伝説の京丸ボタンの里へ 静岡県春野町石切,小俣京丸



廃村 小俣京丸のスギ林に残されていた分校跡の石碑です。


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8/5/2001 春野町石切,小俣京丸

# 5-1
春から夏にかけて,何度か東京・永田町の国会図書館に出向いているうちに,新旧の地形図や住宅地図を組み合わせることから,かなりの確率で廃村を見つけることができるようになりました。夏休みに行きたい場所として目星をつけたのは,京都府の丹後半島(丹後町,伊根町など)と愛媛県の石鎚山近辺(西条市,小松町など),静岡県の天竜川水系の山間部(春野町,水窪町など)の3ヶ所です。
このうち天竜川水系は,平成13年6月の横浜のJR国道駅近くで行われた「廃墟フリークOFF」で出会った「廃king」というWebの管理者のかんぐりさんが静岡県西部の方で,連絡を取り合っているうちに浮上してきた場所です。

# 5-2
春野町でいちばん山奥の小俣京丸は,郵便番号の登録はあるものの住宅地図を見ると常住する方がいる様子はなく,「廃村であろう」と予測がつきました。かんぐりさんにこのことを連絡すると,小俣京丸には遠州七不思議のひとつ「京丸ボタン」の伝説があるとのこと。
それは「京丸で心中した男女の命日,60年に1度,京丸山には唐傘大のボタンの花が咲く」という物悲しい話で,隣りの岩岳山に咲くアカヤシオツツジの群生と係わりがあるのかもしれないとのことです。
京丸の伝説については,岩瀬浩太さんのWebの「京丸山」に詳細が記されています。村の成立は南北朝時代の南朝の落人絡みとのこと。

# 5-3
ところで,小俣京丸とは,小俣と京丸という二つの集落の総称で,小俣−京丸間は山道で4kmぐらいの距離がありそうです。京丸には,藤原さんという集落の長の立派な家が一軒あるのですが,昭和55年に当主が亡くなられてからは住民はいなくなりました。一方の小俣には数軒の家があり,古い地形図に学校の記号があることからこれに興味が湧き,小俣に行ってみようとなりました。
小俣と京丸に向かう山道の分岐点には石切という集落があり,やはり古い地形図には学校の記号があります。石切も相当な山奥なのですが,小俣京丸はそれよりも山奥にあり,遠州京丸は,越後三面,武州浦山とともに,日本の三大秘境に数えられることもあるそうです。

# 5-4
そんな小俣京丸には,8月第1週週末の大阪と神戸での所要に合わせて,8月5日(日曜日),帰途に新幹線を掛川で途中下車をして,レンタカーで訪ねました。実行を決めた後,入院中の妻の病状が悪くなったため,どうしようかと迷ったのですが,「行っても何ができるわけでもない」もどかしさと「平常心を保つ」ということを理由に,そのまま実行することになりました。
前日の神戸ではしたたかに酔ってカプセルホテル泊。このため掛川に着いたときは午後1時半になっていました。線路沿いのレンタカー屋さんで軽四を借りるというのは,7月の脇ヶ畑村の2日目と同じパターンです。時間が限られた中での廃村探索にはいちばん手軽な手段です。

# 5-5
掛川市街から北に向かって走り,森町を経て春野町に向かう車中,なかなか気持ちは旅のモードに切り替わりませんでした。山間部に入って,窓を開けて涼しい風を浴びても相変わらずです。やはり病床の妻のことが気になってなりません。
春野町の中心部を抜けて,気田川を離れると急に道の表情が険しくなり,石切に着いたのは午後3時半頃。ほとんど家は見当たらなかったのですが,校庭が駐車場となった小学校跡には新しい公民館と古い校舎が建っており,すぐに見つけることができました。
少し気分が良くなり,旅の空気を感じることができたのは,クルマから降りて深呼吸して山里の空気を吸い込んだときのことでした。


