第10場 6・夢を解く鍵 - 第11場 つながれた手

ティアーナは何も考えられず、目の前に起こっている大変な事態を呆然と見ていた。そこから逃げ出したかったが、体が萎えて動かない。動けたとしても、右手はまだつながれたままだったし、それにそこは地面からずいぶんと高い所だった。

「どうしよう……」

地面に落とされたユリウスを見て、ティアーナは心細くつぶやいた。そのとき、膜がぶるぶると震え出し、それに気がついた彼女が下を見ると、枝が伸び始め、下から彼女を包もうとしていた。枝先が膜の中に入ってきて、ゆっくり彼女に向かって伸びてきている。彼女は声も出ず、震えながら身を縮めていた。枝が垣根のようになって膜の縁まで届き、伸びてきた枝先が彼女の足や髪に絡みつき始めたとき、カッとあたりが光り、彼女は顔を伏せた。ほの明るい光が残る中で、彼女は顔を上げた。枝先は焼けこげたようにボロボロになって散り、枝は成長を止めた。

「ティア」

いつの間にか、ユリウスが側に来ていた。

「ユーリ!」

泣き出しそうなティアーナに、彼は手を出して、彼女の紐のちぎれたクリスタルを渡した。

「やつはきみの手を離そうとしない。後で必ず助けるから、ここを動かないで。じっとしてるんだ、いいね」

それだけ言うと、彼は素早く別の枝に飛び乗り、巨大な一つ目の花と向かい合った。

(ユーリ……、なんて恐い顔。あんな顔、初めて見る……)

ティアーナは自分の知らない、ユリウスの賢者としての一面を垣間見たような気がして、複雑な思いで花と対峙している彼を見守った。

ユリウスは杖を構えたまま動かない。だが、彼を包む光の球から、小さな光の球が浮き出てきて、花に当たってはじけた。光の球は次々と浮き出てきて、花に当たり、火花のように花を照らした。花は身をよじらせたかと思うと、巨大な一つ目から黒く濁った血しぶきのような煙を吐いた。たちまち火花は消え失せ、あたりに何とも言えない嫌な臭いが立ち込めた。煙はユリウスを包む光を侵食し、さらに2本の触手が彼を追い払おうと伸びてきた。彼は杖を構え直した。呪文を口にすると杖は光って、彼を包む光を厚くし、煙と触手を退かせた。

再び、ユリウスは光の球を花に向けて発し続けた。光は次々と花に当たり、花は緑の花びらを散らした。音はなかった。白い光の球と、赤黒い煙が飛び交うだけの静かな闘いだった。ティアーナは夢の続きを見ているような気持ちで、それを見ていた。

光にまとわりつかれ、花は狂ったように動き回ると大量の煙を吐いた。また嫌な臭いが濃くなり、ティアーナの回りにも煙が漂ってきたが、見えない空気の膜が遮断しているように、彼女の側には来なかった。しかし、彼女は自分のことより、ユリウスの方に気を取られていた。

「ユーリ!!」

煙が彼を包む光を覆い、その中で彼は杖を降ろし、前かがみになって大きく肩で息をしていた。

(ユーリ、大丈夫かしら……。ああ、がんばって、ユーリ!!)

ティアーナは胸の前でクリスタルを握り締め、ハラハラして見守った。

(どうしよう、わたし、何もできないわ。ユーリががんばってるのに……。祈ることぐらいしかできない……、祈るしか……)

ティアーナは手の中のクリスタルに願いを込めて、一心に祈りの言葉をつぶやいた。

「エイロスよ、ルディアよ、どうかユーリをお守り下さい。どうかユーリに力をお与え下さい。お願いです……」

押し殺したような静寂に包まれた森の中で、ティアーナの心から発せられた願いは、か細く頼りない糸のように、重苦しいよどんだ空気の中を漂っていった。

《……リ、……がんばって、ユーリ……》

《……よ、ルディアよ……、……どうか……下さい、お願いです……》

花の吐き出すものすごい瘴気に力を弱められ、攻撃できずにいるユリウスの耳に、とぎれとぎれに声が聞こえてきた。

(あれはティアの声だ……。ティアの励ます声、祈りの声……)

彼は耳を澄ましてその声を聞いた。

(ティアが励ましてくれている、祈ってくれている、わたしのために……)

暖かいものが心と体に満ちてきて、彼は目を閉じてその感覚を確かめた。満ちてきたものは新たな力となって、彼を元気づけた。

(ああ、不思議だね、ティア。きみの声が、きみの祈りが、こんなにも強い力を与えてくれるなんて……)

