が危ぶまれることから、王世充の救援に向かうことになった。 621年、李世民らは王世充と竇建徳を破った。 この時、捕えた竇建徳を斬って殺した。 後にこの残党が造反することになったが、この将として担がれたのが劉黒闥である。 623年、唐軍による劉黒闥の討伐が成り、これで中国統一がほぼ成った。

 なお、李淵の造反の経緯は以下のようである。

 613年、楊玄感の乱の鎮圧後、造反の畏れがある、留守弘化郡の元弘嗣の代りに李淵が留守弘化郡に任命された。 李淵の元には大勢の人間が集まるようになり、このため煬帝は李淵を忌むようになっていた。 このことは、図讖に李氏のことが記載されていたからである。 つまり、王位を脅かす者であることを畏れていた。
 616年、煬帝は群盗が跋扈し騒然とする華北(の長安)を逃れて、江都へ巡遊した。 そして、この12月、李淵は太原留守を命じられ、晋陽太守となった。 この頃、突厥が中国北方を荒らし回るようになったため、晋陽太守・李淵と馬邑太守・王仁恭へ、この討伐命令が降った。 しかし、隋軍は小数であるため戦況は不利であった。 このため、李淵は憂鬱であった。 しかも、盗賊や突厥を討伐して大功を立てても、ますます煬帝に忌まれることになり、どちらにしても状況は不利であった。 このようなとき、李世民が父に造反を示唆した。 李淵はこれを憚ったが、結局、これを受け入れた。
 李淵が決起する最初のきっかけとなったのは、煬帝が李淵と王仁恭では突厥を防げないと考えて、彼らを江都へ連行するように使者が派遣されたことだった。 これは後に撤回された。
 617年、王仁恭の部下の劉武周が造反し、王仁恭を斬り、馬邑太守を自称した。 この3月、劉武周は楼煩郡を攻略して汾陽宮を落とし、皇帝を称した。 しかし、李淵の城兵では劉武周の反乱に何も手出しできないでいた。 このことは一族誅殺に値すると考えた李淵はこれを畏れ、遂に決起することになった。

626年、初代高祖の後を二代太宗・李世民が継いだ。
 李淵の次男。 隋末の混乱を速やかに平定し唐を建国した最大の功労者で、武将として傑出していた。 また、統治者としても傑出していて、王位に就いた者が陥りやすい、感情に基づく誤った裁断や他人の讒言に惑わされることを極力排除していた。 文武共に優れた太宗の誤りを正した功績者としては魏徴や文徳皇后が挙げられる。 この皇后は次の皇后となる則天武后・武照とは違って、全く清廉であった。
 唐の初代皇太子は長男の李建成であったが、建成は人望が高く大功のある世民によって自分の地位が脅かされることを畏れ、四男の李元吉と共謀して、世民を亡き者にしようとしていた。 また、高祖の寵姫達は各々の一族の安泰と地位の向上を求めて、建成らに媚びていたが、世民は全く取り入らなかったため、この怨みを買った。 寵姫達は高祖に世民を讒言するようになり、高祖は世民を疎んじるようになった。 このため、高祖の、皇太子を建成から世民に替えようという想いは無くなり、建成の皇太子の地位は磐石なものとなった。
 626年、配下の将から建成と元吉の誅殺を強く迫られた世民は、遂に兄弟を誅することを決心し、玄武門の変が起こった。 これにより建成と元吉は死去し、世民が皇太子となった。 (世民としては、最初に建成らに先手を打たせて、その後に応じようとしたが、状況はそれを許さなかった。) また、この2ヶ月後の8月、朝政を厭うようになっていた高祖は世民に国事を託そうとして、帝位を世民に譲ることにした。 世民は固持したが、高祖はこれを許さなかった。 (なお、唐時代の皇帝のことは「〜帝」ではなく「〜宗」と謚号されることになった。)

 高祖も後継者問題で悩んだが、太宗も後継者問題で悩むことになった。 長幼の序より、承乾を太子としたのだが、太宗自身は俊才の泰を寵愛していた。 臣下の中でも、太子には品行に問題があり、泰が太子になるべきだと考える者が多かった。 泰もまた、承乾に代って自分が太子になろうと考えていた。 このため、承乾と泰の仲が険悪になった。
 太子は廃嫡を畏れ、侯君集等と共に造反を謀ろうとした。 この造反を勧めたのは侯君集であった。 侯君集は功臣であったが、叛乱を起こした高昌討伐での処遇に不満があり、太宗を恨むことになった。 というのは、侯君集は西域の高昌を平定したのだが、勝利後、兵による掠奪を阻止しなかったため、これを弾劾されて牢獄に繋がれたからである。 (太宗はこの処遇の過ちを認めたため、すぐに釈放されたが。) しかし、この陰謀は露見して、承乾は廃嫡され、侯君集は死罪となった。
 これにより、太宗は泰を太子に立てようとしたが、これは無忌が諫め、無忌は晋王・李治を立てることを強く請願した。 この根拠は、李治が、仁孝の士という声望が高いことからだった。 遂に、太宗も李治を太子とすることに同意した。 それに、泰が太子となり、帝位に就けば、承乾と治は殺されてしまうことを畏れたからのようだ。 しかし、李治であれば、そのようなことはないだろうと考えた。  642年、高麗で蓋蘇文が造反し、大臣及び王を殺して国の実権を奪った。 (これは大臣等が、凶暴で無法な蓋蘇文を誅しようとしていたからだった。) また、彼は唐にも叛意を示し、唐への朝貢を拒否した。 さらに、隣国の新羅を攻め、領土を奪った。 (これは、隋の高麗討伐の隙に乗じて、新羅が高麗の領土を奪っていたからだった。)
 645年、太宗はその事態を憂慮し、高麗を討伐しようとした。 群臣は高麗親征を諫めたが、太宗は固持した。 高麗遠征は、蓋蘇文を誅して高麗を征するという目的の他には、奪われていた遼東を取り戻すためでもあった。 しかし、戦って勝利を収めたものの、高麗征服には至らず(戦いが長引けば、北国の冬が訪れ、退却を余儀なくされたからだった)、太宗はこの遠征を悔いた。 (なお、この4年後、太宗は53歳で逝去するが、これは多分にこの親政で心身共に衰弱したこと、及び高麗征伐に失敗したことが原因であったと考えられる。 この意味でも、太宗の高麗征伐には問題があった。 内政にさしたる問題がなくなれば、他国の問題に手を出すことになるものだが、これこそが亡国の原因となるものである。 隋の滅亡もそれが引き金となった。)

