しあわせ日記 『大河の一滴』五木寛之

12月11日(月)『大河の一滴』
 今年のこの日記では、五木寛之さん(の本)に大変お世話になりました。多くの考えるヒントをいただきました。改めて感謝したいと思います。
 今年の締めくくりとして、『大河の一滴』(五木寛之/幻冬舎)を読んでいろいろと考えてみようと思います。
「人は大河の一滴」
 それは小さな一滴の水にすぎないが、大きな水の流れをかたちづくる一滴であり、永遠の時間に向かって動いてゆくリズムの一部なのだと、川の水を眺めながら私にはごく自然にそう感じられるのだった。
 きょう私が思ったのは、「人はちっぽけな存在。でも、貴重な存在」ということです。このようなことは時々考えます。ほとんどは、夜道を歩いている時です。
 空に見える星や月のはるかはるか先まで続く、無限とも思える宇宙の中では、自分なんてごくごくちっぽけな存在。そんな自分が今抱えている問題や悩みもちっぽけな事のはず。だから、そんな事で自分をあんまり苦しめないほうがいい。
 また、自分が今ここにいるということはすごいことなんじゃないか。今ここにいる自分は貴重な存在。だから、もっと自分を大切にしなくちゃ。
 などと考えたりします。

 五木さんの言っている「大河の一滴」って、こういうことなのかなぁ、などと単純に思ったのですが、この本をよく読んでよく考えてみると、きっともっといろんなことがあるんじゃないかな、という気がしています。
 それだけ、この本は深い問題について書かれているのです。
 この本をヒントに、今まで私があまり書いていないようなことがこれから書けたらいいな、と思っています。



12月12日(火)自殺
 『大河の一滴』の書き出しは、
 私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある。最初は中学二年のときで、二度目は作家としてはたらきはじめたあとのことだった。
 という告白です。この本の中には「自殺」という言葉がたびだひ出てきます。

 自殺のニュースを見るたびに私は思います。「もったいないなぁ」と。
 生きていればいろんな幸せを感じられるはずなのに、と。

 「自殺」については、このホームページの中にはほとんど書いていなかったと思います。実を言うと、少し書きかけたことがあります。
 自殺をしてしまうのには、苦しみから逃れたい、希望がない、衝動的なもの、生きる意味がわからない、の4つがあるように思います。

 現在の苦しみから逃れたい、と自殺を考えてしまうことが多いと思います。
 たいへんなつらい現実があるのだと思います。でもきっと、何か方法はあるはずです。自殺をするくらいなら、他にきっと。

 現状から逃れるために、自分の命や人生をやめてしまうくらいなら、他に何かやめてしまったほうがいいものがあるはずです。学校・受験、会社・仕事、人づきあい、住む場所、家庭、・・・。自分の命より大切なものではないはずです。

 “やめる”前に“休む”ことができる場合もあると思います。死ぬくらいなら、思い切ってしばらく休んでしまったほうがいいと思います。休むことで時間ができたら、自分を育てる(幸せになる能力を向上させる)ことに使ったらいいと思います。そのままの自分では、またどこかで同じ事の繰り返しになりがちだと思います。休むことは、自分を育てるいいチャンスだと考えてみてはどうでしょうか。

 時には、何かを“やめる”“休む”勇気も必要なのではないでしょうか。

 続きもいつか書こうと思いますが、・・・。
 いずれにしても『大河の一滴』を読んでよく考えてからのほうがよさそうです。
 この本の中で五木さんは、「自殺なんて絶対にやめなさい」とは書いていません。むしろ、
 自殺するしかない人は、そうすればよいのだ。死のうとしても死ねないときがあるように、生きようと努力してもそういかない場合もあるからである。だが、大河の一滴として自分を空想するようになったとき、私はなにもわざわざ自分で死ぬことはないと自然に感じられるようになってきたのだ。
 『生きるヒント』の中でも感じたことですが、五木さんの「自殺しないでほしい」という思いが『大河の一滴』にはさらに強いような気がします。



