列島横断 廃校廃村をめぐる旅(2) 長野県天龍村長島宇連,
_____________________泰阜村栃城,川端




高度過疎集落 栃城(Tochijiro)に建つ,往時の雰囲気がそのまま残る分校跡の建物です。


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4/28/2008 天龍村長島宇連,泰阜村栃城,川端

# 27-1
長野県・南信の最南部 天龍村には,ネット上での付き合いは1年ほどになる服部聡央さんという三遠南信の廃校めぐりを趣味とする方が住まれています。手紙でも,設楽町宇連分校の平成5年の写真,旧有本分校の昭和61年の写真,佐久間ダムに沈んだ村のレポートなどを送ってもらいました。
列島横断の旅では服部さんの地元を通るので,「お会いできればいいな」と思い,計画を立てました。一緒にフィールドワークをすることも考えたのですが,28日(月)夕方にJR平岡駅舎併設の「ふれあいステーション龍泉閣」で食事をご一緒する線でまとまりました。
宿泊は「龍泉閣」も考えたのですが,旅の行程などを考慮して,平岡から飯田寄りに4駅目の門島駅にほど近い民宿「門島館」を選びました。

# 27-2
「峠の国盗り綱引き合戦」で有名になった兵越峠(標高1165m)に着いたのは午前10時40分。列島横断の旅のメイン 長野県に到着です。峠の前後は兵越林道というR.152の未通区間の代替路ですが,バイクで走っている分ではR.152との差はあまり感じられません。
旧南信濃村八重河内でR.418,天龍村十方峡で天竜川沿いの県道1号線に入り,この日三つ目の目標 高度過疎集落 長島宇連(Nagashima-ure)には,和知野川キャンプ場近くから脇道に入り,急な坂を上っていきます。2km弱上ると人家が1軒あり,これを過ぎると道はダートになりました。「この先,ほんとに分校跡があるのか」と思うに違いない心細い道です。2km強のダートが舗装道に変わったあたりで,右手に開けた場所が見つかりました。




# 27-3
開けた場所には,古い作業小屋と新しい石碑があり,石碑には「記念碑建立委員会 宇連分校之碑 平成十三年四月二十八日」と記されていました。
平岡小学校宇連分校はへき地等級1級,児童数17名(S.34),昭和55年閉校。最終年度(S.54)の児童数は1名。南伊那の分校の様子は,「谷の賦」(井原留吉さん著,谷の会刊)という写真・エッセイ集に詳しく,その中で宇連分校は「土捨場となった学校」と紹介されています。
石碑はどうやら校舎・校庭が埋められて盛り土された場所に立っている様子です。そのせいか,和知野川の谷を見下ろす風景は,山間にしては明るいものでした。碑の横の作業小屋には「平成13年から」と記された記名簿があったので,名前を記しておきました。


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# 27-4
碑より少し進んだ場所には,教員住宅跡と思われる廃屋がありました。外付けのトイレと風呂は往時の雰囲気をよく残しています。
辺りの探索を終えたのは午後12時半頃。よい時間なので,石碑の横に座って「ふるさと村」で作ってもらった弁当を食べました。1時間ほどの探索の間,ひとり軽トラで地域の方らしき男性と出会いましたが,挨拶をしただけで会話はしませんでした。
現在長島宇連に住まれているのは,分校手前の1戸,分校よりも先の1戸,計2戸の様子です(分校跡の標高は550m)。古い地形図には,文マークのそばには大蛇(Daija)という集落が記されているのですが,分校跡の周囲に集落があったという雰囲気はほとんど感じられませんでした。

# 27-5
長島宇連の次,この日四つ目の目標は,天龍村の北隣 泰阜(Yasuoka)村の高度過疎集落 栃城(Tochijiro)です。和知野川キャンプ場近くから県道1号線に戻り, 泰阜村に入ってJR温田駅前を通り,目指した栃城は,温田駅の少し先から行止まりの道を13kmも入った場所にあります。
暗いトンネルを抜け,すれ違うクルマもほとんどない山中の道を延々走って,栃城にたどり着いたのは午後1時45分。道沿いのアマゴの養魚場の近くにバイクを停めて辺りを見渡すと,丘の上に分校の建物を見つけました。養魚場は稼働していますが人気はなく,1軒の人家にも人影は見当たりません。
「栃城分校」を示す看板があったので道をたどったのですが,分校には沢から這い上がる感じで歩かなければたどり着けませんでした。




# 27-6
泰阜南小学校栃城分校はへき地等級4級,児童数7名(S.34),昭和58年休校,平成19年閉校。最終年度(S.57)の児童数は1名。「谷の賦」では「山の学校の面影を残す学舎」と紹介されており,校舎が表紙を飾っています。休校中ということで,本校や地域の方により手入れされている様子です。
「谷の賦」発刊から10年強経ち,休校が閉校に変わり,「どんな様子だろう」と思い見てみたところ,入口右側の「アマゴに乗った政善」という石膏像,「太郎と花子」という表札があるウサギ小屋が,往時の様子のままに残されていました。入口からガラス越しに教室を覗くと,ハンドベルが置かれた教卓,オルガン,政善君の机と椅子が残されていました。また,入口左側の掲示板には,「政善君と先生のさいごの勉強の日です」と書かれていました。