649年、太宗の後を三代高宗・李治が継いだ。
 太宗の九男。太宗が崩御すると、太子の李治が帝位に就いた。 翌年、王氏を皇后とした。 また、忠を皇太子に立てた。
 655年、王皇后を廃して、武昭儀(武后)を皇后に立てた。 翌年、高宗は皇后の子の弘を皇太子に立て、改元を行なった。 660年、高宗は頭痛などに苦しむようになり、臣下からの上奏は皇后に決裁させるようにもなった。 次第に武后は権力を高め、朝政を専横するようになった。 ある時、儀がそのために皇后を廃することを高宗に告げると、高宗も同意して、この草詔を作成させようとした。 しかし、このことを皇后が知ると、皇后は高宗に弁明したため、高宗はそれを撤回した。 怒った皇后は、儀等が大逆を謀った、と誣告させた。 このため、儀や子の庭芝などが死罪となり、殺された。
 この事件以来、武后は御簾を垂らして背後に控えるようになった。 そして、高宗は全てのことを皇后に尋ね、この意向に従った。
 675年、太子が死去した。
683年、高宗の後を四代中宗・李顕が継いだ。
 高宗の七男。 高宗が崩ずると、太子の李顕が即位し、太子妃の韋氏が皇后となった。 しかし、政治の実権は母の武照が握っていたことから、元皇后・武照は皇太后と尊称されることになった。
 中宗は韋玄貞を侍中にしたがったが、これを中書令となった裴炎が固く諫めた。 中宗は激怒して、「我は天下を韋玄貞へ与えることもできる。どうして侍中程度を惜しむのか!」と言ったことから、裴炎は畏れることになった。 裴炎が皇太后にこのことを密告すると、中宗は廃位させられた(684年2月)。
 後に皇太后が即位し、その後、これが廃されると、宰相の張柬之に擁立されて復位した。 しかし、国政は韋皇后や安楽公主らに専断された。 中宗は韋皇后によって毒殺された。 
684年、中宗の後を五代睿宗・李旦が継いだ。
 高宗の八男。相王。 皇太后が中宗を廃すると、李旦を帝位に就かせた。 しかし、政事は太后が全て決裁した。 睿宗は別殿に住まわされて、政治には全く参与できなかった。 690年、遂に太后が帝位に就いた。
690年、睿宗が退位し、武照(即天武后)が帝位に就いた。
 高宗の皇后、睿宗の母。 高宗時代から、政治の実権を握っていた。 睿宗時代、朝廷内を完全に掌握すると、睿宗を退位させ、自身が帝位に就いた。
 宗族が替わったことから、国名をと替えたが、皇帝に就いた時の年齢は67歳と高齢であったことから、在位は16年くらいと比較的短く、武皇后の廃位後はまた唐に戻ったことから、この周は唐時代に吸収されるようだ。
     太宗時代、民間の秘記として、唐三世の後、女武王が天下を治める、ということが言われていた。 そして、太宗が太史令・李淳風にこのことについて問うと、彼はこの人物は既に宮中に居る、ということを述べた。 武照が帝位に就いたということは、正にそれが実現したということになる。 また、彼は女武王が唐の子孫を殆ど殺し尽くす、ということも述べたが、これもまたその通りになった。 (なお、太宗はその疑わしい人物を探させようとしたが、それでは無辜の者が多く殺されることになるだろうと言われたため、中止した。 確かに、その当時では武照は単なる後宮の私人にすぎなかったのであるから、それと断定するのは困難だったろう。)

     このことからすると、未来というのは予め予定されていて、これを決定づける存在があるということを窺わせる。 この因果応報の原因の一つとなったのは、太宗による兄弟の謀殺だったのではないかと考えられる。

     なお、実際に未来というのは、ある事柄を生起させるような傾向があり、この事柄に関連してある未来が確定的であるとき、それまでの時間が長い程、その事柄が生起する確率が高くなるようであった。 このことは、そうした作用が存在するならば、その事象を生起させるまでに十分な時間がある程、その事象が生起する確率が高くなることになる。 というのは、その作用が存在しても、物体や人などの移動や、物事の変化や状況設定には時間がかかるのであるから、その未来までの時間間隔が短すぎるならば、その事象は起こりにくくなってしまうからである。 もちろん、このことはただ単純に時間間隔と共に増大するというわけではなく、あるピークを持つことになるのだが。
     また、そうした作用があるならば、同じようなことが何度も起こる、あるいはそれを回避しようとしても回避しきれない、ということになるのであるが、正にその傾向が認められる。

 武照は太宗の時に後宮に居た女性で、太宗の死後、他の側室達と共に尼となった。 高宗が武照を見初めたのは、高宗が太子となって太宗のもとへ入侍するようになってからだった。 しかし、武照が尼となってしまったために、高宗は武照と会うことがままならなくなり、悲嘆していた。 このことを知った王后は、武照を還俗させて、後宮に入れるように高宗に勧めた。 これは、高宗の寵愛を受けていた蕭淑妃との仲を裂くのが狙いだった。 ところが、武照が後宮に入ると、高宗は今度は美人で才人でもある武照を寵愛することになり(しかし才人というのは往々にして酷薄であるという欠点があるものだが、武照は上辺だけ取り繕ってこれを隠していたため、高宗はこのことに気付いていなかった)、王后のその目論見は外れた。 こうして、彼女が高宗の寵愛を一身に受けると、皇后の座に就こうと考えるようになった。
 ある時、王后が訪ねてきて、武照の子供をあやした。 王后が退出すると、武照は密かに我が子を絞め殺した。 高宗がやってくると、武照はこれを王后がやったように演技した。 このため、高宗は王后の廃立を考えるようになったが、皇后の廃立は重大事であることから、重臣達の同意を得る必要があった。 そこで、高宗は太尉・長孫無忌に王后の廃立を勧めさせようしたが、無忌はこれに従わなかった。 (なお、無忌が太宗に皇太子として高宗(李治)を勧めた張本人であったから、無忌には頭が上がらなかった。) 結局、高宗の固い決意によって、王后が廃立され、武照が皇后となった。
 この時、王皇后と蕭淑妃は毒殺を謀ったという罪を着せられ、庶民に落された後、幽閉された。 ある時、高宗が彼女等の様子を見に行くと、彼女等が悲惨な状況の中で暮らしているのが分かり、それを憐れんだ。 そこで、王氏は外に出られるようにお願いした。 (なお、陽光を浴びないと往々にしてカルシウム不足に陥り、心身共に衰弱することになるのであるから、それは切実なものであったと考えられる。) 武照がこのことを知ると激怒し(これは嫉妬からと思われる。彼女の嫉妬によって殺された人間が少なくないからである)、人を派遣して、彼女等を杖で叩かせた後、手足を切ってから酒瓶の中に入れさせたため、数日後に亡くなった。 彼女等が亡くなってから、武照は度々その亡霊に悩まされた。 このため、武照は長安を離れ、洛陽に住むことになった。
 武照が皇后になると、このことに反対した者達を粛正した。 これには重臣の無忌も含まれる。 (彼は朝政を臣の意のままにしようとしてか、孝仁であるものの惰弱な李治を太子に推したのであるが、結果的にはそれは自身を滅ぼすことになった。)

