第1場 7・つながれた手 - 第2場 第3場

森は次第に暗くなり、枯れ木の群れは不気味な影を形作っていた。暖かな火は夜の森の中で人の拠り所となる。マチアスはユリウスとティアーナの側で火を焚き、ぐったりと木にもたれかかるティアーナに自分のマントを着せた。

「寒くないですか?」

「ええ、平気よ。えっと、お名前は?」

「マチアスです」

「ありがとう、マチアス」

ティアーナにニッコリと微笑まれて、マチアスは照れて頬を染めた。

「わたしはティアーナよ。知ってたかしら?」

「ええ、存じております、奥さま。大学では、あなたのことを知らぬ者はいません」

「ユリウス・アルクルトの妻として?」

「先生のご結婚は、大学では一大センセーションだったんです。学内にとどまる先生方は結婚されない方がほとんどですし、先生も結婚なさらないとおっしゃっていたそうですから」

「そうよね」ティアーナはクスッと笑った。

「わたしだって驚いたもの、ユーリが結婚するって言ってくれたときは。どうして気が変わったのか、いまだによくわからないのよ」

「それは先生が奥さまを、好きになられたからでしょう?」

「そんなんじゃないのよ、マチアス。わたしたちはね……」

ティアーナは疲れたように息をつき、炎を見つめた。

「奥さまもお休みになって下さい。わたしが起きてますから」

マチアスが心配そうに言うと、ティアーナはことさら元気に笑って見せた。

「大丈夫よ、わたしも起きてるわ」

「でも、顔色が悪いですよ。お休みになった方が……」

「わたし、今まで散々寝てたんですもの。もう眠るの飽きちゃったわ。だから寝なくてもいいのよ。ねえ、話しててもユーリ、起きないみたいだから、お話ししてましょうよ、ね?わたしたちはね、占いで結婚したのよ」

「占いですか?」

マチアスはティアーナのことを気遣いながらも、彼女の話に引き込まれた。

「そうよ。わたしの再婚相手を占い婆さまが占ってくれてね。それがユーリだったの。ユーリと結婚すればうまくいくって言われたのよ。わたしは再婚だから、うまくいきさえすればいいと思ってたし、ユーリはたまたま迷い込んできた小猫を拾って助けるような、たぶんそんな感じで引き受けてくれたんだと思うわ。お互いが求め合うような結婚とは程遠かったの」

「そうだったんですか」

「ええ。でもね、結婚してわたしは、東の森の賢者、ユリウス・アルクルトの妻になったけど、わたしにとっての彼は、少なくともわたしの前では普通の夫だった。そりゃあ、ユーリは普通とはかけ離れてるし、わたしたちの生活も普通とは言えないけど、それでもわたしにとって、ユーリは賢者ではなく、わたしの夫だったの」

ティアーナは死んだように眠っているユリウスを見ながら話し続けた。

「けれど、やっぱりユーリは賢者なのよね。今日のことでよくわかったわ。今までわたしは、賢者ユリウス・アルクルトとしての彼を避けていた。彼のその部分を受け入れようとしてなかった。わたしの夫、ユーリでいてほしかったから……。あんな恐いユーリ、見たの初めてよ。でも、あの妖魔と闘う賢者の姿も、やっぱりユーリそのものなのね。避けて通れない。避けていてはいけなかったのだわ」

「わたしも先生のあんな厳しい顔を見たのは初めてです。奥さまの夢が解けないとおっしゃっていたときの、辛そうな顔も」

マチアスもユリウスに目を移して言った。

「夢を解く?」

「はい。夢食いの木はまず囚われた者を夢から解放しなければならないんです。それをしないで滅すると、囚われた者も死んでしまうのです。先生が奥さまの夢を解く間、触手を呪縛しておく必要があったので、それでわたしがお手伝いを」

「そうだったの……」ティアーナは考え込むようにつぶやいた。

「先生は奥さまをなんとか助けようと必死でした。あの妖魔の木との厳しい闘いぶりも、きっと奥さまのために……。今は先生は奥さまのことを深く愛していらっしゃるのでしょう?」

