幸福論を読む ラッセルの「幸福論」

第1部 不幸の原因第2部 幸福をもたらすもの
  第1章 何が人びとを不幸にするのか
  第2章 バイロン風の不幸
  第3章 成功のための競争
  第4章 退屈と興奮
  第5章 疲れ過ぎ・神経の疲れ
  第6章 ねたみ
  第7章 罪の意識
  第8章 被害妄想
  第9章 世評に対するおびえ
第10章 幸福はそれでも可能か
第11章 熱意・温かい心
第12章 安心感と愛情
第13章 家族の愛
第14章 仕事
第15章 私心のない興味
第16章 努力とあきらめ
第17章 幸福な人



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幸福論を読む ラッセルの「幸福論」(1)はじめに

 私が読んだ「幸福論」の中でいちばん好きなのは、ラッセルの「幸福論」だ。この本は2部構成になっている。第1部「不幸の原因」と第2部「幸福をもたらすもの」。
 幸福に関する本には、「不幸」について書かれた本が多い。中には「不幸」にならないためには「〜をしてはいけない」で終わってしまうものもある。どうしたらいいかを書いてあっても、精神論や方針に終わってしまう場合がままある。そんな中、ラッセルの「幸福論」は不幸論にとどまらず、幸せになるために大切なことが書いてある。

 何回かに分けてラッセルの「幸福論」を読み直してみようと思う。解説をするつもりはない。「幸せ」についてのヒントを探し、私なりに考えたことを書こうと思う。本自体に興味のある方は「幸福論」(ラッセル/訳・安藤貞雄/岩波文庫)をお読みください。

 私は本を買う時には当然目次を見る。目次の内容がいいと、それだけで買ってしまうことがある。時には期待はずれもある。中身はたいしたことないが、見出しのつけ方がうまい人がいる。そんな時には、目次を楽しむ。目次から内容を想像したり、自分だったらどんなことを書くだろうか考えてみる。
 ラッセルの「幸福論」の目次は、シンプルでわかりやすい。

第1部 不幸の原因      第2部 幸福をもたらすもの
  第1章 何が人びとを不幸にするのか
  第2章 バイロン風の不幸
  第3章 競争
  第4章 退屈と興奮
  第5章 疲れ
  第6章 ねたみ
  第7章 罪の意識
  第8章 被害妄想
  第9章 世評に対するおびえ
第10章 幸福はそれでも可能か
第11章 熱意
第12章 愛情
第13章 家族
第14章 仕事
第15章 私心のない興味
第16章 努力とあきらめ
第17章 幸福な人

 期待できそうな感じがしませんか?
 たぶん、あなたの期待どおりには書けないと思いますが、期待はずれにならないように書きたいと思います。
 では、次回をお楽しみに。


ラッセルの「幸福論」 第1部 不幸の原因

第1章 何が人びとを不幸にするのか
 私は不幸の原因について考えるが、それはあくまでも幸せになる方法を探すためである。不幸についてを主題とした文章は書きたくないと思っている。必ず幸せへのアプローチ法を導き出そうと努めている。
 この章には「不幸の原因は、一部は社会制度の中に、一部は個人の心理の中にある」と書いてある。今はやりのアダルトチルドレン的なことも書いてある。私も不幸について少しは考えさせてもらったが、次の同感した1文の引用のみにしておこうと思う。
「真っ先になすべきことは、幸福は望ましいものだ、ということを納得することである」


第2章 バイロン風の不幸
 幸せについての否定的な考え方は多い。
 自分の感じている幸せを疑う、自分が味わった幸せの価値を低く見る、自分の持っている幸せを楽しむより失うことを恐れる、大きな幸せの中の不幸な部分をあら探しする、明日の幸せを信じない。
 ある程度の幸せを経験しただけで、もうすべての幸せの正体をわかったと思う。幸せなんてこんなものだ、たいしたことはないと思う。そういう幸せしかない人生なんて空しい。挙げ句の果ては、すべての幸せを否定して、生きることの本質は不幸と考える。

