緑に沈んだダム建設予定地 滋賀県余呉町半明,針川,尾羽梨,______________________________________鷲見,田戸,奥川並,小原



廃村 半明の神社跡に残されていた六地蔵です。


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8/31/2003 余呉町半明,針川,尾羽梨,鷲見,田戸,奥川並,小原

# 21-1
今畑に行って,愛媛行き中止の憂さが晴れたということで,気持ちにエンジンがかかってきました。足の痛みもずいぶんましになりました。
大阪3日目(8月30日土曜日)は,ミナミでお買い物をして,沖縄居酒屋「がちまやー」で高校教師時代の元教え子 keikoさんと飲み会。翌4日目(8月31日日曜日)は,滋賀県北部余呉町の丹生ダム建設予定地の廃村群を目指すことになりました。
8月になって見つけた「余呉町ホームページ」内の「余呉の歴史散歩」には,「ダムの建設により七つの集落が水没する」との旨が記されているのですが,他に情報がなく,どんなところなのか興味が湧いていました。現地に行くことができるかどうかもはっきりしません。

# 21-2
この日の天気予報は降水確率20〜40%,北部ほど降水確率は高かったのですが,「雨が降ったらその時や!」と,カッパを積んで堺からバイクで出かけたのは午前9時30分。余呉町までの距離は176km,近畿道・名神・北陸道とSAへの立寄りなしで突っ走り木ノ本ICへ。ICから余呉まではほど近く,12時20分には余呉湖のほとりで一休みしていました。
淀川水系 高時川上流の丹生ダム建設予定地には,県道中河内木ノ本線が走っており,上流からの中河内ルートと,下流からの菅並ルートがありますが,中河内ルートを選びました。丹生(Nyuu)は高時川沿いの旧行政村名で,半明を除く六集落は昭和29年まで丹生村でした。

# 21-3
余呉町の中心 中之郷から中河内までの道(R.365)は,北国街道とも呼ばれる歴史の深い道。途中の柳ヶ瀬には昭和39年まで国鉄北陸線(柳ヶ瀬線)の駅がありました。中河内は江戸時代には宿場町として栄えたそうで,立派な神社は往時の賑わいを伝えています。
中河内から高時川沿いに県道を下っていくと,2kmほどで広い更地に到着。「丹生-6」という丸い看板,「水資源開発公団の事業用地」との旨の警告の看板,「ごみの不法投棄禁止」との旨の余呉町の看板に,そこが半明(Hanmyou)の集落跡であることはすぐにわかりました。
時間は1時30分。居合わせたおじさんに声をおかけすると,大阪から山菜取りに来られたそうで,ミョウガなどが取れるそうです。

# 21-4
半明は中河内の枝郷で,往時は冬季分校があり,移転時(平成7年)の規模は10戸(18人)。背丈くらいの草が生えた更地には電柱と舗装道,家の土台が残っており,山側の神社跡の階段を登ると,お地蔵さんが奉られていました。
半明には「通行止 中河内−菅並」,「関係者以外立入禁止」の看板がありましたが,閉ざされているわけではないので,迷わずGoです。しかし,すぐに道は荒れはじめ,山から水が流れ出る個所では土砂が積もり,川のようになっていて,クルマでの通り抜けは難しそうです。道の真ん中にコケが生えている個所もあり,気温(余呉で見た掲示板の気温は27℃)のわりに湿度が高くて蒸し暑く感じられます。

# 21-5
そんな荒れた県道をゆっくり走って5kmほどで,「丹生-5」などの一連の看板があって,針川(Harikawa)の集落跡に到着しました。
針川集落は高時川と針川の合流点あたりのはずなのですが,これという跡は見当たりません。「重量制限1.5トン」という看板がついた柵のない簡易橋を渡って川沿いを歩くと,タイルの塊と石垣,川に張り出したコンクリートの台などが見つかりました。
後で「角川日本地名大辞典 滋賀県」(角川書店刊)を調べたところによると,針川は昭和45年に町内 中之郷へ集団移転されたとのこと。移転時の規模は13戸(51人)。跡がはっきり見出せないのは,管理されていないからのようです。

# 21-6
針川から1kmほどで,高時川と尾羽梨川の合流点があり,尾羽梨(Obanashi)に到着。バイクを止めて歩いてみると,石垣の間に階段があり,「春日神社」と記された背の高い石碑があったのですが,藪になっているため敷地に入ることはできませんでした。
尾羽梨は往時分校があり,昭和46年に中之郷へ集団移転されたとのこと。移転時頃(昭和45年)の規模は13戸(52人)。集落跡は川の合流点の近くなのですが,川をさかのぼったところと勘違いをしたため,草に埋もれた水溜りだらけのダートを5kmも寄り道してしまいました。道脇の「危険 クマ注意」の看板が山の深さを示しています。このダート沿いには,合流点近くとは別の木地師の集落があったそうです。

