第6場 5・大切なもののために - 第7場 6・夢を解く鍵

西の森は北はアルブレール、東はバイオン、南はイゼルローン、西はジェラ山地に接し、東の森と同様に広大で深い森だ。“西の森の魔女”ライシャがいつ頃から森に住みついたのか、定かではないが、15,6年前にイゼルローンの公女の重い病を治し、名を挙げたときはもう西の森の魔女と呼ばれていた。しかし、ここ数年来、彼女は森から姿を消し、訪れる人もいなくなっていた。

ユリウスは森に入ると、西へ向かって歩いていった。始めのうちは村の者がつけた小道があったが、やがてかすかな踏み跡になり、それもなくなると、彼は道なき道を苦労して歩かなければならなかった。勘が働かないのでライシャの居場所はわからない。だが、いずれ向こうから接触してくるだろうと思って、彼は適当に方向を定めて歩いていった。

どのくらい歩いただろう――木々の間から漏れる日の光は高くなり、昼近くになっていた。ユリウスは同じ所を繰り返し通っていることに気がついて、立ち止まり、あたりを見回した。かすかに今までと空気が違うことを感じ取った。

(魔女の領界か……)

ユリウスはその場で大声で叫んだ。

「ライシャ!ユリウスだ、姿を現わせ!ライシャ!!」

彼はまた歩き出した。しばらく歩いてから、もう一度立ち止まり、「ライシャ!どこにいる?」と叫んで様子をうかがった。しかし、森は静かなままだった。仕方なく、再び歩き出すと、前方の茂みでガサッと音がして、彼は立ち止まった。一匹のきつねが現われ、黄色く光る目でユリウスを見ていた。ユリウスもきつねを見つめると、きつねはくるりと背を向け、数歩歩き、また振り返ってユリウスを見た。

(ライシャの使いだな)

ユリウスはきつねの後について歩いた。良い天気だったはずの空が急激に曇ってきて、日の射さない森は薄暗くなった。きつねは巧みにユリウスを誘導し、森の中の3メール四方ほどの草の生い茂った窪地の前まで来て、立ち止まった。ユリウスも立ち止まると、きつねはビクッと身を震わせ、窪地へ出ずに、左側の森の茂みへと一目散に走り逃げていった。きつねがいなくなると、ユリウスはそのまま窪地へ降りていった。窪地の真ん中に、灰色の空と同じ色の人影があった。

