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ヤズドから5時間半、再び山と草原を走り、5時頃エスファハーンに着いた。
ザーヤンデ河沿いに広がるこの古都はかつて「世界の半分」と謳われ、サファビー朝の栄華を今に残している。しかし、今回訪れた私たちにエスファハーンは完璧な美しさを見せてくれなかった。エマーム・モスク(イマームのモスク)が修復中でドームに足場が架かっていたし、なにより町の人々の憩いの場所として、またこのオアシスの象徴として観光客も必ず立ち寄る、豊かな美しい流れのザーヤンデ河が涸れていたのだ。
河に水は一滴もなく、無惨に荒れた河床をさらけ出している。河に架かる古い美しい石とレンガ造りのアーチ橋も、陸を渡る水道橋みたいになってしまっている。聞けばこの河の上流にダムを建設しているため、水を止めているのだとか。「もー、ダムなんか造って自然破壊して、ほんとに河が涸れちゃったらどうするのよ」と、内心この町の将来を心配した。
暑い暑いこの町の夏にザーヤンデ河の流れは欠かせない。水の流れが涼を運んでくるのだ。京都の人が鴨川で涼を採るように、エスファハーンの人々はザーヤンデ河で涼を採る。この夏はそれもできなくてウンザリだ、と皆嘆いているそうだ。
着いた日はゆっくり休み、次の日いよいよ世界の半分を見学する。
まず、チェヘル・ソトーン(四十柱)宮殿。大きなテラスに20本の木の柱が立ち、屋根を支えている。前庭の池に柱が映り、40本の柱に見えるというわけだ。池の周りにはバラが咲き、緑の林に囲まれている。ここも典型的なペルシア庭園だ。
宮殿の中はサファビー朝の巨大な歴史画と繊細な細密画で飾られている。建物の外にはオランダ人の画家が描いた人物画もあり、この時代の世界情勢が思い浮かぶ。
次はいよいよエマーム広場だ。革命前は王の広場と呼ばれていた所だ。510×163mの壮大な広場はアーチ型の間口を持つ2階建ての回廊でぐるりと囲まれ、東側にシェイフ・ロトフォッラー・モスク、南側にエマーム・モスク、西側にアーリー・ガープー宮殿、北側にゲイサリーイェ・バザールがある。
アーリー・ガープー宮殿の2階のバルコニーから広場を見渡すと、その壮大さ、秀麗さがよくわかる。世界三大広場なんてものがあるとすれば、きっとモスクワの赤の広場、北京の天安門広場、そしてここのエマーム広場が選ばれるに違いない。私はこの三つの広場を全て見たことになるが、さしずめ赤の広場は荘厳、天安門広場は壮大、エマーム広場は壮麗と形容することができよう。
サファビー朝のアッバース1世*1が最高の広場を造ろうと計画し造り上げられたこの広場では、王がこのバルコニーから閲兵式やポロ競技を眺め、毎週のように市が立ち、モスクには礼拝の度にたくさんの人が集まり、まさしく政治・経済・宗教の一大中心地となった。その栄華が「世界の半分」と言わしめたのだ。
外からは見えないけれど、王宮の女たちの居場所もここにあった。アーリー・ガープー宮殿の上階にはハレムがある。内部は美しい装飾と細密画に飾られた小部屋に分かれ、飾り窓から広場を見ることができる。広場をはさんで反対側には、黄地に青のアラベスクが優美なシェイフ・ロトフォッラー・モスクがあるが、ここは王家の女たちが使うモスクで、宮殿とは地下道でつながっている。女たちは人々に姿を見られることなく礼拝に通っていたのだ。
中庭もなく、ドーム天井の礼拝室だけのこぢんまりとしたこのモスクはタイルワークの美しさが格別で、石川さんによるとここのアラベスクはイラン一美しいのではないかとのこと。繊細で優美で女性らしさを感じたのも女性のためのモスクと聞いたせいだろうか。
昼食、休憩をはさんで、またエマーム広場に行き、今度はエマーム・モスクを見学する。こちらはかつて王のモスクと呼ばれていた。広場の奥に鎮座する堂々たる建物だ。広場がメッカの方向を向いていないので、広場の入口から45度斜めを向いて建っている。
中庭を囲む巨大なエイヴァーン*2とドームの礼拝堂はアラベスクとコーランの章句がびっしりとタイルワークされ、エイヴァーンの天井からは見事な鍾乳飾りが下がっている。その壮麗さは他に類を見ない。今まであちこちでモスクを見てきたけれど、ここほど建物の壮大さと装飾の繊細さが相まっているモスクは他にはない。今見ているタイルはすでに修復が終わった後のものだが、回廊の部屋に残るオリジナルのタイルを見せてもらったら、もっと緻密で繊細で美しかった。すごい!