 675年、太子の李弘が死去した。 李弘は孝仁な性格であったため衆望を得ていたが、武后はこれを妬んだ。 また、武照の意に沿わないことも多かった。 高宗はそろそろ皇太子に位を譲ろうとしていた頃でもあったので、太子の突然の死に対して、世間では武后によって毒殺されたという噂が広がった。
 李弘が死去したことから、高宗は李賢を皇太子に立てた。 武后は呪術士として明祟儼を頼っていたが、彼は、李賢は天子となるのにふさわしくないと述べた。 祟儼が殺された時、この下手人が見つからなかったが、武后は太子が彼を憎んで殺させたのではないかと疑った。 後に、武后は李賢が造反を企んでいるとして、太子を廃して庶民に落とした(680年)。

 683年、高宗が死去して、太子の李顕(中宗)が即位すると、武照は皇太后と称され、またもや政治を専断した。 まもなく中宗は太后の怒りを買い、在位6週間で廃され、太后はこの弟の李旦(睿宗)を即位させた。 しかし、睿宗は政治に全く参与できず、彼は皇帝という単なる飾り物にすぎなかった。
 太后時代、密告を奨励し、太后に叛意を示す者や造反しようとする者達を悉く粛正した。 また、臣間で怨みを持つ相手を陥れようとして讒訴した。 この結果、多くの大臣が罪を着せられ、殺されたり、流罪となった。 また、唐の宗室の人々も殆ど殺された。 武后は、地位を得たりこの保全のためには無情にも多くの人々を殺したが、これ以外での殺戮は無かった。 このため、帝位と無関係な民衆からは恨まれていなかった。 この意味では、表面的には良政であったという評価も得るのだろう。
 690年、遂に睿宗を退位させて、自ら帝位に就いた(謚号は則天大聖皇帝であるが、一般的には則天武后または武則天と呼ばれる)。 宗室が李氏から武氏に替わったことから、国号を周とした。 こうして念願の皇帝の地位に就き、革命が成し遂げられると、それまでの恐怖政治によって叛意を示す者を悉く粛正してきたことを改め、刑罰が緩くなった。

 太后の晩年、美男の張易之・張昌宗兄弟が太后の寵愛を受け、政事も任された。 彼等は太后の寵愛を恃んで好き勝手に振舞ったことから、朝政は腐敗した。

     しばしば寵姫が亡国の原因となるように、この周は、女性が皇帝の位に就くと容姿だけが取り柄の者(男性)が専横して亡国の原因になる、というよい見本でもあった。
     ということからすれば、亡国の真の原因は彼女あるいは彼等にあるわけではなくて、寵愛する者の機嫌を損ねないように好き勝手な振舞いをさせた側にこそあると考えるべきだろう。 このことは惚れた側の弱みにつけ込まれているのであるから、そのような皇帝は君子たる者ではないのである。 また、恋は盲目と呼ばれるように、太后は張兄弟の言うことを鵜呑みにし、真偽の判断力は全く曇っていた。
     そのように男性社会においてはしばしば(異性である)女性が忌まれるのであるが、これは単に支配する側の性別の問題であるにすぎないだろう。 (君子は少なく、小人が多いのが常なのだから。つまり、容色に優れた者の集合は、知性等においては衆を成すということである。)
 太后が重病となり余命が短いと知ると、張兄弟は朝廷内での人望が薄いことから将来を危ぶみ、その対処を謀議するようになった。 実際、彼等の造反が奏されたが、これは太后によって不問に付された。 したがって、太后が居なくなれば、彼等が誅されるのは必然的であった。 これを回避するためには、彼等が皇帝となり、朝廷内の実権を握るしかないことになる。
 彼等が皇帝の座に就けば、彼等から疎まれている者達が粛正されることになる。 したがって、そのような者や彼等を疎ましく思っている者達が造反を企てることとなった。 宰相の張柬之、崔玄韋、垣彦範、敬暉等が張兄弟を誅しようと謀議した。 そこで、垣彦範、敬暉が造反を太子に告げた。 太子はこれを容認した。
 705年正月、柬之、玄韋等が兵を率いて、玄武門に至った。 また、太子を説得して、これを従えた。 柬之は張兄弟を斬り、彼等は太子と共に太后の居る長生殿まで進んだ。 そして、彦範が太后に、天子の位を太子・李顕に譲るように言った。 太后はこれを受け入れ、太子が復位することになった。 これによって、王朝は武氏から李氏に戻った。
705年、則天武后に替って中宗・李顕が復位し、国号が唐に戻った。
 李顕は高宗と性格がよく似ていて、君子の器ではなかった。 つまり、彼は自分の見識によって物事を決することができなかった。 彼が皇帝に擁立されたのは、単に李朝の後継者ということにすぎなかった。 つまり、世人が彼を皇帝と認めるのに吝かでなかったからにすぎない。
 唐に復帰したものの、太后はまだ健在であり、朝廷内には武氏の勢力が残っていた。 

 中宗は后であった韋氏を皇后とした。 また、韋后との間には安楽、長寧の二公主が生まれていたが、中宗は特に安楽公主を可愛がった。 聡明な方が愚昧な方を操るのが常であるように、また寵愛する者の機嫌を損ねないようにするように(これは愛する者からの愛情を失うことを畏れたものであり、利己的なものである)、中宗もまた高宗と同じく、皇后が政事に参与することになった。 さらに中宗が韋后を事の他頼りとするのは、中宗等が武后によって幽閉されていたことも関係しているようだ。
 武后時代、武三思と武承嗣が重用されていた。 ある者が張柬之等に彼等を除くように言ったが、張柬之等は彼等には大したことができないとして、これを無視した。

