5.果てしなき大地 - 中国(2)

トルファン〜ウルムチ( '88 )
酒泉〜敦煌( '88 )
西安〜蘭州( '88 )

◇ 敦煌

 酒泉から敦煌まではバスで7〜8時間掛かる。 たいした距離ではないが、このバス旅は何故かとてもきつかった。 午前中は快適だったが、安西で昼食休憩した後が大変だった。 朝は寒いぐらいだったのに、午後になると急激に暑くなり、 体が気温の変化についていけないという感じだった。 風景は単調なゴビ灘ばかりになり、開けっ放しの窓から入ってくる熱風と砂ぼこりにはうんざりした。 うとうとと眠ったりしていたが、体に感じる疲れはどうしようもなかった。

 やっと敦煌に着き、第二賓館に宿を取り、部屋に入ったらとうとう一歩も動けなくなってしまい、 そのまま着替えだけしてベッドに横になってしまった。 夜、まだだるかったが、同室の女の子たちと食事に行き、 少しでも食べなきゃと無理に食べた食事が更に悪かったらしく、朝方の4時頃下痢と共に戻してしまった。 吐き気は直ぐに治まったが、下痢は止まらない。 出るものがなくなると水便が限りなく出るのだ。 お陰で体中の水分が抜けてしまったようだった。

 翌朝も動けなくて寝ていた。 午後から莫高窟へ行こうと思っていたが、ちょうど竹下首相(当時)が来ていて一般人の見学はできないらしいとのこと。 仕方がないので昼も寝ていて、 夕方、自転車を借りて沙州故城と白馬塔(1)を見に行った。 下痢のせいで体がだるく、力が全く出ない。 水ばかり欲しくなり、外出するのはきつかった。 少し脱水症状を起こしていたのかもしれない。

 日没の頃、鳴沙山へ行こうとしたら、道に公安局の人がたくさん立っている。 これはきっと竹下が行くせいだ、こりゃだめだと思い、すぐ引き返した。 莫高窟の見学禁止は翌日の午前中までだし、竹下一人のお陰ですっかり予定が狂ってしまい、 私も同室の学生たちもぶーぶー文句を言っていた。 もっとも私にとってはいい休養になって良かったのかもしれない。

 その日の夜中も何度もトイレに通った。水分が欠乏しないようにお湯を飲み、ひたすら通った。 何回も旅行に出てるが、動けなくなる程の疲れと下痢は初めてで、 どうなることかと思ったが朝になると下痢は止まった。 午前中、部屋でごろごろしているうちにだいぶ元気も出てきて、午後からの莫高窟見学も大丈夫なようだ。 この回復力、まだまだ私も捨てたもんじゃない。

 莫高窟は敦煌の街からバスで30分程の所にある、大規模な石窟寺院である。 井上靖の小説(2)で良く知られ、 ちょうどこの年映画にもなり、日本人観光客は増える一方のようだった。

 ゴビ灘の中をずんずん走って行くと、鳴沙山と三危山というこつの山並みが見えてきて、 その山の間を流れる乾いた河に沿って行くと、美しい緑の林が鳴沙山の崖っぶちに続いている。 崖にはたくさんの窟穴が開いている。 これが莫高窟である。 4世紀半ばの五胡十六国時代から13世紀の元代まで、 営々と造られた窟は全部で600余りもあると言われる。 その中で壁画や塑像があるのは492窟だそうだ(3)

 見学は中国人と外国人に分けられ、中国人は入場料が安い。 しかしいつも開いている大仏窟と時代の新しい幾つかの窟しか見られない。 外国人のほうは高いかわりにガイドが付き、比較的古い窟、重要な窟も鍵を開けて見せてくれる。 午前午後で合計20窟位見せてくれるのだが、この日は午後だけなので15窟位しか回れなかった。 せっかくここまで来たのにこれだけじゃつまらないから、 翌日もまた見学することにしてホテルに戻り、夕方、鳴沙山と月牙泉の観光に出掛けた。

 前日は行けなかったが、もう竹下さんも帰ったし、この日は支障なく行くことができた。

 自転車で町のすぐ外にある巨大な砂山を目指す。 その巨大な砂山の連なりが鳴沙山で、ずっと莫高窟の方まで続いている。 土産物屋の前で自転車を降り、砂山を登る。 その砂山の向こうに月牙泉という写真でよく見るきれいな池があるのだ。 観光客は敦煌に来ると必ずここに来て砂山に登り、青く美しい月牙泉を眺め、余裕のある人はラクダに乗る。 最初からラクダに乗って月牙泉へ行ってしまう人もいるが、 やはりあの巨大な砂山を登らなければ価値が半減するというのが大方の意見だ。