12月13日(水)原点ゼロ
 五木さんは、「人生は苦しみと絶望の連続である」と書いています。
 いまこそ私たちは、極限のマイナス地点から出発すべきではないのか。人生は苦しみの連続である。人間というものは、地球と自然にとって悪をなす存在である。人は苦しみ、いやおうなしに老い、すべて病を得て、死んでゆく。私たちは泣きながら生まれてきた。そして最後は孤独のうちに死んでゆくのだ。
 そう覚悟した上で、こう考えてみよう。
「泣きながら生まれてきた」人間が、「笑いながら死んでゆく」ことは、はたしてできないものだろうか。
 「人生は幸せでなければならない」のような思いが強すぎると、不幸な事やイヤな事だけでなく幸せでない事まで、「どうしてこんな事に」「なんで私が」「信じられない」「不幸だ、不幸だ」などと嘆くことになってしまいます。
 そんな時、「人生は苦しみの連続である」と思っていれば、「こんな事は当たり前」「しょうがない」「こういう事もある」(私だったら、「ハオハオ」)のように考えることもできるのではないでしょうか。
 どちらが心にいいか、相対的に幸せか、は明らかだと思います。できれば、より幸せになる考え方を心がけたいものです。

 幸不幸に点数をつけるとしたら、幸せはプラス、不幸はマイナス、幸せでも不幸でもないのが原点ゼロということになりそうですが、本当のゼロというのは何も無いことです。とすれば、私たちは誰もがいっぱい持っているもの(幸せ)があるはずです。そう気づけば、「何か(物)があって幸せ」「誰か(人)がいて幸せ」「何かをすることができて幸せ」「健康で幸せ」「生きていて幸せ」などなどと思うこともできるのではないでしょうか。

 幸不幸の基準・原点が高いと幸せになりにくく不幸になりやすい、ということがあるように思います。原点が高いと減点法の考え方をしがちになります。減点法より加点法のほうがいい、と思います。そのためにも、「原点はゼロ」と考えられたら、と思います。
 また、人は比較することで相対的に幸不幸を決めてしまうこともあります。自分の原点を忘れなければ、比較によって不幸になることを防げるのではないか、と思うのですが。

 「人生は苦しみの連続である」と原点を極限のマイナスに置けば……ということなのですが・・・。
 「人生は苦しみの連続である」と思っていて、幸せに暮らせるのか?
 そう思うことで暗い気分で過ごすことになってしまうのではないか?
 などと、私は考えてしまいました。

 私なりに考えてみた結果は、「人生は苦しみの連続である」というのは不幸な時にそう思えたら、ということです。それ以外の時にわざわざそんなことを思う必要はない。それこそ不幸になる考え方ではないか。ということですが、私にはそううまくは使いこなせないような気がします。
 そこで私だったら、「人生、楽ありゃ苦もあるさ」みたいに、人生には幸せも不幸もある、という当たり前の考えで、「いい事は、好!好! 悪い事は、ハオハオ」と“バカの1つおぼえ”でいきたいと思います。

 五木さんは、ご自身のことでこう書かれています。
 私がこれまで自殺を考えるところまで追いつめられながら、なんとかそこから立ち直ることができたのは、この世はもともと無茶苦茶で、残酷で、苦しみや悲惨にみちみちているものなのだ、と思い返すことができたからだったと思う。
 自殺を考えてしまうような(大きなマイナスの)不幸の時には、極限の(マイナス273度の絶対零度のような)原点ゼロから考えないと、自分を救うことはできないのかもしれません。



12月14日(木)人の価値
 『大河の一滴』の中で、五木さんは「人間の価値」について書かれています。
 私は人間の価値というものを、これまでのように、その人間が人と生まれて努力をしたりがんばったりしてどれだけのことを成し遂げたか──そういう足し算、引き算をして、その人間たちに成功した人生、ほどほどの一生、あるいは失敗した駄目な生涯、というふうに、区分けをすることに疑問をもつようになりました。
 「自分の存在価値」については、私も書いたことがあります。

 私は、誰かに引け目のようなものを感じた時には、「ハオハオ。でもきっと、この人より、私のほうが幸せを感じて生活している」などと考えることがあります。
 私にとっては、どれだけ幸せを感じられるか、がいちばん大切な価値なのです。
 だから、そこだけは「負けていない」と思えれば、あとはいい(ハオハオ)、と思えるのです。
 実際には、相手がどのくらい幸せを感じているかはわからないわけで、私が勝手に「負けていない」と思い込んでいるだけなのですが。でもそう簡単には負けない自信はあります。なんと言っても私は“幸せオタク”ですから。