「おやまあ、ずいぶんと遅かったじゃないか」

灰色の魔女――ライシャはやってきたユリウスを揶揄したが、その目は怒りに燃えていた。

「ユリウス、おまえ、なんだい、そのぶざまな姿は?」

ユリウスは黙ったまま、ライシャの怒りの目を無表情に見返していた。

「そんな情けない姿で、来て欲しくなかったんだがね、え?」

なおもユリウスは黙っていた。ライシャはかすかに苛立ちの表情を浮かべた。

「黙ってないで、用件を言ったらどうなんだい?」

ようやくユリウスは静かに言葉を発した。

「妻を返してくれ」

ライシャはニヤリと笑い、答えた。

「返してやるとも。おまえが手合わせに応じてくれたらね」

「手合わせはもうやらないと言っただろう」

「拒むのなら、奥方は返さないよ。あたしの好きにさせてもらう」

「ライシャ!」

ユリウスの目に険しさが表われるのを見て、ライシャは薄ら笑いながら、からかうように言った。

「おまえが手合わせに応じれば、奥方は返す。拒めば返さない、それだけさ。簡単なことだろう?ユリウス、さあ、どうする?」

「応じるも何も、わたしには力がない」

ライシャは舌打ちして、ユリウスをにらみつけた。

「まったく、あたしはこのときだけを待っていたのに、おまえときたら……。こんなひどい裏切りはないね。で、いつ力が戻るのさ?」

「わからん」

「フン、仕方がないね。まあ、力が戻るまで待っててやるよ。ただし、奥方はそれまで預からせてもらうよ」

「ライシャ!頼むから、妻を先に返してくれ」

ユリウスは懇願するように言ったが、ライシャはムッとして顔を横に向けた。

「嫌だね。おまえが必ず手合わせに応じるという保証がない限り、切り札を手放すわけにはいかないよ」

ユリウスもムッとした表情でライシャを見つめていたが、やがて静かに口を開いた。

「わかったよ。力が戻ったら手合わせしよう。約束する。だから……」

「ほう」ライシャはあざけり笑った。

「どうあっても応じられないなんて言ってたくせに、ずいぶん簡単に宗旨変えしてくれるじゃないか。そんなに奥方が大事なのかい?」

「ああ、大事だ。彼女をこんなことに巻き込みたくないんだ」

「こんなことだって!?」ライシャの顔に怒りがひらめいた。

「あたしがこの7年間、どんな思いで修行してきたと思ってるんだ!?すべてこのときのために心血注いできたのに。それをおまえはこんなことと言うのか?」

ユリウスもついに、苛立ちを隠せず声を上げた。

「どんなことでも、これはわたしとあんたの問題だ。彼女には関係ないだろう!」

「関係ない!?」ライシャは目を見開き、憎々しげに口を歪め、大声を出した。

「関係ないだと!?ハッ、よく言うよ!おまえをこんな骨抜きにしちまったのはどこのどいつだい?他ならぬ、おまえの大事な奥方だろうが!あたしはおまえの力にあこがれていた。いつかきっとその力、あたしも手に入れてやると、それだけを夢見てきたんだ。ようやくあたしも、あのときのおまえに匹敵する力を身につけたのに、おまえはあの女のために、あっさりその力を手放しちまった。なぜだ!?」

「………」

「あたしに取っちゃ、あの女は大いに関係あるのさ。おまえをこんな情けない姿に変えてしまうあの女は、あたしに取っちゃ、邪魔物だ。今すぐ消してしまいたいくらいだよ」

「勝手なことを言うな。あんたがティアに手出ししなければ、こんなことには」

「あたしが言いたいのはね」ユリウスが言い切らないうちに、ライシャは口を挟んだ。

「自分の女に手を出されたくらいで力をなくすんだったら、そんな女はいない方がいいってことさ。おまえが常に、あの輝かしい力をまとったおまえでいるためには、あの女は足手まといだ」

「あんた、邪鬼と同じことを言うんだな……」

ユリウスはつぶやいたが、ライシャは無視して言い続けた。

「なぜ、おまえはあの女を側に置いた?あんな女のどこがいいんだ?そう、確かに他の女とは違うね。このあたしをまっすぐに見返すことのできるあの目は。だがそれだけだ。孤独の闇に覆われても、おびえるしかない普通の女、自分の亭主が自分を愛してくれないと言って泣きべそかいてる、くだらない、取るに足らない女じゃないか。あんな女と一緒にいて、いいことなんかあるのかい?」

ユリウスはつかみかかるようなライシャの詰問に答えず、代わりに軽く笑った。

「ライシャ、あんた、ティアに嫉妬してるのか?」

その途端、ライシャの両眼がカッと光り、ユリウスはものすごい気の圧力を受けて、後ろの窪地のヘリまで吹っ飛ばされた。木の根が浮き出た斜面に背中を打ちつけ、息を詰まらせ、その場に座り込んだ。うつむいて、むせ返る息をようやく整えたところで、彼は動けなくなった。ライシャは軽く一跳びして、ユリウスの側に来ると、侮蔑するように彼を見下ろした。

「ユリウス、あたしを挑発してどうしようってんだい?何もできないおまえがあおったって、こうして、なすすべもなく呪縛されるだけじゃないか、え?」

ライシャは手を触れずに、ユリウスの顔を上げさせた。見えない力に彼は精一杯の抵抗を試みたが、無駄だった。しかし、彼はその屈辱的な仕打ちに負けず、口元にかすかな笑みを浮かべ、苦しげな息を吐きながら言い返した。