     当初の目論見では、張柬之等は、中宗が諸武を誅することを期待したようだが、武后が健在だったのであるから、これは無理なことだったろう。 また、武后によって唐の宗族が殆ど誅されてしまったのであるから、中宗としては武氏等に頼らざるを得ない状況でもあった。 (権力が幅を利かす朝廷内は弱肉強食の世界であり、誰も信用することはできないのであるから。張柬之等が中宗を擁立したのは、単に他に適当な者が居なかったからにすぎない。 自身が帝位に就いていられるためには、朝廷内で絶対的な権力を維持するか、さもなくば朝廷内の権力的バランスに依拠するかの何れかとなるものであるが、中宗の事態は後者の方であり、この場合にはそのバランスが崩れると、帝位の剥奪が容易に起こり得る。) 王朝が同族によって継承されることを考えれば、この事態は実に不安定なものである。 このことは皇后の外戚についても言える。
 後に、三思が韋后に推薦され、韋后と三思によって政事が専断されるようになると、張柬之等は三思に命令されるようになってしまった。 ここに至って、張柬之等は武氏を誅するように中宗に進言したが、これは聞き容れられなかった。 一方、三思の方は、張柬之等が朝廷内で権力を握っていると、自身が誅されることを畏れた。 そこで、彼は張柬之等を各王に取り立てて、朝廷内から排斥した。 そして、朝廷内の百官を武后時代に戻し、武三思が専横した。
 ある者が武三思と皇后が姦通していると奏したが、中宗はこれを無視した。 武三思はこれを逆用して、自身と皇后の醜聞を広めさせた。 そして、この調査が行われ、この首謀者として造反を企てた張柬之等の五人が挙げられることになった。 最初、彼等は死罪を免れたが、結局は殺された。
 706年、重俊を太子にした。 しかし、太子は韋后の子ではなかったため、彼女に忌まれた。 また、武三思も彼を忌んだ。 太子はこれらの不満が昂じ、翌年遂に造反を企てた。 これによって、三思は殺された。 しかし、この乱はすぐに鎮圧され、太子は殺された。
 710年、韋后等の造反が度々上言されたが、中宗はこれらを無視した。 しかし、このようなことがあって韋后等は内心不安に陥った。 このため、韋后と安楽公主等が謀略を図り、中宗を毒殺することになった。 (安楽公主は皇太女となることを中宗に求めたが、認められなかったため、不満があった。)
 その後、子の殤帝を即位させ、韋后は摂政となった。 重臣の多くを韋氏の一族で固めたが、相王・李旦は太尉になることができた。 この経緯は以下のようである。
 中宗が殺された後、太平公主等が偽の遺制を作ったが、この要旨は、皇后を知政事とし、相王・李旦を参謀政事にするというものだった。 (太平公主は武后の娘で、母に性格や素行が似ているため武后から寵愛された。また、睿宗の妹でもある。) しかし、宗楚客はこれに反対して、宗王を太子太師とした。 韋后が摂政となった際に宗王は太尉に昇進した。
710年、中宗の死後、睿宗・李旦が復位した。
 710年、韋后等が中宗を毒殺して、政権を奪った。 韋后と共に造反を謀った、宗楚客は相王を忌み、これを取り除こうとしていた。 しかし、この陰謀は睿宗の子・李隆基(後の玄宗皇帝)が知るところとなり、機先を制して、李隆基が挙兵して、韋氏一族や安楽公主等を誅殺した。 (宗楚客はこの殺戮を逃れたものの、逃走途中に捕まり、斬られた。) この時、宮廷を守るべき万騎もこの謀略に加わったことが、この成功の原因であった。 彼等の造反は、長安令・韋播等が己の権勢を誇示しようとして万騎を虐待していたためだった。 (結局のところ、滅ぶ原因はその者等にあるということになる。)
 この結果、小帝・殤帝は相王(元の睿宗)に帝位を譲ることになった。 また、隆基は平王に封じられた。 睿宗は太子を立てる時、嫡長の成器にするか、それとも大功のある隆基にするか悩んだが、成器がそれを固持したため、隆基が太子となった。
 また、太平公主は李旦の擁立に関与し、韋氏の誅殺にも関与したことから、この権勢が強まった。 睿宗は政事にあまり関心がなかったようで、政令の多くは(睿宗の信頼を一身に受けていた)太平公主や太子から出された。 そのうち、太平公主が朝政を専断するようになった。
 彼女は始め太子が年少の者であるため軽視していたが、そのうち太子の英武を危ぶむようになった。 そこで、太子を廃嫡させようと画策したが、なかなか功を奏しなかった。
 712年、睿宗は太平公主と太子との争いに決着を付けようとしてか、太子に位を譲ることにした。
712年、睿宗の後を六代玄宗・李隆基が継いだ。
 睿宗の三男。帝位を簒奪した韋氏一族を誅殺した功績により、他の諸子を抑えて太子となった。 このとき、睿宗は政事を太平公主に委ねていて、臣下の多くは太平公主の手先の者だった。
 713年、太平公主の党類が造反を企てたが、これは発覚し、太平公主を含む党類が誅殺された。
 716年、玄宗の次男・嗣謙を皇太子に立てた。 (この母は趙麗妃。長男の嗣眞の母は劉華妃だったが、趙麗妃が寵愛されたことから、次男が皇太子となった。 後に、嗣謙は鴻と改名されるが、これはさらに瑛と改名されることになる。 なお、三男は嗣昇であったが、後にこれは浚と改名され、さらに與となった。) しかしながら、即位後は武惠妃が寵愛されるようになり、趙麗妃等の寵愛は薄れた。 惠妃は瑁を産み、玄宗はこれを寵愛した。

 皇后の王氏には子ができなかったことから、玄宗は秘書監の姜皎とこの廃立を謀議したが、姜皎がこれを漏らしたため、彼や親族数人が流罪や死罪となった。 また、王皇后の兄が、子を得て則天武后のようになりますように、と言ったことが発覚したことから、彼は自殺を命じられ、王皇后は廃立された(724年)。 王氏はこの三ヶ月後に死去したが、後宮の人々は王皇后を慕っていたため、大いに悲しんだ。 このため、玄宗はこの廃立を悔いた。

 737年、武惠妃が度々太子等の諸子を讒言していたことや、彼等(瑛、瑤、居)が密謀を語っていたという上奏があったことから、彼等は庶人に落され、流罪となったが、当地に着くと死を賜った。 翌年、三男の與を太子に立てた。 (後に、與は亨に改名された。) 宰相の李林甫が太子として瑁を推薦したが、玄宗は迷った末、年長の與を太子に立てた。

     李林甫は亡国の士であり、己の地位を脅かそうとする者を全て失脚させた。 また、辺境を守る節度使には胡人を採用させ、これによって安禄山が節度使となり、この政策は安禄山の乱の遠因ともなった。
     李林甫が(勇敢だが)書を知らない胡人を用いたのは、節度使が力を得て宰相となることがないようにするためだった。
     李林甫が重用されるようになった経緯は、次のようである。 彼は玄宗の寵愛を受けていた武惠妃に取り入って黄門侍郎に抜擢され、734年には礼部尚書となった。
     玄宗が追従の上手な李林甫を宰相にしようとした時、中書令の張九齢がそれを諫めたが、玄宗は結局、李林甫を寵遇し、張九齢は失脚することになった。

     安禄山の元々の名は阿犖山で、営州生まれの胡人だった。 父が死んだ後、母は子を連れて突厥の安延偃へ嫁いだ。 それで、この姓を取って安禄山という名に変えた。 後に、張守珪の将として仕え、この養子となった。
     また、彼と同郷の者に史「卒」(穴/卒)干という者が居て、年が同じで共に驍勇(ぎょうゆう。強く勇ましいこと)であることからか、似た者同士の彼等は親友となった。 後に、史「卒」干は玄宗より史思明という名を賜う。
     安禄山は狡猾な人間で、本来は驕り昂ぶった者であるものの人によって態度を変え、己よりも上の者に対しては恭謙性を示した。 尤もこのような態度はよくあるものであり、彼だけが例外的というというわけではない。 処世のためには本来の思いを偽わざるを得ないものだからである。 一面だけしか知らない者は表面的な態度を真実と思いこむのである。彼が多くの者から親愛されたのは、上の者に媚びたりするのが格別に上手だったということによるようだ。 ただ、張九齢や李林甫は彼の本質を即座に見抜いた。

