東信・「廃校廃村廃校廃村」リストを考える旅

東信・「学校跡を有する廃村」リストを考える旅 長野県佐久市広川原


高度過疎集落 広川原(ひろがわら)にある分校跡(狭岩分校跡)です。



2007/8/27 佐久市(旧臼田町)広川原

# 21-1
平成19年夏現在,長野県で見出した「廃校廃村」の数は24か所。信州は埼玉から近く,フィールドワークも順調に進んでいます。
長野県内を大別するときは,北信,中信,東信,南信という地域名がよく使われています。廃村の数を地域別に分けると,北信4か所,中信8か所,東信1か所,南信11か所。東信は,軽井沢,佐久,上田など,関東から近い信州で,廃村・高度過疎集落はほとんど見当たりません。
東信の1か所,旧臼田町広川原(Hirogawara)は,戸数4戸の高度過疎集落です。この集落は,下手の集落 馬坂(Masaka)とともに関東側から見て分水嶺(田口峠)の手前にあり,信州ではここだけという利根川水系です。分校跡は,馬坂と広川原の間,少し広川原寄りの川沿いにあります。

# 21-2
東信では,小海町で集落再編成事業が積極的に進められました。「農山村の人口及び集落の動向」という農林水産省の資料(2001年)には,「辺境に位置する集落住民の要望により,これら集落の全戸(10集落65戸)を昭和51年度から昭和61年度にかけ,順次町中心に移動させた」とあります。
しかし「学校跡」を重ねて見た場合,はっきり当てはまる集落はありません。「冬季無人集落の可能性もある」と見て,住宅地図ではともに10数戸ながら,集落移転状況図に掲載されていた千曲川右岸 蓼科山から八ヶ岳山麓の五箇(Goka)と新開(Shinkai)にも足を運ぶ予定を立てました。
あわせて,住宅地図では6戸という旧佐久町中尾(Nakao)も立ち寄る予定としました。これら3つの集落にあった学校はすべて冬季分校です。




# 21-3
「学校跡を有する廃村」リスト(後の「廃村千選」)の意味を考えることにもなった旅は,8月27日(月),日帰りのソロツーリングで出かけました。
南浦和出発は日の出頃の朝5時10分。所沢IC,関越道・上信越道経由で,初めて下りる下仁田ICに到着したのは6時50分。まだ新しいICを後にして,まず訪ねたのは昔ながらの下仁田駅。浦和から2時間弱で着けるとは思えないローカルな風情に浸って,缶コーヒーを飲んで一服です。
下仁田から15分ほど走ると隣村の南牧(Nanmoku)村。二階に欄干がある特徴がある木造家屋は,養蚕農家の名残りとのこと。御荷鉾林道の終点 勧能を過ぎると県道は急に細くなり,長野県旧臼田町に入ってすぐの小集落 馬坂を過ぎて少し走ると,分校跡の校舎の鈍く赤い屋根が視界に入りました。


# 21-4
田口小学校狭岩分校は,へき地等級4級,児童数35名(S.34),昭和47年閉校。狭岩(Sebaiwa)は,分校の背後にある大きな岩の名前に由来します。分校付近には人家はまったくないのですが,県道に沿った目立つ場所にあるためか,4級というほどのへき地性は感じられません。
一階に落ちていた新聞には横綱大鵬断髪式の記事があり,往時の匂いが垣間見れたのですが,二階に構える応接セットや段ボールに入った荷物には風情はなく,事務所の廃墟のようでもありました。しかし,これも「訪ねてみてわかったこと」と思うと,納得できるところです。
狭岩分校と本校(田口小学校)は21kmもの距離があり,分校の閉校後,児童は南牧村の尾沢小学校(距離は5km)に委託通学となったそうです。



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# 21-5
分校跡を後にして1km近く上手にある広川原(標高780m)の家々は,県道から少し脇に入った場所にあり,県道を走っているだけでは印象に残りません。
集会所の向かいにバイクを停めて歩いた広川原の集落は,人気のある家と廃屋が半々ぐらい。二階に欄干がある養蚕農家の木造家屋が目を引きます。
高台には禅昌寺というお寺があるので,山道を上がっていくと,往時の賑やかさを偲ばせる大きな山門が迎えてくれました。寺の裏山には「最勝洞」という地下湖があり,あたりは「広川原の洞穴群」として県の天然記念物になっているとのことですが,ここには行きませんでした。
ゲートボール場を経由して集落を一周し集会所に戻ると,南牧村の名前が入ったデイケアのクルマが目の前を通り過ぎていきました。