「マチアス、ユーリはね、囚われているのがわたしでなくても、必死に助けたわ。そういう人なの」ティアーナはマチアスに微笑んだ。

「奥さま……」

「賢者とはそういうものなのよ。賢者は……、誰のものでもないわ。だから誰のためにもなるものなの。賢者の心は人のものにはならない。動かすことはできない。いくら、わたしが望んでも……。それはただ動かずそこにあって、回りを照らすものなのよ。わたしもあなたも東の森も、ユーリの側にあるものはみんな、その心に照らされているの。わかるでしょう?」

「ええ、わかります」マチアスは深くうなずいた。

(そう、きっとユーリは同じようにしたはずだわ。囚われたのが誰か他の人でも。他の人とわたしに違いがあるとすれば、それはあんなに強く抱きしめてくれたことかしら……)

ティアーナは考えたが、それは口に出して言わなかった。

「ねえ、あなたのことも話して。マチアス、あなたはいくつ?」

「今年、24になります」

「そんなに若いのにマスターなの。優秀なのね」

「いえ、わたしはまだまだです」

「でも、ユーリはあなたを助手に選んだのでしょう?それだけの力があるからなのではなくて?」

「先生がわたしを選んだのは、わたしが身に過ぎた望みを持ったからです」

マチアスは顔を曇らせてうつむいた。

「身に過ぎた望み?」

「わたしは……、ずっと先生にあこがれていました。先生は誰よりも強い気を持っていらして、誰よりも輝いて見えるんです。誓約式のとき、賢者たちが青のローブをまとって勢揃いする中で、先生はその一番末席にひっそりといらっしゃるのに、一番目だって見えて……。そんな先生を見て、わたしは少しでも先生のようになりたいと思い、一生懸命勉強して訓練しました。たまたまわたしは人よりも力が強く、術もよく使えたので、修習科を3年で修了できました。3年で修了できたのは先生以来だと言われて、わたしはいい気になっていたのです」

ティアーナはじっと黙って、耳を傾けていた。たき火の火に薪を入れてから、マチアスは続きを話した。

「わたしはもっと先生の力が見たいと思っていました。そしてそれに比べて、自分はどれだけの力があるのか知りたいと思っていました。けれど、先生は必要ないことはしないと言われて、滅多に力を見せて下さらないのです。わたしはそれが不満でした。セムの食人鬼を滅した話だって、噂話ではなく本当のことが聞きたいのに話して下さらないし……。どうして力を隠されるのか、なぜそんなに自重なさるのか、わたしにはわかりませんでした。そんな折、先生の交流感授を受けられることになって……」

「交流、感授?」ティアーナは目をぱちくりさせて、聞き返した。

「個人教授の方法です。気の交流を通して、直接師の法を授かるのです。わたしは先生の力を知り、自分の力を試すいいチャンスだと思い、喜んでそれを受けたのですが、先生にはいつも力に頼りすぎるなといさめられて……。わたしは力が強くなりさえすれば、先生に近づけると思っていたのです。でも、そうではなかった。力は強さだけで測るものではないと、もっと他にも必要なものがあるのだと、先生が妖魔を滅されるのを見て、ようやくわかりました」

「必要なものって?」

「妖魔を滅する術は癒しの術を増幅させたものなんです。それを相手の邪気が散じるまで施し続ける……、わたしが思っていた以上に地味で忍耐強い仕事でした。ただひたすら、正気の光を発し続ける先生は、まるで自分の内面と闘っているように見えました。とても力が強いだけでは闘えません。自分の内面を支えるもの、知識や経験や色々なものがあって、力に深さや広がりが加わって、初めて力は使い物になるのだと……。先生はそれを気づかせるために、わたしをここへ連れて来られたんです。わたしはまだ、力を試す以前の段階なんです。思い上がっていたんです……」

