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モスクワと違って、中央アジアに入ってからは食事がおいしかった。つい食べ過ぎて夜中に戻してしまったが、別におなかを壊したとか風邪を引いたとかではなかったので、単に疲れが出ただけだったのかもしれない。朝はスッキリ目覚め、何事もなくブハラへ向かうことができた。
タシケント――サマルカンド間はずっと耕地だったが、サマルカンド――ブハラ間はサマルカンドを離れてしばらくすると漠地が広がり、いよいよ砂漠の中へ来たという感じだ。1時間ほどのフライトでブハラ着。
ブハラはサマルカンドより小さな町だった。中世イスラム都市の面影を残す旧市街がそのまま残っていて、バスは旧市街に入れず大回りしていく。モスクやメドレセなどの昔の建物もよく残っていた。
ボロ・ハウズ・モスクはボロ・ハウズ(池)に面したモスクで、前面の木の列柱が珍しい。18世紀創建とブハラの建物の中では比較的新しいものだ。アルクと呼ばれる城砦の向かいにあり、王のモスクだったことがうかがえる。チャシマ・アイユーブ廟は12世紀のもの。この地方には珍しい円錐帽子のような屋根を持つ塔があって、かわいい形をしている。廟だけど中には水の湧いている井戸がある。イスマイル・サマニ廟は9世紀創建、ブハラで最も古い建物だ。レンガを組み合わせただけで作った模様が精巧で美しい。渋くて素敵! まだ色タイルがなかった時代はこんな風にして装飾してたんだなー。
カリャン・ミナレットはブハラのシンボルともいうべき塔で、45.6mある。12世紀に造られたもので、イスマイル・サマニ廟と同じようにレンガの組み合わせによる装飾で飾られている。往時、この塔は処刑の場として使われた。この塔のてっぺんから罪人を突き落として死刑にしていたのだ。だがそんな恐ろしいエピソードも今ではすっかり風化している。この塔も隣のモスクも静かに太陽の光にさらされているだけだ。
向かいのミリ・アラブ・メドレセは今でも神学校として使われている。中を覗いたら、中庭を囲んだ小部屋のバルコニーに洗濯物が干してあった。ここだけは風化されず、人の臭いのする生きた空間だった。
そこからメドレセやタキと呼ばれる市場、隊商宿、小さなモスクなどが点在する古い道を歩いた。中世以来全く変わってないように思われる古趣豊かな道だ。タキは他の町ではチョルスと呼ばれる四つ辻にドーム天井の建物を置いた市場で三つほど残っている。今でもお店が入っているタキもあるが、昔のような賑わいはうかがえない。
メドレセの小部屋を利用した銅板細工の土産物屋や、広場前の隊商宿からラクダを引いたおじさんが出てきたのを見ても、やっぱり何かが足りない気がした。静かすぎるのだ、あたりが。いくらシルクロード的な昔を思わせる古い建物が残っていても、趣のある古い小路がそこにあっても、人の賑わいがなければそれは活きない。「風化」という言葉がぴったりな風景だと思った。
青い小さなドームを載せるタキを通って、リャビ・ハウズという池に行くと、池の周りには木がたくさん植えられ、木陰にチャイハナ(茶店)があり、地元の人々がお茶を楽しんでいた。やっと活きている場所に来たと思ってホッとした。
この池の側にはアーチ上部に顔の描かれた太陽やフェニックスの絵があるメドレセがある。サマルカンドのシール・ドール・メドレセ同様、イスラムの建築物に顔の絵があるのはかなり異様に見える。ここのメドレセはシーア派のものだったらしいが、平気で顔を描くというのは様々な民族や文化が交錯している中央アジアならでは、なのだろうか。
夕刻、ウズベク族の民族舞踊を見た。クチャで見たウイグル族の舞踊とほとんど変わらない。舞台は大きなメドレセの中にあるモザイクタイルのアーチの下で、なかなかムードのある舞台だったが、歌舞音曲を禁止したイスラムのメドレセの中でやるというのはちと不謹慎な気がした。まあ、これも中央アジアならでは、なのかな……。
● モスク・メドレセ・廟 ●● |
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中央アジアのイスラム建築の種類は、表題のような3種類に分かれる。 |
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