5.果てしなき大地 - 中国(2)

トルファン〜ウルムチ( '88 )
酒泉〜敦煌( '88 )
西安〜蘭州( '88 )

◇ 中国ひとり旅

 中国・新彊への旅から帰って来て幾日も経たないうちに、 性懲りもなく私はまた次の旅行のことを考えていた。 今度はウルムチから西安まで、トルファンや敦煌に寄りながら旅してみよう。 そうすればネパールに始まった私の旅は、インド、パキスタン、中国と仏教伝来の道を辿り、 シルクロードの終着駅、古の長安=西安でうまく完結するではないかと思ったのだ。 そして今度は個人で行ってみようと思った。 ちょうどその頃、中国自由旅行が盛んになってきて、 『地球の歩き方』の中国編も詳しいのが出るようになっていたからだ。

 チャンスは2年後の1988年に巡って来た。 その年の6月で会社を辞めることになり、その後は半年くらいぷう太郎でいようと思っていたので、 夏の間に一ヵ月位は行けそうだった。 だが、同行者がいないとやっぱり不安である。 大学時代の友人を誘ったりしたが、一ヵ月の長期旅行に付き合うのは無理というもので、 結局一人で行くかツアーで我慢するかになってしまった。

 随分悩んだが、思い切って一人で行ってみることにした。 心配する親には、これっきりにするからと言って、何とか説得した。 そして8月19日、私は再び機上の人となって、まず香港に向かったのだった。

 香港には夜着いて、何も見るヒマなく次の朝出発した。 旅行会社の人が付いて来てくれて、国境での手続きを全部やってくれた。 やはり自分でやるのと違ってスムーズだし楽である。 このとき、一緒に中国に入国したのは私ともう一人の女の子の二人だけだったが、 その子は何と中国人と結婚して広州に住むのだ。 そういう人もいるのだなぁと感心する。

 近代的な街並みの香港から、中国側の国境の町シンセンへ。 この町はかなり近代化されているが、そこから一歩出ると、のんびりとした田園風景になる。 ちなみに列車は香港では電車だが、中国に入るとすべて汽車である。

 2時間程で広州に着いた。 ここまで国際旅行社の人が付いて来てくれて、ホテルを紹介してくれ、 西安までの航空券も手配してくれた。 したがって、何もかも一人でやるのは西安からとなった。

 次の日、中国民航で西安へ飛ぶ。 言葉が良く解らないこともあって、気を付けていたつもりだったが、 搭乗時間が早まっていることに気が付かず、危うく乗り遅れそうになった。 ギリギリで乗れてほっと胸を撫で下ろしつつ、 ちゃんとしつこいほど聞いて確かめないとだめだと肝に銘じた。

 一人歩きと言っても、詳しいガイドブックはあるし、 どこの町でも市内地図が売られているので、あまり困ることはない。 最初のうちでこそ、バスに乗っても料金が解らず、 車掌さんに解らない中国語をまくし立てられて、ドギマギしていたが、 それでも何とかなってしまうものである。

 西安に着いてからはバスで市内へ行き、宿を取り、両替したり、 列車の切符を取りに行ったりと早速たった一人の旅が始まった。 要領を得ず、随分ウロウロまごまごしていたが、何とか全部の用事を済ますことができた。 案ずるより産むが易しという感じだ。

 西安の街は並木がきれいだった。 街の真ん中に明代に造られた鐘楼(1)が鎮座し、 明代の城壁で囲まれているところがいかにも古都といった感じだが、 この明代からの街はそれより昔の唐の都だった長安に比べれば、 ずっと小さくひなびていて、都だった頃の華やかさを忍ぶよすがはほとんどない。 それでも碁盤の目状の並木道を歩きながら、城壁の楼門を見上げながら、 長安の都を想像することはできた。

兵士俑

 翌日は郊外の兵馬俑と華清池を見た。 兵馬俑は秦の始皇帝の陵墓の言わば副葬品で、 兵士や馬の等身大の人形が隊列を作った状態で埋めらていた。 その出土した場所には体育館のような大きく広い建物があって、中に入ると、 今掘り出されたばかりといった感じで、 たくさんの兵士と馬の(2)が掘り下げられた土の中に整然と立っている。 しかもそういう状態にあるのは建物の半分位で、 残りは埋め戻されているのかまだ掘られてないのか解らないが、土の地面があるだけである。 出てくるものもすごいけど、こういう保存は日本じゃ絶対にできないからそちらもすごい。さすがは中国。

