山の斜面にある暮らし,あった暮らし 平成14年春 埼玉県秩父市岳,茶平,
_____________________________________________武士平,大神楽,山掴



春の茶平の旧集落にて。廃屋とスイセンの花はよくマッチします。




4/13/2002 秩父市岳,茶平,武士平,大神楽,山掴

# 10-1
早咲きのサクラと花粉症が印象深かった平成14年春。「たまには廃村巡りも明るくわいわいとやりましょう!」と思いつき,「廃村と過疎の風景」の冊子を購入していただき,東京・上井草の大衆酒場「やしん坊」で何度かオフミートをしたことがあるソニー・コンピュータエンタテインメントジャパン(SCE)の佐藤直子さんに連絡をしたところ,総勢9名の探索隊が結成されることになりました。
場所は東京から電車とバスを使って日帰りで行ける秩父の浦山,メンバーはSCEチーム(リーダーの寺澤さんを筆頭に,佐藤さん,外山さん,大倉さん,南里さん,高橋さん,堀川さん)の7人と「廃墟フリークOFF」の仲間の廃屋の猫さんに私です。

# 10-2
浦山は,平成14年3月に秩父市内で開催された小倉洋一さんの写真展にあわせてバイクで訪ねたので,今回が四度目です。
この機会に「秩父往還脇街道」として古い歴史を持つ「うわごう道」を歩いてみたくなり,メインとして,道沿いの日向(Hinata),岳(Take),茶平(Chadaira),武士平(Bushidaira),大神楽(Ookagura)を訪ねる予定を立てました。「うわごう道」経由,日向バス停から大神楽沢橋バス停までは6kmほど。見込み時間は4時間ほどです。これにオプションとして,3月に訪ねた栗山(Kuriyama)と,平成13年秋に訪ねた山掴(Yamatsukami)を予定に加えました。


# 10-3
当日(4月13日 土曜日)の東京地方はなかなか良い天気。集合は西武池袋駅8時20分。三々五々にメンバーは集まり,予定通り三峰口・寄居行き快速急行は8時36分に池袋を出発。
電車の中では探索の予定などをわいわい喋りながら1時間40分で西武秩父に到着。電車賃は750円。
現場作業のマイクロバスのような秩父鉄道バス浦山大日堂行きは貸切り状態。R.140から県道秩父名栗線に入り,バスは20分ちょっとで日向バス停に到着。時間は11時少し前。浦山ダムの秩父さくら湖と八重ザクラに迎えられて,探索隊,行動開始です。

# 10-4
日向の昭和30年の人口は87人(17戸)。炭焼きのカマドが見られる急な車道を登り詰めたところにあるのが浦山小学校跡(昭和61年閉校)。高台にあったために水没を免れて,一部分ながら木造の校舎跡も健在です。
小学校跡からが「うわごう道」のはじまり。左手にあるキャンプ場を見送るとクルマは入れない雰囲気となり,15分ほどで岳に到着。道沿いには大きな廃屋と土蔵があり,廃村は今回が初めてという南里さん,高橋さん,堀川さんはとても興味深そうです。
岳の昭和30年の人口は44人(10戸)。十二社神社という大きな神社があり,天保13年(1842年)生の馬頭尊とお地蔵さんが6体並んでいました。

# 10-5
「うわごう道」は私の予想よりも荒れた道で,ハイカーが通る気配はありません。しかし新緑はとても美しく,峠に並んだ安政6年(1859年)生の大黒天,聖徳太子尊や,崩れかけた木橋を見ていると,「戦後,クルマ社会が定着するまではこの道が生活道路だった」ことが実感できます。後に知った話では,大黒天と橋の間には巣郷(Sugou)という廃村があり,家の土台や墓地が残るとのこと。
SCEチームは寺澤リーダーを先頭に,狭い山道を早いペースで一列に並んでいきます。まとまりのある隊列に,チームワークの良さが垣間見れます。隊の最後尾の廃屋の猫さんと私は予想外の早いペースに驚きながらついて行くことになりました。

# 10-6
「右茶平ニ至ル 左有坂武士平大神楽方面」という昭和6年建立の石の道標がある三差路を右に折れ,崩れて通れない木橋を避けて,一本杉と2体の地蔵尊のセットを横目に坂を下っていくと,ほどなく茶平の旧集落に到着しました。南向きの斜面は陽当たりが良く,沢から水を引いた天然の水道まであって,休憩がてら食事をするには最適です。季節柄,白いスイセンがとても綺麗に咲いています。
茶平の昭和30年の人口は75人(16戸)。昔はお茶の産地だったという茶平の現住住居は,旧集落からは離れた林道沿いの3戸のみ。廃屋の庭先には山椒の木があり,実のついた葉っぱとおにぎりはとてもよくマッチしました。

