はじめに 序・東の森の賢者 第一章・出会い

序・東の森の賢者

 大賢者ファラール、語りて曰く――

“気の力”とは、自然界を生成する一つの要素“気”を基にするものである。 万物に巡る気が変化し、増強され、高まれば、それは力となって事象の変化に作用しうる。 すなわち、気の力は事象の変化を促す意思を持つものによって発動される、 不可知の力なのである。

人の中で気の力を自在に扱うことができるのは、唯一クルトの民だけである。 彼らは自然と和合して生きる民人である。 彼らの力のなすが様はさながら、大樹が大気の秘めたる声を聞き、その力を表わすが如く、 然るべき行為であり、調和にかなうものである。

クルト以外の民人、すなわちバドゥには気の力を用いることはできぬ。 ただクリスタルの力を借り、己の気を高める鍛練を積んだ者のみにその能力は開かれる。 我、魔女の養い子にして、“竜の賢者の弟子たち”に教えを受けし者、 ファラールはタムダルの森にてクルトの民と出会い、友として受け入れられ、 その知恵と術を授かり、気の力を使う法を会得した。 クルトの民の好意は、 狂王ガルヴァナスにより乱れた世界の調和を取り戻さんとする意思によること相違わず。 よって、我、そのことを我が使命とし、尽力を重ねて今日に到った。

実に気の力には、正気によるものも邪気によるものもあり、人の中に正邪が混在する限り、 かの狂王の如く、欲望の果てに邪気の力を生み出し、飲み込まれることなきにしもあらず。 故に気の力を発動する法は魔の法なのである。 我はクルトより授かりしこの魔の法、 及び我の知る全ての知恵と術をユーレシアの平和のために正しく伝えんと欲し、 我が友、バイオン公ミカエルの好意により、このバイオンの地に学舎を設立した。

我の教えを正しく受け継ぎ、我のクルトに誓いし七つの誓約を同じく誓う者には、 クリスタルとマスターの称号を与えん。 マスターたる者はさらなる研鑚に励み、人々の健やかさのため、 術を施すことをその定めとすべし。 また、この正しき教えが途絶えることのなきよう、特に秀でた者には賢者の称号を与えん。 賢者たる者は学舎の師として、弟子たちに教えと共に我が心を伝え、 人々にあまねく正気の巡りゆくよう努めることをその定めとすべし。

 ――バイオン大学創立にあたり、 大師大賢者ファラール・ドミルクルトの語りしことを弟子アルミスが記す。



バイオン大学の創立者、 大賢者ファラールの言葉が記された額を正面の壁に掲げた大学の講堂で、この日、 初めて賢者になった者の講義が行なわれていた。 先ほど、就任式を済ませ、賢者の称号と、 賢者の正装である金と銀の刺繍で縁取りされた深青のローブを与えられたその者は、 真新しいローブを黒の長衣の上にまとい、ぎっしりと席を埋める学生、マスター、 賢者たちを前にして、演壇に立っていた。 そして初めての講義だというのに、落ち着き払い、何の気負いも気後れもなく、 もちろん、てらいもなしに淡々と話を進めていた。

彼の名はユリウス・アルクルト、まだ27才の若者だった。 賢者の称号を与えるために、 その合否を決める老師たちの中には彼の若さを懸念する声もあったが、 課せられた試験は全て優秀な成績で合格し、 その上魔法術は老師顔負けの力を持つとあって、老師たちも非の打ちどころなく、 認めざるを得なかった。

大学200年の歴史の中で、 最も若い賢者となったユリウスは類まれな経歴の持ち主だった。 ユリウスの父は34才にしてその称号を得た優秀な賢者であり、 母はクルト族の女だった。 彼はクルトの持つ力を母から受け継いでいた。 魔法の術に優れているのは彼がクルトの血を引くが故だったのだ。 彼は回りの人々から驚嘆と賞賛をもって、アルクルト(クルトの子)と呼ばれていた。

ユリウス・アルクルトの名は大学だけでなく、バイオンの町や村、 近隣の諸国の人々にまで知られていた。 彼は20才でマスターの称号を得て、その後すぐに5年にわたる修業の旅に出たのだが、 その4年目の年にセム大陸の砂漠の村で、妖魔の一種である食人鬼を彼の力で滅したのだ。 人がたった独りの力=気の力で妖魔を退治することなど、 妖魔が多く生きているセムの地でもまれなことだった。 それでこの事件はその場に居合わせた人々から、砂漠の村々へ、そして砂漠を越え、 海を渡る商人へと瞬く間に語り継がれた。勇者の化物退治の伝説は人々が最も好む話であり、 語り手にとっても最も語りやすい話だ。語る者が多ければ伝わる速度も速い。 その勇者が東ユーレシア、バイオンの者だということで、 特にいち早くこの地方にその噂話が伝えられ、バイオンの人々はユリウスが帰国する前から、 彼の名と彼の功績を知ることとなった。

