ルートマップ・NEPAL( '81 ) 地図 前漢時代の中央アジア 地図 |
◇ カトマンドゥへ
最初の旅の目的地、それは仏陀の生まれた国(1)、ヒマラヤの山国ネパールだった。 1981年2月初め、寒い日本を離れ、バングラデシュ航空のボロボロの飛行機でまず中継地のバンコクへ。
当たり前のことだがバンコクは暑かった。 ホテルの近くのレストランの、クラッシュアイスのたっぷり入ったオレンジジュースが美味しかった。 汗だくで街を歩き、チケットを手配したり、買い物をした。 ここで早くもメンバーの一人が盗難に遭い、貴重品を取られて足止めを食うというアクシデントがあり、初旅行の浮かれ気分にしっかり水を差された形でカトマンドゥへ出発したのだった。
カトマンドゥ行きの飛行機はポロくはなかったがとても小さく、これまた少々不安な感じだったが、何事もなく飛行機はもうすぐ着くよと言わんばかりに高度を下げ始めた。 それで外を覗いて見るが、街の灯が見えて来ない。 変だな、まだかしらと思っていると、いきなりドスンと着陸して着いてしまった。
飛行機からターミナルまでバスはなく、歩いて行った。 ターミナルは小さくて薄暗くて古ぽけてて、どうみても辺ぴな田舎の飛行場で、とてもネパール第一の国際空港には見えない。 ウーン、さすがはネパール。
通関手続きを済ませ外に出ると、先輩方の話に聞いていたとおり、群がる人、人、人。 タクシーの客引き、荷物を運んでカネをせびろうとネラうガキども、黙って手を差し出す乞食のおばはん、その他大勢が私たちを取り囲む。 アジア方面の旅行では、これは一種の通過儀礼である。 同行の先輩が客引きと交渉するのを見ながら、一人ならこれは怖いだろうなと思う。 経験豊富な先輩たちと一緒だからこそ、平気な顔をしてそこに居られるのだ。
タクシーも決まり、市内へ向かったが、道中も街の中も真っ暗である。 その日は停電だったのだ。 道理で空から見ても真っ暗だった訳だ。ネパールでは停電は日常茶飯事なのである。
タクシーの運ちゃんは私たちの行きたいホテルになかなか行ってくれず、宿に落ち着くまでも一騒動だった。 タクシーは自分のリベートの取れるホテルにしか連れて行かない。 それに客が逆らうと、ひどいときには喧嘩になってしまうのだ。 これも一つの通過儀礼である。私たちも粘ったけど、とうとう運ちゃんのご推薦ホテルに行かざるを得なくなってしまい、諦めてそこで一泊した。 アジア方面の旅はどこでも最初が大変なのだ。 しかしその一苦労を終えて、皆しみじみとアジアに来たんだなあと思うのではなかろうか。
やっとのことで宿に落ち着いてホッとして、食事で外に出ると、きれいな星空が目に入った。 日本とまるで違う暗い街の中で、その星空はとてもとてもきれいに見えた。
そのころのカトマンドゥは(今でもそうだろうけど)旅人に人気のある町で特に日本人に受けが良く、たくさんの人が滞在していた。 私もこじんまりとして賑やかで、しかものんびりしているこの町がすぐ好きになった。 曲がりくねった路地や道にあふれる人、リキシャ(2)、牛……、街角のほこら、道端の物売り、気安く日本語で呼びかける土産物屋。 雑然としているけどのんびり落ち着けるのは、人々がどことなく日本人に似ていて、性格も穏やかであるせいなのかもしれない。 カトマンドゥに滞在していたのは4日ほどだったが、観光巡りのかたわら街中を歩き回り、お店を覗いたり、古い民家の見事な窓枠の彫刻を眺めたりして、初めての異国の異国情緒あふれる街を見て歩くのが楽しかった。
観光で良かったのはバクタブール(バドガオン)。 カトマンドゥ近郊にある古い小さな町だ。市内から中国製のトロリーバスで、菜の花の咲くきれいな田園地帯を30分ほど行った所の丘の上にある。 カトマンドゥとその周辺の古い建物はレンガ造りだが、窓枠や軒を支える柱は木で、見事な彫刻が施されている。 バクタブールにはこのような建物が良く残っていて、古い家々を見上げながらレンガ畳の細い路地を歩いていると、もう何百年も時が止まっているような感じだ。 そんな静かな街角に人だかりができている所があった。 覗いてみると、鬼のような面をかぶった男たちを子供たちが取り囲んではやしたてている。 鬼が来るとワッと逃げる。 鬼追いの行事か何かだったのだろうか。 タイムトリップには満点の演出だったなあ。
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