# 5-6
なぜか校舎の入口の横にはジュースの自動販売機があります。入ってみるとおばさんが機械を使って金物の加工をしていました。
ご挨拶をしてお話を伺うと,校舎はバンガローとして活用されており,おばさんはキャンプ場やバンガローの管理を兼ねて楽器の部品を作っているそうです。バンガローは1泊1500円と格安で,時間に余裕があったらふらりと泊まっていたかもしれません。
おばさんのいる部屋は昔の職員室とのことで,隅のほうには「昭和44年度春野町内小中学校体格比較表(体重)」という棒グラフがあり,高度成長期に廃校となったことが想像されます。後の調べで,石切小学校の閉校時期は昭和45年であったことがわかりました。


# 5-7
おばさんに小俣への道のりを伺うと,古い山道は使われなくなっているため,谷から尾根に上がった杉峰まで戻ってから,尾根道伝いに行くとのこと。クルマ社会では,距離よりも道の作りやすさが優先されるわけですが,とりあえずクルマで小俣に行けることがわかってホッと一息。また,冬でも雪はほとんど降らないとのことで,静岡という土地の温暖さがわかります。
しばらく探索をしてから石切を後にして,小俣へ続く道を高校生向けらしい研修宿泊施設や新しいペンションを横目に見ながら走ると,道はペンションを過ぎたあたりから下りのダートとなりました。薄暗いこともあってなかなかのスリルです。

# 5-8
ダートの始まりから4kmほど走り,岩岳山登山口の駐車場に到着したのは午後4時半頃。アカヤシオツツジの群生が咲くGW頃にはクルマでいっぱいになるという駐車場には,私のクルマ一台だけ。小俣には,来た道を少し戻ってから川に向かって下る道をたどります。
川を渡って,駐車場から歩き始めて10分ほどで小俣の廃屋が見え始めました。荒れた感じはしないのですが,人気は全くありません。
集落の中心の大きな家の前の水槽にはコイが泳いでおり,畑の様子からも,住民の方が手入れをされていることがわかります。あたりの山は廃村後に植えられたスギで薄暗くなっているのに対して,この家の回りにはスギがなく空が広いので,休憩にはよいポイントです。


# 5-9
クルマが通れる道はここで途絶え,石切や京丸に向かう山道は,さっぱりわからない状態です。それでも道らしいものをたどりながら山を上がっていくと,神社の鳥居があって,その左脇に古びた小屋を発見。よく見ると「石切小学校小俣分校跡」という学校跡の碑が見つかり,この小屋が校舎の跡ということがわかりました。地形図のコピーを持っていなければ,たどり着くことはできなかったことでしょう。
あたりはスギに囲まれて午後5時過ぎにしてとても暗く,建物の中は真っ暗です。勘でフラッシュをたいて写真を撮り,後で確認したぐらいでしたが,中は綺麗に片付けられてガランとしていました。

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# 5-10
昭和5年には,小俣京丸(小俣と京丸)で21戸,113人が住んでいたといいます。また,昭和40年に登山家の深田久弥さんが小俣を訪れたときの記述には「小俣は高い台地にある部落で,以前は9軒あったそうだが,いま人の住んでいるのは,2,3軒しかない。廃屋のあちこちに残っている侘しい風景がそこにあった」とあります。
小俣分校の閉校時期は昭和41年。小俣の廃村時期が同じ頃とすれば,30年以上もの年月が経っており,荒れた感じがしないのが不思議なぐらいです。人気のなさに私としては珍しく気味の悪さを感じたのは,コイが泳ぐ水槽があるほど整然としていたからのようです。

# 5-11
登山口の駐車場に戻ったのは午後6時頃。何とか暗くなる前にダートを抜け出して,帰り道は不思議にスムーズに走り,午後7時半には掛川市街に戻っていました。レンタカーに途中下車の手数を入れても8000円ほどの小さな旅でしたが,とても重みのある旅でした。
東京に戻る新幹線の中では,目指していた廃村へ行けて,学校跡に出会えたことの喜びと,妻の見舞いに行かなかったことに対するザラザラした気持ちが,ビールの軽い酔いとともに頭の中を渦巻いていました。
これからは何ができるわけでなくても,お互いに寂しい思いはしないように,毎日病院へ見舞いに行こうと心に決めました。




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