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# 27-7
栃城の標高は約700m。「谷の賦」には戸数は大正9年には21戸とありますが,養蚕業の衰退,満州移民などで,昭和30年には6戸に減少していたようです。しかし,アマゴの養殖が根付いた栃城の雰囲気に,廃村という言葉は似合いません。集落に仕事があることの重要さがよくわかります。
分校を後にして,「誰かいないかな」と地域改善センター兼出張診療所,栩城神社のほうへ足を向けると,上手のアマゴの養魚場のところに若い男性がいたので「こんにちは」とご挨拶。お話しをすると,男性は分校最後の児童 政善君ということで,びっくりです。
「分校跡を訪ねてきました」と話すと,分校にいたのは小学3年生までとのことなので,計算すると政善君は三十代半ばになります。

# 27-8
栃城に点在する家屋は5戸で,雪は歩くのに不自由しないぐらいしか降らないとのこと。また,出張診療所には医者が月に一度診察に来て,地域改善センターはそれにあわせて集会所として使われているとのこと。政善君にゆっくり丁寧に話してもらったひとときは,とても印象深いものでした。
栃城の次,この日最後(五つ目)の目標は,泰阜村の廃村 川端(Kawabata)です。栃城と川端を結ぶ山道(距離は6kmほど)は,廃道になって久しく,現在栃城から川端に行くには,温田駅近くの県道1号線分岐までに戻り,万古渓谷へ向かう道をたどって、22kmも走らなければなりません。
カルシウム鉱山跡を過ぎて,下った万古川の渓谷はとても深く,橋を渡って少し先,川端集落跡が始まる廃屋より先の道はダートになっていました。



# 27-9
川端到着は午後3時10分頃。標高は480mほどですが,険しい山間の谷底です。今の様子からは,戦前の最盛期には16戸の暮らしがあったとは思えません。
泰阜南小学校川端分校はへき地等級3級,児童数17名(S.34),昭和47年休校,平成2年閉校。最終年度(S.46)の児童数は1名。「谷の賦」では「民間の別荘となった学校跡」と紹介されています。分校跡はダートを少し走って右手の別荘が建つ場所です。探索では,往時の石垣が見つかりました。
さらに進むと車道の終点があり,その先の渓谷沿いには二軒屋キャンプ場がありました。キャンプ場の少し先には,二軒屋の地名に由来する二軒の無人の家屋があり,うち一戸は雨戸が閉まり,管理されている様子でしたが,もう一戸は雨戸がすべて外されて,中はガランドウになっていました。

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# 27-10
二軒屋を含む川端を探索した1時間弱の間,人には誰にも出会いませんでした。もっとも吊り橋の踏み板は真新しく,手入れの感じからすると,夏は納涼で賑わうのかもしれません。吊り橋でひとり川景色を見ていると,日は山に隠れそうになっていました。
川端からこの日の泊まりの民宿「門島館」までは8kmほどで,門島到着は午後4時半頃。「門島館」で迎えてくれたのは,すごく丁寧な宿主のおばあさん。宿泊客は私ひとりで,親戚のおばあさんのところを訪ねたような気分です。この日の走行距離は146km。時間があったので,風呂に入って一服です。
「門島館」からJR門島駅までは歩いて5分。飯田線に乗るのは初めてです。夕方の豊橋行き1両編成の電車は,通学帰りの高校生で賑わっていました。

# 27-11
JR平岡駅着は夕方6時40分頃。改札を出てしばらく待っていると服部さんも到着。「もしかするとだいぶ年配の方かも」とも思った服部さんは,私とほぼ同年代の方でした。服部さんは三遠南信の廃校について,たくさんの資料と写真を持ってきてくれました。どうもありがとうございます。
服部さんによると,川端のガランドウの廃屋は昭和初期に建てられたもので,家屋をできるだけ長持ちさせるためにあの形になっているとのこと。
しばし「ふれあいステーション龍泉閣」のレストランで歓談し,帰りの天竜峡行きの平岡駅発は夜9時39分(最終電車)。真新しい4両編成の電車の乗客は私を含めて2人だけ。人気のない門島駅前では電話ボックスを見て「なぜ田舎の公衆電話の明かりは緑色なんだろう」と思ったりしました。


(追記) 佐久間ダム(昭和31年竣工)の建設で生じた廃村 愛知県豊根村分地,富山村山中・佐太にも分校がありましたが,閉校時期が昭和34年3月以前のため,リストには入っていません。昭和34年を区切りとしているのは,「へき地学校名簿」のデータが昭和34年のものだからなのですが,「廃村(3)」の冊子の発行(平成21年)は50年目になるので,ちょうどよい区切りとなりました。




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