礼拝堂のドームは反響が素晴らしく、エスファハーンの現地ガイドさんがアザーン*3を唱えてくれて、その効果を示してくれた。彼はなかなかの美声で、残響がドームに余韻を響かせ本当に演出効果満点だ。異教徒の私だって、すてき! かっこいい!と思ったもの。やはり、宗教ってこういう心に響く演出をするものなのだなぁ。
翌日はエマーム広場以外の見所を見学した。まず、ヴァーンク教会。珍しいアルメニア正教の教会だ。エスファハーンにはサファビー朝時代、アルメニアから連れて来られたアルメニア人の商人や工人たちの住んだ街区がある。その中に幾つかアルメニア教会が存在する。ヴァーンク教会はそのうちの一つだ。
イスラムの工人が建てたので、礼拝堂の天井がドームだったりしてなんとなくモスクっぽいが、ドームの屋根にはちゃんと十字架がのっかっている。そしてモスクには絶対ない鐘楼がある。壁のモザイク画やフレスコ画には天使が描かれ、頭の中がすっかりアラベスクになっている身にはなんとも不思議な光景に映る。内部は一面に聖書の場面、イエスの生涯が描かれ圧倒される。絵の様子は西洋の宗教画より素朴だけど、色遣いが渋くてこちらの方が神聖な感じがする。
それからジャーメ・モスク(金曜モスク)。エマーム・モスクが王のためのモスクなら、こちらは市民のためのモスクだ。創建は8世紀にまでさかのぼれるそうだ。大半は12世紀のセルジューク朝期に造られ、その後増改築が繰り返されたので、大きく複雑なつぎはぎのモスクになっている。でもそれもなんだか庶民ぼくていいなあと思った。
中央の中庭を囲むエイヴァーンは4つとも形がバラバラ、装飾も一部サファビー朝の青いアラベスクタイルが貼られているが、それ以前のデザインの装飾も多く残っていて面白い。
南側の建物はセルジューク朝期のもので、日干しレンガを組み合わせて模様を浮き出すレンガワークが特徴だ。建物全体はたくさんの小ドームで覆われ、小ドームを支えるレンガの柱が林立する。柱の装飾も様々で面白い。華麗なアラベスクタイルも素敵だけど、私はこのセルジューク期のレンガワークの方がむしろ好きだ。素朴な土色のレンガと陰影だけで浮き出された見事な装飾。渋くてかっこいいわ。
いくつもの礼拝堂を抜け、別の翼の鍵付きの礼拝堂に入れてもらうと、そこはイル・ハーン朝時代に造られた礼拝堂で、漆喰飾りのミフラーブ*4や木造のミンバル*5には唐草模様があしらわれていて、なんとなく中国の影響を感じさせるものだった。奥の半地下室の礼拝堂は冬の寒い時期に使われる礼拝堂だ。赤い絨毯と天井の低いドームの連なりがなんともムードのある造りだった。本当にこのモスク一つで様々な時代の文化が見ることができて面白い。面白いという意味ではこのモスクが一番の見所だったかもしれない。
バザール見学し、由緒正しきクラシックホテル、アッバースィーホテルで昼食を取り、午後は橋の見学をした。ザーヤンデ河にはサファビー時代の石橋が幾つか残っている。私たちは33アーチ橋とハージュー橋を見学した。
どちらも車両通行止めで人々がブラブラ歩いている。33アーチ橋とは橋上部のアーチが33あることからつけられた名前で、町の一番中心にあるため歩く人も多い。ハージュー橋の方は2階建てになっていて下の階は水のすぐ側を歩けるのだが、いかんせんその水がない。淋しい。
それでも夕方の涼しい風に吹かれて橋を歩いていたら、いいとこの坊ちゃん風の小学生が数人近づいてきて、「Welcome!」と言いながら一人は花壇から失敬したパンジーを、一人はボールペンを差し出した。「えっ、くれるの? でもこれ貰ったら、この子と結婚しなきゃならないかしらん?」とまた冗談ぽく思いつつも、ありがたくいただく。うわー、うれしいなー、イランの子供に物貰っちゃった!
今まで旅先でボールペンをねだられたことは数あったけれど、ボールペンを貰ったのは初めてだ! イランって他のアジアの国とは全然違うな…。
エスファハーンはイラン最大の観光都市だけど、それほど観光ズレしてなかったし、予想を裏切らない、いやそれ以上の素晴らしい所だった。さらに物まで貰ってすっかりいい気分の私は、エスファハーンの町にも大いに満足していた。
● オシンとナカタ ●● |
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イラン人にとてもよく知られている日本人がいる。 |
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