第2場← | 7・つながれた手 - 第3場 | →終章・賢者の約束 |
---|
「ティア!ティア、起きて!朝だよ」
肩を揺すられて、ティアーナは目を覚ました。ガバッと起き上がると、目の前にユリウスの顔があった。
「おはよう、ティア。夢は見た?」
ティアーナはキョトンとしたまま、まばたきを繰り返した。
「見なかった……」
「よかった。気分はどう?」
「……昨日よりは、いいみたい」
「よかった」ユリウスはニッコリ微笑んだ。
「マチアスが先に帰るから」
ユリウスがティアーナに告げると、マチアスは彼女の側に来た。
「奥さま、わたしは一足先に大学に戻ります」
ティアーナはユリウスの助けを借りながら、ゆっくりと立ち上がり、マチアスに微笑みかけた。
「ほんとにありがとう、マチアス。あなたのおかげで助かったわ」
「いえ……」マチアスは照れてうつむいた。
「お仕事とお勉強、しっかりやるのよ。いつの日か、あなたも回りを照らす光になれるように」
「はい!」
頬を染めたまま、マチアスはきっぱりと返事をした。
「ねえ、今度、東の森に遊びに来て!甘いものは好き?」
「はあ」ティアーナの突然の提案に、マチアスは戸惑った。
「木の実のトルテを焼いてあげるわ。お友達も誘って来て。ねっ?」
「はあ」
マチアスが返事に困っていると、ユリウスが笑いながら割って入った。
「行くと言ってやってくれ、マチアス。彼女はトルテを食べてくれる人間を欲してるんだよ」
「よろしいのですか、先生?」
「別にわたしはかまわないよ」
「それじゃ、今度うかがいます」
「きっとよ」ティアーナは満足そうにうなずいた。
「マチアス、杖を頼む。老師には1時間ほどで戻ると伝えてくれ」
「はい」マチアスは大賢者の杖を持ち、闇の道で帰っていった。
夜の暗さはすでに消え、あたりには朝もやが立ち込めていた。たき火の始末を始めたユリウスに、ティアーナは不思議そうに聞いた。
「わたしたちはどうするの?」
「ちょっとね、寄りたい所があるから、そこへ寄ってから大学へ戻る」
「どこへ行くの?」
「いいとこ」
ユリウスは振り向きもせずに言い、そのまま口をつぐんでしまったので、ティアーナもそれ以上聞かず、所在なさそうにユリウスのすることを見ていた。
「これでよしと。日の出までにはまだ間があるな。何か食べられる物を採ってくるよ。ティア、ここにいてくれる?」
たき火の跡に土をかけ、丹念に踏み固めた後、そう言ってユリウスがティアーナを見ると、彼女はどこか落ち着かない様子で立っていた。
「どうしたの?」
「あの、わたし、トイレ……。それとできれば、顔も洗いたいんだけど」
ユリウスはクスッと笑って指差し答えた。
「あっちの茂みの向こうにきれいな沢があるよ」
「行ってくるわ」彼女はよろよろとおぼつかない足取りで歩き始めた。
「一人で大丈夫?」
「平気。ついてこないでね」
「はいはい」
ユリウスが反対の方向へ歩いていくのを確かめて、ティアーナも再び歩き出した。そして茂みの向こうに出ると用を足し、水の音を頼りに沢を探した。木につかまりながらしばらく歩くと、小さなきれいな流れに出合った。
慎重に流れのほとりに降り、手を水に浸そうと、しゃがんで前かがみになったときだった。前によろけそうになるのをこらえた彼女は、背後から支えてくれるような優しい感触を感じて振り返った。背後にはもちろん誰もいない。それに、それは人の手や体といった直接的なものではなく、ただふわっとした暖かい感触だけだった。
不思議に思いながら、彼女は冷たい水で顔を洗い、手櫛で髪を整えた。気づいたときからずっと、両の腕や肩、背中にその暖かいものはあった。
(暖かい。何だろう、この感じ……。まるで、後ろから抱きしめられているみたい)
彼女は両手で両肩を触った。
(ユーリ……、あなたなの?)