自分を省みて、沈み込むマチアスに、ティアーナは微笑んだ。

「そんなに落ち込まないで、マチアス。あなたが自分の務めをきちんと果たしたから、ユーリは妖魔を滅することができたのでしょう?立派に力を使っているじゃない」

「奥さま……」

「それに、あなたはもうわかったのですもの。きっとユーリも満足すると思うわ。よかったわね」

「はい……」

明るく慰められて、マチアスは戸惑うように下を向いた。すると、ティアーナが急に目を輝かせて言い出した。

「ねえ!あなたってきっと、ユーリの若い頃に似てるんだと思うわ」

「え!?」

「あの人、あの魔女の言ってたことが正しければ、ユーリも14年前、自分の力が知りたいと言って、あの人の所へ手合わせをしに行ったそうよ。ユーリはあなたに自分の若い頃を重ねて見て、ほっとけなかったんじゃないかしら」

「14年前に手合わせ!?」

マチアスは妖魔との闘いに赴く前に、ユリウスが言った言葉を思い出した。

「そんなことがあったのですか……」

彼はユリウスの言葉をかみ締めるように思いに沈んだ。

それから二人は、ポツリポツリと互いのことを話していたが、夜も更けてきて、話すこともなくなると、やがて沈黙が支配するようになった。たき火の炎は、黙ってそれを見ている二人を、揺らめきと暖かさで眠りに誘った。そのうち、マチアスはひざを抱えたまま、居眠りを始めた。

(自分も疲れてるのに、無理しちゃって……)

ティアーナはマチアスの寝顔を見てそっと笑い、眠りに落ち込んだのを見計らって、マチアスの側に寄り、彼のマントを彼に掛けてやった。

話し相手がいなくなって、ティアーナはぐったりと萎えた体を木に持たせかけて、大きくため息をついた。体は芯から疲れ、だるく重い。上半身を起こしているのも辛かったが、横にはなりたくなかった。静けさの中で、次第に彼女も眠気に襲われ、まぶたが落ちてくるのを彼女は必死に防いだ。

(眠っちゃだめ、目よ、覚めていて。眠りたくないの)

だが、いくら抵抗しても、目は閉じようとするのをやめなかった。何回かこっくりした後で、ガクッと首が落ち、彼女はハッとして目覚めた。

(今、眠ってた!?)

眠りと夢の恐怖を思い出し、彼女はわなわなと震える両手で両頬を挟んだ。それから眠気と恐怖を振り切るように、思いきり頭を振った。

「どうしたの?」

ユリウスの声だった。彼女が振り向くと、眠っているとばかり思っていた彼が、目を開けてじっとこちらを見ていた。

「ユーリ、起きてたの?」

「うん、今、起きた」

彼はムクッと起き上がると、大きなあくびをした。

「あー、よく寝た」

「もういいの?」

「ああ、おかげですっきりしたよ。ティア、きみも眠っていいんだよ。無理して起きてることはない」

「いいわ、わたし。寝なくても大丈夫」

ティアーナの声が震えた。ユリウスはいぶかしんで彼女を見つめた。

「今、うたた寝してたじゃないか。きみは体が弱ってるんだから、眠った方がいい」

「平気よ。今までずっと寝てたんだし、もう、寝たくないの」

「眠るのが恐いのか?」

ユリウスに本音を突かれて、ティアーナは言葉を継げなくなった。ユリウスは彼女の側に寄り、彼女の体を引き寄せると、自分のひざの上に寝かせた。ティアーナの目に恐れが広がった。

