遠州・「熱中時間」で寒中廃村ツーリング 静岡県浜松市天竜区新開,
_________________有本,大嵐,峠




廃村 有本(Arimoto)の神社(日月神社)の鳥居です。




1/18〜20/2008 浜松市天竜区(旧龍山村)新開,(旧水窪町)有本,大嵐,峠

# 25-1
「熱中時間」のロケは全部で8日間。峰,沓津に続いて,江戸東京博物館(京都精華大学での廃村の講義のプレ講義,1/13(土)),自宅(1/14(日)),国会図書館(1/17(木)),遠州ツーリング(1/18(金)〜20(日))の順で行われました。その間,大学の講義が1/16(水)にあったので,1/17(木)は,朝9時頃に大阪を出て,午後から神楽坂の会社に出勤し,仕事後にスーツで国会図書館に向かいました(大学の講義の年休消化は1日半)。
遠州ツーリングは「熱中時間」の現地ロケのハイライトです。大寒の頃,私が足を運んでいなくて,「是非訪ねたい」と思うところで,比較的東京から近くて雪がないという廃校廃村は,遠州・旧水窪町峠(Touge)・有本(Arimoto)・大嵐(Oozore)ぐらいです(ツーリングの年休消化は1日)。

# 25-2
その中で有本は,平成13年夏に地形図・住宅地図で見つけて以来,山の緩斜面に空き家が記された様子がいかにも廃村らしくて,ずっと訪ねてみたかった場所です。平成19年5月に旧水窪町河内浦・門谷を訪ねたときも,有本は時間が足りなかったため次回まわしとなっていました。
水窪へのアプローチは,大阪から豊橋経由,佐久間からレンタカーを借りて訪ねる,大阪もしくは東京から浜松経由,浜松でレンタバイクを借りて訪ねるなども考え,スケジュールを立てました。しかし,国会図書館ロケで大阪から一度東京に戻ることになったので,「それなら,浦和からバイクで出かけましょう」と覚悟を決めました。私のバイク歴は20年を越えますが,大寒の頃に泊まりがけのツーリングに出かけるのは今回が初めてです。

# 25-3
宿は,1/18(金)は旧龍山村新開(Shinkai)の「ペンションふるさと村」,1/19(土)は旧水窪町二瀬の山王峡温泉「しらかば荘」に決めました。「ペンションふるさと村」は,かつて分校もあった林業集落跡に建つ山の中の一軒宿で,新開も探索すると,静岡県の「廃校廃村・高度過疎集落」7ヶ所をすべて訪ねることになります。「しらかば荘」は,峠・有本・大嵐のほど近くにあるため,「訪ねるならばここしかない」という立地条件です。
こうして,2泊3日・TVロケの寒中ツーリングの行程が決まりました。厳しいスケジュール,厳しい気候の中でのツーリングですが,初めてづくしの旅には期待も多く,楽しめることは間違いなさそうです。スタッフもロケハンは行っておらず,筋書きはないに等しいぶっつけ本番です。

# 25-4
出発当日(1月18日(金))は,寒いながらも天気は快晴。「出発のシーンを撮影する」というスタッフと待ち合わせて,keikoの見送りを受けてなじみのバイク BAJAで南浦和を出発したのは午前8時45分頃。途中,首都高・赤坂あたりで見たビルの温度表示は0度とありました。
東名は,海老名,足柄,富士川,牧ノ原と,SAごとに短い休憩を取りながら走り,掛川ICに到着したのは午後2時頃。途中,バイクはほどんど見かけませんでしたが,革ジャンの上からカッパを着るという厚着の効果もあり,まずまずのペースで走ることができました。旧天竜市二俣のGSでうかがった温度は12度。R.152から脇に入った山道では,高誉(Takayo)と書かれた自主防災組織の倉庫があり,古い家屋も見られたので,小休止をしました。




