草深き廃村に建つ石碑群 京都府大宮町内山,宮津市木子,駒倉,
_______________________________________弥栄町味土野,吉津


〜丹後半島廃景色 その1〜



内山集落跡に建つ石碑です。ここは内山ブナ林への入口でもあります。


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8/13〜14/2002 大宮町内山,宮津市木子,駒倉,弥栄町味土野,吉津

# 12-1
京都府の丹後半島に多くの廃村が集中していることは,平成13年夏に滋賀県多賀町の廃村(旧脇ヶ畑村)を調べているうちに見出した坂口慶治先生(京都教育大学)の論文「近畿内帯山地における廃村現象とその自然的条件についての分布論的考察」を読んで知りました。
この論文には,近畿地方の山間部の廃村の分布と気候,高度,地形条件の関係などがまとめられていて,昭和初期の全集落数2967に対して昭和60年までの廃村は150あり(廃村発生率5.1%),うち135は北部山地にあると記されています。
中でも丹後山地における廃村発生率は22.2%(162集落中36集落)で,旧脇ヶ畑村のある鈴鹿山地とともにとても高くなっていました。

# 12-2
さらに丹後東部山地(丹後半島)については,33の具体的な廃村名が記されており,私は古い地形図や分県地図を調べることによって,このうち28の廃村の位置を確認することができました。これらは特に宮津市北部,弥栄町,丹後町,伊根町に集中していました。
論文によると,最も廃村化しやすい地形環境は周囲を急な崖に囲まれた卓状高原面であり,丹後半島の高位集落(標高の高い集落)や旧脇ヶ畑村は典型例のようです。平野に近接する地形環境の悪い低位集落も,容易に平野部に下れることから廃村化しやすいとのこと。
また,丹後半島における廃村化の直接的に大きな要因には昭和38年の大豪雪(三八豪雪)があり,ダムは見当たりません。

# 12-3
そんな丹後半島への廃村探索ツーリングは,平成14年の夏休みに実現しました。2泊3日というと余裕がありそうな日程のようですが,その数を考えるとそうとも言えません。具体的にどこに行くかは,現地に行ってその場のノリで決めることになりました。
結果,巡った廃村と過疎集落は,高位集落として標高300mを超える高原に所在する大宮町内山,宮津市木子,駒倉,弥栄町味土野,吉津(木子と味土野は過疎集落),低位集落として標高110〜210mの道沿いにある丹後町力石,大石,神主,小脇,三山,弥栄町川久保,標高110〜240mの道の行止まりにある丹後町一段,伊根町足谷,吉谷,福之内,田坪の16ヶ所(廃村が14,過疎集落が2つ)となりました。

# 12-4
1日目(8月13日 火曜日)の堺の実家出発は午前9時半。天気は晴れ。阪神高速からR.173,R.27,R.178を走って4時間半で天橋立に到着。
天橋立から岩滝町を経由して丹後半島縦貫林道を登り,一字観公園から横一文字の天橋立を見下ろすと,旅の始まりが実感できました。
縦貫林道を外れ,大内峠から内陸の大宮町三重(Mie)に降りると,静かな山裾の集落の外れに保育所と駐在所がありました。
バイクを止めると,旧三重村役場跡と三重小学校跡という石碑。雰囲気を味わっていると,急に天気が崩れて20分ほどの強い通り雨。
幸い保育所で雨宿りできましたが,「弁当忘れても雨傘忘れるな」と言われる丹後半島の荒れた天気のことが頭を過ぎりました。


# 12-5
三重から山に向かった五十河(Ikaga)には,小野小町にちなんだ新しい公園(小町公園)がありましたが,人気はありませんでした。
最初に目指した廃村は内山(Uchiyama)です。小町公園を過ぎると道は急に細くなり,道がダートになってしばらくすると「ブナハウス内山」という山小屋風の建物に到着しました。ここも無人でしたが,ブナ林への探索の基地として使われている様子です。
坂を上がると内山集落跡の石碑を見出すことができました。内山は竹野川源流部,標高500mの高原縁辺斜面にあり,明治5年頃の戸数は16戸。坂口先生の論文の内山の廃村化は昭和7年ですが,石碑には昭和48年離村と記されており,少数戸の方が長く残っていたようです。

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# 12-6
内山集落跡はブナ林への入口として整備されており,穏やかな顔をしています。4月頃にはフクジュソウが群生して黄金色に輝くとのこと。神社の鳥居が発見できたので近づいてみると,敷地には「三柱神社跡」という石碑があり,昭和55年に遷宮されたとありました。
ブナ林もなかなか行けるものではないので,探索道を歩いてみました。ブナ林は多くの植物群と共生するため,山の保水を考える上で重要です。丹後半島のブナ林は冬季の積雪が多いため,標高400mぐらいの比較的低い山地でも自生できるそうです。
内山の手前からは,味土野へと通じているようなキロ数付きの道標があったのですが,たどってみるとすぐに行止まりになりました。