元いた場所へゆっくり歩いて戻ると、ユリウスはまだ戻っていなかった。ティアーナは草の上に座り込んだ。鳥も獣も虫もすべて、このあたりからいなくなってしまったかのように静かで、音もなく朝もやが流れている。彼女は独りぼっちなのに、その暖かなぬくもりのおかげで、独りではないような不思議な心強さを感じていた。
(これって、今初めて起こったこと?それとも前からあったのに、気がつかなかっただけなのかしら……)
彼女はこれまでに同じようなことがあったかどうか考え込んだ。そのとき、薮をがさがさとかき分けて、ユリウスが戻ってきた。
「山葡萄とリコスの実があったよ」
ユリウスは採ってきた物をティアーナのひざの上に置いた。
「わたし、おなかすいてないわ」
「少しでも食べておきなさい。リコスの実は栄養があるんだよ」
仕方なしに、彼女は2,3個摘んで口に入れた。
「あ、おいしい、これ」
少し食べる気が出てきて、続けて葡萄の実も食べてから、彼女はユリウスを見つめた。
「ねえ、ユーリ」
「何?」ユリウスが葡萄を口に運びながら、顔を上げた。
「側にいてくれたの?」
ユリウスは答えず、いとおしむように彼女を見つめた。
「ずっと、側にいてくれたの?」
彼はゆっくりと首を横に振ってから、手の中の山葡萄に視線を落として言った。
「きみに嫌われても側にいるべきだった。離れるべきではなかった……。きみの心の中の扉はきみ自身にしか開けられない。だから、黙って見ているしかないと思っていた。でもそうじゃなかった。見ているだけではいけなかったんだ。わたしにできること、側にいること、たとえ遠く離れた所にいても、心は側にいること、他に何もしてあげられないなら、それをするべきだったんだ。そうすれば、ライシャの罠も未然に防げたかもしれなかった……。もう同じ過ちはしないよ」
「……わたしが邪魔にしても?」
ティアーナは頬を染め、照れた表情で上目遣いで尋ねた。
「邪魔にならないようにするさ」
微笑んで答えるユリウスを見て、彼女はまた肩のあたりを触った。心をそこに留めれば、そのぬくもりはいつでもそこに感じられた。それは確かに彼女のものになっていた。
「わたしも同じ過ちはしないわ」ティアーナはぬくもりを確かめながら、つぶやいた。
「あの人の罠はすべて、わたしの真実から作られていたわ。あなたが防いでくれたとしても、いつかどこかで出会わなきゃならない真実だった。悔しいけど、みんなあの人の言う通りよ。認めなくちゃ。同じ過ちを繰り返さないように……。あの人、あんなにユーリのこと思って……。あの人もあなたのことを愛していたのね」
「それは違うよ、ティア。ライシャが愛していたのはわたしじゃない。わたしの力だ」
まじめに否定するユリウスをじっと見てから、ティアーナは笑い出した。
「何で笑ってるんだ?」怪訝そうな顔で、ユリウスが聞いた。
「ウフフフ……、ほんとに賢者でも、わからないことはあるのね」
「?」
首をかしげるユリウスをそのままにして、ティアーナはクスクス笑っていた。
(ウェルタさん、あなたの愛し方ではユーリはわからないみたいよ……)
彼女はようやく西の森の魔女に、一矢報いたような気がした。
「おっと、そろそろ行かないと、間に合わなくなってしまうな」
ユリウスは残った果実を草の上に置くと立ち上がり、ティアーナの側へ歩み寄った。
「きみをどうやって連れて行くか考えたんだけど、闇の道は嫌だろう?」
「闇はもういいわ、勘弁して」ブルッと体を震わせて、ティアーナは答えた。
「それで、こんなのはどうかなと思って」
ユリウスはティアーナが立ち上がるのに手を貸し、それから少しの間目を閉じた後、空に向かって呪文を唱えた。すぐに風が動き出し、朝もやを消し去った。風は彼らの前でつむじ風となり、宙を舞った。風にあおられてティアーナは倒れそうになり、ユリウスにすがりついた。やがて、つむじ風がほどけると、その中から青い竜が現われた。
「竜!?」驚きと恐れで、ティアーナはさらにユリウスにしがみついた。
「風でできた幻の竜だよ。風にちょっと力を借りたんだ」
「こ、これに乗るの?落ちたりしない?」
「大丈夫だよ。本物じゃないんだから。きみを振り落としたりはしないよ」
ユリウスは先に竜に乗ると、手を差し出した。
「さあどうぞ、奥さま」
ティアーナは差し出されたユリウスの手を見つめた。もう幾度この手は自分に向けて差し伸べられたのだろう、とティアーナは思った。幾度となく、夢の中でまで――
「さあ、大丈夫だから」
もう一度促されて、ティアーナはその手を取り、竜の背に引っ張り上げてもらった。竜は静かに空へ舞い上がった。翼は動いているが、羽の音がしない。聞こえるのは風の流れる音だけだった。ユリウスはティアーナを後ろから支え、気持ちよさそうに目を細めて、彼女に話しかけた。
「気分いいだろ?空を飛ぶのは」
ティアーナはユリウスにしがみつきながら、恐る恐る下を見た。眼下に緑の森が広がっていた。
「そうね、風は気持ちいいけど、やっぱり恐いわ。あなたは竜に乗ったことがあるの?」
「本物はないよ。竜にはまだ早いって断られたんだ……。きみの夢の中で竜に乗った。それで味を占めたんだ」
「やっぱり、わたしの夢の中に来てくれたのね」
「そうしなければ、きみを助けられなかった」
「じゃ、見たのね、あの絵を」
「……ごめんよ、きみの夢を解く鍵が見つからなくて」
ユリウスが済まなそうに謝ると、ティアーナは恥ずかしさを怒った顔でごまかしながら言った。
「笑ったでしょ」
ユリウスは少し間を置いて答えた。
「以前のわたしなら笑ったかもしれないね。でもそのときは、これがきみの望むものなら、それになりたいと思ったよ。きみの望むものになりたかった……」
「………」
切なさに襲われて、ティアーナは黙り込んだ。
(ユーリはわたしを助けてくれた。夢の中まで来てくれた。心配して、わたしをあんなに強く抱きしめてくれた。そして、わたしの望むものになりたいと願ってくれたんだわ……。いつも側にいてくれて、必要なときに手を差し出してくれる……。それって、ただの優しさと言える?)