# 25-5
スタッフはディレクター(鹿島さん),カメラの方(今野さん),音声の方(小島さん),アシスタント(細川さん)の4人組。ロケにも慣れてきて,小休止の間にカメラが回っていても,余裕で対応ができます。狭い山道ではバイクの機動性は光り,「BAJAで来てよかった」と思うことしきりです。
最初の目標 新開到着は午後4時少し前。この日の走行距離は305km。「ペンションふるさと村」のご主人 小川博義さんは旧天竜市出身の方で,地域の歴史を詳しく調べられており,新開の林業集落跡についてもファイルを整理されていました。小川さんによると,「かつて住まれていた方が訪ねられることがあり,往時の写真などをいただいたり,地図を書いてもらったり,そんな資料をまとめているとファイルができた」とのこと。

# 25-6
「往時の雰囲気が残ったところはありますか」と尋ねると,「ご案内しましょう」と嬉しいお返事。往時からかかる旧明善橋,分校跡,燃料倉庫の跡,道の脇の茂みに潜む往時からの植木鉢などを一緒に見歩きましたが,案内がないとまず見つけることはできない植木鉢は,強く印象に残りました。
瀬尻小学校高誉分校はへき地等級3級,児童数28名(S.34),昭和36年閉校。高誉は,新開と1km強離れた小集落 旧開の総称です。整地が施された分校跡には「金原明善顕彰碑」という碑が立つだけで,往時の雰囲気は残されていません。小川さんから「ここに大きなモミの木があった」という話をうかがうと,「もったいないですね」という言葉が出てきました。分校跡と宿の間にかかる旧明善橋は,整地の盛り土に埋もれた感じで残っていました。


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# 25-7
金原明善は,天竜川の治水,流域の植林事業などを手がけた明治・大正期の実業家です。小川さんの話によると,新開の開拓は明善の手によるもので,往時は明善の別宅があり,森林鉄道が走っていたのこと。顕彰碑は,整地が施されたときに天竜川沿いから移動されたとのことです。
新開はその標高(600m)から冬に訪ねるには不向きな場所かもと思ったのですが,冬でもめったに雪は積もらないとのこと。さすが温暖な静岡県です。
2日目(1月19日(土))の起床は朝6時。天気は晴れ。宿の上流側の防災倉庫がある場所には使われている様子の森林管理署の作業小屋が建っていました。さらに上流の山神社は整然としており,村の神様にご挨拶。小川さんに尋ねたところ,今は森林管理署の方が手入れされているとのこと。

# 25-8
意外に見所が多かった新開を出発するとき,「今日のロケは有本と大嵐に絞ろう」と決まりました。途中,不動の滝での小休止では,バイクが走る様子を今野さんがロケバスの屋根の上に登って撮ってくれました。水窪市街は通過して,二瀬からは白倉川沿いの道(林道白倉山線)を走ります。
二番目の目標 有本に到着したのは午前11時20分。車道は集落跡の入口までです。入口そばの住宅地図に記された唯一の家にも人気はありません。緩やかな斜面の歩道を上がっていくと,標高650m,南向きの斜面の日当たりはとてもよく,見晴らしも利いて,立体感があります。整えられた茶畑に交じって,ススキに埋もれた畑の跡も見られます。大きな母屋やレンガ作りの蔵,火の見やぐらなども見られましたが,人気はまったくありません。


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# 25-9
神社の手前の平屋建ての廃屋の側面には,赤いホース収納箱とともに扉が付いた空の木の箱が付けられていました。「これは公民館跡で,箱の中には公衆電話が入っていたんじゃないかな」とスタッフに説明すると,鹿島さんから「よい表情が出ていますね」と声がかかりました。
しめ縄が飾られた鳥居をくぐって神社を訪ね,村の神様にご挨拶をして近くの草に埋もれた廃屋をのぞくと,大きなTVと目が合いました。
地形図を見ると,分校跡は公民館風の建物より少し上手にある様子です。「行きましょう」と意気込んで,坂を上り詰めてたどり着いた分校跡を見込んだ場所には,二段になった敷地があるのみでした。なぜか敷地の真ん中には蛇口があって,ひねると水が出てきました。


