廃村・過疎集落探訪体験記 No.7
名寄・北山集落跡探訪
平成18年7月に建ったばかりの北山小学校の応援歌歌碑です。
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名寄・北山集落跡探訪 〜 北海道名寄市
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北海道在住の成瀬健太さんからの報告で,時期は2006年9月,場所は北海道名寄市の北山(Kitayama)という農山村集落跡です。
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平成18年の春、東京を旅行した際にHEYANEKO氏とお会いした。台東区内の呑屋で世間話をしている中「名寄にも無人となった集落がありますよ」と教えて呉れた。詳しく伺うと、名寄市北山(Kitayama)地区、御園(Misono)地区が現在無人となっているようである。必ず訪れます、と誓い日は暮れていった。
だが、何かと忙しく愚図愚図しているうちに季節は秋となってしまった。このままではいけないと思い、9月下旬に北山地区を訪ねることにした。
私が確認した北海道・道北(上川,宗谷,留萌支庁)の「学校跡を有する廃村」(学校の所在は昭和34年,以下 廃村と略す)は81ヶ所(集落跡50ヶ所,高度過疎集落31ヶ所)。北山は成瀬さんが東京に来るということで,名寄の地形図を見ているうちに偶然見つけた廃村です。
秋になり,一緒に出かけた台東区内の居酒屋が火事で焼けてしまい,そのことを電話連絡したのが,成瀬さんが北山を訪ねるきっかけになったようです。何かと縁とは不思議なものです。
午前6時起床。直ちに探訪できる服装に着替え、朝一の列車に乗る。最寄駅は北星駅(Hokusei-station)。牛山隆信著「もっと秘境駅へ行こう!」に登場する駅である。木造駅舎で、琺瑯看板が味わい深い。駅ノートを見ると結構、好事家が訪れているようだ。
北山地区は大正12年、道有地貸付に依って入植が始まった。当初の入植者は40戸を越え、大正15年に北山小学校(智恵文尋常高等小学校所属北山特別教授場)が開校している。本格的に増えるのは戦後に入ってからで、所謂「戦後開拓」である。戦災者入植(名古屋より26戸)を皮切りに、昭和20年代80人以上の学童が学んだ。
然し急傾斜地区、石礫地及び酸性土壌地である為農地としては「限界生産地」である事。冷害が重なり離農者が相次ぎ、昭和35年を境に離農者数が増大し、昭和46年時点で3戸となっていた。
近くの智恵文小学校改築に併せ、昭和52年統合(廃校)となった。従って
昭和52年までは3戸いたがゼロとなったのはそれ以降のことである。
(筆者注:北山集落跡に残る廃屋を訪ねたところ、昭和61年の年賀葉書が残されていたので、実質は昭和61年以降と推定される)
北星駅舎の琺瑯看板は,インパクトがありますね。これを見に訪ねる旅人も多そうです。北山への入口が宗谷本線北星駅というのも嬉しい話ですね(^_^;)
北山小学校は,児童数67名(S.34),へき地等級2級,昭和52年閉校。手元の資料では,「3戸となった」という昭和46年の児童数は7名でした。
年ごとの児童数を見ていると,昭和37年(53名→40名)と昭和39年(38名→26名)に急激な減少がありました。
北星駅を降り歩き始めて数分後、電柱に「北山」と表記され始めた。付近には古い家屋(倉庫)や畑があったが維持・管理されている様である。
その後、先人の功績を讃える石碑(昭和24年建立)による石碑が深い笹薮の中から顔を覗かせていた。近寄りたかったが用水路や背丈ほどに茂った笹により、諦めざるを得なかった。
また、開拓記念碑の傍に用途不明の小屋が残されていた。人が一人入れる程入れる広さであることから察するにバス停か?とも考えたが判らない。