 このような考え方をする人がいてもいいけれど、私はそういうふうには考えたくない。楽しくないし、どうせ幸せの一面に対する考え方でしかないと思っているから。なぜなら、幸せはたくさんあるのだ。それをひとまとめにすることは私にはできない。私の経験した幸せなどごくわずかだ。一生かかって感じることのできる幸せもほんの少ししかない。だから私には本当の幸福論は書けない。書いたとしたら、「幸せは星の数ほどある」で終わりだ。

 もしあなたが、自分の幸せについて否定的あるいは悲観的な考えをしていることに気づいたら、「やーめた」と言おう。そのかわりに、楽しいこと、夢のあること、人を喜ばすこと、幸せになることを考えよう。そうすれば、否定的な考えも幸せへのきっかけとなる。「幸せについて

幸せを信じない者は、幸せを損する。



第3章 成功のための競争
「成功」をテーマとした本はほんとうに多い。それには競争がつきものだ。ラッセルの「災いの原因は、幸福の主な源泉として競争して勝つことを強調しすぎる点にある」に、私も同感です。それは成功や競争を否定することではありません。夢を持って生きる場合には、成功を望み、競争することもあります。それらはすべて幸せのためにやっているということを忘れなければいい。そのために不幸にならないようにし、その中で幸せを感じるように心がければいい。
 もう1つラッセルの「私が金から得たいと思うものは、安心して楽しめる余暇である」も私と似ている。私はお金を何よりも自由に時間を使うために費やしたい。ここ数年は費やすばかり。おかげで本当に自由に暮らせて幸せだ。


第4章 退屈と興奮
 私は最近、退屈ということを知らない。やりたいことがたくさんあって、どれを選択するかがうれしい悩みだ。しかし、世の中には「何がやりたいかわからない」という人がたくさんいる。人のやりたいことをその人に教えるわけにはいかない。強いて言うなら「自分の幸せ探し、夢探し、幸せにしたい人探しをしてみたら」。さらに「どうやって?」と聞かれたら、「一生懸命にやってから聞きにきなさい」。
 ラッセルの「幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない」には私は反対だ。「おおむね」とついていても「なければならない」は嫌いだ。私は人生の中でやりたいことがたくさんあるので、静かな生活は望んでいない。静かな生活を望む人はそうすればいい。


第5章  疲れ過ぎ・神経の疲れ
 私は疲れを身体と頭(精神、神経を含む)の2つに分けて考える。疲労回復には休息と栄養を考える。もう1つ、目の疲れを意識する。眠い時、単に目が疲れている場合がある。
 疲れと不調は違う。不調とは機能低下、こり、飽きなどで、休息以外の回復法がある。
 疲れを減らすためには、身体や心の使い方をよくすることと、きたえること。
 使い方で心がけるのは、余計なことをしない、余分な力を使わないで、身体や心に与える負担を減らす工夫をすること。自然な動きがいいのだと思う。
 きたえるためには、さけてばかりいないで、使うこと。身体を動かすこと、考えること。使わないところは退化し弱くなる。
「健康」は私たちの最大の幸福の1つです。そのためには生活の中での1つ1つの工夫が大事です。できれば楽しくやる工夫も。具体的な例を知りたい人は、「しあわせ日記」の中を探してみてください。