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# 25-10
水窪小学校有本分校はへき地等級2級,児童数29名(S.34),昭和46年休校。30年間の休校を経て平成13年閉校。東側に1kmほど離れた分校の通学区域と思われる 大寄も,住宅地図を見ると今は無人の様子です。二段の敷地の上のほうは小じんまりとしたもので,どうやら教職員住宅の跡地のようです。
「何か痕跡はないものかな」と敷地の縁を見回すと,門柱跡らしき一対の四角いコンクリートの土台を見つけることができました。枯木をはらって,門柱跡に続くコンクリートの段に佇むと,ここに子供たちが集って賑わっていた頃の様子を想像することができました。「訪ねてきてよかった」と思えるひとときです。門柱から下手へ続く道は荒れており,枯草をかき分けて進むと,先には昔ながらのかまどがある大きな廃屋が残っていました。

# 25-11
三番目に目指した大嵐は,白倉山林道沿い最奥の集落です。標高720m,大嵐の住宅地図に記された家屋は3戸ですが,分校跡がそのまま残されています。
林道白倉山線にある大嵐バス停に到着したのは午後2時20分(有本−大嵐は約4km)。バスは週に2日(火・金),2便だけ走るコミュニティバスで大嵐が終点。周辺には廃屋があるだけのバス停近くにバイクとロケバスを停めて,車道を歩いて上がっていくと,10分ほどで大嵐分校跡に到着しました。
水窪小学校大嵐分校はへき地等級4級,児童数56名(S.34),昭和60年休校。19年間の休校を経て平成16年閉校。近くの小集落 時原,針間野,桐山も通学区域でしたが,時原,針間野,桐山とも住宅地図に記された家屋は1戸もしくは2戸で,人気はほとんどなさそうです。

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# 25-12
大嵐分校跡でも敷地は二段になっており,上が教員住宅の跡の様子です。教職員住宅には,私と同じぐらいの年配の方(福田さん)が住まれており,ご挨拶。分校跡や集落について話を伺うと,職員室跡が自治会の集会施設として使われているとのこと。
また,神社は時原か草木までいかなければないとのことで,「村の神様へのご挨拶」にこだわり,谷向かいの時原に出かけることになりました。時原へ向かう道では山の中腹にある大嵐集落の遠景がよく見える場所があり,スタッフはこれが気に入った様子です。神社は目立たないものでしたが,その横の大きな二階建ての閉ざされた家屋には趣があり,「カイコが飼われていたのでは」と探索したひとこまは,番組の冒頭で取り上げられました。

# 25-13
夕方5時頃には周囲は暗くなり,ロケは終了です。スタッフとは大嵐バス停前で別れ,「しらかば荘」には単独で泊まりました。「スタッフの分まで部屋が取れなかったから」とのことでしたが,ひとりで過ごす夜は落ち着くにはよかったように思います。この日の走行距離は67kmでした。
この日,宿に泊まっていたのは和歌山からの土木作業の方々。温泉という看板が上がっているものの,泊まられるのは作業の方が主のようです。
3日目(1月20日(日))の起床は朝6時半。天気は晴れ時々曇ですが,天気は午後から下り坂とのこと。8時にスタッフと合流し,まず有本を再訪しました。有本では老夫婦の姿が見られたので,挨拶をしてお話しを伺うと,家は水窪市街にあり,この日は山仕事をするため来られたとのこと。

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# 25-14
続いて大嵐も再訪し,前日できなかった分校跡の撮影などを行われました。今も地域の集会所として活用され,電灯が点く分校跡は,高度過疎集落ではあまり見られないもののように思います。特に,廊下や宿直室には往時の雰囲気がよく残り,味わい深かったです。あと,干からびたハエ取り紙がいい味を醸し出していました。撮影を始めてしばらくすると,教住の福田さんが「こんなものが見つかった」とハンドベルを持ってきてくれました。
もうひとつ,大嵐で気になっていたのが住宅地図に載っていた柱本商店です。「どんな様子だろう」と訪ねたのですが,店は閉ざされていました。福田さんによると,店主のおばあさんは昨年 水窪市街に越されたとのこと。なぜか店の入口脇には,分校で使われていたと思われる椅子が置かれていました。


