自治体規模で消えた村(1)

自治体規模で消えた村(1) 〜 岐阜県旧徳山村

旧徳山村本郷で,唯一村があった頃の面影を留める建物の徳山小学校跡です(徳山ダム完成時には水没します)。



# 6-1
日本全国の廃村の数は,国土庁調査による1960年(昭和35年)から1998年(平成10年)までに全国の過疎地域で消滅した集落数1712に,過疎地域以外の数を含めた2000超と思われるのですが,「自治体規模で消えた村」というのはめったにありません。
1948年(昭和28年)に市町村合併が法により促進されて,当時全国に10000近くあった市町村が5年後(1953年)には約3500に統廃合されたのですが(2000年現在の市町村は約3200),1953年現在の約3500の市町村の中から「自治体規模で消えた村」は,私の調べた限りでは全国にただふたつ,ひとつが福井県大野郡西谷村(1970年に消滅),もうひとつが岐阜県揖斐郡徳山(Tokuyama)村(1987年に消滅)です。

# 6-2
徳山村は岐阜県北西部,揖斐川の最上流部にあった村で,徳山本郷,下開田,上開田,山手,櫨原,塚,戸入,門入の八つの集落からなり,面積は255ku,1970年の国勢調査(国調)の人口は1583人でした(公団の看板による戸数は466戸) 。
本郷(徳山村の中心集落)から,R.417を下って隣の藤橋村(中心部)まで20km,最寄の町の揖斐川町(中心部)まで40km,最寄の市の大垣市(市街地)までは52km,かなりの距離なのですが,標高は300m弱ということで案外低く,低いけれども深い山間の村といえます。
また,門入(最奥の集落)は,本郷からさらに15kmも山に入る行止まり集落で,ここに行くのは気合いがいります。

# 6-3
村が消えた理由は,洪水時等の水量調節,水道用水・工業用水の確保を主目的とする徳山ダム(堤高166m,貯水量6.6億トン)の建設です。
1957年に調査が始まり,2000年5月(くしくも私が行った3週間後)にダムの起工式がなされ,完成は2007年の見込みです。実に50年がかりというペースからも,ダム建設の折の紆余曲折のすごさが見えます。
徳山村は1987年4月をもってすべての家が移転して無人となり,藤橋村に編入されました。藤橋村は平地には乏しく,1995年の国調人口は502人。徳山村を編入して面積は324kuもあり,人口密度はわずか1.6人/ku。これは日本一の小ささです。

# 6-4
過去に私は,徳山村には1987年12月(藤橋村→徳山村本郷→馬坂峠→根尾村),1988年11月(同)と,1991年8月(福井県今庄町→高倉峠→徳山村塚→本郷→馬坂峠→根尾村)の3回足を運んでいます。最初に足を運んだときから,徳山村が廃村になっていることは知っていたのですが,ダム建設の動きがはっきりしないこともあって,その後もじっくり回りたいと思い続けていました。
やがてダムの底に沈む徳山村への四度目の訪問は,サクラの花も美しい2000年GWの岐阜・福井ツーリングで実現しました。
ダムの周囲を走ることになるR.417の新道も,じわじわと開通していくようで,起工式にあわせてかなりの距離が開通する様子でした。


【旧徳山村の軌跡】
1.1957年・・・ダム建設のための調査が始まる。
2.1960年代・・・火力発電所の増設のため,ダムの建設の動きが止まる(1960年の国調人口は2294人)。
3.1970年頃・・・深刻な公害問題,工業用水の不足などにより,ダムの建設に追い風が吹く(1970年の国調人口は1583人)。
4.1973年頃・・・高度成長期の終結(オイルショックなど)により,ダムの建設に逆風が吹く。
5.1978年〜1987年・・・村民の移転交渉が進む(1980年の国調人口は1306人)。
6.1987年4月・・・藤橋村に編入され,徳山村は消滅する。
7.1990年代・・・バブルの崩壊,環境問題への関心の高まりなどにより,再びダムの建設に逆風が吹く。
8.2000年5月・・・徳山ダム着工。
9.2007年・・・徳山ダム完成予定(門入を除き,旧徳山村は水没)。



その1 根尾村越波,大河原,黒津 〜旧徳山村の東隣,根尾村奥西谷の風景〜

その2 旧徳山村本郷,下開田,上開田

その3 旧徳山村戸入,門入

その4 旧徳山村山手,櫨原,塚




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