「廃村と過疎の風景(3)」千秋楽

「廃村と過疎の風景(3)」千秋楽 長野県栄村五宝木,飯山市堂平,沓津


丸3年の旅の千秋楽,やっぱりここに戻ってきました。



2008/8/5 栄村五宝木,飯山市堂平,沓津

# 33-1
「廃村(3)」の旅の終わりに「もりあおがえる」を選んだのは,信州・秋山郷の五宝木(Gohougi)と飯山市堂平・沓津に足を運びたかったからです。
秋山郷は「豪雪で孤立した」との話を耳にすることはありますが,その中心地 屋敷にある秋山小学校のへき地等級は5級(S.34)から3級(H.20)に変わっています。また,観光の施設があり,約40戸の戸数があると考えると,秘境度・へき地度は薄く感じます。しかし,「百聞は一見にしかず」です。
五宝木は,「長野県の廃校リスト」の吉川泰さんから「秋山郷の五宝木も廃村かもしれません」という連絡を受けて以来,ずっと気になっていました。住宅地図では8戸ほど記されており,廃村らしき雰囲気はないのですが,これも「百聞は一見にしかず」です。

# 33-2
旅4日目(8月5日(火))の起床は5時頃,天気は晴時々曇。「秋山郷行きは早朝を逃すと難しい」と考えていたので,雨でなかったのは幸運です。
宿を出発して,霧が立ち込める谷間を走って下日出山,上日出山,前倉を過ぎて,まずバイクを降りたのは,R.405沿い 秋山郷の入口(まだ津南町)の大赤沢です。大赤沢には存続する分校(中津小学校大赤沢分校)があり,どんな様子かと思ったのですが,そこには新しいRC造の校舎がありました。
長野県栄村に入って,秋山郷の中心集落 屋敷でも学校に注目したところ,川の流れのそばには大赤沢より大きな新しいRC造の校舎がありました。
秋山郷の秘境度が薄いことは実感できましたが,道中見かけた秋山郷の案内地図には五宝木が記されておらず,五宝木への興味は高まりました。



# 33-3
屋敷を折返し点にして,栄村中心部へ向かう県道を進み,新しいトンネル(五宝木トンネル)を越えると,五宝木の畑や家屋が見えてきました。朝陽が出て間もない五宝木には人の気配はありませんでしたが,軽四輪が停まった家屋があり,いわゆる廃村の雰囲気ではありません。
「分校跡はどこかな」と思い,バイクのスピードを落とし道沿いを観察すると,集落の中心あたりに学び舎の跡の碑と開拓記念碑を見つけました。
秋山小学校五宝木分校は,へき地等級5級,児童数22名(S.34),昭和51年休校,昭和52年閉校。学び舎の跡の碑には「昭和21年,この地に14戸入植」,「五宝木分校 昭和31年開校」,「開校から閉校までの21年間で,若者30名が巣立つ」との旨が記されていました。

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# 33-4
後の調べで,五宝木に住まれる方々は栄村中心部にも家を持ち,冬季間は中心部に移り住むことがわかりました。五宝木は冬季無住集落だったのです。
昭和の頃から関西の廃村を調べられている坂口慶治先生(京都教育大学)の論文では,冬季無住集落は廃村と同義に扱われているので,「廃村千選」でもこれにならっています。かくして五宝木は,25か所目の長野県の廃校廃村として,リスト入りすることになりました
信濃毎日新聞(平成18年1月28日付)には,「五宝木の住民は,3年ほど前から全員11月末から翌年3月末までの4か月間,役場近くに住むようになった」という記事があります。この記事から,五宝木が冬季無住となったのは平成15年頃とうかがえます。

# 33-5
五宝木の滞在時間は30分ほど。戻り道は極野から長瀬を経由して「もりあおがえる」に帰還。ひと動きした後の朝食は美味しいものです。
中島さん夫妻の見送りを受けて「もりあおがえる」を出発したのは朝9時半頃。目指すは「廃村(3)」でいちばん深い縁となった飯山市沓津とその手前の堂平です。再び長野県に入り,千曲川に沿って飯山市街へ向かうR.117は,晴れてきたこともあり快適です。
平成17年8月,初めて訪ねた堂平では地域の方との出会いがあり,通年暮らされる方がいました。しかし,平成18年1月の豪雪で全戸避難し,過疎の進行も相まって同年8月自治区としての機能を停止,平成19年8月には閉村式とは閉村記念碑の除幕が行われたとのこと。