# 25-15
商店跡の前で行われた〆をイメージした撮影では,「浅原さんにとって廃村めぐりとは」というスタッフの問いに,「古き良きものをなつかしがるのではなく,これからの暮らしを考える上で,何かのヒントを見つけることができると嬉しい」など,いくつかのことを答えたのですが,番組の〆は「今後の夢は」というナレータ―(田山涼成さんという俳優)の問いに,有本で何気なく話した「全県制覇が大きな目標」と答える形で作られていました。
スタッフとは大嵐で別れ,最後の目標となった峠には単独で出かけました。地双橋から脇道に入り坂を上り,峠の分校跡と推測した場所に到着したのは午前11時15分。そこは野外活動の施設の跡で分校跡ではありませんでしたが,到着したとき,いつもの廃村探索の雰囲気に戻ったことを感じました。

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# 25-16
古い地形図,住宅地図で確認すると,野外活動の施設は「水窪自然クラブセンター」のようで,文マークはそれよりも南側に記されています。
峠は山の稜線にある小集落で,標高800m。日影には雪がちらほら積もっています。今の住宅地図に記された峠の家屋は2戸。「誰かいないかな」とバイクを停めて家を訪ねると,1戸は長らく閉ざされている様子で,もう1戸は留守のようでした。
しかたがないので,古い地形図を頼りに山道を下っていくと,神社の裏手に到着しました。住宅地図には八坂神社とあり,山の中にしては大きな神社です。「このあたりが学校跡のはず」と境内を見回すと,「水窪小学校大地分教場跡地」という石碑が見つかりました。

# 25-17
水窪小学校大地(Oodi)分校はへき地等級2級,児童数93名(S.34),昭和45年休校。8年間の休校を経て昭和53年閉校。峠は小さな集落なのに児童数が多いのは,二瀬,地双,下田,両久頭,小又,瀬戸尻,根,戸中といった小集落がすべて通学区域にあったためと思われます。このうち,両久頭,小又,瀬戸尻は水窪ダム(昭和44年竣工)の湖底に沈み,根,戸中は無人化し,二瀬,地双,下田とも住宅地図に記された家屋は1戸もしくは2戸ほどです。
神社で,村の神様にご挨拶をして,近くの建物を見回すと,なぜか分校で使われていたと思われる机や椅子が無雑作に置かれています。「これは絵になるのでは」と思いつき,机,椅子を分校跡の石碑のところに運び,セットで写真を撮りました。


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# 25-18
「そろそろ水窪市街に行こうかな」と思った頃,山道からビーグル犬を連れた猟の方(和田さん)が下りられてきました。ご挨拶をして,神社,分校のことをうかがうと,もともと分校だったところに,閉校後神社が移転してきたそうです。境内の古いトイレや物置は,分校の頃からのものとのこと。
もうひとり猟の方(高橋さん)が来られて,昼食休みとなったので,挨拶をして休みの輪の中に加えさせていただきました。高橋さんの「カメラを構えたクルマが道を走っていたけど」と問いに,私は「廃村めぐりのTVロケをしていたんです」と答えました。私は猟について尋ねると,高橋さんは「猟期は11月から2月まで,動物はシカやイノシシ」と答えてくれました。お二人には,お菓子と缶コーヒーをご馳走になりました。ありがとうございます。



# 25-19
お二人を見送り,峠を出発したのは午後1時半頃。空は曇り,ちらりと雪が落ちてきました。水窪市街は通過し,袋井IC近くのGSでカッパを着るなど防寒体勢を固め,後は足柄SAでGSに入っただけで,休憩なしで東名・首都高を走りました。静岡市内からの弱い雨は足柄SAではみぞれに変わりましたが,幸い県境を過ぎると上がり,首都高も「高速」で走り抜けることができました。この日の走行距離は355km,南浦和に帰り着いたのは夜7時半頃でした。
「熱中時間」ロケはハードでしたが,スタッフもたいへんだったのではないかと思います。「オンエアの時間の20倍はフィルムを撮る」という職人肌で行われるロケの様子もわかりました。遠州ツーリングを無事に終え,案外知らなかったTVロケの様子が身近なものとして捉えられるようになりました。


(追記) NHK-BS「熱中時間」の「廃村めぐり熱中人」ドキュメントは,BSハイビジョンでは2月1日(金),BS2では2月3日(日)に放映されました。




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