 本来、人間の価値を判定しようなんていうのが間違っているんだと思います。ましてや、その人間自身を評価するなんて。
 五木さんが書かれているのも、生き方や人生の価値のようです。

 そこで、まず「人の生き方の価値」についてですが、これは人それぞれでいいと言ってしまえばそれまでなのですが。要は、自分が自分の生き方に納得していればそれでいいわけです。
 ではどうしたら、自分の生き方に納得できるか?
 いろいろな方法があると思います。それを自分で考えて、そうできるように努力するしかないと思います。
 私が考えるには、どのような生き方でも自分が幸せに暮らせるようになれば、自分の生き方にもそれなりに納得できるのではないか、ということです。

 もう1つ、「人生の価値」についてですが。
 まず、自分の人生の価値は誰が決めるか? やっぱり「自分」だと思います。
 次に、自分の人生の価値はいつ決めるのでしょうか?
 死んでから決まるのでは自分にとっては意味がないと思います。
 「死ぬ前にいい人生(幸せな人生)だったと言えるように生きたい」と考える人がいます。すごくいいことだと思います。でも、「幸せな人生だった」ことを死ぬ直前にはじめてわかるのでは、せっかくの幸せな人生がもったいない、と思います。もっと早くから、「幸せな人生(の途中)だ」と何度も思えたほうがいい、と思います。それに、死ぬ前に「人生の価値」を考えられる時がないかもしれない、などと私は考えてしまいます。
 私が考える「幸せな人生」とは、

  「日々小さな幸せをいくつも感じ、時々中くらいの幸せを感じ、               たまに大きな幸せを感じられる可能性がある人生

 こんな人生を送れたらいいな、と思っています。
 と、やっぱり私は幸せ・幸せ・幸せとなってしまいます。
 人や場合によっては、幸せ志向が強すぎるかもしれません。

 五木さんは、このように書かれています。
 最近では、人間の値打ちというものは、生きている──この世に生まれて、とにかく生きつづけ、今日まで生きている、そのことにまずあるのであって、生きている人間が何事を成し遂げてきたか、という人生の収支決算は、それはそれで、二番目ぐらいに大事に考えていいのではないだろうか、と思うようになりました。


12月15日(金)幸せはめぐってくる
 「人は大河の一滴」の中には、“輪廻転生”の考え方も含まれています。
 私たちはそれぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に還る。母なる海に抱かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて光と熱に包まれて蒸発し、空へのぼってゆく。そしてふたたび地上へ。
 子供の絵のような幼い比喩だが、私にはそれがたしかに目に見えるような気がするのである。
 人間は「死」というものを免れることはできません。
 「死」について考えることで、不安になったり空しくなったりした経験がある人は多いと思います。そんな「死についての悩み」については書いたことがあります。
 “輪廻転生”という考え方は、「死」に対する幸せになる考え方の1つではないか、などと私は考えてしまいます。「1つの死で終わりではなく、また次の生があり、続いていく」と考えることで安心できるんじゃないか、などと。
 ただ、私には死後や生まれ変わりについては「わからない」ということです。
「♪めぐるめぐるよ 時代は巡る 別れと出逢いを くり返し
   今日は倒れた 旅人たちも 生まれ変わって 歩きだすよ」
 なぜか、この歌が頭に浮かんできました。中島みゆきさんの『時代』です。
 「人生は不幸と幸せのくり返し」という気もします。この『時代』はまさにそれを強く感じさせてくれる歌ですね。
  今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて
  もう二度と 笑顔には なれそうも ないけど
 そんな時もあります。でも、
  そんな時代も あったねと いつか話せる 日が来るわ
  あんな時代も あったねと きっと笑って 話せるわ
  だから今日は くよくよしないで 今日の風に 吹かれましょう
 いいですねー。
 “輪廻転生”を信じることは私にはできませんが、どんなに不幸な時があっても「きっと幸せな時がめぐってくる(はず)」と信じられたら、と思います。
(ダメですよ。幸せな時に「いつか不幸がめぐってくる」なんて不幸になる考え方しちゃ。占いと同じで、「いいことだけを信じる」のが幸せになる方法です)