第6章 ねたみ
 私は自分のねたみという感情の記憶がない。ただ、負けず嫌いではある。でも、負けても結果はすぐに受け入れることができる。

 ラッセルは「ねたみによって、われとわが身をも不幸にしている。自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人が持っているものから苦しみを引き出している」と書いている。そして、「人間の幸福を増やしたいと思う人はだれでも、賛美の念を増やし、ねたみを減らしたいと願わなければならない」と。"賛美の念"というのは私の頭の中にないものだ。今後、考えてみたい。
 ラッセルはねたみの治療薬を挙げている。まず、「聖者の場合には、無私という治療薬がある」。私は無私とか無欲は好きではない。聖者にも君子にもないたいと思わないから、無視しよう。次に、「普通の男女の場合、ねたみの唯一の治療薬は幸福である」。もっともだが、これだけではもの足りない。さすがにラッセルは「自分のねたみ深い感情の原因を自覚しただけでも、そういう感情を治す方向に大きく一歩踏み出したことになる」。私なら、ねたみを自覚したら、その感情をプラスに働かせる方法はないか、その気づきをいいことをはじめるきっかけにできないか、と考えることをすすめるだろう。

 ねたみとは直接関係ないが、ラッセルはこの章の中で次のようなことも書いている。「他人と比較してものを考える習慣は、致命的な習慣である」「何でも楽しいことが起これば、目いっぱい楽しむべき」「人間の幸福に必須な要素は、単純である」

 ねたみの感情を持った時に最も気をつけなければならないのは、人を落しめることを考えることだ。それは自分を低めることだ。ねたみの感情はできれば自分を高めることに昇華させたい。ねたみを感じたときは自分のほしいものを知るチャンスかもしれない。それなら、自分のほしいものを得られるように努力すればいい。そうでなければ、人の幸せとは違う自分の幸せを求めるエネルギーにしたい。


第7章 罪の意識
 ラッセルは「罪の意識こそ、おとなの生活の不幸の根底にある心理的原因の中で最も重要なものの1つである」、また「罪の意識には何か卑屈なところ、何か自尊心に欠けたところがある」と書いている。
 罪の意識は何を基準に発生するのだろうか。「個人の罪に対する価値観」という言葉は使えそうだが、タイトルをつけたにすぎない。罪と言う言葉からすると法律的な基準が考えられるが、それで苦しむ人はほとんどいないだろう。
 ラッセルは「原因は、ほとんどすべての場合、当人が6歳以前に母親の手から受けた道徳教育である」と書いている。もっともそうではあるが、道徳や常識や良心などの言葉の示す基準は、あまり実感がない。

 私が考えた罪の意識の原因となる大きなものは2つ。1つは、自己の理想。「自分はこうありたい」という観念。それに自分が反した時に持つ罪の意識は大きい。もう1つは、人に対する思いやり。「人を困らせてしまった」「人に迷惑をかけてしまった」というような想い。その人を見る度に想い出してしまう。
 自己の理想も、人に対する思いやりも大切なことだ。しかし、もう2つ大切なものがある。それは、自分に対する思いやりと、自分を守れるやさしくて強い自己だと思う。必要以上に自分を苦しめることはない。そういう自分の状態に早く気づき、「もういいんだよ、自分をせめるのはそのくらいにしておきなさい」と自分で言ってあげられればいいのだが、それは難しいかもしれない。せめて、「まぁいいか」「しょうがない」くらいの言葉でも自分から出てくれば、と思う。

 罪の意識で落ち込むよりも、他にしたほうがいいことがあるはずだ。
 自己の理想のためには、後悔よりも反省が大事で、そのことから何を学かに意識をもっていったほうがいい。それを今後の生き方に活かすために。
 人に対する思いやりのためには、相手に対する謝罪や、以降の相手に対するやさしさなどで償うしかない。本人に償うことができない場合には、他の人に返すしかない。

 また、ラッセルは「罪の意識が特に明瞭になってくるのは、疲れや病気や飲酒その他の原因によって、意識的な意志が弱められたときである」と書いている。こういうことは確かにある。その時に必要なのは休息かもしれない。早く普通の(幸せな)生活に戻ることかもしれない。