 ところで、元太子等の誅殺は寵姫・武惠妃(武后と似て謀略の多い女性)の讒訴から起ったものだが、彼女はこの誅殺の年の暮れに死去した。 このため玄宗は悲嘆に暮れていたが、ある者が寿王・iの妃の楊氏は絶世の美女だということを言った。 玄宗は彼女を大いに気に入ったため、iと離縁させてから宮中に迎え入れ(玄宗にはこのように軽挙なところがあった)、太眞と呼ぶことになった。 まもなく、楊太眞は武惠妃以上に寵愛されるようになった。 後に、楊太眞は楊貴姫と呼ばれるようになる。
 また、楊貴姫の親族が重用されるようになり、この従祖兄の楊サが官吏に推挙された。 彼は李林甫の党類となって、御史へ抜擢され、次第に力を得ることになった。 楊サは張易之の甥で、後に楊国忠と改名された。
 李林甫も晩年になると、流石にこの権勢が弱まってきた。 李林甫が病死すると楊国忠は宰相となったが、彼は軽薄な人間で衆望は薄かった。
 節度使となった安禄山は追従の上手な人間で(しかし実際には狡猾な人間だった)、玄宗や楊貴姫等に非常に寵遇されるようになった。
 安禄山は李林甫に対しては彼を畏れて恭順を示したものの、この死後、宰相となった楊国忠を蔑視して、彼等の仲が悪くなった。 楊国忠は安禄山が造反を企てていると進言したが、これは無視された。 他にもその造反を上奏する者がいたが、それらは全て無視された。
     なお、張九齢は安禄山には反骨の相があると注意していた。 彼の進言は李林甫の場合と同じく正しかったが、玄宗はそれらを正しく捉えることができなかった。 この意味では彼は凡主といえ、玄宗は太宗には全く及ばない人物のようである。 太宗は魏徴の諫言をよく聞き入れることができたが、玄宗は魏徴と似たような人物の張九齢を、皇帝たる己に一々指図する疎ましい人間のように思った。
 754年、楊国忠の試みで、玄宗は安禄山を呼び出したため、安禄山がすぐさま入朝した(これは楊国忠の思惑に反した)。 安禄山は楊国忠に謀殺されることを玄宗に訴えたため、玄宗はこれに深く同情した。 このため安禄山はますます信頼されるようになり、楊国忠のその言葉には耳を貸さなくなった。 安禄山が帰る際、疾風のように帰り、しかも郡県を通過しても下船しなかったため、彼に造反の意があることを言う者がいたが、これは無視されたのみに留まらず牢獄に送られた。 このため、以降このことについて言う者が居なくなった。 (人情は道理よりも尊ばれるということなのだろう。なお、玄宗のその処置によって多くの人々は安禄山の造反を知るようになった。) 安禄山には叛意があったものの、玄宗の寵遇が篤かったことから、造反は玄宗が崩御してから行なうつもりのようであった。 しかし、楊国忠が度々挑発したことから、翌年、遂に安禄山が決起した。 この時、楊国忠討伐という名目の偽りの敕書を作成して、彼の大軍を率いた。 この軍勢は強く、忽ち洛陽にまで兵を進め、これを落した。 しかし、洛陽と長安の間の要所である潼関はなかなか攻め落せなかった。 これを迎え討ったのは哥舒翰だが、まもなく楊国忠は彼の権勢を危ぶむようになった。 そこで、楊国忠は哥舒翰に進軍して洛陽等を奪回するように言った。 哥舒翰はこれに反対で潼関で堅守することを上奏したが、これは認められず、玄宗は楊国忠の意見を容れて、哥舒翰に潼関から出て進軍するように命じた。 結果は、安禄山の軍に大敗した。 賊軍が潼関を破ると、長安に兵を進め、これを陥落した(756年)。

 玄宗は官軍が大敗し、賊軍が潼関を破ったという報を聞くと、京師(けいし。帝王の都のこと)の長安が危ういことを悟り、この対策を講じることになった。 そこで、安禄山の造反を予期していた楊国忠は入蜀を勧めた。 玄宗はこれに同意し、楊国忠、楊貴姫、太子、陳玄禮等を含む玄宗一行が、密かに蜀に向けて旅立つことになった。 (この翌日、宮内では皇帝がいないことに気が付くと、混乱し、人々は四散した。) この逃避行では十分な食糧が得られないため、飢えに苦しんだ。
 馬蒐駅へ到着する頃には、飢えと疲労のせいで将士等は憤怒した。 陳玄禮は、安禄山の乱は楊国忠のせいで起こったとして、彼を誅殺しようと思い、これを太子に伝えたが、太子はこれを躊躇した。 (楊国忠は太子を廃立しようとしていたため、太子が帝位に就くことを畏れていた。太子もまた、楊国忠を畏れていた。)
 ところが将士等が反乱を起し、ある軍士が楊国忠と胡虜が造反を謀っていると言ったため、彼等は楊国忠等を殺した。 このことを知った玄宗は彼等を慰労し、隊に収めようとしたが、これに応じようとしなかった。 それは、随行していた楊貴姫も造反に関っているのではないかと訝ったからである。 また、造反した一族の者をそのままにしておくのは、法的に正しくなかったからである。 そこで、玄宗は仕方なく宦官(高力士)に命じて楊貴姫を殺させた。 これによって将士等は安心し、隊を組んで進むことになった。
 ところが、出発するときに父老達が留まることを請い、都を捨てないようにと言った。 また、多数の衆人が集まってきて、これに取り囲まれた。 そこで、玄宗は太子を残し、民を説得するように言った。 太子が戻ろうとすると、父老達は太子を強く引き留めた。 このため、太子はそこに留ることにし、東進して賊を討って長安と洛陽を取り戻し(なお東より主な古都として洛陽、長安、関中、成都が並ぶ。長安は現在の西安のことで、秦都の咸陽や周都の鎬京もこの付近にあった)、宗廟を復興してから父を迎える、ということを伝えさせた。 この報を聞いた玄宗はこれに同意した。
 太子は玄宗に随従して入蜀することを諦めて馬蒐に留まったものの、これから進んでどこに居を構えればよいのか分からなかった。 そこで、とりあえず北上することになり、霊武(かって存在した郡)に落ち着くことになった。
 玄宗が入蜀して成都に着いた後、霊武から使者がやってきて、太子がそこで即位したことを伝えた。 これは太子が望んだことではなくて、周囲の熱心な勧めにしたがったものだった。 玄宗は高齢となり、政務にも厭きるようになり、帝位を太子に譲ることには何の異存もなかったことから、これを認めた。 (これは、玄宗が安禄山の乱を招いてしまったことを深く恥じていたことが大きいと考えられる。)

