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2.文明の行き交う国−イラン


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地図 : ルートマップ  詳細   西アジア(古代)

◇ 王の道(1)・アフヴァーズ〜ケルマーンシャー

たっぷり休養し、たっぷり観光したエスファハーンを離れ、空路アフヴァーズへ向かった。

今までのイラン高原の町と違って、アフヴァーズはペルシア湾岸に近い平原の中の町だ。かつてスシアナ平原と呼ばれたこの一帯はメソポタミア平原の東のはずれに位置し、気候も文化もメソポタミアに近い。飛行機の着陸寸前、闇夜の中に精油所が燃やし続けるオレンジの炎が遠くに見え、いかにも中東という感じがした。外に出るとやはり暑い。標高が違うとこんなに気温も違うのだろうか。

ホテルに着いたのは10時近く、夕食は辞してすぐ部屋に行き休んだ。翌日はまたハードなバス旅が始まるからだ。アフヴァーズからケルマーンシャーまでのバス旅は、今回のツアーで走行距離が一番長い。朝は6:30に出発し、アフヴァーズは宿泊しただけの滞在だった。

バスはカールーン河に沿って北上する。河沿いにずっと畑が広がっている。麦とサトウキビだ。麦はもう色づいていて、すでに刈り入れが終わった所もある。「肥沃な三日月地帯」というメソポタミアの代名詞を思い出してしまう。

2時間ほど走り、乾ききった丘の上にあるチョガー・ザンビールに到着。チョガー・ザンビールは紀元前13世紀中頃のエラム王国の遺跡である。中心地に高さ28mの壮大なジッグラトがそびえている。

ジッグラトとは階段状のピラミッドのような構造物で、墓ではなくメソポタミア地方独特の神を祀った神殿である。メソポタミア文化圏に属するエラム王国でも幾つか造られたらしいが、ここは一番保存状態がよいのだそうだ。今は3段目までしか残っていないが本来は6段あり、高さは50mにも及んだらしい。

今残っている日干しレンガの上には青い色で塗られ装飾されていたらしいが、その色がレンガの所々に少しだけ残っている。そのレンガも崩れていたのを修復し新たに積み上げられたもの、上の方はまだ修復中でレンガは崩れたまま泥壁の状態でさらされている。

修復中なので上がることはできず周りを一周しただけだったが、所々に残るくさび形文字を見つけるだけでもなんだか楽しい。3000年の時を経て残った遺跡、くさび形文字…、そんな所を見て回り歩いている自分がなんとも不思議に思えてくる。遙かな時と遙かな空間を越えて、ここにいる私。なんでこんな所にいるんだろう…、なんてね。

次はハフト・タッペという遺跡を見た。紀元前2000年頃のエラム王国の都市遺跡である。ここはもう埋め戻されて一部の壁跡が残されているだけ。しかし王の墓と呼ばれる墓所はヴォールト(かまぼこ型)天井になっていて、世界最古のアーチ構造物と呼ばれている。つまり、そんな昔からアーチを造る技術を持っていたのだ。遺跡の埋まる丘の上を歩くと、眼下にサトウキビ畑が広がり、小さな林の中にシュロの木が見える。なんともメソポタミアらしい風景だった。

そして次に向かったのがシューシュ。スーサという名の方で通っている古代都市の遺跡である。紀元前4000年も昔からここに都市があり、エラム王国、アケメネス朝ペルシアの首都になり、アケメネス朝が滅ぼされた後も、イスラム時代まで営々と人が住み続けた所なのだ。

なぜ何千年もの長きに渡って、都市として機能し続けることができたのか。それはここが交通の要所だったからなのだろう。イラン高原を越えてきた東からの通商のルートがこの町に集まり、ここから西へ進めばメソポタミア、南に下ればペルシア湾に出られる。北にザグロス山脈が控え、南には肥沃な平原が広がる豊かな土地でもある。富の蓄積には事欠かない場所だったに違いない。

現在のシューシュの町はのんびりした田舎町で、丘の上の中世風の城砦が異様に見える。この城砦、フランス考古調査隊がスーサの遺跡を掘る際に造ったものだ。外国人がすごいお宝を掘っているという噂が現地の人々の暴動略奪を誘い、隊員と遺物を彼らから守るために造ったんだそうだ。今見ると滑稽なまでに頑丈で大きな城砦なのだが、そうまでして守ったお宝は現地の人々が欲しがった黄金ではなく、ハンムラビ法典のレリーフなどの貴重な文化遺産だったわけだ。彼らはそれらを首尾良くフランスへ運び、フランスのお宝になった。

遺跡は城砦の回り一面に広がっている。とても広い遺跡だ。だが残っているものは少ない。わずかな柱礎や馬の柱頭飾りぐらい、宮殿跡に壁の遺構が残されているだけだ。何千年もの栄華も今はどこへやら、むなしい土くれは何も語ってくれない。ようやく門の遺構に残っていたくさび形文字を見つけ、ちょっと嬉しかった。柱よりも彫像よりも、なにより文字に人の生きていた証が見えた気がしたからだ。たとえ読めなくても、文字は人の息吹をも伝えてくれるものなのだ、と感じた。