12月16日(土)今の自分を生きる
 『大河の一滴』の中で、五木さんは〈今〉という時代について、「いまはすさまじい時代」「なんとも大変な時代」、また「これから先も、たいへん生きづらい、むずかしい時代になってくるのだろうと思います」などと書かれています。
 そして、〈今〉は「〈インナー・ウォー〉(心の内戦)の時代」と表現されています。自殺や凶悪事件の増加について、「ふっと衝動的に自分の命を絶ち、また軽々しく他者の命を奪う」「命の重みが実感されなくなった」などとも書かれています。

 私は、幸せにも不幸にもなりやすい時代ではないか、などと考えています。
 幸せになる能力がちょっとつけば、けっこうラクにそれなりに幸せに暮らせると思うのです。でも、不幸になる考え方をしやすい人にとってはつらいことが多いとも思います。
 そんな〈今〉という時代・大河の中でどのようにしたらいいか、五木さんは次のように書かれています。
 大河の水は、ときに澄み、ときに濁る。いや、濁っていることのほうがふつうかもしれない。そのことをただ怒ったり嘆いたりして日を送るのは、はたしてどうなのか。なにか少しでもできることをするしかないのではあるまいか。
 時代が悪い、社会が悪い、国が悪いなどと怒っているだけ。同じように、生まれた家が悪い、親が悪い、まわり(の人)が悪い、運が悪い、いい出会いがない、夢がない、愛がないなどと嘆いているだけ。それだけでは・・・。

 怒ったり嘆いたりしてもいい(ハオハオだ)と思います。でも、それだけで終わるのではなく、「では自分はどうしたいのか?」「それにはどうしたらいいか?」と3Hの考え方ができたら、と思います。
 怒ったり嘆いたりすればイヤな気もちになります。それに気づくことができれば、それをいいきっかけに幸せになる考え方ができます。

 今がどんな時代であっても、自分の境遇や環境がどんなであっても、いろんな事があっても、自分に問題があっても、結局、今の自分(の世界)を生きるしかないのです。その中で自分にできる幸せになる方法は何か? と考え、少しでもできることをするしかないのです。

 そのためには、まず今を大切にして気分よく生活することをおすすめしたいと思います。



12月17日(日)闇を照らす光
 五木さんは「〈インナー・ウォー〉の時代に」の中で、「モノ優先の社会のもろさを図らずも露呈した阪神・淡路大震災」「こんどはオウム真理教による地下鉄サリン事件に遭遇して、〈心〉というのもどうも危ないんじゃないか、と人びとは不安をおぼえされられたのです」「そんな不安な時代のなかで、一時期『ソフィーの世界』という哲学入門の本が百万部以上売れるというようなブームもありました」「そこへ登場したのが『脳内革命』という本でした。これは非常にわかりやすかった」と、その時代の中で人びとが追いかけたもの(幸せ?)をたどっています。

 私は五木さんが書かれたとおりの道を歩いたようです。
 20代の時に車やマンションを買いました(今はもう持っていません)。
 オウム真理教の本は1冊だけ読みました。宗教に関する本はいろいろ読みました。
 『ソフィーの世界』と『脳内革命』は喜んで読みました。

 私は、『幸せになる方法』の書き出しに次のように書きました。
 人生の目的や意義について考えたことのある人は多いと思います。著者もそのためにいろいろな本を読みました。哲学に関する本を読みました。難しくて理解できませんでした。幸福や生き方について書いてある本も読みました。内容はわかったような気がしました。でも、実際に何をすればいいかがわかりませんでした。そこで多くの本を参考にして自分なりにいろいろと方法を考えて工夫し、自ら試してみました。
 今は、時間があったら哲学の本もじっくりと読んでみたいと思います。今ならきっと何かいいヒントを見つけることができるような気がします。
 宗教の本も、脳や人間の身体に関する本も、心理学の本も、人生相談の本も、歴史の本も、・・・いろんな本をいっぱい読んで、幸せになる考え方・方法のヒントにしたい、と本当に思います。
 でも時間があったら、このホームページの整理もしたいし、今まで書き貯めてきたものを集約した本を書きたいし。(今後のことは年末に考え直そうと思っています)