 賊軍と官軍との戦いで注目すべきものとして、「隹」(目/隹)陽の戦いがある。 隹陽は米所である華南に通じる要所である。 隹陽を守ることになった官軍の将は張巡だった。 張巡は賊軍による城攻めをその知謀によって何度も撃退したが、城が敵に包囲され続けたことから、遂に兵糧が尽きた。 このため、米に茶や紙、樹皮などを混ぜて食べるようになった。 茶や紙が尽きると、遂に馬を殺して食べた。 馬が尽きると、雀や鼠を捕えて食べた。 これらも尽きると、城内の婦人を殺して食べた。 この後は、子供や老人、病弱な者を殺して食べた。 遂に、賊兵が城壁に登り、城は陥落して張巡は斬られた。

     ここまでして城を守ったというのは驚くべきことであるが、降伏しても皆殺しにされる可能性が高いことを考えれば、結果的には同じことになるのかもしれない。
     しばしば、戦いあるいは戦争は勇を誇ったり義憤を晴らすには効果的であるとしても、この結末はかなり悲惨なものになる可能性が高いものである。 例えば、日本が太平洋戦争に突入する頃、誰が広島、長崎での原爆の悲惨さを予想し得ただろうか。 戦争は勝者側となるか敗者側となるかで様相や心情がまるで異なり、勝ちに乗じている間は戦争の悲惨さを忘れてしまうものである。
     結局、戦争の結果というのは大抵の場合、単に支配層の変化であるにすぎず、この目的というものは支配層における権力基盤の保守であるにすぎないだろう。 もちろん、異民族同士の場合や政治制度が異なる場合にはその限りではないが。
     日本は先の敗戦によって封建的社会から脱して民主的自由社会になり、真に大国の仲間入りになったという意味では、先の大戦は無駄ではなかったとも言える。 (また、間接的ながらもアジアを欧米諸国による植民地化から解放したとも言える。) 強固な内部社会を崩壊させるために、外部の攻撃を自ら誘導するということもあるかもしれない。
 なお、張巡は類稀なる名将だったが、官軍側の臨淮にいた賀蘭進明は彼の援軍要請を断り、隹陽の窮状を無視した。同じ官軍の将でもここまで志が異なるというのも妙なことである。尤も多くの郡県は唐王朝に対する忠誠心は薄かったようで、敗勢となると賊側に降伏したり、逃げ出す者が多かった。

 ところで、安禄山は洛陽陥落後、大燕帝国の建国を宣言し、この皇帝を称したものの、起兵以来次第に目が悪くなり、この頃にはほとんど目が見えなくなった。 このため性格が狂暴となった。 安禄山の子の慶緒は世継ぎに目されていたが、愛妾の段氏が慶恩を産み、彼女はこれを世継ぎにしようとしていた。 これを畏れた安慶緒は、安禄山の謀殺を進言した荘(安禄山の近習で貴ばれていたものの、鞭でよく打たれていたため、彼を憎んでいた)と共にこの寝所に入り、寝ている父を殺した(757年)。 荘はこれを秘して、安禄山が重病になったと告げ、安慶緒を太子に立てた。 次いで安慶緒が帝位に就いた。 安禄山の朋友であった史思明は范陽節度使となった。 しかし、史思明は安慶緒には従うつもりがなかったようで、安慶緒の命令に従わなくなった。
 長安で賊軍が官軍に敗れると、安慶緒は北に逃げ、ギョウ郡に留まり、この地を所領地とした。 また、将等や敗残兵の多くは范陽へ逃げ帰ったが、史思明はこれらを自分の配下にした。 史思明は配下の者に諭されて、もはや安慶緒に従うのは無意味なため、唐に降伏するべきだということに同意した。 そこで、史思明等は安慶緒軍を謀って安慶緒等を捕え、唐に降伏した。
 粛宗はこれを喜んで史思明を范陽節度使とした。 しかし、粛宗の重臣の李光弼等は安禄山と同様に史思明を造反の士と見ていた。 ところで、捕えられていた安慶緒は翌年(758年)に逃げ出し、ギョウ市に戻った。
 李光弼は史思明を見張らせるように粛宗に説き、粛宗はこれに同意した。 そこで史思明に親しまれていた烏承恩がこの目付役となったが、この目的は史思明を除いて代りに自分が范陽節度使となることだった。 日頃の承恩の行動に疑惑を抱いていた史思明はこれを察知し、承恩を捕えて殺した。 そして、再び唐を裏切ることになった。
 安慶緒が官軍に敗れて城を包囲されると、慶緒は仕方なく思明に援軍を求めた。 思明はこれに応じて、官軍を包囲し、日々官軍を弱体させてから、決戦を挑んだ。 決戦の前に突風が吹き荒れ、一寸先も見えなくなったことから、両軍は潰走した。
 この後、慶緒の諸将が思明と会い、援軍に感謝の意を述べたが、慶緒は思明を畏れて会おうとしなかった。 そこで、狡猾な思明は、共に助け会おうということを慶緒に伝えて、自分の陣営に彼を誘った。 慶緒等がやってくると、慶緒を捕えて殺した。 そして、慶緒の領地を奪い、思明が大燕皇帝の座に就いた(759年)。 また、范陽を燕京に改称した。
 この太子には長男の史朝義が立てられたが、思明は末子の史朝清を愛したため、朝義を殺して朝清を太子に立てようと思っていた。 これに危機感を抱いた朝義は、配下の将の悦等の勧めに従い、思明を幽閉した。 悦等は思明が生きている限り衆心が一つにまとまらないことを畏れたため、遂に思明を殺した。 思明が殺されると賊軍は明らかに弱体化し、官軍との戦いでは敗戦となることが多くなった。 762年、遂に朝義も死に追い込まれ、安史の乱は平定した。 この時、唐は粛宗から代宗に代っていた。