「何をするの?」

「いいから、黙って。静かにゆっくり呼吸して」

ユリウスは右手でティアーナの目を覆った。彼の手から流れ込むものを感じ、彼女は弱々しい手で彼の手を押し戻そうとした。

「やめて!わたしに術をかけないで」

「そんな力じゃ、何もできないよ。眠って体力を回復させなきゃ、帰ることもできない」

「いや!眠るのはもういや!」

「大丈夫、もう夢は見ないよ」

しばらくして、抗っていた彼女の手は下に落ち、静かな寝息が聞こえた。ユリウスは手を外すと、まじないでもかけるように、そっと彼女の額と両頬にキスをした。

「いい奥さまですね」

居眠りから覚めて、状況を見守っていたマチアスが声をかけた。

「ああ、かけがえのないものだよ。危うく失うところだった」

ユリウスはティアーナの寝顔を見つめながら言うと、自分のマントで彼女をくるみ、静かに草の上に横たえた。

「マチアス、おまえも寝てていいよ。後はわたしが起きているから」

「先生」マチアスは真剣な表情をユリウスに向けた。

「何だ?」

「申し訳ありませんでした。わたしは……」

うなだれて、マチアスは言うべき言葉を探した。

「わかったのか?」

「はい」

「ならいい。あやまることはない。わかればそれでいい」

ユリウスはマチアスを見つめたまま、軽く微笑んだ。

「休んでおかないと、明日がきついぞ」

「はい、先生」マチアスはマントにくるまって横たわった。

二人が寝てしまうと、またあたりは静寂に包まれた。不気味なほど静かな夜だった。火のパチパチと燃える音だけが、音のない世界を救っていた。ユリウスがぼんやりと火を見ていると、聞き慣れない声が彼を呼んだ。目を上げると、ゆらりと影が現われて、彼に話しかけた。

《ユリウス・アルクルトどの。われはガイル山のもの。一言礼を申したい。そちらへ参ってもかまわぬか?》

《どうぞ》

ユリウスが答えると、しばらくして暗闇の中から、一人の小さな老婆が現われた。ドーラよりも更に年が上、縮んだ背にしわ深い顔はどう見ても90以上のように見え、わずかに腰は曲がり、木の杖を手にしていたが、しっかりした足取りでゆっくりとユリウスに近づいた。ユリウスは驚いて立ち上がった。

「ガイル山の大姉どのか?」

「さよう。ライシャを召還に参った。われはアマンダと申す。お見知りおきを」

年老いた魔女は老婆特有の甲高い声で、ゆっくりとユリウスに言った。

「大姉どのが直々に?」

「ホッホッ、そなたを一目見たいがためじゃ。そなたの名声はガイルのおやまにも届いておるぞ」

魔女はしわ深い顔に笑みを浮かべ、ユリウスを見つめた。

「事はすべてライシャに聞いた。われらが姉妹の不始末、よう収めてくれた。心より礼を申す」

「わたしだけの力ではありません。ライシャとわたしの弟子と大賢者の杖の力がなければ、妖魔を滅することはできませんでした」

「その力を引き出したのはそなたであろう?さすがはクルトの血を引く者、見事な術であったとライシャが申しておったぞ」

「………」

「そなたの力は“静めの力”じゃな。まこと“変動の時”には、バドゥに必要な力じゃ」

「静めの力!?大姉どの、わたしのことで何かご存知なのですか?」

魔女の言葉にユリウスは息せき切って尋ねたが、魔女はカラカラと笑った。

「ホッホッホ……、知らぬよ、われは。大学の老師どのほどのことも知らぬ。ただ変動と言うても、どう動くのかは定まってはおらぬはず。動かす力は様々じゃろうが、動か静か、どちらかと問えば、そなたは静の方じゃとそなたを見て思うたのよ。これは女の勘じゃ」

「女の勘、ですか……」まじまじと老魔女を見ながら、ユリウスがつぶやいた。

「そうじゃ」魔女はすまして答えた。

「そなたが何を案じておるのかは知らぬが、いずれにしても案ずることはない。力はそなたを裏切ったりはせぬ。そなたは思いのままに進めばよいのじゃ」

「はい……」思案顔でユリウスは返事をした。

「さて、ではこれにて失礼する」

「ライシャは?」

魔女は背後の闇を指した。

「そこにおるが、顔は合わせたくないそうじゃ。アルクルトどの、3年後の“賢魔会議”には参られるか?」

「老師のお許しがいただければ」

「是非参られよ。楽しみに待っておるぞ。ではさらばじゃ」

老魔女はニンマリと笑みを見せてから、闇の中に歩み去った。訪問者が去ると、ユリウスは再びたき火の前に座り、深い思慮の中で時を過ごした。


第1場 7・つながれた手 - 第2場 第3場