大学に戻ったユリウスは、マスターとして取るべき二つの道のうち、大学を出て、 町や村で医師や教師として人々に貢献する道ではなく、大学に残って、 研究者となる道を選んだ。 バイオン大学は研究院や学校の他に、学生の寄宿舎、賢者やマスター、 その他大学の関係者が住む居住区もあり、 それだけで一つの城あるいは小さな町といえるほど大きな施設だった。 そのため、大学にいる者はその中だけで生活できたので、 人々はユリウスの姿を見る機会はあまりなかった。 彼はたまに用事があって大学の外に出ても、必要のない時はマントのフードを深く引き被り、 できるだけ人目につかないようにしていた。 それでも人々は彼の姿を一目見れば、 すぐにユリウス・アルクルトだとわかるほどよく彼のことを知っていた。 なぜならば、噂話がかなり歪曲されて伝わったにもかかわらず、 ユリウスの容姿を伝える部分は割と正確だったのだ。 それは彼が西方人とは明らかに違うクルト族特有の特徴――髪も目も黒で、 肌の色は少し浅黒く、骨格が細い――を持っていて、わかりやすかったからなのだろう。

人々の騒ぎをよそに、ユリウスは何事もなかったかのように研究生活に入った。 そして2年間でその優れた才能を発揮して、 早くも賢者としての道を歩むことになったのだった。



ユリウスは講義を終え、様々な手続きを済ませた後、7人の老師、 一人一人の所へ改めて挨拶に出向いた。 最後にザイナス老師の部屋を訪れた時は、もう夕刻に近い時間だった。 ザイナス老師は5才で父を亡くし、身寄りのなくなったユリウスの後見人を務めていて、 彼が最も親しみを感じている師だった。短く刈った白髪に白い髭をたっぷりとたくわえ、 もうかなりの高齢だったが、がっしりとした体つきで、かくしゃくとした老人だった。

ザイナス老師は訪れたユリウスを、ねぎらいの言葉をもって迎え入れた。

「よくやったな、ユリウス。そなたの初講、観象法総論、なかなかの出来であったぞ」

「ありがとうございます、老師」

ユリウスは穏やかに微笑んで、丁寧に礼を言った。

「各論ではなく、総論を選ぶところがそなたらしいな。ところで、ミノス老師の所へはもう行ったか?」

「はい、ようやく許可を頂きました。老師、説得して下さって、本当にありがとうございました」

「ふむ、そなたが賢者になったらすぐに、大学を出て “東の森”に住みたいと言い出した時は、わたしも許可すべきものか迷ったが……」

ザイナス老師は白い顎鬚を撫でながら言った。

「確かに、そなたをこの大学に閉じ込めておいた方がよいと思う気持ちは、わたしを含め、皆にある。だが皆が反対したのはその気持ちだけではない。むしろそなたに、ここにいて欲しいと思う気持ちが強かったのだ。わたしも皆も、そなたを大学の宝と思っておる。それ故の反対だったと理解してくれ」

「はい」ユリウスは神妙な顔で返事をした。

「しかし、7人の老師のうち、わたしを除いて全員が反対、賢者の中の主だった者に意見を聞いても、賛成しかねるとの答えばかりでな。説得するのは大変だったぞ」

ザイナス老師がいかにも骨を折った風な言い方をすると、ユリウスはますます神妙な態度になって答えた。

「申し訳ありません、わがままを申しまして……」

ザイナス老師はユリウスを見てふと笑みを浮かべ、それから大きな声で笑った。

「ハッハッハッ、そなたの駄々に付き合ったのは何年ぶりかのう?」

「はあ……」

困ったようにうつむくユリウスに、老師は追憶の目を向けた。

「あの頃のそなたはそんな態度をとらない子であったな。いつも硬い表情をして、暗い目をして……。そのくせ、その目の奥には炎がごうごうと燃え盛っておった」

「………」

「そなたを旅に出してよかった。そなたが穏やかな顔に明るい目をして、わたしのもとへ戻ってきた時、本当にそう思ったよ、ユリウス。本当に、よく成長した。そなたの心はそなたを受け入れ、そなたの力は真にそなたのものとなった。今のそなたならば心配はあるまい、どこにいても」