756年、玄宗が退位して、七代粛宗・李亨が帝位に就いた。
 玄宗の三男。 安禄山の乱により長安から逃れた玄宗一行は、太子と馬蒐にて分かれることになり、太子はそこから霊武に進み、そこで即位した。 このことを入蜀した玄宗に伝え、玄宗はこれに同意した。
 しかしながら、長安と洛陽の両京は安禄山に奪われていたことから、これらの都を奪取しないことには唐王朝の復権が達成されない。 粛宗による両京の奪還において、最も貢献したのは李泌だった。 彼は李亨の学友で、俊才の誉れが高く、李亨は彼のことを先生と呼んで敬愛していた。 しかし、彼は楊国忠に憎まれたため、地方に隠遁することになった。 李亨が馬蒐から北行するときに使者を派遣して彼を呼び寄させ、霊武にて彼と再会した。 以後、粛宗は何事も彼と協議して、彼の意見に従った。
 彼の言行はまことに正しいものであったが、やはり凡人には理解しがたいものがあった。 粛宗に付き従った女性に張良テイ(女/弟)がいるが、彼女は粛宗のために尽くした為、粛宗に大いに気に入られた。
     唐王朝において彼女もまた女性が禍となった。 しばしば才のある者は内側に狡猾さを秘めていてもそれを隠しているものだが、愛欲に溺れた者はどうしてもそれを認めることができないのである。 男性からすれば女性とはかよわい者と思いがちであるが、これは社会的条件や身体的条件によるものであり、たとえそのような女性であっても、男性と同じように己の方が強い立場に立つならば弱者に対しては傲慢・強気に振る舞うことは珍しくないものである。 これは人間心理として男性も女性も同じということがいえる。
     しかしながら、人間とは智恵があるように見えても遠謀性がないことが多く、弱者が強者に変わり得ることを考えていないことが少なくない。 そのような彼等や彼女らがしばしば禍を受けるのは、辛く当たった弱者が強者に転じてこれから報復されることによるものだろう。
 玄宗が張良テイへ七宝の鞍を賜下したとき、李泌は今は倹約を示すべきだということから、彼女がこれに乗ることはよくないと言い、粛宗はこれに従った。 しかし、彼女にしてみればこれは大いに名誉なことであるから、当然のことながら強い不満を持ち、李泌を恨んだ。 また、粛宗の次男の李炎が粛宗のこの措置を称えたことから、彼もまた彼女に恨まれた。 後に、李炎は彼女等の讒狙によって自殺に追い込まれた。 こうしたことから、長安回復後は、李泌は粛宗の元を去ることになった。 もしこのことがなければ、粛宗の治世は安泰になったことだろう。 (粛宗もまた、玄宗と同じく寵姫を優遇して、己の首を絞めるような結果となった。)

 さて、粛宗は玄宗の許しも得ずに勝手に皇帝の座に就いたのであるが、これは玄宗も同意したことであるし、粛宗もまた父を上皇として尊んだにも関らず、後に玄宗は粛宗によって幽閉されることになったのは何故かという疑問が生じるが、これは以下の事情によるようだ。
 粛宗は高宗と性格が似ていたようで、皇帝として専政するというタイプではなかったようだ。 しかし、世の中には人の上に立ち、他者を自分の意のままに動かすことを好むというタイプの人間がよくいるものである。 このようなタイプには、一見小賢しいタイプの者が多い。 彼等あるいは彼女等は権力に取り入って、その野望を達成しようとするものである。 そのためには、男性であれば自分を卑下し(しかし目下の者あるいは弱者に対して尊大さを示すことが多く、したがってこの態度は表面的なものである)相手の御機嫌を取るということがよく行われる。 また、女性であれば色香によって相手の男性をたぶらかすということがよく行われる。 そうした女性の典型が武后であったが、粛宗もまたその手の女性にたぶらかされることになった。
 張皇后は始め粛宗に慎ましく仕えたが、皇后の座に就きその権力を得るや否や、権力欲に取り憑かれたようで、宦官の李輔国と共に政治を専断するようになった。 李輔国は粛宗に寵遇されたが、これは彼が張皇后に取り入っていたことによるもので、玄宗等からは彼は出自が卑しいことから軽視されていた。 このため、李輔国は玄宗を恨むようになった。 玄宗が蜀から戻るとかっての興慶宮に住むことを好んだが、李輔国が興慶宮は朝廷の近くにあるため玄宗に随従している高力士等が粛宗に不利を謀るだろうと言い、玄宗を興慶宮から西区内に移すことを謀ったが、粛宗はこれを拒んだ。 そこで、李輔国は兵を率いて玄宗を脅すようにして西内の甘露殿へ遷居させた。 (これは李輔国が勝手に粛宗の勅命を騙って行なったことであるが、粛宗は彼が社稷の為に行なったことであるとして、このことを赦した。) また、玄宗の多くの侍従を排除した。
 これ以来、玄宗は鬱々とした日々を過ごすようになり、食欲も落ち、そのうち病気になった。 おそらく、このことには最愛の楊貴姫を失ったことも大いに関係していたと考えられる。 また、粛宗もまもなく病気になったことから、父の処遇の過ちを悟るようになった。 そこで、李輔国を誅殺しようと考えたが、李輔国が兵権を握っていたことから、それを畏れて決断できなかった。
 762年5月、遂に玄宗が崩御した。 この時、粛宗は病気で臥せっていたが、このことを哀しみ、病気が重くなった。 張后は最初は李輔国と共に政治を専断していたが、李輔国が専横するようになってから、両者の仲が悪くなった。 粛宗が死去すると、自分の立場が危うくなることから、李輔国を誅殺することを謀った。 しかし、この謀略に関った元振が李輔国に密告したことから、これは露見し、逆に張后は捕えられて幽閉された。 それから、まもなくして粛宗が崩御したため、後ろ楯が無くなった張后は殺された。
 李輔国は代宗即位後も専横に振る舞ったが、代宗に忌まれていたため、次第に実権を剥奪されていった。 後に、李輔国の邸宅に賊が侵入して、これに殺された。

907年、朱全忠により国を奪われる。
907〜960五代十国 唐滅亡後、979年に宋によって統一されるまで混乱が続く。
この間、華北には後梁→後唐→後晋→後漢→後周の5王朝の興亡が起こった。
960〜1279 960年、後周の趙匡胤が帝位につき、国号を宋とした。
979年、中国を統一。
1127年、金が国都を奪い、(華北の)国号はとなった。
一方、国都を奪われた側は、江南に逃れて臨安(杭州)を国都とした。
宋を受け継いだ華中は南宋と呼ばれ、これ以前のものは北宋と呼ばれることになった。
1271〜1368 モンゴル帝国のフビライが中国に侵攻して、大都(北京)に都を構え、中国を支配した。
1271年、国号を元とした。
1279年、南宋を滅ぼして、中国全土をその支配下に収めた。
1368〜1644 朱元璋(洪武帝)が元を倒し建国した。
1644年、李自成に北京を占領され滅亡した。
1616〜1912 満州に起こった清(もとの国名は後金で1636年に清と改称した)が、明の滅亡に乗じて、北京に遷都した。
1911年、辛亥革命が起り、中華民国が建てられた。
1912年、12世宣統帝(溥儀)が退位して滅んだ。
1912〜1949中華民国 清の滅亡により中華民国が起こった。
1949〜中華人民
共和国
第二次世界大戦の混乱により、国が内部分裂し、共産主義である中華人民共和国が起こった。



補足

1. 謚号・字

 謚号はどのような王であったかを表しているもので、歴代の王は一般に謚号または廟号で呼ばれた。 (皇帝や王など高貴な人が死んで廟が建てられると、この人をおくる名として廟号が与えられた。この場合には、死後は廟号か諡号で呼ばれる。) また、明朝以降では元号が付与されたことから、歴代皇帝は元号で呼ばれることもある。 なお、歴代の王名には同じ謚号を持つことがよくあるが、このことは謚号は王朝や国毎に与えられることによる。

