つながれた手 終・賢者の約束 - 第1場 第2場

終・賢者の約束

ウィレムは姉の結婚式の2日後、デューカを連れてバイオンの町に戻ってきた。結婚式で、彼の作ったちょっといびつなネックレスは姉の花嫁衣裳の上に飾られた。けれどウィレムはそのネックレスが晴れがましい姉の姿にあまりに不釣合いな気がして、とても恥ずかしい思いをしたのだった。それでも姉は、世界中で一番すばらしいネックレスだと言って、たいそう喜んでくれた。

姉の結婚式を済ませ、姉と二人で住んでいた家を整理したウィレムにとって、もはや戻れる場所は親方の工房だけだった。しかし彼は何と言って親方に顔を合わせようと思案し、ため息をつきながら町の表通りを歩いていた。

(それに、親方にはこの馬のこと、なんて言ったらいいんだろう……)

もう親方のもとには戻らないつもりで出てきたウィレムにとっては、ただでさえ親方と顔を合わせるのが気まずいのに、こんな馬を突然連れていって、親方の機嫌を損ねるようなことになったらと思うと、不安で仕方なかった。事情を説明しても、果たして親方は信じてくれるだろうか――

(東の森の賢者さまに会ったなんて言っても、信じてくれないだろうな……)

心細く思いながら、とりあえず表通りの馬つなぎ場にデューカをつなぎ、横丁の奥まった所にある工房に入っていった。

「馬はどうした?」

ウィレムの顔を見るなり、親方は急いで尋ねた。いきなりのことで、ポカンとしているウィレムに、親方はせかすようにもう一度尋ねた。

「おまえ、馬を預かったのだろう?」

「はい、バーゼルさんの店の前につないであります。でも親方、どうして?」

慌てて答えたウィレムに、親方はいつになく落ち着かない様子で訳を話した。

「昨日の夜、北の学校のマスター・カインがおまえに会いに来られた。明日戻る予定だと言ったら、マスターはおまえが東の森の賢者さまの馬を連れて戻るはずだから、戻ったらすぐ来るようにとおっしゃって、おれに賢者さまの手紙を渡してくれた」

「賢者さまの!?」

「おまえにも手紙を預かってるそうだ。早く行ってこい!」

「あの、でも!?」

「いいから、早く行ってこい!!」

親方が真剣な表情で語気を強めたので、ウィレムはすぐに出かけようとした。しかし、親方はもう一度ウィレムを呼び止めた。そして彼に近づくと、まじめくさった顔のまま、彼の目の下に残っている青あざに不器用な手つきで触れた。

「痛かったか?」

思わぬ親方の言葉に、ウィレムは驚いて親方を見た。それからすぐに、うつむいて答えた。

「もう、大丈夫です。おれ、行ってきます」

ウィレムは走り出した。親方にそんなふうに声をかけてもらったのは初めてだった。だからどんな態度をとっていいかわからず、慌てて出てきたのだ。走りながら、彼は親方の手と言葉を繰り返し思い出していた。目頭が熱くなってきて、彼はもっと速く走った。そして、彼の頬に触れた親方の手つきから、仕事に対してはとても器用な親方が、人間に対してはとても不器用であることを、彼は漠然と感じ取っていた。

北の学校に着くと、マスター・カインはすぐに出てきた。40過ぎ位の落ち着いた男だった。

「ちょうどよかった。今、往診から帰ってきたところでね」

そう言ってカインは奥の部屋に行くと、手紙と金の入った袋を取ってきて、手紙の方をウィレムに渡した。立派な大学の紋章入りの手紙を、ウィレムは恐る恐るひろげて読んだ。そこには平易な文章で、ウィレムへの感謝の気持ちと彼の怪我への気遣い、そして事情があって大学からしばらく出られないので、後1週間ほど馬を預かってほしいということが書かれていた。ウィレムが文末のユリウスの署名に見とれていると、カインが話しかけた。

「ユリウスどのから馬の預り賃を預かっているのだが、馬はどうしているのかね?」

「あの、まだこれから馬屋に預けるところなんですが」

ウィレムは遠慮がちに答えた。

「そうか、ではわたしが一緒に馬屋まで行って、頼んであげよう。馬の様子も見ておきたいし」

カインは穏やかに微笑んでウィレムに言い、一緒に外へ出た。

ウィレムはマスターをデューカの所まで案内し、それからロカ通りの南の馬屋へ行って、デューカを預けた。いつもは横柄な馬屋の主人も、マスターの依頼だと腰が低い。しかも礼金は普通の預り賃の1週間分を優に越える額だったので、馬の扱いも丁寧だった。本当は東の森の賢者が預けた馬だと知ったら、主人はどんなに驚くだろう――ウィレムは狼狽する主人の顔を見てみたかったが、マスターが何も言わなかったので、彼も黙っていた。

「さあ、これが預り証だ。おまえが持っていなさい」

マスターから預り証を受け取りながら、ウィレムはこれは全て賢者がそうするように、マスターに頼んだことなのだと察した。ウィレムが預り証を持っていれば、賢者は必ず彼を訪れるはずだ。手紙には書かれてなかったが、賢者は約束を忘れてはいない――ウィレムはそう思ってホッとした。

賢者の手紙はウィレムの宝物になったが、約束は先延ばしされて、彼は内心がっかりしていた。彼には賢者の大切なものが気になって仕方がなかったのだ。

(いいんだ。楽しみは後に取っとけって、よく言うじゃないか……)

ウィレムはそう思い直し、その日が来るのを心待ちに過ごした。

時折、暇があると、彼はいろいろと想像を膨らませていた。

(賢者さまの大切なものって一体なんだろう……)

なにしろ、それがなくなったがために、賢者は力を失ったのだ。きっと、何かとてつもない秘密に満ちた、すごいものに違いないとウィレムは思った。

(精霊の力を秘めた石とか、魔法の奥義が書かれた書とか……。でも優しいものって言ってたな……、優しいものって何だろう?)

すごくて優しいもの――それに当てはまるようなものは、ウィレムの頭になかなか思い浮かばなかった。

親方は手紙である程度事情を知ったらしく、ウィレムには何も聞かなかったし、何も言わなかった。親方があの時見せた自分の怪我への心遣いも、賢者さまの手紙に何か書かれていたからだろうか――とウィレムは勘ぐってみた。しかし、もしそうだとしても、自分はあの時の親方を信じようと、ウィレムは心に固く決めた。賢者に言われた通り、とにかくやってみようと彼は思っていた。ウィレムは前以上に黙々と仕事をやった。親方の信頼を得るにはそれしか思いつかなかった。親方は相変わらず何も言わなかったが、ウィレムはもう気にしていなかった。自分の仕事はまだまだで、何か言ってもらえるほどにもなっていないということを、姉が彼のネックレスを付けた時、いやというほど思い知らされたからだった。

ウィレムは仕事が終わると、その日も果たされなかった賢者の約束を思い出し、馬屋へデューカの様子を見に行った。そうして彼はその日が来るのを指折り数えて日々を過ごした。


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