ユリウスは再び杖を構えて呪文を唱えた。光が増し、煙は散り散りになった。彼は次々と光の球を花に向けて打ち込んだ。火花が花を覆い、花はパラパラと花びらを散らした。それと同時に、大きかった木が次第に縮んできた。触手を近づけないように気をつけながらも、彼は攻撃の手をゆるめず、ついに木は半分くらいの高さにまで縮み、花はすべての花びらを散らし、不気味な目玉だけになった。

ユリウスがほっと息をついた瞬間、いきなり目玉が彼の目の前に近寄り、煙を吐いた。慌てて彼が光を前面に集中させると、背後から触手が素早く伸びてきて彼を捕らえた。

「!!」

抵抗する間もなく、あっという間に彼は2本の触手に巻きつかれ、体を覆われてしまった。

「ユーリ!!」

ティアーナが悲鳴のような声を上げた。ユリウスの体を覆い尽くした触手は、ギリギリと彼の体を締め上げ始めた。

「ユーリ!!」

もう一度ティアーナが叫んだときだった。触手の動きが止まった。やがて、触手の間から光が漏れ出した。触手の中の光は見る見る間に膨れ上がり、触手をバラバラに引きちぎって炸裂した。ティアーナはそのすさまじい光景を息をのんで見ていたが、すぐにユリウスの無事を確かめようとして、触手から逃れて地面に着地した彼に、急いで声をかけた。彼はティアーナの方を見て答えるように笑顔を見せると、再び跳び上がって花に向かった。

「すごいわ、ユーリ……、大丈夫なのね……」

ティアーナはユリウスの笑顔に驚いてつぶやいた。彼はもう無表情に戻って、花を見ていた。

ユリウスは触手をなくした花に向かって、大きな光の球を放った。花は動かなくなった。おそらく、次の一手が最後になるはずだった。しかし、彼はふとその手をためらった。

《ナニヲ タメラウノカ?》

声がユリウスの頭の中に響いた。

《タメラウコトハ ナイ。ソノテデ ワレラヲ メッスルノダ》

彼はその声が目の前の妖魔のものであることに気がついた。

(あのときと同じだ。食人鬼のときと……)

ユリウスは食人鬼と対峙した時のことを思い出した。そのときも、最後の攻撃をためらうユリウスに鬼が語りかけてきたのだ。

《オマエハ モウ シッテイルハズダ。ワレラノ クルシミヲ。クルシミナガラモ チョウワヲ ミダサズニハ イラレナイ ワレラヲ》

妖魔の言葉と共に、焼けつくような激しい苦しみと痛みがユリウスの心に伝わってきて、彼は身震いした。邪気より生まれ出た妖魔は忌むべきものだが、それでも生あるものなのだ。その思いがユリウスの手をためらわせていた。しかし、妖魔は自らを忌んでいた。自ら苦しみ、自らを忌みながらも、生あるために乱し、破壊していくもの――それが妖魔だった。そして確かに、彼は食人鬼にそのことを知らされていた。ユリウスは杖を握り締めた。

《オマエハ モウ シッテイルハズダ。オマエノ ナスベキコトヲ。オマエノ“トキヲ ツカムテ”ハ モウスデニ ワレラヲ トラエテイル》

「時をつかむ手?なぜだ!?なぜ、おまえもまたそれを……」

ユリウスは問いかけて絶句した。妖魔はユリウスの問いかけに答えることなく、ただ《オマエガ ワレラヲ メッスレバ ワレラノ クルシミモ オワル》とだけ言うと、一つ目を閉じた。

ユリウスは杖を構えて、最後の呪文を唱えた。光が発せられ、広がって消えた。妖魔の木はたちまち枯れて、粉々になっていった。目玉だけになってしまった花も、ティアーナを載せていた枝も、彼女の右手に巻きついていた蔓も、粉々に散り落ちた。足元が崩れて、ティアーナは悲鳴を上げて下に落ちたが、ユリウスが宙で彼女を受け止めた。地面の手前で二人の体がふわりと浮き、柔らかく落ちた。

ユリウスはすぐに起き上がると、よろめく足を踏みしめて、ティアーナを抱いて立ち上がった。木の方を振り返って見たが、もう妖魔の木は跡形もなく消え失せていた。彼はティアーナを抱え直すと、ゆっくりとマチアスのいる方へ歩いていった。


第10場 6・夢を解く鍵 - 第11場 つながれた手