「老師」ユリウスは目を上げて、ザイナス老師を見た。

「そなたは人と距離を置きたいと考え、大学を出ることにしたのであろう?人と離れることで、自分の力を人から遠ざけようと?わたしはそんなことをする必要はないと思っているのだがね。そなたが森に住まうことに賛成したのは、もっと別の理由からなのだよ」

「別の理由ですか?」

「そうだ。新しい環境に身を置けば、新しい扉がそなたの前に現われよう。何かから離れても、なお別の何かに近づくこともある。新しき出会いと気づき、わたしはそれに期待しているのだよ。可能性は多ければ多いほどよいというものだ」

ユリウスは黙って老師を見つめていた。

「まあ、このようなことを言って、皆を説得したのだが、結局、わたしの説得よりもっと強力な決め手を、そなたは持っていたのだな」

「わたしが?」

ザイナス老師はいぶかしむユリウスに微笑んで言った。

「今日の就任式で、そなたが初心表明をした時、そなたが見せた森の幻、あれはそなたの故郷、タムダルの森であろう?」

「あ、あれは見せようと思ってしたのではありません。わたしの持ったイメージが大賢者の杖の力で増幅されて……」

「わかっておる」慌てて言い訳するユリウスを老師は穏やかに制した。

「あの時、あの場におった全ての者がそなたの描き出す森の中にいた。そして、その森の中で、そなたの心を受け取ったのだ。そなたと森のつながりをあれほど強く感じたことはなかった。あんな体験をさせられては、皆も折れるほかないだろう」

「………」

何と言っていいかわからず、ユリウスは黙っていた。やや間を置いて、再び老師が口を開いた。

「それにしても、バイオン公がよく同意したな」

話が変わり、ユリウスは明るい顔になって滑らかに答えた。

「東の森の中の土地を使わせてもらうことは、以前、東の森の調査に関する報告をした時に願い出てあったのですが、公はこんなに早く実現するとは思っていなかったようです。でも今まで通り諮問会議に出るのであれば、かまわないと意外とあっさり同意してくれましたよ」

「ふむ、公には公の思惑があるのか……」

老師のつぶやくような言葉に、ユリウスはやんちゃな子供のように目を光らせ、意味ありげな含み笑いをして言った。

「彼が何を考えているのかは、大体想像がつきますが」

ザイナス老師はユリウスの表情の変化をいとおしむように見ていたが、それ以上、そのことには触れなかった。

「それで、いつ移る予定だ?」

「住む家が出来上がるのがまだ半年ぐらい先になりそうなので、それからです」

「そうか、これからは大学と森を行き来する生活になるのだな。それは負担ではないのか?」

ユリウスは老師の気遣いを打ち消すように、笑みを見せて答えた。

「“闇の道”が使えますから、負担には感じません。むしろ、気分が変わっていいと思っています」

「うむ、それではもう何も言うまい。そなたの思うままに道は開けるのだからな。今日はもう下がってよいぞ」

「はい、失礼します」

ユリウスは礼をして、老師の部屋を出た。

東の森に住みたいというユリウスの希望は1年程前、 調査のため初めて東の森に入った時から、抱き続けてきたものだった。 それは確かに彼がザイナス老師に言われたように、人から、 大学の人々からも距離を置きたいと思っていたことが直接の要因だったが、それ以上に、 代々のバイオン公が木こりに管理させ、守り育ててきた森の美しさに魅せられ、 引き寄せられて、森の中に自分の居場所を見つけてしまったことが、 彼を希望の実現へと駆り立てた大きなきっかけだった。 彼はこの日、賢者という重い責任を背負った代わりに、 自分が抱いてきた希望を手にすることができ、疲労感の中に心地よい満足を感じながら、 自室へ戻った。

半年後、ユリウスは大学から東の森へと住まいを変えた。 週に何日かは大学で研究会と講義、それに観測当番などもあり、 バイオン公の城での諮問会議にも出席しなければならなかったが、 それ以外は医術などを人々に施すこともなく、森の中で静かに暮らした。 しかし、人々の噂は速く、 食人鬼退治のマスター・ユリウス・アルクルトは賢者となって東の森に移り住んだと、 あっという間に町や村に伝え広まった。 以後、人々は彼のことを“東の森の賢者”と呼ぶようになった。


はじめに 序・東の森の賢者 第一章・出会い