 華清池は唐の玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだ温泉地として有名な所だが、 池の水が渦れてて思ったよりきれいではない。 写真も上手く撮れなかったし……。 それよりバスの中で隣り合わせた一家のおじいさんと片言で話したり、 その孫と思しき子供にざくろを貰ったり、 華清池で英語を話すおじさんと片言会話したことのはうが面白かった。 やっぱり個人旅行でないとこういう楽しさは味わえない。

 観光も終わり、夕方西安を発とうとして失敗に気付いた。 切符を見ると日付がその日ではなく、翌日になっている。 その訳は後で解ったのだが、私の乗ろうとした列車は一日おきに行き先が変わるもので、 その日はウルムチ行きではなくコルラ行きだったのだ。 私はウルムチまでと言って切符を買ったので、 窓口の人はその翌日のウルムチ行きを取ってくれたのだった。 気が付かなかった私がバカだった。 どうしよう!! 切符を書き換えて途中まで乗って行くか、翌日まで待つか迷った。 けれど早く西へ行きたかったので、とりあえずそのコルラ行きに乗って、 途中の酒泉まで行くことにした。

 駅でウロウロしていると、華清池で会った英語おじさんに偶然会い、 これ幸いと訳を話して切符の日付の書き換えを頼んでやって貰った。 そしてどうにかその列車に乗り込むことができたのだった。

 当然ながら無座=席無し(3)である。 ガイドブックに列車弁公室(車掌室のようなもの)に行って頼めば席が取れると書いてあったので、 やってみたが全然だめだった。

 仕方なく通路に場所を確保し座り込む。 パキスタンで経験済みなので、一晩位の通路座り込みなら平気である。 やがて側にいた若い女性二人と男性一人とで筆談が始まった。 中国の漢字(4)は形が少し違うし、意味も随分違うので、読むのは難しい。 辞書を引きながら、やっとその意味をおぽろげながら理解し、 今度はこちらが単語を書き連ねる。 これを相手が読んでにっこり笑ってうなづいてくれると、 やったあ!!通じた!と本当に嬉しくなる。 彼女らは直ぐに私を朋友(ポンヨウ=友達)にしてくれ、 私は日中友好に一役買ってるぞと内心うなづきつつ、難しい漢文に取り組み続けた。


(1)鐘楼
楼閣の上に産を吊るし、時を知らせる時計台のような物。 古くからある町の真ん中の十字路に建っていることが多い。 西安では鼓楼というのもあって、こちらは太鼓が置いてある。 やはり時を知らせるために使った。

(2)俑
死者を葬るとき殉死者の代わりに副葬する人形(角川『新字源』より)。 死者が死後も生前と同じような生活が送れるようにとの願いから、 人形だけでなく家・家畜など生活に結び付いた様々な俑がある。

(3)無座
中国の列車の座席の種類は、軟臥(一等寝台)、硬臥(二等寝台)、 軟座(グリーン車(?))、硬座(普通車)の四種類。 全て指定で切符を買うとき指定する。 もちろん席が空いてなくてもその列車に乗ることはできる (無座という形で席が空いたら自由に座って良い)。 いずれにしても列車の指定は必要で、 何日のどの列車に乗ると書かれた紙が切符に貼ってないと列車には乗れないのだ。 だから乗り換えや変更したいときなどは、いちいち書き換えて貰わなければならない。

(4)中国の漢字
今日本で使っている漢字は紛れもなく中国で使われているのと同じものだが、 簡略化されていたり(例えば澤→沢のような)、 日本で作られた字(峠など)なんていうのもある。 中国は中国で漢字の簡略化が進んでいて、 中には元の字が想像できないほど簡単になってしまった字もあるので、 そういう字を覚えてないと筆談をするのもなかなか難しい。 しかし発音は全く違うので、直接会話するよりずっと楽なのは確かである。

華清池へのバスの中でおじいさんとの会話

 華清池へ行くバスに乗り込むと、隣のおじいさんがのんびりとした口調で話しかけてきた。

じいさん「シェモディーファンライラ?(どこから来たんだね)」
この単語は中国語会話の本にあったので直ぐ解った。
わたし「リーベン(日本)」
じいさん「リーベン(日本?) リーベンレン?(日本人?)」
わたし「シー(はい)」
じいさん にっこり笑ってうなづく。

 これだけ。 でもこれだけでもフツーのおじいさんと話せたということがとても嬉しかった。
この後おじいさんは孫らしい子供に何事か言い、子供は私においしそうなざくろを分けてくれた。


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