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# 10-7
茶平から林道に出て,沢沿いに坂を上ると林道が切れた三差路に到着。左に進むと有坂(Arisaka)という廃村があります。山深くにポツリポツリと風情のある廃村・過疎集落が点在するのは,奥多摩や奥秩父の特徴であり,浦山の大きな魅力です。
有坂の三差路を右に曲がり,再び「うわごう道」に戻って,登り詰めた鞍部(峠)が「たおの尾根」。うわごう道の最高部(標高720m)で日向バス停から290m登った計算ですが,登って下ってまた登りなのでかなりハードです。朽ちかけた鳥居と馬頭尊,お地蔵さんのセットは,都会住まいのにわかハイカーに「まあ一服していきなさい」と語りかけているようで,チームはひととき休憩を取りました。

# 10-8
たおの尾根からは急な下り坂。うわごう道がクルマも通れる道(林道大神楽線)に変わるところにあるのが武士平。今のうわごう道はスギ林の中を縫うあまり陽の当たらない道ですが,往時はたくさんの茶畑や桑畑があったとのこと。
武士平の昭和30年の人口は22人(5戸)。山深くにして生活感がある過疎集落ですが,現住住居は1戸のみ。
浦山の集落は2つの町会(自治組織)に分かれていて,栗山,武士平より北部が森川町会(旧浦山小学校の校区)。大神楽,山掴より南部が南町会(旧川俣小学校の校区)。うわごう道がほとんど使われなくなった今も,武士平は森川町会で,大神楽は南町会です。


# 10-9
浅見伊吉翁(明治34年生の十二社神社の宮司)の顕彰碑と薬師堂を過ぎて,林道が沢に近付いたところに大神楽の旧集落がありました。
大神楽の昭和30年の人口は35人(11戸)。現住住居は2戸で,やや離れた丘の上にあります。歩く時間も長くなってきて,チームはここでひととき休憩。大神楽では沢の綺麗な水と八重ザクラのピンクと山吹の黄色,それに花が咲いた廃車(ブルーバード)が印象的でした。
林道が県道と交わる大神楽沢橋バス停着は午後3時20分。帰りのバスは5時過ぎなので,栗山はまたの機会として,山掴(下山掴)に向かうことになりました。大神楽沢橋バス停着近くにある3戸ほどの集落は山掴の一部で,上山掴と呼ばれるそうです

# 10-10
県道沿いの浦山川の水は青く澄んでいて,「キャンプをすると良さそう!」という声が大倉さん,南里さんから上がります。ちょうど川の流れが止まるあたりのところにあるのが不動橋バス停と浦山中学校跡(昭和60年閉校)。現在,学校跡は東京の専門学校の施設として活用されていますが,この日は無人でした。
浦山中学校跡から山掴(下山掴)の旧集落までは15分ほど。昭和61年の住宅地図を見ると下山掴には13戸の家が見られるのですが,平成2年の地図では見当たらなくなっています。下山掴が無人となった理由はダム建設の影響,急峻な地形,地すべりの危険性のためと聞きます。

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# 10-11
私が山掴を訪ねたのはこれで三度目。相変わらずスギに覆われていましたが,秋に比べると新緑や名の知らぬ赤い花のせいか,いくぶん明るい感じがします。佐藤さんからは「廃村にもいろんな個性があるものですね」との声を伺いました。
長屋のような廃屋群に並んで植えられている広葉樹は屋敷林で,家屋の方向に枝打ちされているため妙な曲がり方をします。裏手の山のほうに足を運ぶと,石垣がある畑の跡を発見。外山さんと二人で急斜面に広がる畑跡を登って行くと,すぐに汗まみれになりました。外山さんとは「上に何かないかな?」とさらに道を進んで,送電線の鉄塔のあるところまで上り詰めました。

# 10-12
山掴からの帰り道,草を避けていると右手の小指を切ってしまいました。少し血が流れた程度だったのですが,不動橋バス停でバス待ちしていたところ,デザイナーの堀川さんが「手当てをしましょう!」と,消毒薬とバンドエイドで手当てしてくれました。慣れない山道の探索隊ということで,用意してくれていたのですね。「大人数の探索も良いものだ」と実感するひとときでした。
寂しげな音楽を伴った秩鉄バスが到着して,西武秩父に戻ったのは夜の6時頃。鼻を利かせて見つけた駅にほど近い居酒屋「福助」は,山菜をはじめ何を食べてもやたらに美味しく,特にウドの天ぷらと「秩父錦」は絶品でした。

# 10-13
美味い食事は良いフィールドワークの後に皆で食べること,美味いお酒は地酒を地元で飲むこと・・・ これも体験して実感できたことです。帰りの空いた西武線では全員ぐったり。電車は午後10時40分に池袋に到着し,隊は散会となりました。
この時のSCEチームは「プレイステーション2」で廃村をテーマにした和製ホラーゲームを製作するための取材を兼ねていたのですが,とても参考になり,かつ楽しめたとのこと。このゲームは1年強たった平成15年11月に「SIREN−サイレン−」というタイトルで発売されました。一度もプレステを触ったことがなかった私ですが,Special Thanksに名前を刻まれることでプレステとの縁ができました。




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