遺跡見学を終え、一路ケルマーンシャーへ向かう。暑い暑い平原を北上し、再びザグロス山脈へと入っていく。この道は往古「王の道」として整備された道だ。アケメネス朝ペルシアの頃、「王の道」はスーサからこの道を通り、ケルマーンシャーの手前で西北へ折れ、メソポタミア北部を通ってトルコまで続いていた。その古くて新しい道をバスでズンズン走っていく。

山並みは幾重にも連なり、山並みの間には平原が広がる。平原は一面の小麦畑、あちこちにまっ赤なひなげしの花が咲きとても美しい。丘陵地の草原には羊の群がいて、なんとも牧歌的な風景だ。山を越えていくというからもっと険しい所を想像していたが、ここは険しいというより雄大で伸びやかな所だった。はげた岩山ばかりではなく、珍しく緑に覆われた山も見え、こんなに美しく豊かな土地だとは思ってもみなかった。やはり百聞は一見にしかずだなあ。

いくつもの峠を越えて、夜9時頃やっとケルマーンシャーに到着。暑い平原からやって来た身には、高原の夜がやけに涼しく寒いぐらいに感じた。



● 茶店と市場 ●●

イランでの観光以外のお楽しみといえば、チャイハーネ(茶店)とバザール(市場)に立ち寄ること。
チャイハーネは文字通りイランの喫茶店で、イラン式紅茶と水タバコをのんびり楽しむところだ。観光地のチャイハーネは色々と趣向を凝らしていて楽しい。色とりどりのカーペットが敷かれたベンチや縁台に靴を脱いで上がり、ゆったりと座って水タバコでもふかせば、気分はアラビアンナイトの王様かも?(ちなみに水タバコをふかすには相当な肺活量がいるらしい。タバコ自体は軽いそうだ)
バザールは昔ながらの小さなドーム天井が連なるアーケードバザールがムードよし。薄暗いけど賑やかな通路にいるだけでタイムトリップした気になる。お店の客引きはあまりしつこくなく対応もあっさりしている。だがそれだけに値引き交渉はかえって難しいかも。本気で粘らないと安くしてくれない。

水タバコ【チャイハーネ】
シーラーズ・サアディー廟のチャイハーネ・・・
ガナートで引いてきた水が溜めてある地下水槽の回りをチャイハーネにしつらえてある。ひんやり涼しくて気持ちいい。
シーラーズ・ハーフェズ廟のチャイハーネ・・・
中庭にあり、池の周りに木や花があって落ち着ける。回りの壁にエイヴァーン形の窪みがいくつかあって、カーペットが敷かれている。そこに靴を脱いで上がる。ちょっとした個室風な造りでなかなかムードがよい。
エスファハーン・ハージュー橋のチャイハーネ・・・
橋のたもと、2階建ての下の部分にある。橋桁の間のベンチをうまく利用している。日陰だし水際なので涼しさは格別だろうが、河に水がないので営業もしていない。
エスファハーン・コウサルホテルのチャイハーネ・・・
庭にテントをかけ、ベンチを置いた遊牧テント風チャイハーネ。夜、ランプの明かりの下、おじさんたちのふかす水タバコの匂いと共にいただくチャイもなかなか風情がある。店のオヤジが底抜けに明るかった。
【バザール】
シーラーズ・ヴァキール・バザール・・・
18世紀、ザンド朝時代に造られたレンガ造りのバザール。店の中が土間でなく壇になっていて、靴を脱いで上がる形式になっているのが古さを感じさせる。キャラバンサライ(隊商宿、今はお店が入っている)からアーケードが四方八方に延びていて、小さいながらもムード満点のバザールだ。
エスファハーンのバザール・・・
エマーム広場からジャーメ・モスクまで連なる幾つかのバザールを総称して、エスファハーン・バザールと言う。エマーム広場の回廊部には絨毯や各種工芸品のお土産物屋が軒を連ね、裏の方には職人の工場もあってトンカンやっている。ジャーメ・モスクの近くに来ると、古いアーケードに食料品、香辛料、食器、衣類などのお店がぎっしり並び賑やか。歴史的な建物にあふれる生活臭が面白い。
ハマダーンのバザール・・・
ここはアーケードではなく、普通の商店街。表通りから一歩入った小路に貴金属店が並んでいて、そこだけは女性が群がっている。値段は安いけど品質は自分で見極めなければならない。その奥は食料品のバザールでとっても賑やか。小さな子供たちがお買い物用のビニールバッグを売り小銭を稼いでいる。さすがにここでは外国人が珍しいらしく、子供たちは商売もそっちのけで私たちにくっついて歩いていた。

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を利用して作りました。