 砂山はかなり高く(50m位だろうか、よく解らない)しかもさらさらの砂で、 一歩踏み出すとその半分位はずり落ちてしまう。 病み上がりの私にこの登山はとても辛く、 裸足になってぜーぜー言いながら必死に登っていたら、 側を追い越して行った中国人のアベックに笑われてしまった。

 やっと頂上に着くと眼下に月牙泉が見えた。 空が曇っているので残念ながら青くない。 風に砂が舞い飛び、コンタクトをしている私はサングラスが外せない。 暗いサングラスの視界に月牙泉は黒く沈んで見えるだけだ。 振り返ると緑の敦煌の街。 遙かに広がるゴビ灘。 ここから見る日没と月の出が素晴らしいと聞いてその時間に来たのだが、 雲は厚く全く望めない。

 写真を撮りつつ砂山を月牙泉に向かって滑り降りる。 池の側に4,5軒家があって、夕闇迫る砂の中に小さな明かりを灯しているのが印象的だった。

 やがてラクダ引きが現れて乗れとしきりに勧める。 観光客には吹っかけて来るが、相場は聞いて来たのでまけさせてラクダに乗る。 ラクダに乗るのは初めてだ。 乗り心地が悪いと聞いていたけど、本当に大きく揺れる。 けれど砂の中でラクダに乗るのはやっぱり良い気分だ。 さっきの家々からかすかにここら辺の音楽が聞こえてきて、 ホントに砂漠のオアシスにでもいるような気分が味わえた。 面白かった。

 翌日は一日かけて莫高窟を見て回った。 昨日に見た窟以外にも幾つか見ることができた。 良かったのは初期の北秋や北周の頃造られた壁画。 いかにも西域風の変わったタッチが面白い。 それに唐代の優美な壁画と塑像。 ガイドさんが詳しく説明してくれるのだが、英語なのでよく解らない。 代わりにガイドブックを読みながら見て回った。

 窟から窟へは窟の外に付けられたベランダ状の廊下を渡っていく。 こりゃ仏さんのマンションだねと誰かが言った。 上からは砂が絶え間無く降って来る。 ここの人々の努力がなければ莫高窟はとっくに砂の中に埋まってしまっていただろう。

莫高窟の菩薩様

 ところで今回の旅には、莫高窟第45窟の唐代の菩薩様を見るという一つの大きな目的があった。 45窟の菩薩様は莫高窟で最も美しい塑像として有名である。 私もこの夢見るような表情の菩薩様を写真で見て以来、どうしても実物が見たくて、 お顔がよく似ている奈良の秋篠寺の技芸天に願かけなぞしていたのだ。

 やっと敦煌に来て菩薩様に会えると思ったのに、45窟は参観できなかった。 ガイドさんに聞くと更に50元払ってやっと特別に見せてくれると言う。 50元は大金である。日本円にすればせいぜい2000円位だが、中国ではこれだけあれば何日も暮らせる(4)。 ちくしょー、暴利をむさぽりやがって!!と怒ってみたところで、 向こうは金を払いたくないなら見るな、という態度(?)なのだから仕方がない。 せっかくここまで来たのだからと大枚払うことにした。 一緒に回った学生たちにはクレイジーと言われてしまった。 みんな50元が大金であることをよく知っているからだ。 まぁ確かにそういう所もあるなぁと自分でも思う。 でも旅に目的がある以上、できるだけ果たして帰りたい。 他の人には奇異に見えても……。

 午前の見学が終わると3時まで休憩である。 見学で一緒だった男の子が2人、窟の掘られている崖の上へ登りに行くと言うので付いて行った。 休憩時間中は窟の回りの柵から締め出されているので、 柵のない所へ回って登りやすそうな所を見つけて登って行った。

 崖の上は広々とした砂漠だった。 砂漠と言っても固い地面に砂がまぶしてある程度で、所々の窪地に砂が吹き溜まっている。 その向こうには月牙泉で見た砂の山が連なっていた。 ここも鳴沙山の一部だから、あの砂山を越えて行けば月牙泉に出られるのだろう。 反対側を見ると崖の下は緑の森と涸れた河、 その向こう岸はこちら側と同じように乾いた大地が広がり、 その背後に三危山がしわしわの山肌を広げている。 広々としたとても良い景色だ。

 崖の際に沿って、大仏窟の方へ向かって歩いた。 その広々とした風景の中にいる人間は私たち3人だけだった。 崖の下の森の中には人がいるはずだったが、誰もいないように静まり返っていた。 音のない世界を私たちは黙ってばらばらに歩いていた。 四角い大きな塔が目印のように建っている。ストゥーパか誰かの墓か。

 古来、莫高窟の参拝者は敦煌の街から鳴沙山を越えて来て、 この崖の上から降りて行ったのだそうだ。 こんな何もないだだっ広くて書いだけの砂漠を、砂まみれになって歩いて来るのはどんなに大変だったろう。 自分もこうして歩いてみて、初めてそれが実感として解る。

