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ケルマーンシャーは標高1600m、岩山に囲まれた町だ。夜はすっかり冷え込んで、朝も涼しく厚手の上着を着た。外に出れば、真っ青な空に岩山の荒々しい岩肌が映えて素晴らしい景色だ。
町のすぐ後ろの岩山の麓にわき水の池の公園がある。そこにサーサーン朝の遺跡、ターゲ・ボスターンはある。岩肌に大小のアーチ型洞窟が掘られ、そこにサーサーン朝の王のレリーフが彫られている。大洞窟の方が特に素晴らしい。正面の騎馬像や叙任式図は顔が削り取られ、詳細もはっきりしないが、左壁の猪狩図、右壁の鹿狩図、外壁の天使像や唐草の装飾図などが面白いのだ。
アケメネス朝のレリーフに比べると肉厚で表現も硬く大まかだが、とにかく意匠力に優れている。円環を捧げ持ち飛んでいる天使はギリシア・ローマの影響がありありとうかがえ、西洋の天使そのものだ。だが飛んでいるその形はそういうデザインとして東に伝わり、飛天となり敦煌の莫高窟や遙か日本の奈良時代のお寺にまで現れる。狩猟図や唐草の模様もまた一つのデザインとして東方に伝わっている。
大洞窟と小洞窟、さらにその隣の岩壁にある王のレリーフにはサーサーン朝のファッションがうかがえる。アケメネス朝の襞のある長衣はすっかり姿を消し、王たちは膝丈の上着にフリル付きのパンタロンをはいている。前の時代の遊牧国家パルティアの服装が残ったのだろうか。そんなことを考えつつ図を眺めるのが楽しい。
ターゲ・ボスターンを出発し、ケルマーンシャーを離れハマダーンへ向かった。途中、ビーソトゥーンとカンガヴァールの遺跡に寄る。
ビーソトゥーンにはアケメネス朝ダリウス1世(大王)の戦勝記念レリーフがある。岩山の高い崖の下から3分の1くらいの所に彫られているのだが、なぜわざわざそんな高い所に彫ったのだろう。昔はそれほど高くなかったのか(地面が隆起?まさか!)、崖下に何か別の構造物か建物でもあったのだろうか。それとも高い所に彫ることに意味があったのだろうか。どうもその意図がよく理解できなかった。直下までいって見られればよかったのだが、工事中で足場が邪魔し、離れた所から双眼鏡などで見るしかなかった。
カンガヴァールにはパルティア時代のアナーヒター神殿の跡が残っている。これまでずいぶん遺跡を見てきたが、パルティア時代のものは初めてだ。丘の上に残る基壇は大きいが残っているものはない。ただ遺跡の隅っこに柱が幾つか残っていて、その柱がアケメネス朝のものと比べるとずんぐりと太くて高さも低いのが特徴的だった。
丘の上からは町とその向こうの草原が一望に見渡せた。とてもよい眺めの所だ。今はもう何もないけれど、ここにどーんと大きな神殿が建っていたら、草原をやって来る旅人には素晴らしく目立って見えたのだろうな。
昨日と同じように麦畑や草原の広がる伸びやかな高原をバスは走った。ハマダーンはアケメネス朝の夏の首都エクバタナのあった所で、この道を通って王様がスーサとエクバタナを行き来していたのだ。その意味ではこの道も「王の道」の一部に違いない。古くて由緒ある重要な幹線道路だ。サーサーン朝に作られた古い石の橋なども見られる。遙か中国にまで続く歴史の道、文化の道、と思うと感慨深い。道自体はなんてことない草原の一本道なんだけどね。
ハマダーンへの最後の峠を越えると、雪をいただく山が見えてきた。ザグロス山脈の最も深い所へ入ってきたようだ。そしてその山の麓にハマダーンの町があった。
標高1800mの高原の町は、イランの人たちが避暑に来るイランの軽井沢のような所だ。夏は地獄のような暑さになるスーサを逃れ、ここに夏の都を造ったアケメネス朝の王様の気持ちはよくわかる。
この町の見所は町のはずれの渓谷沿いにあるギャンジ・ナーメと呼ばれるダリウス大王とクセルクセス1世*1の碑文、それと「エクバタナの丘」と呼ばれている王都エクバタナの発掘現場である。
碑文の方はペルセポリスやビーソトゥーンにもあるように、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語(アッカド語としているガイドもある)の3種類のくさび形文字が並んで彫られている。この碑文の3カ国語を比較研究し、初めて古代ペルシア語が解読されたのだそうだ。ギャンジ・ナーメとは「宝の文」という意味だそうで、お宝のありかが記されていると言い伝えられていたそうだが(何でもお宝だ!)、解読してみれば「私は偉大な王様だ!」というような内容でお宝には全く関係なかった。しかし、その碑文そのものは偉大な遺産に違いはない。
すぐ側を流れる渓谷には滝もあり、涼しくて気持ちの良い所だ。子供たちがたくさん遠足に来ていてたいそう賑やかだった。もう観光地巡りも最後なので、物珍しそうに集まってきた女の子たちに声をかけ、ワーワーキャーキャーと大騒ぎな女の子たちにもみくちゃにされながら写真を撮った。
エクバタナの丘は発掘が終わった場所の一部に覆い屋根をかけて、見学できるようにしてある。足場の下には分厚い壁で仕切られ整然とした街並みが残されている。王が居ても居なくても、交通の要所であるこの町はさぞかし賑やかだっただろう。
そして今、現在のハマダーンの町もごみごみとしたバザールに活気があふれていた。こういう賑やかさは多分何千年経っても変わらないのだ、きっと。どんなに科学が進歩しても、どんなに社会が変わっても、人の基本的な営みって基本的には変わらないのだもの。生きていくために人は交わり、物は流れる。道はつながり、町に集まる。少しずつ形は変わっていくとしても、その基本的な営みが変わらない限り、人が集まれば賑わい、物とともに文化も流れていくのだ。
翌日、ハマダーンからテヘランへ戻った。ザグロス山中からまた次第に低い所へ下りていく。道がやけに立派なのは、テヘランからイラク領内のシーア派の聖地まで巡礼道を整備している最中だからなのだそうだ。いずれハマダーンからケルマーンシャー、そしてイラクまで立派な道が通じるのだろう(また戦争を始めなければの話だけど)。昔、王の造った「王の道」は様々な物を運び、文化を運んだ。今、信仰が造る「巡礼の道」として賑わいを取り戻そうとしているこの道は、巡礼者とともにどんなものを運んでくれるのだろう。
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イランのお土産はいろいろある。工芸品から食べ物、実用的なものまでなかなか選び甲斐がある。以下はその代表的なものをご紹介する。
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