「別にあおったわけじゃない。思ったことを言っただけさ」

「偉そうな口きくんじゃないよ。おまえ、自分の立場がわかってないようだね」

見えない力がユリウスの喉元を締め上げ、彼は苦痛で顔を歪めた。ライシャはひざに手を置き、かがんでユリウスの顔を覗き込んだ。

「フン……、なすがままか。ざまはないね、ユリウス。これがほんとにあのユリウス・アルクルトなのかい?7年前、このあたしを5手も交えぬうちに呪縛しちまった男なのかい?」

ライシャの目が獲物をいたぶる猫のように光った。

「今のおまえはあたしの意のままだね。生意気なおまえを足元に這いつくばらせることもできる……。フフフ、どうだい、おまえがあたしの足元にひれ伏して、どうか妻を返して下さいと哀願するなら、考えてやってもいいよ」

ユリウスは苦しさで歪めた口元を嘲笑に変えた。

「力のないわたしを這いつくばらせて、あんたは満足するのか?それで気が済むのか?」

ライシャはキリッと唇をかみ、再び体を起こし、ユリウスを見下ろした。ユリウスを締め上げていた力がゆるみ、彼はほっと息をついた。

「ただの戯れ言だよ。こんなおまえを痛めつけたところで、何の得にもなりゃしない。いいさ、奥方は返してやる。おまえの力が戻ったら、手合わせは必ずしてもらうからね。約束を違えたら、また奥方をさらうまでだ」

「ああ、わかったよ」ユリウスはうんざりしたように目を閉じて答えた。

「まったく勝手だな、あんたは。わたしが最後にしてくれといった約束は平気で破り、自分の約束だけ押しつけるのか」

「何とでもお言い。力の強い者は、常にそれを争う者からの挑戦を受ける宿命を持っているのさ。たとえ、あたしが挑まなくても、いつか誰かがそうするだろうよ」

ユリウスは目を開けてライシャを見た。

「ティアは無事なんだろうな」

「あたりまえだ」ライシャは腰に手を当てて、胸を張り、ニヤリと笑った。

「おまえの奥方は今ごろ、楽しい夢の中で遊んでいるんだろうよ。あたしの作った最高傑作、“夢の檻”の中でね。クク……、もしかしたら、おまえの所に帰りたくないかもしれないよ」

「夢の檻?」

「そうさ。たださらうだけなら、いつでもできた。だが、それじゃつまらないからね。何ヶ月も前から周到に用意して、奥方を誘い込んだのさ。あたしの夢の檻の中へね。夢の檻は西風岬にいたときに手に入れた“夢食いの木”の種から作った」

「夢食いの木?あのセムの妖魔か!?」

身動きできないまま、ユリウスは目を見開き叫んだ。

「大丈夫さ。発芽はしてるが、若木のままで邪気は出してない。あたしの作ったからくりの中で、囚われ人の夢と生気を食ってるが、生気は囚われ人に戻る。だから害のないまま、囚われ人は夢を繰り返し見続けるのさ」

得意げにライシャは説明したが、ユリウスは血の気の引いた顔で、愕然とつぶやいた。

「ばかな……、こんな所で、セムの妖魔を目覚めさせたのか……」

「あたしの術を信用しないのかい?言ったろう?あたしの最高傑作だと」

ユリウスは首を横に振り――実際には首は動いてなかったが――目に失望の色を浮かべた。

「だめだ、ティアが危ない……。なんてことを……」

不安が現実になり、彼は今まで彼の心をさいなんできたもの――喪失感、無力感、焦燥感に一気に飲み込まれて、奈落の淵へ落ちていくのを感じた。

(なんてことを……)

失望の淵の中に怒りの炎が生まれた。炎は彼の奥底であっという間に燃え盛り、体のあちこちに火をつけ、やがて燃えたぎる柱となって体を突き上げてきた。彼は突き上げてくる怒りに我を忘れ、喝破した。