第8章 被害妄想
 病的な被害妄想はここでは除く。「私は被害を受けているようだ」程度について考える。
 ラッセルが提示した、被害妄想の適切な予防薬となる4つの公理は、卓見である。
1.あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど
  利他的ではないことを忘れてはいけない。
2.あなた自身の美点を過大評価してはいけない。
3.あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味を
  ほかの人も寄せていると期待してはならない。
4.たいていの人は、あなたを迫害してやろうと特に思うほど
  あなたのことを考えていない。
 これらの考えが自分でできれば、不必要に被害を受けていると思わないで済むだろう。

 自分が被害にあっている、自分は虐げられていると考えることの、いちばん難しい問題はそれが事実かどうかの判断だ。それが事実であり、無視できないほど自分を不幸にするものであった場合には防衛する必要がある。自分を守ることは大切なことだ。
 不幸なのは判断がつかずにあれこれと悩むことだ。悪い想像はイヤな気持ちを増す。できれば「いいように考える」ことで無視したい。その際にはラッセルの4つの公理も役立つ。どうしても無視できない場合には、人に相談するのがいいと思う。

 本当に妄想に近いものなら自分の考え方を変えるべきだが、被害を受けているのが事実なら話は別だ。まずその判断が大事だと思う。


第9章 世評に対するおびえ
 世評に対するおびえの悪いところは、人の目を気にしすぎて自分らしさや自分の好きなことを見失ってしまうことです。何のためにやっているのだろうか、わからなくなる。よく考えてみなければ、それが人の目を恐れていたことには気がつかない。

 ラッセルの「世評に無関心であることは、1つの力であり、同時に幸福の源泉でもある」はもっもではある。しかし、世評を悪いものに限定している。また、世評に無関心なことは非常識な人間をつくる可能性もある。世評を気にするのは程度問題だ。気にしすぎるのも、気にしなさすぎるのも考えものだ。やはり中庸がいいのだろうか。
 私はかつて「人の目」について書いたことがある。
 さすがにラッセルは本質は忘れていない。「私たち自身の深い衝動から生まれてくることが、幸福にとって不可欠である」と書いている。人の目を気にしすぎて、自分のやりたいことを見失ってしまったら、そこには幸せもない。だからといって人の目を気にせず、自分のやりたいことをやれば、そこには問題も生じる。それを受け入れられるのならそれでいいが、そうはいかない場合もある。
 自分のやりたいことで、かつ、人に喜ばれることなら最高だ。そういうものだって探せばあるに違いない。そう信じて一生懸命に探してみよう。反対に、自分のやりたいことを探す際に、「人を幸せにする」ことをヒントに探すのもいいと思う。

ラッセルの「幸福論」 第2部 幸福をもたらすもの

第10章 幸福はそれでも可能か
 第1部で不幸の原因を考察したラッセルは、「幸福はそれでも可能か」と考える。その答えは、もちろんYesだが、さらに、
「幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ」
 私流に書けば、次のようになる。
「幸福の秘訣はこういうことだ。あなたの幸せをできるかぎり幅広く探せ。そして、その際に不幸ではなく、できるだけ幸せを得るようにせよ」
 まず、自ら幸せを求め、探して生きる。その中で、不幸になる考え方をしないようにし、幸せになる考え方をするように心がけ、できるだけ幸せを感じる。
 私の場合には、その基本方針として、かつ、考えるヒントとして、5つの「幸せになる方法」を挙げている。そして、それを生活の中で実践できるように工夫を続けている。


第11章 熱意・温かい心
 この章はラッセルの幸せになる秘訣の根本となる部分だが、なかなかつかみどころが難しい。
「人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなる」
「人生に対して熱意を持っている人は、持っていない人よりも有利な立場にある。不愉快な経験ですら、彼らにはそれなりに役立つ」
「男性にとっても、女性にとっても、熱意こそは幸福と健康の秘訣である」

 この章で言う熱意とは、(自分の)幸福に対する関心、興味、好奇心、望みなどの度合いの強さのようなもの、だと私は解釈した。
 まず第一に、自分の幸せに対する熱い意志と意欲が大事なのだろう。それが、幸せになるための考えと行動に結びつく原動力となる。
 あなたは、自分の幸せに対する熱意を持っているだろうか?