 名前についていえば、中国では性と名が1文字づつで2文字の名前が多い。 また、本名の他に字(通称のこと)も持つ。 字は元服後に名前に因んで付けられる。 (元服とは一人前の人間として認められることで、15〜20才頃、男子は冠礼、女子は笄礼という儀式が行われ、字が父または貴人によって名づけられた。) 例えば劉備という人の場合、字(あざな)は玄徳である。 しばしば劉備玄徳と言われるが、劉備が性で名が玄徳ということではない。 また、本名と字が併記されることはないことより、劉備玄徳というのは正しくない。
 では、なぜ字を持つかということになるが、古代中国では本名で呼び合うのは非礼とされ、本名で呼ぶのは父や君主などの目上の者に限られ、通常は字か官職名で呼ばれていたことによる。 (ただし、字を持ちそのように使用するのは士大夫層のことであり、庶民の場合には字自体を持たないことがある。)

2. 王朝名

 各地の国名などは周時代には確立していた。 そして、各王朝名はそれと関係していることが多い。 つまり、皇帝となった者がどの領地で支配していたかということと関係する。 このことは、他の氏族の者がいきなり皇帝になるということはあり得ないことで、その前の王朝で宰相なり将軍なりの地位に就き、どこかの領地に封じられていたことが多い。 (王朝成立時には権力基盤が固まっていないことより、自分の領地の人々の帰順を支えにしようとするのだと考えられる。)
 各時代においては、そうした王朝名は唯一のものであり、他と区別する必要はないが、歴史的には同一の王朝名が何度も現れることから、それらを区別する必要が生じる。 したがって、歴史的観点からは当時の呼称とは別の呼称が用いられることになる。
 なお、殷は後から付けられた名前であって、当時はと呼ばれていた。

3. 立身出世

 軍人であれば、出自よりも強いことが何よりも優先されることになる。 また、基本的に強い者が国を支配するようになるのであるから、出自が庶民かどうかは無関係となる。 つまり、軍事的能力と政治的能力があれば誰にでも可能なことであるが、軍務や政治は一人の力によってはできないため、集団の中で傑出するようになるか、集団内の容認が必要となる。 一般的には傑出する者は稀であるため、集団内での漸近的変化によって選出されることになる。 つまり、変化が大きすぎる場合には集団内での反抗や反乱を生じさせる原因となるのであるから、それは抑制されることになる。 その点、世襲制は、権力の移行が集団内の一部に限定されることから、より変化の少ないものとなり、世襲制が継続されることになるのだろう。

 近年では、民衆による選挙によって政治家を選出するようになったが、これは近代化によって人民や情報の統制が容易になったことによるだろう。 この選挙というのも、集団内での認知と容認を得ようとするものに他ならない。 また、選挙による選出方法は、広い範囲から政治家を選ぶということであるから、世襲制に比べれば優れた人物(これは平均以上の者ということであり、極めて優れ、しかも善良な者が選ばれるとは限らない)が選出される傾向となるが、これは結果論である。 選挙にはそうした条件は何もないからである。 また、全体の利益を追うという傾向は、全体の利益を喪失させるという傾向も生じさせる。 つまり、全体的な利益を追うということが、結果として全体の利益を損なうという結果に陥ることがよくある。 というのは、利益というのは保存的なものであるから、全体的な利益を追うということは矛盾となり得るからである。 それは国が栄え続ける場合に可能なことであり、一定の水準に達してからそれを行なうとすれば、何等かの損失なしには不可能なこととなる。 また、利益が一部に限定され、固定化されると、民衆のダイナミズムが衰えて国力の衰退を招き、結果として全体の利益を損なうことになる。 また、貨幣価値や資産価値の低下により、全体的に利益を喪失するということもよくある。

4. 九品官制

 後漢末期の220年、魏の尚書の陳グンにより、全ての官職を区分する「九品官人法」が制定された。 これは官職を一品官から九品官まで区分するもので、これによって官職の重要度を表すものとされた。
 これ以前の後漢での官職は給料の多寡で区別されていたことより、この制定は官僚機構の解体と再構築を促すことになった。 したがって、これは以前の旧官僚機構に対して新官僚機構となるものである。 三国時代、(朝廷を有する)魏が制定したこの官僚機構は、蜀や呉も取り入れて、これを模倣した官僚機構を創り上げた。
 旧官僚機構での官制は、一般に三公九卿制と呼ばれるもので、これは大尉・司徒・司空という三人の大臣が全政務を担当し、この下に九卿と呼ばれる九つの主要官庁が置かれ、政治の各部門を担当した。
 新官僚機構では、三公を一品官、九卿を三品官に位置づけて、官僚の序列をより明白にさせた。 しかし、単に序列化を行なっただけでなく、三公の上に、相国(丞相)・太傅・太保・大司馬・大将軍の五上公を置き(五上公も一品官となる)、三公に代る政治の最高責任者を設けたのが大きな特徴である。 なお、司馬というのは武官長という意味のものであり、大司馬や大将軍は軍事面のみならず、実権は政治全般に及んだ。
 三公と五上公には府を開く権利があり、この権利のことは開府儀同三司と呼ばれ、開かれた府のことは幕府と呼ばれる。
 九品官制法のもう一つの特色は、旧官僚機構では九卿の属官であった尚書が一つの独立した官庁となったことである。 この尚書というのは、もともとは皇帝の秘書官にすぎなかったが、次第に三公や九卿から政治の実権を奪い、後漢の頃には中央官庁のようになっていた。 この尚書の最高長官が尚書令である。 なお、他の官職に就いていても尚書令と開府儀同三司を加官されれば、政治の実権を握ることが可能となる。
 側近官の最高長官は待中と呼ばれ、これは三品官となる。この下に、中常待と散騎常待が就き、これらも三品官となる。
 また、詔勅作成を行なう官庁が中書で、この最高長官が中書監となる。

 将軍号の変化について少し詳しく述べると、次のようになる。 旧官僚機構では、三公の位に相当するものとして大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍という四将軍があり、この下に九卿の位に相当する、前将軍・後将軍・右将軍・左将軍の四将軍があった。 この四将軍は、各方面を担当する将軍のことである。
 九人官制法では、大将軍は一品官、驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍は二品官となり、前後左右の四将軍は三品官とされた。 戦乱時代の三国時代では将の数が増えたことことから将軍号を追加する必要が生じ、次のものが追加された。 四征将軍(征東将軍・征南将軍・征西将軍・征北将軍の四将軍。他も同様)、四鎮将軍、四安将軍、四平将軍。 これらは、衛将軍と前将軍の間に割り込まれ、四征将軍と四鎮将軍は二品官、四安将軍と四平将軍は三品官となる。
 二品官の将軍と三品官の将軍との大きな違いとして、前者は軍師を置くことができるのに対して、後者はそれを置くことができない、ということが挙げられる。
 また、四征将軍には都督諸軍事という官職が加官されることがある。 これは軍事権行使地域を示すもので、これが加官された場合、その加官がない驃騎将軍や車騎将軍などは、四征将軍の指揮下に入ることになる。


参考サイト

  1. 通鑑記事本末
  2. 中国史人物辞典