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1.シルクロードの中心地−中央アジア


年表 : アジア主要国年表   古代西アジア年表
地図 : ルートマップ  詳細   西アジア(古代)

◇ ティムールの都・サマルカンド

サマルカンドへは時間どおりに着き、ホッと胸をなで下ろした。8日間しかないツアーは日程に余裕がなく、予定が遅れて見たかったものが見られなくなったのでは泣くに泣けない。タシケント観光が半日つぶれた程度で済んでよかった。サマルカンドに着いたその日は休養日になったので、軽く散歩しただけで観光は翌日まる一日かけて行った。

朝、ホテルの窓から朝もやに包まれた市街を見た。所々に見えるモスクやメドレセ、廟の青いドームや塔がとてもきれいだった。いよいよ中央アジアの町に来た! そんな思いでいっぱいになった。

午前中はペンジケントの遺跡を観光した。サマルカンドから東へ向かうとやがて交差点にさしかかる。道の真ん中の道標には南はテルメズ、北はタシケント、東はペンジケント、西はサマルカンドと書かれている。中央アジアの主要都市の真ん中にあるこの交差点は、もしかしたらずっとずっと昔から交差点だったのかもしれない。

そしてテルメズへ向かう道はアフガニスタンへ向かう道でもある。たぶんソ連軍の戦車はここを通ってアフガニスタンへ進軍していったのだろう。そのために私はアフガニスタンへ行けなくなってしまったのだ。その道を見て複雑な気分になった。

ペンジケントの遺跡は南のザラフシャン山脈、北のザラフシャン川に挟まれた丘の上にあった。5世紀頃のソグド人*1の町の跡で、博物館に出土品が展示されている。遺跡は崩れ果てた土やレンガの堆積に過ぎず、素人の目にはどこに何があるのかさっぱりわからない。ゾロアスター教の神殿だけが修復され、元の形を見ることができた。

遺跡の周りの乾いた風景もオアシスの緑も久しぶりに見て、嬉しく懐かしく、ああ帰ってきたな、という気持ちになる。丘の上からザラフシャン山脈を眺めると、東の方には中央アジアの雪の山を見ることができて嬉しかった。あの山の向こうへ行きたい、という想いも蘇る。

午後はサマルカンドの市内観光。ティムール*2の墓であるグル・エミル廟はドーム天井の金のアラベスクが見事に修復されていた。レギスタン広場はサマルカンドのシンボルのような場所で、広場を囲む三つのメドレセが壮大なスケールで並び立ち、ティムール王朝の都にふさわしい貫禄だった。左のウルグ・ベク・メドレセは大きく堂々としたデザインで、真ん中のチッリャ・カリ・メドレセは「金に覆われた」という意味どおり金のアラベスクが華麗で繊細な美しさを持つメドレセ、獅子の絵右側のシール・ドール・メドレセはウルグ・ベク・メドレセと同じ大きさだが、アーチ上部に描かれた人の顔をその背に配したライオンの絵が異彩を放っている。それぞれ違った特徴を持ちながら、よく調和がとれていて見事だ。

シャーヒ・ジンダ廟は町の郊外、アフラシャブの丘のはずれにある。聖者シャーヒ・ジンダの廟の周りにいくつかの廟が集まり、廟の町みたいになっている。廟の間の小路はタイルの建物に囲まれ、さながら中世イスラム都市の路地のようだ。建物がお墓でなければ、これはもうアラビアン・ナイトの世界なんだけどなぁ……、と思いつつ、その景色をカメラに納めた。

ティムール朝の王、ウルグ・ベク*3の造った天文台とチンギス・ハーンに破壊された古サマルカンドの町の跡、アフラシャブの丘の遺跡は時間がなくて行けなかった。中央アジア最大のイスラム寺院、ビビ・ハニム・モスクは修復中で入れず、いずれも残念なことだったが、サマルカンドの町を歩けたから満足だ。

サマルカンドは私が最も行きたかった町だった。イスラム以前からここに町があり、破壊と再建を繰り返してきた町だった。ティムール王朝の都になり、その建物が数多く残り、青い空にモスクやメドレセの青いドームが輝く様をぜひ見たいと思っていた。実際のサマルカンドは静かな田舎町で、その中にさりげなくティムール時代のメドレセや廟が置かれている。そのさりげないたたずまいがとても気に入った。


*1 ソグド人
ザラフシャン川流域、ソグディアナと呼ばれた地域に、紀元前より住んでいたイラン系の民族。各王朝の支配下にあって商業貿易に従事し、商業だけでなく政治、文化の面においても東西交流の一端を担っていた。ゾロアスター教、マニ教を信奉し、イラン系のソグド語を話し、ソグド文字を持つ。ソグド文字は後に東方に伝わり、ウイグル、モンゴル、満州文字の元となった。
*2 ティムール
ティムール帝国の創始者。モンゴル系の人で、チャガタイ・ハーン国の混乱に乗じて勢力を伸ばし、1370年、サマルカンドに都を置き、君主となった。ティムールは中央アジア全域を覆う大帝国を作り上げ、西はオスマン・トルコ、東はインドへと攻め込んだ。
*3 ウルグ・ベク
ティムールの孫。ティムール朝第4代の君主。優れた学者で学問を奨励し、学校や天文台を造った。天文学には特に秀で、彼の作成した天文表は今でも残っている。だが政治面では各地の内乱やウズベク族の侵入を許すなどで混乱を招き、その子アブドル・ラティーフに殺された。

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