彼女は変わっていく空の色を眺めながら考えた。
(違う……。本当にわたしを引き受けてくれたから、できることなんだわ。きっとそうね。そう言えば、お母さんもそんなようなこと言ってたっけ……。本当にその通りだったんだ……)
彼女の中で次々と扉が開き、彼女はその向こう側を見つめた。
(ユーリはこれを愛とは思ってないのかもしれない。そう、わたしもわからなかった。でもこれも一つの愛のかたちなのね。決して能動的ではないけれど、とてもとても懐の深い愛……)
そう考えると、彼が自分から彼女を求めようとしないのも、彼女の意にそぐわないことはしたくないと思ってのことなのだと思い当たった。
(どうして気がつかなかったんだろう。どうしてわからなかったのだろう……。わたしはユーリの何を見ていたのだろう……。挙げ句の果てに、わたしったら……)
竜は森を飛び越え、田園風景の中を飛び続けた。右前方にバイオンの町が見えている。ティアーナはようやく口を開いた。
「わたし、ひどい奥さんね。あなたがわたしを助けようと一生懸命なときに、わたし、夢の中であなたのこと、すっかり忘れてたんだもの。誰かに助けてほしいって思いながら、それが誰なのかわからなかった」
竜の向かう方向をまっすぐに見つめていたユリウスが、ティアーナに視線を移して答えた。
「それは、きみがわたしに頼りたくないと思っていたことが、夢に表われたんじゃないかな。迷惑かけちゃいけないとばかり思っていただろう、きみは」
ティアーナは黙ってユリウスを見上げた。
「頼っていいんだよ。頼ってほしいんだ。いつもきみの望む通りにはできないかもしれないけど、遠慮はしないでほしいんだ。……きみはいつも自分が与えられてばかりと思って、引け目を感じてるのかもしれない。だけどね、きみだって、たくさんのことをわたしに与えてくれているんだよ。喜びや悲しみ、ぬくもり、力……、わたしに足りないもの、わたしが今まで持ち得なかったものも……。そしてきみは、わたしの重荷を一緒に背負ってくれているじゃないか。それはきみにしか、できないことなんだよ。きみと結婚してから、きみがわたしの心を軽くしてくれて、わたしはとても助かってるんだ。わたしもきみに頼っている。だから、きみもそうしてほしいんだ」
「………」彼女はいつの間にか、目ににじんだ涙をぬぐった。
「きみ、最近、何かを言いかけて、黙ってしまうことがよくあっただろう?もうこれからは、それはやめてほしい。遠慮しないで話してほしいんだ。でないと、気になって夜も眠れない」
ユリウスは冗談めかして言い、ティアーナに笑いかけた。ティアーナも涙をにじませながら笑って答えた。
「ええ、ユーリ、これからはそうするわ。でもね、わたし、わかったの」
彼女は赤く染まっている東の空に目を移した。
「わたし、欲しいものがあったの。もうずっと、それは手に入れられないものだと思ってた。でも違ったの。わたしが気がつかなかっただけなの、もうそれを手にしてるってことに。自分の思っていたものと形が違ってただけで、もうそれはわたしの手の中にあったの。だから、もういいの。言いたかったことも、聞きたかったことも、もうなくなったわ。みんな解決してしまったの……」
「そう……」
(わたし、いつからそれを手に入れてたのかしら……)
彼女は今まで二人が歩んできた道のりを振り返ってみた。再び、幾度となく彼女に差し出された彼の手のことが、心に浮かんだ。
(そうだわ、あのとき。最初に手を差し出してくれたあのときから、もうすでにそれはあったのだわ。あのときから始まっていたんだ、きっと……)
最初は小さな小さなものだったに違いない。けれどそれは気がつかないうちに、だんだんと大きく深いものになっていたのだ――賢者の心も変わるのだと彼女は知った。
(ユーリの心は動かない。でも変わってきてたんだわ。ほんとに少しずつ、ひっそりと目立たないところで……。わたしはユーリの一番近くにいたのに、それが見えなかった……)
