湖国の山の廃村と過疎集落群 その1

湖国の山の廃村と過疎集落群 その1 滋賀県永源寺町茨川,蛭谷,君ヶ畑

全国の木地師の総本山,君ヶ畑の大皇器地祖神社(通称ロクロ神社)です。



2000/7/20 永源寺町茨川,蛭谷,君ヶ畑

# 9-5
滋賀ツーリングは1泊2日の予定です。今回も堺からバイクを走らせての行程ですが,電車を使えば泊まらずに堺に帰ることができる距離ということもあって(実家の引力というわけですね),宿泊の予定は決めずに名神高速を走ることになりました。
吹田JCTから八日市ICまでは1時間強,2000円。まず大阪からだと多賀町より近い永源寺町を訪ることになりました。
ICからR.421を走ると,1泊1500円という画期的な値段の簡易旅館(簡易旅館というのが怪しい・・・)の看板があり,それも永源寺町の中心部の山上にあるということで,「これはラッキー!」と,まずその旅館の下見をしました。

# 9-6
茨川(Ibarakawa)へは,R.421が一車線になってからしばらく行ったところにある林道(茨川林道)を入って行きます。永源寺ダムより上流の愛知川は,梅雨明けでよいお天気の祭日(海の日)ということもあり,アウトドア好きの家族連れで賑わっています。
全長10.5kmの茨川林道は,ダートながら川(茶屋川)沿いで起伏が少なく景色もよく,オフロードバイクにはもってこいの道です。
林道の終点には駐車スペースと茶屋川の流れがあって,川の向こうに小屋が2軒ほど見えました。裸足になって川を渡り,小屋を見ると「八幡工業高校山岳部」の看板がありました。何でも小学校の分校跡を山小屋として使っているとのことです。


# 9-7
茨川の建物は4軒。大きな錆びたトタン屋根の「名古屋大学ワンゲル小屋」も,村があった頃からの建物の様子です。茨川は標高560m,鈴鹿山脈のまっただ中,すぐ背には藤原岳(標高1100m)ということで,登山好きの人達の中継基地となっているのですね。
ワンゲル小屋の裏手には,潰れた家屋の跡があり,少し進んだ川の向こうには神社の真新しい鳥居が見えました。またまた裸足になって川を渡り,石段を上った神社はまずまず整っていて,時折村に関係する方が手入れされているようでした。茨川でお会いしたのは,ハイキングらしい家族連れとカップルがそれぞれ一組ずつ。夏場は涼しく川も綺麗なので,ハイキングで来られる方も多いようです。


# 9-8
林道沿いに電柱はなく,最後まで電気が引かれなかった茨川の廃村は1965年(昭和40年)とのこと。また,林道の開通は1954年(昭和29年)で,それ以前は川沿いの道はなく,茨川への道は君ヶ畑からか三重県北勢町奥村からの峠越えの山道だけでした。当然つながりはこの両集落と深く,食事に立ち寄った杠葉尾(Yuzurio)の商店のおばさんによると,茨川の住民は,移転の際も多くは三重県に行かれたとのこと。
車道が開通する前と開通後で道筋が変わるのは,むしろ一般的なことで,旧道が草に埋もれて廃道状態となるのもまた一般的です。それでも君ヶ畑方面,北勢町方面(治田峠),ともに道標があるというのは,茨川が登山好きの人達で賑わっていることの証拠といえるでしょう。

# 9-9
R.421を政所(Mandokoro)まで戻り,御池川沿いの県道を上がると,蛭谷(Hirutani)という小集落に着きます。ここには木地師ゆかりの筒井神社と木地師資料館があり,永源寺町のパンフレットでは「アウトドアVS歴史」ということで,大きく取り上げられているのですが,アウトドアの賑わいはうそのように歴史の里は静まりかえっていて,木地師資料館はお休みでした。
「木地師とは何ぞや?」というと,お椀やお盆といったロクロを使った木製品を作る職人のことで,伝説では平安時代に惟喬(Koretaka)親王という皇族がこの地で手引きロクロをあみ出し,その技術が職人とともに全国の山村に浸透したとのこと。


# 9-10
間の抜けた木地師資料館を後にしようと石段を降りていったとき,逆に登ろうとするおじさんが二人。「何か調べものですか」と声をかけられたので,「木地師の里ということで・・・」と会話が始まりました。菅沼晃次郎さんと林田実さん。菅沼さんからいただいた名刺には大津市在住で,滋賀民俗学会会長とありました。この日は筒井神社の祭儀があり,講演をされた後のようでした。
境内に戻って廃村探索のことを話すと,「それは良い趣味やね」との言葉をいただき,弾む話につながりました。蛭谷や君ヶ畑に常住している方の数は家の数より少なく,八日市市近辺に家のある方が時折手入れに足を運んでいることが多いそうです。

# 9-11
「自分の目で見て,耳で聞いたことを文章にまとめるのは楽しい」という菅沼さんのお話には,私も共感するところです。小一時間ほどお話をして,終わりには1960年代から続けられているという月刊誌「民俗文化」をいただきました。
菅沼さん,林田さんと別れてさらに山へ進んで君ヶ畑(Kimigahata)は,山間にしては明るい台地上の地形で,「木地師の里」という立札があります。「木地師ミニ展示館」の前にバイクを置き,大皇器地祖(Ookimikijiso)神社,金龍寺(高松御所)と,惟喬親王ゆかりの古址を歩き回ります。集落で特徴的なトタン貼りのとがった屋根は,萱葺きの上に被されたものの様子です。


# 9-12
まだ新しい分校を越えて,君ヶ畑から先の山に向かう道(御池林道)は全線舗装のよい道で,途中夕方の琵琶湖が綺麗に見下ろせました。
最初の集落の霜ヶ原で,携帯から永源寺町の宿に電話をすると「今日はいっぱいです」とのこと。詰めが甘かったようです。時間は夕方の6時前,宿を探すのも面倒なので,多賀町の中心に出て,近江鉄道多賀大社前駅にバイクを置いて,堺まで帰ることにしました。
高宮までの支線は2両編成で,乗客は私一人だけ。地方の私鉄に乗るというのも珍しい機会なので,遠回りなのですが,新幹線と沿って走る八日市経由のルートで近江八幡まで行きました。多賀大社前駅−新大阪駅は,2時間弱,2100円でした。

(追記) 「まだ新しい」と記した君ヶ畑の分校ですが,その後の調べで1996年より休校,1999年(訪ねた1年前)に閉校となっていたことがわかりました。



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