# 33-6
分道を経由して堂平へ向かう道で,まず見出されるのは,赤い屋根の一軒家 堂平分校跡です。飯山小学校堂平分校は,へき地等級2級,児童数42名(S.34)。昭和57年閉校(S.50〜S.57は冬季分校)。3年前には家の前にクルマが停まっていましたが,今回は人の気配は感じられませんでした。
堂平に到着しkeikoと一緒に探索すると,3年前に話したおばあさんが住んでいたと思われる家は,屋根だけ残して潰れていました。
「どこにあるのだろう」と気になっていた閉村記念碑は,火の見やぐらの対面に堂々と建っていました。1月の「熱中時間」ロケで通ったときに見つからなかったのは,雪に埋もれていたからかもしれません。立ってからまだ1年の閉村記念碑は,私の姿が写りこむほど光っていました。

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# 33-7
堂平滞在は10分ほどで,地域の方には出会いませんでした。閉村から間もないという生々しさもあってか,堂平ではのんびりしようとはなりません。
沓津を訪ねるのは実に9回目ですが,バイクで向かうのは3回目。keikoは3年ぶり2回目,廃村へ向かう悪路を走るのにもずいぶん慣れた様子です。 振り返れば「廃村(3)」全33編の旅の記録のうち,keikoと一緒の旅は13編もありました。付き合いの良い妻に感謝です。
堂平から2kmほどの沓津に到着したのは午前11時頃。集落中央の萱葺き屋根の家屋の辺りにバイクを停めて,近辺を探索すると,初めて見る明治時代の馬頭観音の碑が2つも見つかりました。これだけ通っていても新しい発見があるというのは,廃村めぐりの面白みの奥の深さです。


# 33-8
分校跡には,離村記念碑前のほうから訪ねました。秋津小学校沓津分校は,へき地等級2級,児童数17名(S.34),昭和47年閉校(同時期に集落も閉村)。夏に訪ねたのは初めてのとき以来3年ぶりです。馴染みの分校跡の四季の画像は,冊子「廃村(3)」の口絵でも使うことになりました。
兄弟関係の立石分校がある堀越には,今回は行かずです。立石分校を訪ねたのは計4回,私は寂しい風景よりものどかな風景が好きのようです。
こちらも馴染みの離村記念碑にも足を運びご挨拶をすると,碑の「沓津」という文字がぼやけて見えます。「はて?」と思って近づいてみると,文字の彫りのところにクモの巣ができていました。この日訪ねた縁ということで,クモの巣は指で払っておきました。

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# 33-9
萱葺き屋根の家屋前に戻ると,火の見やぐらの方向からラジオの音がかすかに流れてきました。「これは,ご挨拶をしておいたほうがよい」と思い,ふたりで坂を上り火の見やぐらを過ぎると,畑でおじさんが農作業をされていました。
飯山市街に住むおじさん(千葉さん)は通いで耕作をされていますが,お父さんが家屋付きの土地を沓津の方から購入してからの縁なので,神社の例祭には参加されないとのこと。離村後の沓津では,横浜の方が往時の家屋を別荘として買い取り,高級車で通っていたこともあったそうです。「時々知らない人が訪ねてくることがあるが,挨拶をする人はほとんどいない」とのことで,「あんたがたはしっかりしているよ」との言葉をちょうだいしました。


# 33-10
「一緒に写真を撮らせてください」とお願いすると,千葉さんは快く引き受けてくれました。見知らぬ土地での地域の方との出会いは,廃村めぐりの楽しみの大きな要素です。
沓津滞在は1時間10分ほど。「廃村(3)」では人物像は意識的に出さないでまとめてきましたが,最後は千葉さんと私の写真で飾ろうと思います。
千葉さんから3年前の夏にお会いした佐藤さんは「沓津愛郷会の中心人物で,名前はチョウさん」と教えていただくことができたので,いつかチョウさんに連絡を取って,GW頃に行われる神社の例祭には,冊子「廃村(3)」の冊子を持って出かけたいと思います。

(追記) 平成21年2月14日(土),「廃村(3)」の冊子完成にあわせてチョウさん(佐藤長治さん)と連絡をとり,同4月29日(土)の沓津神社の春の例祭(春まつり)には,keikoと2人で出かけました。



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