鈴鹿山地北部の旧行政村の廃村 平成12年夏 滋賀県多賀町旧脇ヶ畑村



よく晴れた乾いた青空に,草が芽生えた萱葺き屋根の廃屋。


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7/21/2000 多賀町旧脇ヶ畑村


 私は平成12年7月21日(金曜日),鈴鹿山地北部(滋賀県側)の山間集落を訪れた。そこには数多くの廃村があり,高度成長期以前の雰囲気が色濃く残っていた。ここでは,特に印象に残った多賀町旧脇ヶ畑村の三つの廃村(杉,保月,五僧)についてまとめる。



 ●旧脇ヶ畑村の概略

 滋賀県犬上郡旧脇ヶ畑村は,鈴鹿山地北部の鍋尻山近くのカルスト台地の高原上にあり,杉,保月,五僧の三集落からなる。杉,保月の地形は典型的なドリーネ(摺鉢状の窪地)であり,各集落の標高は杉が550m,保月が600m,五僧が500m。地形図で見ると川沿いよりも山上の等高線がなだらかな様子は特異的である。主産業は林業(おもに製炭業)と農業(おもに自給用)で,中心は保月であった。
 三集落は,彦根から五僧峠で美濃に越える山道(島津越え)によって結ばれており,道の名は,関ヶ原の合戦で敗れた島津義弘軍が薩摩に落ちるときに用いたことに由来する。中・近世には近江商人の往来があり,昭和初期まで,保月には「北村屋」という宿屋が存在した。ただ,この山道は平野部末端の八重練と杉間の杉坂,保月と五僧間の権現谷(芹川上流の渓谷)が急峻なことから,徒歩交通からの発展はなかった。
 三集落合わせても100戸ほど(人口500人弱)という規模の小ささにもかかわらず明治22年の町村制施行時に脇ヶ畑村という行政村が成立したのは,三集落が島津越えの山道で結ばれていること,芹川沿いの集落(主に旧芹谷村)との行き来が乏しかったことなどによる。
 鉄道や自動車による交通が広がっていくに連れ,徒歩交通は途絶え,脇ヶ畑村は「陸の孤島」の様相を深めていく。昭和23年発行の「湖國青年」という雑誌には「電燈をつけて楽しいレコードコンサートなどを−犬上郡脇が畑青年團立上る」という記事があり,県で唯一電燈のない村として紹介されている。村に電気が通じたのは昭和25年であった。
 町村合併促進法により昭和30年に脇ヶ畑村は多賀町に編入され,自治体としての機能を失った。その後,昭和35年頃からの産業構造の変化,具体的には平野部(彦根市,多賀町)への工場の進出や,山間部での製炭業の衰滅と製材業への転換の不調などにより急激に廃れ,裕福な層の挙家離村を引き出し,行政が集落再編成事業により離村を勧めたこともあり,杉は昭和48年,五僧は昭和49年,保月は昭和51年に廃村(冬季無人集落)となった。一行政村がまるごと廃村化した例は滋賀県では唯一であり,全国的にも岐阜県旧徳山村,福井県旧西谷村,旧上穴馬村などわずかしかない。


 ●杉と光明寺跡

 暑く晴れた朝,午前11時頃,芹川沿いの栗栖の調宮神社脇から狭い車道をオフロードバイクで上り,たどり着いた杉では,まず壊れた萱葺き屋根の廃屋が目に入った。「杉・向上の郷」という案内板のところで道を入ると「光明寺之跡」という新しい石碑が立っていた。廃屋は10軒ほどで,寺の建物は塾の施設として利用されているらしい。
 杉の明治以降の最大戸数は16戸。三集落の中では最も近江平野側にある。また,戸数当たりの耕地面積は最も大きく,ゴボウなどの商品作物の生産もなされていた。明治30年代には,アメリカなどへ長期間の出稼ぎへ出る方が多数いたが,明治44年の大火によりその多くが戻ってきた。また平野部に近く,昭和10年に栗栖と保月の間に馬車道(杉坂林道)が通じたことから,大工など,農林業以外の仕事を持つ方も多くいた。この間戸数に大きな変化はなく,昭和30年の戸数は12戸であった。
 離村後も転職を必要としない方が多かったことから,杉の出身者は多賀町内平野部の木曽団地に移転された方が多い。そのため光明寺は廃村後木曽団地内に移転し,以後ここで年に一度部会が開かれている。なお神社(春日神社)は杉に残されている。
 管理されなくなった廃屋の中には,「火の用心」のホーロー看板やタイル貼りのカマドや流し台があり,往時の生活を垣間見ることができた。