草木に埋もれるように最早、ブロックの残骸と化した廃墟が姿を現した。中を覗くと酪農と思われる柵が残されていたが天井は風雪により曲がり、何時崩壊してもおかしくない。すぐ隣は急傾斜なので足下も覚束無い。若木に縋り付き乍ら斜面を下る。
北山の戦後開拓は,名古屋からの団体とのこと。各県の戦後開拓史を読むと,都市部からへき地への戦後開拓の入植はことごとく失敗しているようです。草に埋もれた碑を見ると「定着して,今も名寄近辺に住まれる方はいるのだろうか」と思えてしまいます。
用途不明の小屋,酪農の牛舎跡らしきブロック造りの建物。往時を偲ぶものが残っていると,探索も楽しくなりますね(^_^;)
今回、最も注目した廃屋である。引き戸を開けると家財道具が散乱していた。その中に古びた年賀状があったが、年度を見ると昭和61年であった。これから察するに、無人となったのは昭和61年以降と思われるも推定の域を出ず、真相は判らない。
廃屋も往時を偲ばせてくれますが,昭和60年代ぐらいのものになると,生々しく感じてしまいますね。昭和40年代ぐらいだと「しみじみ往時を偲ぶ」という感じになるのですが…
離村時期の違いは,廃村の個性に大きな影響を与えますね。年賀状や新聞,カレンダーは,集落が無人になった時期の推測によく役立ちます。
農家の廃屋を出て斜面を登ること10分。念願の北山小学校跡が見えてきた。校舎は既に無い。
昭和63年、当時学校長であった原義雄氏の葬儀の際記念碑建立の話が持ち上がり、平成元年8月16日玄関跡地に建立された。
すぐ傍には平成18年7月建立されたばかりの応援歌石碑がある。北山小学校は、校歌が無かったが応援歌が歌い継がれ、卒業生の記憶を辿り建立された。
校庭の跡には雑草が生え、植樹されたと思われる木が傍にあった。
学校跡が見つかると「たどりついた」という達成感ができてよいですよね(^_^;) 送っていただいた名寄新聞の記事によると,学校跡地の草刈りは関係者の会によって毎年行われていて,平成17年8月には草刈り後にジンギスカンの会食があったとのこと。
この会のときに行けば,北山にまつわるいろいろな謎が一気に解けそうです(^_^;)
記念碑に加えての応援歌の石碑建立は,関係の方々の結びつきの強さが垣間見れるところです。しかし,新聞の記事を見るだけでは,北山は住民の方が住む学校跡のある集落のようにも見えますね。「廃村となった故郷の学校跡に応援歌の石碑建立」というように記してほしかったところです。
今回初めて、無人となった集落を訪ねた。今迄は炭鉱遺跡ばかり巡っていたが、無人となった集落探訪、無人となるまでの経緯等どれをとっても興味深かった。情報提供してくれたHEYANEKO氏に深く深謝すると共に、今後も機会があれば亦、調べてみたいと思う次第である。
成瀬さんの炭鉱遺跡探訪のレポートは,「北海道の建物」Webに掲載されています。どれも丹念に調べられていますが,特に沼田町の昭和炭鉱の随道マーケット跡のレポートは秀逸です。
炭鉱跡と比べて,農山村集落跡はいかがでしたか。道北の81ヶ所の「学校跡を有する廃村」のうち,9ヶ所が鉱山集落,残り72ヶ所は農山村集落です。機会があれば,北山の調査とともに,他の農山村集落跡も訪ねて,どんな様子か知らせてくださいまし(^_^;)
北海道の中でも特に距離を感じさせる道北の廃村には,私はなかなか行くことはできません。遠く離れた場所のことを知らせていただけると,とてもありがたいです。投稿いただき,ありがとうございました。
参考文献
・名寄新聞 平成18年7月19日
・新名寄市史 第1巻「教育」,H.11.11.30 名寄市史編さん委員会
・新名寄市史 第2巻「農業」,H.11.11.30 名寄市史編さん委員会
・「名寄市戦後開拓記念誌」,S.46.6 神能賢治他編
・「郷土資料報告bT」,1990.3.31 名寄市郷土資料室
(C) 12/01/2006
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