# 21-7
尾羽梨から2km強で気象観測の施設と「丹生-3」などの一連の看板があり,鷲見(Washimi)集落跡に到着しました。集落跡は電柱と道があるものの,草に深く埋もれています。電柱に放送用のマイクが残されていたことから,鷲見川にかかった橋とともに写真を撮りました。
鷲見は往時冬季分校があり,昭和53年の規模は15戸(49人)。移転時(平成7年)の規模は16戸(35人)とのこと。
「集落町並みWalker」Web(管理者 nomnomさん)には,橋の左岸に萱葺き屋根の民家が軒を並べる往時の写真が掲載されており,訪ねた翌日に写真を見つけた時はたいへん驚きました。ダム建設のための移転は,補償の条件として家屋を取り壊さなければならないのです。

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# 21-8
後に書店で購入した地形図(平成4年発行)には,鷲見,田戸,小原,半明が記されていました。鷲見には,川の右岸に寺,左岸に神社の印があり,nomnomさんが平成12年夏に巡ったときは跡がわかったとのこと。四集落が揃ってダム事業に伴う移転を行ったのは平成7年で,集落ごとに離村式が行われたそうです。下調べをしていたならば時間を取っていたに違いない鷲見で過ごした時間は10分ほどでした。
鷲見から3kmほどで高時川と奥川並川の合流点に到着。「丹生-2」の丸看板があったのですが,特に気になるものがなかったので,素通りしました。ここが田戸(Tado)の集落跡だったことは後で知ったことです。田戸の移転時(平成7年)の規模は8戸(12人)とのこと。

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# 21-9
奥川並(Okukounami)の集落跡は,合流点から4km強ほどダートを上がったところにありました(丸看板は「丹生-7」)。道沿いには先祖代々の墓があり,奥川並生産森林組合,奥川並集落協定といった看板が見られ,今も元住民の方が管理されていることがわかりました。
奥川並は往時分校があり,昭和44年に町内 今市へ集団移転されたとのこと。移転時の規模は17戸(54人)。関ヶ原合戦で敗れた西軍の武将 島左近が落ち延びたという話や,大雪が10mも積もるという話があり,民俗学者 宮本常一は著書「ふるさとの生活」で,昭和10年の大雪の様子を「屋根の破風から出入りして,イロリの火一つが家の中のあかりで,雪の底のあなのような中でくらしている」と記しています。

# 21-10
25分ほど探索した奥川並の集落跡では,石垣に加えて,気象観測らしき新しい施設,煙突の土台のようなレンガ積み,お地蔵さんを見つけることができました。草に埋もれてはいるものの,集落跡の雰囲気が残っています。集落跡の真ん中には,簡単に手を伸ばせる小川が流れていて,水をペットボトルに詰めました。
合流点(田戸)まで戻って,川沿いを1km弱下ると,比較的新しい作業小屋と標本のような岩石が置かれたグラウンドがありました。
小原(Ohara)の集落跡は小屋からほど近くにありましたが,下調べをしていなかったことから,小原か田戸かの判断ができませんでした。

# 21-11
小原の昭和53年の規模は9戸(32人)。移転時(平成7年)の規模は8戸(13人)。往時は中学校を含む規模の分校があり,作業小屋が分校跡と思われます。草に深く埋もれた集落跡には,電柱とマイクとTVアンテナぐらいしか見当たりませんでした。
小原からさらに川沿いを1km弱下ると,「ここが丹生ダムの予定地です」という水資源開発公団 丹生ダム建設所の看板がありました。建設所の「丹生ダム」Webによるとダムはロックフィル形式で,堤高145m,貯水量は1億5千万トンです。ダムの目的は,洪水調節,流水の正常な機能の維持(河川環境の保全など),新規利水(水道用水など)とのこと。

# 21-12
調査の着手が昭和55年,建設事業の着手が昭和63年,完成予定が平成22年とのことですが,看板の下流で見た工事の進行の様子では,完成のメドははっきりしない様子です。ダム建設はいろいろな意見が出るところですが,今の高時川沿いの風景は,集落があった頃よりも荒涼としたものになっていることは間違いないことでしょう。
西側の山からは日差しがまたたき,雨が降らなかったことに感謝しながらさらに川沿いを下ると,午後5時頃,菅並側の通行止の看板に到着しました。中河内からの走行距離は31kmでしたが,とても長い3時間半でした。

# 21-13
そのまま菅並,上丹生の方向に走ると,10kmほどで中之郷まで戻れそうでしたが,「次に来る機会には,水没しているのかもしれないなあ・・・」と思うと改めて走りたくなり,菅並には行かず中河内に戻ることにしました。
ポイントで足を止めながら走った中河内までの道は,17kmがおよそ1時間。中河内からはR.365,北陸道・名神・近畿道をガス入れ休憩のみで走り,191kmが2時間半(平均時速76km/h)。堺の実家には8時30分に到着していました。
愛媛行きが中止となって,目的なく出かけた関西でしたが,振り返れば多くの収穫ができた4泊5日となりました。


(注1) 鷲見の往時(おそらく昭和45年頃)の写真の出典は,「日本の集落 第2巻」(高須賀晋・畑亮夫,建築資料研究社刊)です。

(注2) 半明,鷲見,田戸,小原の移転時の資料は,余呉町役場 地域振興課の方に提供していただきました。


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