第12章 安心感と愛情
 この章の前半分以上は、愛されていない不幸、愛されなかった不幸について書かれている。そして、後半には与える愛情について書いてある。
「最上のタイプの愛情は、相互に生命を与えあうものだ。
 おのおのが喜びをもって愛情を受け取り、努力なしに愛情を与える」
「お互いを幸福のための手段として見るだけでなく、むしろ、
 1つの幸福を共有する結合体だと感じる愛情は、
 心の幸福の最も重要な要素の1つである」

 残念ながら、具体的な幸せになる方法は見つからなかった。
 愛情が幸せをもたらすものであることは間違いない。
 私は愛情を「幸せになる方法」として「人を幸せにする」ことという表現に変えている。


第13章 家族の愛
 ラッセルがここで言っている家族とは、親になること、子供をつくり育てることである。
「親になることは、心理的には、人生が提供する最大のかつ最も長続きする幸福を与えるものであることは明らかだと思われる」
「個人的に言えば、私自身は、親としての幸福は私の味わった他のどんな幸福よりも大きいと思っている」
 そして、ラッセルは親の立場で子供を育てることについて言及している。
「おとなの側に確信と自信がないことくらい、子供の心に、多くの心配を引き起こすものはない」
「親の側に最初から、子供の人格に対する尊敬の念が必要となる」
 今は子育てに関する情報はたくさん入るが、それを処理する能力が足りない親が多いのかもしれない。だから親が、過度に臆病になったり、過度にきびしくなったり、過度にあまやかしたりしてしまう危険性がある。そういう意味で「心が純粋であるほうがよい」とラッセルは言っているのだろう。

 私も家族というものに幸せがたくさんあることは認めている。子供が与えてくれる幸せの大きさも認めている。
 だからと言って、家族を持たないことが不幸だということではない。世の中には、結婚していない人も、子供のいない夫婦もいる。その人たちがその理由だけで不幸だと言うことはできない。このことについては、武者小路実篤さんの次の言葉を思い出す。
馬鹿な者は、独身の間は結婚した時のよろこびを空想し、結婚すると独身の時のよろこびを空想する
 それぞれの環境に幸せがある。だから、自分のいる環境の幸せ、自分の持っている幸せに目を向けているほうが幸せだ、ということである。
 ちなみに、私は現在結婚していない。今のところ結婚するつもりもない。これは私の人生の選択の一部であり、幸せに生きようと考え上での選択である。私は今幸せであるし、明日の幸せも信じている。


第14章 仕事
 この章のはじめにラッセルは、
「仕事を幸福の原因の1つに数えるべきか、それとも、不幸の原因の1つに数えるべきか」と言っている。
 それならば、既に取り上げてきた「愛情」も「家族」も同様であろう。仕事、恋愛、家庭から得られる幸せは多い。でも、多くの人の不幸は、仕事、恋愛、家庭によるものである。
 私は「不幸を数えて暮らすより、幸せを数えて暮らそう」をモットーにしているので、仕事も恋愛も家庭も多くの幸せを得られるものだと考えている。
 ラッセルは仕事について、次のように書いている。
「仕事は、何よりもまず、退屈の予防策として望ましいものだ」
「仕事をおもしろくする主な要素は、2つある。
 1つは技術を行使すること、もう1つは建設である」

 私は仕事について、「幸せになる方法」の中でこのように書いた。
 人は仕事に費やす時間が多い。だからその時間を幸せと感じられるか、不幸と感じるかでは、一生の幸せの量が大きく違ってしまう。だから、仕事の中で幸せを感じられるように努力することは人生の大事だ。理想としては、仕事の中に夢を持てること。さらに、人の幸せに寄与できたら最高だと思う。そうできるように努力したいと思っている。