# 21-6
広川原を出発したのは朝9時5分。まだまだ時間はあります。ゆるやかなつづら折りが続く県道を上り,田口峠(標高1110m)のトンネルを越えると,信州らしい高原の風景になります。田口峠付近には「日本で一番海から遠い地点」があるとのことです。
旧臼田町の中心から小海町方面に向かうR.141の交通量は多く,別世界のようです。佐久穂町(旧佐久町)に入り,蓼科山の方向へ延びる県道を走り,たどり着いた中尾(標高1000m)には建築設備の事務所があり,数軒の人気のある家屋がありましたが,地域の方と出会うことはありませんでした。
佐久西小学校中尾冬季分校は,へき地等級2級,児童数15名(S.34),閉校年不明。冬季分校跡の場所は,残念ながらわからず終いでした。


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# 21-7
中尾から小海町方面へと蓼科山の裾野を走る農道にはほとんど道標はなく,少しずつしか進めません。道中で印象に残ったのは,旧八千穂村松井の戦後開拓記念碑です。碑には「分校が開設された」との旨が記されていましたが,その後の調べでも確認できませんでした。
旧八千穂村には別荘地や研修施設が多くあり,R.299沿いには観光地の匂いがあるので,昼食は観光売店でおやきを食べました。小海町には山を上るルートで入り,稲子湯で一服して,新開(標高1200m)に到着したのは午後1時15分。「農山村の人口及び集落の動向」には「新開からは21戸が小海町の中心に移転した」の旨が記されており,かつ,バスは冬季運休なのですが,新開の第一印象に「冬季無人集落」の気配は感じられませんでした。


# 21-8
北牧小学校新開冬季分校は,へき地等級1級,児童数10名(S.34),昭和41年閉校。道に沿った「やまいも工房」というギャラリーに入って,お店の方(宮川さん)に冬季分校のことを伺うと,「作業場の中に閉校記念碑がある」とのこと。この記念碑は,植栽の中に隠れるようにして建っていました。
新開の戸数は12戸。集落の様子,宮川さんのお話を総合すると,新開は一般の集落と判断してよさそうです。
新開から,松原湖,八那池を経由して五箇へ向かう農道には,道標がある分岐がいくつかありました。何とか迷わず到着した五箇は,標高1115m。まず,ボーイスカウトの研修所としても使われているという公民館を目指していくと,公民館前には冬季分校の閉校記念碑が建っていました。


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# 21-9
北牧小学校五箇冬季分校は,へき地等級2級,児童数13名(S.34),昭和42年閉校。この公民館は,往時の冬季分校の建物ということがわかりました。
五箇には「五箇水源」と呼ばれる名水があり,地域の方に場所を確認して水を汲みに行きました。おいしい水が飲めるというのは,幸せなことです。
五箇の戸数は16戸。「農山村の人口及び集落の動向」には「(五箇と同位置の)茨沢から8戸,梨の木沢から8戸,二又から7戸が小海町の中心に移転した」の旨が記されているのですが,集落の様子,地域の方のお話を総合すると,五箇も一般の集落と判断してよさそうです。
五箇を後にして,小海町の中心に着いたのは午後3時10分。中尾,新開,五箇というリスト候補を訪ね,調べる旅は,とても味わい深いものでした。

# 21-10
帰り道は小海町の中心からぶどう峠(標高1500m)を越えて,上野村,旧鬼石町を経由して,本庄児玉ICから関越道を走りました。途中,上野村三岐では,平成17年11月には工事中だった温泉が「しおじの湯」として開業していました。南浦和に帰り着いたのは夜7時45分,走行距離は424kmでした。
「学校跡を有する廃村」リストにおいて,廃村(集落跡)と高度過疎集落,過疎集落の境界線は曖昧です。しかし,リストが現地を訪ねるための導火線になることは間違いありません。「学校跡を有する廃村」リストは,全国各地の見知らぬ廃村や過疎の村に興味を持つための道具として,役に立つように作りたいと思います。

(注) 長野県内の冬季分校は「冬期分室」という名称が多く用いられており,碑にも「冬期分室跡」と記されていますが,ここでの標記は全国の例にあわせて「冬季分校」に統一しています。



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