 大仏窟の所まで来て、まだ先へ行くと言う男の子たちと別れて、一人で今来た道を戻った。 たった一人になると急に怖くなってきて、早足で逃げるように先を急いだ。 広い広い所にただ一人きりで居ることの何と心細いことか。 思わず神様!!と祈りたくなる位だ。 苛酷な土地に生きる人々には、やはり神様は必要だとつくづく思う。

 午後残りの窟を見学し、その後いよいよ45窟を見学する。 他の人を皆柵の外に出し、私と一緒に50元払った物好きな(?)女の子と二人残って、 ガイドさんに案内してもらう。

 45窟は想像していたより広い感じで、正面奥の高の中に本尊の如来、 その両脇に釈迦の十大弟子のうちの迦葉、阿難、そしてお目当ての菩薩が二体、一番外側に天王がこ体並んでいる。

 菩薩様はほの暗い窟の中で確かに夢見ていらっしゃった。 白い肌も赤い唇も少しひねった腰も女性のような美しさだが、 どこか人間離れしていてなまめかしい感じはしない。 その美しさは人間ではなく菩薩様の美しさなのだ。 そして目を伏せた表情は確かにまどろんでるようにも、 うっとりと夢を見ているようにも見える。 こんなに素晴らしく美しい菩薩様を間近で見られて、涙が出そうなはど感激した。

 阿難さんもきれいだった。 お釈迦様の一番弟子だった迦葉さんと阿難さんは共に僧形で、 迦葉さんは老相だが阿難さんは若い相に造る。 この阿難さんは静かで優しく、しかも青年らしい涼やかさを持った美しいお顔をしている。 この方は坊さんだけど人間の男性であることは解って見ているので、思わずホレてしまいそうだった。

 壁画も立派なもので、南の壁に描かれた観音様の功徳を解いた絵では、 盗賊に脅されている商人や嵐にあった船の様子なんかが描かれていて面白い。 最後にガイドさんが足元を指さして「あなたがたが立っているこの床も唐代のものです」と言った。 床には優美な唐草と花の模様が彫られた(5)が敷き詰められていた。

 じっくりゆっくり見て30分位はそこに居ただろうか。 名残惜しかったが窟を出た。 ガイドさんに拙い英語でお礼を言い、45窟の感激を伝えると、 来年はまた別の窟が全開されますから是非また来て下さいと何度も言ってくれた。 彼女は良いガイドだった。 説明も丁寧だったし、私たちが45窟を見るのにいろいろと骨を折ってくれたし、 45窟で、いつまでも出ようとしない私たちにせかしたりせず最後まで付き合ってくれた。

 敦煌ではいろいろついてないことが多くて気が滅入っていたが、 最後に目的が果たせて、それがまた本当に素晴らしいものだったから、 今までの苦労が全部報われたような思いだった。 これで心置きなく敦煌を離れることができる。

 翌朝、バスで敦煌を後にし、柳園へ向かった。 次の目的地はトルファンである。 柳園からウルムチ行きの各駅停車に乗り、ゴビ灘の中をトコトコ進んで行く。 河西回廊から新彊へ、私の旅もいよいよ佳境へと入っていった。


(1)沙州故城と白馬塔
沙州故城は漢代の城壁の跡。 白馬塔へ行く途中の道からそれとおぼしき大きな土魂が見えた。 白馬塔は五胡十六国時代のクチャ出身の僧鳩摩羅什(くまらじゅう)が、 愛用していた白馬がここで死んだので、それを供養するため建てられたものと言われている。 とうもろこし畑のど真ん中に白い大きな塔が建っているが当時の物ではなく、 後世に補われたか造り直されたものらしい。

(2)井上靖の小説
昭和34年に書かれた『敦煌』。 敦煌・莫高窟の一つの窟に膨大な経典顆や古文書が隠されていた謎をモチーフに史実と想像で描かれた歴史小説。 新潮文庫に入っている。

(3)窟の数
『西安からカシュガルへ』長沢和俊著(旺文社文庫)P43〜48を参照した。

(4)50元という金額
中国はとにかく物価が安い。 ラーメン一杯が5〜8角(20〜32円、角は元の1/10の単位)程度で食べられる。 旅行者にとってはホテル代やホテルでの食事が結構高くつくので一日に20〜70元位使うが、 それを日本で旅行した場合に当てはめて考えてみると、50元は大体1万円というところか。 中国人民にとっての50元は、彼らの平均月収が100元位なので100元=20万円位として、 つまりは10万円もの価値があるということになる。

(5)傳(せん)
レンガ、敷きがわらの事。長方形や方形で表面に絵や文様や文字を入れ、 墓室や寺院、仏塔の壁面に貼り付けたり床に敷いて装飾となした。


戻る (C)Copyright 1998 ShinSoft. All rights reserved. 次へ