 ●保月,照西寺と村役場跡

 「薩摩杉」を横目にさらに山側に向かうと,山中とは思えないほど視界が開けて,正午頃,保月にたどり着いた。まず「公衆便所」の看板が目に付き,よく見るとそこは小学校跡で,往時の校舎からトイレだけ残した形でできていた。
 照西寺,八幡神社は綺麗に手入れされており,夏ということもあり,何軒かの家には村の方の姿があった。
 保月の明治以降の最大戸数は82戸。三集落の中心にあり最も規模が大きい。戸数当たりの耕地面積や林野面積は相対的に小さく,また所有する耕地や林野と家屋の距離が遠くなる傾向があった。このため,明治期から京都市などの遠距離に挙家離村される方や長期出稼ぎへ出る方が多数おり,戸数は,大正元年に69戸,昭和6年に50戸,昭和30年には27戸まで減少している。また,保月には脇ヶ畑村役場,小中学校,郵便局などすべての脇ヶ畑村の公共施設が集められており,短期移転者である教職員の住宅があったことから,杉,五僧に比べると開放的な社会秩序ができていた。
 各家の離村先は各所に分散している保月だが,杉,五僧と同じく多くの方は宅地,山林等の財産をそのまま持ち続けており,出身者は「保月会」(同郷会)を組織して,お盆には照西寺に集まって旧交を暖めているという。また新しく建てられた家やポストがあって,5月から11月頃までは,郵便物の集配も行われており,平成13年5月の多賀町の統計でも3戸5人の住民を数える。
 村役場跡の建物には,郵便局や診療所が併設されており,また多くの書類,ポスター,囲炉裏などが残されていて,そこには高度成長期以前の空気がそのまま保たれていた。この建物はその後まもなく取り壊されたが,よく間に合ったものだと思う。また照西寺の修繕をされている村の方がいて,この方と喋りながら軒先でおにぎりを食べた。「入口が二つある建物が教職員住宅の跡」などお話を伺いながらの爽やかな食事のひとときは忘れられない。


 ●五僧と美奈戸神社

 午後2時頃,権現谷の急な坂を下って川沿いの林道に出ると,「五僧・島津越え」の看板があったが,道は細い山道だった。歩いて坂を登りたどり着いた五僧では,林道の工事が行われていて,廃屋の前をパワーショベルが走っていた。
 五僧の明治以降の最大戸数は12戸。三集落の中では最僻地で,集落内に五僧峠(県境)がある。戸数当たりの林野面積は最も大きく,製炭業が主業であった。このため共同体としての色合いが強く,杉,保月に比べると閉鎖的な社会秩序ができていた。五僧では長期間の出稼ぎはほとんど行われず,長い間戸数に変化はなく,昭和30年の戸数は9戸であった。また,利用できる場所まで車道(権現谷林道)が開通したのは,昭和41年だった。
 離村後は転職を必要とする方が多く,寺がないこともあり,村の方が五僧に戻る機会は少ない。しかし,神社(美奈戸神社)は残されており,杉,保月と同じく,年に二回(4月と9月)の神社の祭礼には,各地から出身者が集い,ひとときを楽しんでいる。
 五僧は「自然の神秘・多賀新世の旅路」という多賀町観光協会のパンフレットにも「廃村」として紹介されている。現在林道は五僧峠まで完成し,静寂が取り戻されている。


 私は全国各地の廃村を巡り,その記録をこの2月に「廃村と過疎の風景」として冊子にまとめた。この冊子でも脇ヶ畑村を取り上げたが,本稿では,「多賀町史」,「脇ヶ畑史話」,坂口慶治先生の論文「鈴鹿山地北部の旧脇ヶ畑村における廃村化の機構とその集落的・地域的要因」などを資料とし,また6−7月に村を再訪し,その姿を掘り下げた。
 私と「民俗文化」との縁は,旧脇ヶ畑村を巡った前日に,永源寺町蛭谷の筒井神社で,偶然菅沼晃次郎先生にお会いしたことから始まった。素晴らしい偶然に感謝したい。


(注1) 「民俗文化」は,菅沼晃次郎さん主宰の滋賀民俗学会の機関誌(月刊)で,平成13年6月で453号を数えます。このページは「民俗文化」への投稿文に画像データを加え,地図等のアナログデータを割愛して作成しました。

(注2) 旧脇ヶ畑村の公共施設の撤収年は下記の通りです。
 ◎脇ヶ畑小学校 ・・・ 昭和44年
 ◎多賀中学校脇ヶ畑分校 ・・・ 昭和44年
 ◎多賀町役場保月支所(旧脇ヶ畑村役場) ・・・ 昭和47年
 ◎脇ヶ畑郵便局 ・・・ 昭和49年

(注3) 「挙家離村」は,一家を挙げての離村を意味する人文地理学の専門用語です。



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