 いろんな“幸せ探し”をしている人も多いと思います。
 私は1つの方法だけで幸せになるより、たくさんの幸せになる方法を身につけられたら、と思っています。だから、いろんな“幸せ探し”の中で、(それをヒントに)自分の幸せになる方法を1つ1つつけ加えていけたら、と思っています。
 そうすれば少しずつ幸せになれるし、1つの方法がうまくいかなくなっても、それでゼロに戻ったり一気に不幸になったりはしないはずです。1つ減るだけで、まだ他にも方法がたくさん残るのですから。

 五木さんは、こう書かれています。
 闇の中で自分を照らし、行く道を照らしてくれる光がいま、欲しいと、みなが本気で願いはじめたのです。
 五木さんは、真っ暗闇の道を照らす光を与えようとしているような気がします。
 私には、まだその能力はないと思います。以前の私なら、自分で心の灯を点して歩き始めるしかない、と考えていたと思います。今の私は、薄暗闇を歩く人を手助けする微かな光を差し伸べることができたら、と思いますがどうしたらいいかは、まだはっきりわかってはいません。
(こういう考えはちょっと“危ない”かな? という気がしないでもありませんが)



12月18日(月)言葉の力
 日曜日の夕方、NHKテレビで「課外授業 ようこそ先輩」という番組をやっていました。この回は、糸井重里さんが母校の小学校に行って「言葉」に関する授業をしました。とても楽しく、また勉強にもなりました。
 その中で糸井さんは「コトバは薬」とも言っていました。

 五木寛之さんも、『大河の一滴』の中で、次のように書かれています。
 人間の傷を癒す言葉には二つあります。ひとつは〈励まし〉であり、ひとつは〈慰め〉です。
 人間はまだ立ちあがれる余力と気力があるときに励まされると、ふたたびつよく立ちあがることができる。
 ところが、もう立ちあがれない、自分はもう駄目だと覚悟してしまった人間には、励ましの言葉など上滑りしてゆくだけです。(中略)
 そのときに大事なことはなにか。それは〈励まし〉ではなく〈慰め〉であり、もっといえば、慈悲の〈悲〉という言葉です。
 そのとおりだと思います。(慈悲の〈悲〉はわかりませんが)
 さらに私が考えるのは、人からの言葉ではなく、自分に対する言葉です。
 人から「頑張れ」と言われても、素直に聞けないことがあります。その相手や状況やタイミングや言い方などによっても、ずいぶん違うと思います。
 でも、自分で「頑張ろう」と言えたとしたら、立ちあがれることも多くなるのではないでしょうか。また、自分ならタイミングや言い方をその時の自分に合わせて工夫することもできます。たとえば、「頑張ろう」よりも「もうちょっとだけ頑張ってみようか」のほうがいい、のようなこともあると思います。

 私は『幸せになる方法』に中で、「○○しよう」という表現をよく使いました。これは“おすすめ”の意味だけでなく、自分へのかけ声として使うことも考えて、そういう書き方をしました。

 このホームページの中には、幸せになる考え方として「○○○」のような具体的な言葉になる考え方を挙げてあることが多いと思います。その言葉を心の中で言うことが幸せになる考え方をする方法になるからです。

 自分の(心・頭の中の)言葉の影響は大きいと思います。人は無意識に何かを考えている時間が多いと思います。その時の気分は考えている内容の影響が大きいと思います。
 だから、幸せになる方法として、不幸になる考え方をしないように幸せになる考え方ができるように、というのが多くなってしまうのだと思います。
 それに、現実を変えるのは努力しても難しいことが多いのですが、考え方を変えることは努力すればできるようになれるんじゃないか、と私は思うのです。

 人の言葉でアタマにきたり傷ついたりもすれば、薬や癒しになる言葉もあるんですね。自分の言葉(考え)で不幸になることも幸せになることも。
 “言葉の力”は大きいとあらためて思いました。だからなおさら、大切にしなければいけないんだ、とつくづく思いました。