「ユーリ」ティアーナはユリウスを見上げた。
「ん?」
気がつかなくて、ごめんなさい――そう言おうとしたが、彼女はそれをやめて別の言葉を口にした。
「ありがとう」
ユリウスは答える代わりに微笑んだ。
竜はバイオンの町を過ぎ、エルツ河に沿って飛び、暁の塔のテラスの上に舞い下りた。風があたりを吹き散らす中、ユリウスがティアーナを抱いて飛び降りると、竜はつむじ風の中に消え、つむじ風もやがて空に昇って消えた。彼は消え行く風に向かって何事かつぶやくと、ティアーナを降ろした。
「日の出に間に合ったね」
「いいとこって、暁の塔のことだったの?」
「そう。朝一番のエイロスの光を浴びると元気になるんだよ」
「それには、ここが最適ってわけね」
「ご明察」
「誰もいないのかしら」
「朝の勤行の真っ最中だよ、下の礼拝堂でね。勤行が終われば、誰か上がってくるだろう」
しばらくして、東の森の向こうからエイロスの光がやってきた。二人はそれぞれ祈りの詩篇を口ずさみ、エイロスを称えた。トロリとした赤い朝日はやがてまばゆい光に変わっていった。
(あのときもこうして、ここで二人で朝日を見たわ。静かな結婚式をして、二人で同じ夢を見て、それから不思議な誓約式、そして初めて一緒の夜を迎えた後に……)
テラスの手すりにもたれて光を見ながら、ティアーナは3年前のことを思い出していた。
(あのときわたしたちは夫婦になったけど、本当に心のつながった夫婦ではなかったわ、この3年間……。でも今は、今なら……)
ティアーナは背後にいるユリウスを振り返った。
「ねえ、ユーリ、さっきあなたは、わたしに頼ってるって言ってたわね?」
「ああ、言ったよ」
光を背にして立つティアーナをまぶしそうに見ながらユリウスが答えると、彼女は彼の方へ歩み寄って、手を差し出した。
「じゃ、この手につかまって」
ユリウスは差し出されたティアーナの手を取った。彼女は「あったかい」とつぶやいて、照れたように笑い、つながれた二人の手を見ながら言った。
「ねえ、覚えてる?結婚式の時に見た、河のほとりの夢」
その言葉だけで、ユリウスには彼女が何を言おうとしているのか理解できた。
「ああ、覚えているよ」彼も二人の手を見つめて、かみしめるように言った。
「ようやく、つながったね」
ティアーナはユリウスを見て、ニッコリと明るく微笑んだ。
「ユーリ、わたし、まだ言いたいことが一つだけ残ってたの。言ってもいい?」
少しはにかんで言うティアーナを嬉しそうに見ながら、ユリウスは答えた。
「いいよ、言って」
ティアーナは栗色の髪をなびかせて、ユリウスの胸に飛び込んでいった。そして背伸びをし、両腕を彼の首に回すと、耳元でささやいた。ユリウスと出会ってから、初めて彼の前で口にする言葉――今まで一度も、彼に対して言い表わすことのなかったその言葉を――
「愛してるわ、ユーリ。愛してる」
ユリウスは何も言わず、ただ彼女を抱きしめた。腕の中のぬくもりが確かな存在感を持って、そこにあった。そして、互いが互いのぬくもりを知り、それが通い合い、深まったことを彼は感じた。ユリウスは湧き起こる新たな喜びに心を満たされながら、想いを込めてティアーナを抱きしめた。ティアーナもまた、ユリウスのぬくもりに包まれ、彼の腕に込められた想いを知り、喜びを分かち合うことができた。素直な気持ちで彼を見て、彼を感じ、受け入れることができたら、言葉は必要なかった。
一つになった二人の影は朝の光の中、テラスの上に長く長く伸びていた。しばらくの間、動かなかったその影がようやく動き、二つに分かれると、再び風が巻き起こり、風の幻が現われた。幻の竜はしっかりと手をつなぐ二人を乗せて、舞い上がり、バイオンの町の方へと飛んで行った。
第2場← | 7・つながれた手 - 第3場 | →終章・賢者の約束 |
---|