まえがき

ロードマップ( 24KB ) 地図
アジア主要国年表( 15KB ) 年表
シルクロード諸都市( 15KB ) 地図

 私がシルクロード(l)に強く興味を持ったそもそものきっかけは、 ある日の朝刊に載っていた新聞小説(2)の挿絵に心ひかれたことにある。 ずいぶん昔のことだが、そのときの挿絵は簡単な中央アジアの地図で、 中国の漢の時代の交通路と都市名、国名等が記されていた。 その地図の真ん中あたりにあったバクトリア(3)という国と、 バクトラという都市の名が私の心を妙にひきつけた。

 それから私は地図帳や百科事典で、その町が今のどの辺に当たるのか調べてみたが、 今のアフガニスタンのあたりにあったというだけで、詳しいことは解らなかった。 しかし、中央アジアの地図を見ているうちに、 こんなに高い山や砂漠がある所ってどんな様子なのだろう、そこにある国は、 人々はどんなだっただろう、そこへ通じる道はどういう道なのだろう、 どこを通っていたのだろうと、どんどん擬間が湧いて釆て、 本を読んだり写真集を眺めたりするようになった。

 調べてみたら、その小説が連載されていたのは昭和48年から49年までで、 私が中学一年のときであるから、シルクロードとももうずいぶん長い付き合いになる訳だ。

 それからも大月氏国(4)だのクシャーン朝(5) だの不思議な名前のシルクロードの国々を知ったが、 いずれも今はもう跡形もない謎の国々で、興味は尽きず、大学では東洋史を学んだ。 そして時には実際に旅行して、シルクロードの国々を見て釆た。 訪れた国々は、インド・ネパール・パキスタン・中国……、 その歩いてきたルートは幾つもあるシルクロードのうちの“仏教の道(6)”  と呼ばれるルートにほば匹敵する。 別に“仏教の道”を辿ろうと最初から意識して行った訳ではなく、 中国・新彊へ行こうと思ったときにそのルートを辿っていることに気が付き、 それならインドから中国への私の旅を完成させよう、 そしてそれを文章に残してみようと思い付いたのだった。

 最初の旅はもう8年も前のこと。 だから最近行った中国以外の国については新鮮な旅行記にはならないけど、 思い出話を集めながら、私自身の『西遊記』を作ってみたいと思う。

 なお、解りにくいと思われる語句について各項の終わりにまとめて注記した。 地名については巻頭と各章の地図を、中国・インド・ペルシャ等の王朝名は 巻頭の年表を参照のこと。


(1)シルクロード
シルクロードの語を最初に使ったのは、ドイツの地理学者リヒトホーフェン。 彼はその著書の中で、中国の絹が中央アジアを経由した東西交通路で運ばれたことから、 このルートをザイデン・シュトラーセン Seiden Strassen“絹の道”と呼んだ。

(2)新聞小説
『火の回路』松本清張著。昭和48年6月〜昭和49年10月、朝日新聞朝刊に連載。 昭和50年、文藝春秋から『火の路』と改題され出版、文春文庫にも入っている。

(3)バクトリア
中央アジア、アフガニスタン北部にある地方の古名。 バクトリア王国は、紀元前3c〜2c、アレクサンダー大王の東征後ギリシア人が建てた国。 首都のバクトラは現在のアフガニスタンのバルフとされているが確証はなく、 未だ不明。

(4)大月氏国
紀元前2c〜1c、アムダリヤ河の北側の地域からアフガニスタン北部にかけて栄えた国。 月氏はもともと中国北方で遊牧を営んでいたが、隣国の遊牧国家、 匈奴に攻められ西に移動、バクトリアを支配してその地に留まった。

(5)クシャーン朝
紀元前1c後半、大月氏国に代わってその地方を支配、 以後西北インドに勢力を伸ばし6c頃まで続いた王朝。 カニシカ王のとき領土は最大となり、また仏教も栄え東への伝播を担った。

(6)仏教の道
仏教がインドから中国に伝わったルートは、 まずマウリヤ朝アショーカ王のとき西北インドに広まり、クシャーン朝の頃、 アフガニスタン辺りにまで広がり、更に中国新彊地方に伝えられ、 中国には後漠の頃到達した。中国の求法僧たちはこのルートを逆に辿り、 インドに向かった。故にインドと中国を結ぶ道は“仏教の道”でもあるという訳だ。


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