第15章 私心のない興味
 ここでラッセルが言っている興味とは、仕事や家庭などの人生の根底をなしている中心的な興味のほかに、いくつかの副次的な興味のことである。そして、ラッセルはこう書いている。
「私心のない興味は、おしなべて気晴らしとして重要であるだけでなく、ほかにも種々の効用がある。
 まず第一に、こういう興味は、釣り合いの感覚を保つのに役立つ。
(次の文は、本文の途中を略して簡潔にした)
 もう1つは、物事がうまくいかないとき、心配の原因以外の何かに興味を寄せることによる気晴らし」

 ここでラッセルが「私心がない」とつけている意味が私にはよくわからなかった。
 興味、好奇心、好きなこと、やりたいことなどは、幸せに結びつくとは思う。

 この章の中でラッセルは次のようなことも言っている。
「不幸に見舞われたときによく耐えるためには、幸福なときに、ある程度広い興味を養っておくのが賢明である」
 私は将来の不幸な時のためには、不幸は幸せに変えることができることを知り、その方法を身につけることだと考えている。


第16章 努力とあきらめ
 ラッセルは、努力とあきらめのバランスが必要であり、中庸を守ることだと書き出している。何でも努力だけで取り組むのも、何でもあきらめてしまうのも問題があるということだ。
 ラッセルは、次のように書いている。
「賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、
 避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう」
「一部の人は、ちょっとしたトラブルでさえじっと我慢することができないが、
 こうしたトラブルも、放置しておけば、生活の中ですこぶる大きな部分を占めるようになる」
 避けられない不幸、ちょっとしたトラブルに多くの時間を費やすより、あきらめたほうがいいと言っている。また、あきらめに関して、
「あきらめには、2つの種類がある。
 1つは絶望に根ざし、もう1つは不屈の希望に根ざすものである」
と言っている。
 私は、前者の絶望して努力をやめることを「あきらめ」と呼び、後者の現実を知った上で次の幸せを目指して努力することを「現実を受け入れる」と呼ぶ。
 努力という言葉は地味な感じがするが、常に自分の幸せを求める姿勢が大事なのだと思う。そういう意味で、自分では変えようのないことや、ささいなことは受け入れて(明きらめて)、絶望せずに(あきらめずに)、自分が幸せになるように考え・行動すればいい。


第17章 幸福な人
 まとめの章。ラッセルは幸福に不可欠なものを挙げている。
「たいていの人の幸福にはいくつかのものが不可欠であるが、それは単純なものだ。すなわち、食と住、健康、愛情、仕事上の成功、そして仲間から尊敬されることである。これらのものが欠けている場合には、例外的な人しか幸福になれない」
 この条件は少しきびしすぎると思う。これでは多くの人が幸せでなくなってしまいそうだ。
[食と住、健康、幸せにしたい人がいる、仕事がある、そしていく人かの友達がいる]くらいでいい思う。
 それでも私には欠けているものがある。こうなったら例外的な人になるしかない。なんだ、それなら最初から条件を考えるより、例外的な人になろうと考えたほうがよかった。条件に関係なく幸せでいられる人になろう。

 ラッセルは愛情についてこう書いている。
「愛情の受け手になることは、幸福の強い原因である。しかし、愛情を要求する人は、愛情を与えられる人ではない。愛情を受ける人は、大まかに言えば、愛情を与える人である」
 また、次のようなことも書いている。
「人間は、自分の情熱と興味が内ではなく外へ向けられているかぎり、幸福をつかめるはずである」
 恐怖、ねたみ、罪の意識、自己へのあわれみ、自画自賛などの自己中心的な情念を避けるように心がけなければならない、とも書いてある。
 自分の「幸せ」について考えていくと、「人の幸せについて考える」ことが大事に思えてくる。それができるようになれば、自己中心的な情念で不幸になることも少なくなる。「人を幸せにすることが自分の幸せだ」と思えるようになると、いっぺんに自分の幸せが増える。幸せになる方法は無数にあることがあらためてわかる。




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