12月19日(火)寛容のすすめ
 『大河の一滴』の中で、五木さんは「寛容〈トレランス〉のすすめ」というのを書かれています。
 自己と非自己が、お互いに拒絶せずに、なんとか折りあって生きていこうとする動きを、免疫学で〈寛容=トレランス〉という。

 〈寛容〉とは許すこと、欠点を認めることであり、そして、激励ではなく、慰めであるとぼくは考えます。

 いま、私たちの生活様式自体が画一化されて、その中で順応できない人間は認めないという社会ができあがってきています。それが子供たちに反映していじめのような問題が起きている。そう考えると、親としてはまず自分の画一的でないさまざまな多様性を認めていく考えかたを身につけていかなければならない。世の中にはいろんな人がいていいのだということを、みずから示すようにしなければならないと思うのです。

 物事をこうでなければならないというふうに考えないで、親ができるだけリラックスして、ゆったり生きていれば、そばにいる子供もぴりぴりしないですむのではないでしょうか。
 五木さんの「寛容のすすめ」を読んで、私は、それは次のようなことではないか、と思ってしまいました。
 「こんな事もある」「こういう人もいる」「しょうがない」「まぁいいか」「そのままでいいよ」「なるようになる」「ハオハオ」などと思えること。

 「こうでなければならない」という強い思いが心の中にあると、それとは違う現実と出会った時に、イヤな気もちが強くなります。
 「思い通りにいって当然」「イヤな事があってはならない」「幸せでなければいけない」・・・それは望ましいことですが、思い通りにいかないこと、イヤな事があること、不幸な出来事が現実にあります。
 「人はやさしくなくてはならない」「マナーや礼儀をわきまえなければならない」「悪い事をしてはいけない」・・・これらは当たり前なことですが、世の中には意地悪な人も無礼な人も悪い事をする人もいっぱいいます。
 「できて当たり前」「苦手や欠点があってはいけない」「落ち込んではならない」など意識はしていなくても、そうでない現実・自分を嘆いてしまうこともあります。

 「こうであったらいいな」という思いはあって当然ですが、思い通りにならないことがあるのが現実です。自分の思いと現実の違いを認め、どう折りあって生きていくか、それが幸せに暮らすための大きな課題だと思います。そのために〈寛容〉(私流では「ハオハオ」)が役に立つのではないか、と思いました。



12月20日(水)川の流れのように
 『大河の一滴』(五木寛之/幻冬舎)より。
 私たちの生は、大河の流れの一滴にすぎない。しかし無数の他の一滴たちとともに大きな流れをなして、確実に海へとくだってゆく。高い嶺に登ることだけを夢見て、必死で駆けつづけた戦後の半世紀をふり返りながら、いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還ってゆく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか。
「人はみな大河の一滴」
 ふたたびそこからはじめるしかないと思うのだ。
 私たちは、地球の上で〈今〉という時代の大河の中で生きるしかない。
 海のように広大な大河だ。波もあり、浮くこともあれば沈むこともある。
 濁った大河の中をゆかなければならないのかもしれない。
 河には流れがあり、それに逆らうのは大変で、結局大きな流れには逆らえない。
 河は氾濫することもあるが、川幅は限られていて、外れることはできない。
 でも、反対側が見えないような大河の中には、無限の道があるようなもの。
 水は必ず高い所から低い所に流れ、だんだん流れは穏やかになる。
 そして、いつか、海にたどりつく。

 人生、山あり谷あり。ラクありや苦もあるさ。不幸があってもきっと幸せな時がくる。「不幸はハオハオ。幸せは好!好!」
 逆らえない現実がある。思うようにいかないこともたくさんある。でも、自分しだいでいろいろな可能性があるはず。「現実は現実。○○たらいいな。では、どうしたら?」
 みんな最後は同じ海にたどりつくのかもしれない。だからこそ私は、それまでの道のりを愉しむことを大切にしたい。

 ということで、あらためて五木寛之さんに深く感謝したいと思います。

 2000年12月20日夜、幸せのホームページのカウンタが10万を越えました。とても喜んでいます。まだまだ小川ですが、約4年と4ケ月流れ続けてきたということは大きいことです。それを支えてきていただいた皆さんにも心から感謝いたします。
 そして、これからも川の流れのように末永く続くであろう、このホームページに乞うご期待!

   
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