# 12-7
この日の宿泊は,宮津市木子(Kigo)にあるペンション「自給自足」。内山から木子までは丹後半島縦断林道を走ったのですが,道は曲がりくねっており,ずいぶん距離感がありました。木子は宇川源流部,標高480mの高原中央面にあり,明治5年頃の戸数は56戸,坂口先生の論文では昭和34年に部分廃村化が始まったとあります。現在2軒のペンションがあり,夏は避暑地として賑わっている様子です。
大阪出身というオーナー(勅使河原さん)に尋ねたところ,現在の木子の住民数は24人とのこと。携帯は通じず,TVはBSしか映りません。3組の家族連れとともにひとり過ごす夜は少々ぎこちなさがありましたが,自家製の山菜やそばを中心にした食事はとても美味でした。

# 12-8
2日目(8月14日 水曜日)は,夜明け前(午前5時半頃)から起き出して人気のない木子を探索しました。山上の過疎集落で見る日の出はまた格別です。使われている感じがした家はペンションを含めて10軒ほど。荒れた感じの廃屋はなく,往時は56戸もあったとは思えません。
寺(教念寺)跡の石碑横の切妻屋根の大きな家や小学校跡の石碑の横の旧教員宿舎は,朝に歩いて訪ねたときは閉ざされていましたが,出発前(午前9時半頃)に再訪すると,ともに戸が開け放たれていました。こまめに手入れされている様子が伺えます。
内山,木子を巡って感じたことは,落ち着いた雰囲気がある(荒れた感じがない)ことと,多くの石碑が建てられていることです。


# 12-9
2日目に最初に目指した廃村は,宮津市駒倉(Komakura)です。丹後半島縦断林道の分岐からは峠越えのダートを4kmほど。道は荒れていて,クルマではちょっときつそうですが,ここにもしっかり廃村の石碑があって,所在の確認は簡単にできました。
駒倉は宇川源流部,標高450mの高原中央面にあり,明治5年頃の戸数は46戸,昭和47年に廃村となったそうです。スギが植えられた草深い集落跡には,往時の蔵らしい建物と,寺(唯念寺)跡の敷地とそれを示す石碑があり,往時の雰囲気を垣間見ることができました。また,矢野家という真新しい屋敷跡を示す石碑があり,廃村から30年経った今もこの地が元住民の方に大切にされていることがわかります。

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# 12-10
駒倉からダートを4km下って,狭い舗装道(府道)を2km上がると,急に道が広がり視界が広くなって,弥栄町味土野(Midono)に到着しました。味土野は,戦国時代に細川ガラシャ(明智光秀の娘,細川忠興の妻)が本能寺の変の直後から2年間の幽閉生活を送った地として有名です。府道の終点のそばには城跡(住居跡)がガラシャの里として整備されており,ここにも昭和11年建立という石碑がありました。
味土野は宇川源流部,標高370mの明るい高原中央面にあり,明治5年頃の戸数は44戸,坂口先生の論文では昭和44年に部分廃村化が始まったとあります。農作業をされていたおじさんに伺ったところ,現在の味土野の住民数は7人とのこと。

# 12-11
道を少し戻ると,昭和46年に廃校となった野間小学校味土野分校跡の建物が公共の宿泊施設「山の家 ガラシャ荘」として整備されていましたが,その佇まいは,往時(部分廃村化前)の味土野の雰囲気が最も色濃く残されていた感じがしました。
また,府道から少し入った道の端には「味土野之跡」という昭和59年建立の石碑があり,碑の回りにはお地蔵さんが奉られていました。
人々が次々に立ち去り,集落としての機能を失った味土野は,18年前の住民の目から見ても集落跡として映っていたようです。石碑を眺めていると,先日に引続き,通り雨がありましたが,すぐそばに農作業用の小屋があり難無きを得ました。

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# 12-12
味土野から3kmほど,峠を越えてほどないところに,この日2つ目の廃村 吉津(Yoshidu)がありました。道沿いに「ふるさと吉津の跡」という石碑が建てられていることから場所を特定できましたが,そこは碑がなければ通り過ぎていたような平凡な山の中腹です。
吉津は竹野川源流部,標高430mの高原縁辺斜面にあり,明治5年頃の戸数は21戸,昭和42年に廃村化したとのこと。碑から少し下ったところに「吉津の穴地蔵」と記された分岐道があり,バイクを降りて訪ねてみると,赤いポストとともにお地蔵さんが奉られていました。ポストの中には「昔より 光を包む 穴地蔵 今日は出現 衆生済度に」という詠歌が置かれていたので,手を合わせて一枚いただきました。


# 12-13
吉津と最寄りの集落 等楽寺の間には畑(Hata)という廃村があるはずなのですが,痕跡は見つかりませんでした。
等楽寺でも通り雨があり,民家の軒を借りてこの日二度目の雨宿りをしていると,地元のおじさんが「練馬からバイクとはたいへんやね」と声をかけてくれました。雨宿りのひとときには,携帯のメールはちょうどよく合います。
弥栄町の中心部に着いたのは午後1時20分。昼食を兼ねて足を運んだ真新しい観光施設「弥栄あしぎぬ温泉」には日差しもまぶしい大きな露天風呂がありました。廃村探索者はその明るさと賑わいにギャップを感じながらも,ひとときリラックスの時間を楽しみました。


(注) 味土野の碑についての資料は,弥栄町役場 教育委員会の方に提供していただきました。



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