「なんてことをしてくれたんだ、ライシャ!!」

その瞬間、彼の頭頂部から青白い光の柱が立ち上り、全身から火花のような光が飛び散った。髪は逆立ち、体が3クールほど浮き上がり、怪しい炎に包まれて彼は草の上に立った。そして、呪縛され、動けなかったはずなのに、彼は敏捷な獣のように地を蹴り、驚いて後ずさるライシャに跳びかかった。

「ティアは!?彼女はどこにいる!?」

ユリウスにすごい勢いで襟元をつかまれ、ライシャはのけぞった。とれたフードから灰色がかった金髪がこぼれ出た。ライシャは苦しそうに息をしながら言った。

「……ユリウス、おまえ、力が戻ったね……」

ユリウスがハッと我に返り、手元をゆるめると、ライシャはすかさず、その手を払い除け跳びすさった。後ろに下がり、ユリウスと充分距離を取ると、水晶玉を出して掲げ上げた。水晶玉から光の輪が浮き出て、空に広がった。

「ライシャ、何のまねだ!?」

「力が戻ったのなら、今すぐここで相手をしてもらうよ!」

「後にしろ!!ティアを助ける方が先だ!」

「いいや。約束は果たしてもらう。今、ここでね」

ライシャは自分の対峙する相手が、虹色のオーラをまとい、爛々と目を輝かせているのを見て、舌なめずりした。

「いいね、ゾクゾクするよ。それこそがおまえの真の姿だ。あたしの会いたかったユリウス・アルクルトだ。いくよ!!」

ユリウスの回りに気の力が揺らめき、それは紅い幻の炎となった。炎はいくつも立ち上り、彼を押し包もうとした。しかし、彼は別段何もしなかったが、炎は彼に近づくことはできず、回りで揺らめくばかりだった。

「やめてくれ!頼む、早くティアを助けないと、取り返しのつかないことになる!」

「あたしの力を侮ってもらっちゃ困るね。大丈夫だと言っただろう!」

「あんたはセムの妖魔の恐ろしさを知らないんだ。そいつはセムの地で生きるものなんだぞ!」幻の炎のただ中に立ち、ユリウスは必死の形相で言い募った。

「厳しいセムの大地で生きる妖魔は、その力も計り知れない。そんなものをこの穏やかな地で、こんな人気の多い所で放してみろ!もっと恐ろしい化け物になってしまうぞ。とてもあんたの手に負えるような代物じゃない!」

ライシャは目を光らせて言い返した。

「開花しなけりゃただの木だよ。邪気さえ出てなきゃ問題ないさ。2重の結界で囲ってあるし、心配ないよ。それより自分の心配をしたらどうなんだい。反撃しなきゃやられるぞ!」

ユリウスを包む炎の輪が縮まった。それでも彼はまだ何もせず、ライシャに訴えた。

「ライシャ、頼むから!」

しかし、ライシャの答えは新たな炎の追加だった。聞く耳持たないライシャに、ユリウスはカッとなって怒鳴った。

「いい加減にしろ!!」

突然、炎が激しく揺らめいた。その中に立つユリウスの額と両眼、それにクリスタルが光った。炎を突き抜けて、強力な力の束がまっしぐらに自分に向かって来るのをライシャは感じた。しかし、防ぐことも逃げることもできず、次の瞬間にはその力に捕らえられ、彼女は動けなくなった。炎が風に吹き飛ばされたように散り散りになり、残存する気の力があたりの気を揺り動かす中、ユリウスは固まっているライシャの目の前に跳んで来た。そして、驚愕の表情で彼を見るライシャを、無表情に見つめた。

「悪いけど、今のわたしにあんたの術は通用しない」

「そんな……、一瞬で片がつくなんて、まさか……」

青ざめてつぶやくと、ライシャは無念そうに目を閉じた。

「恥じ入ることはない。わたしだって、いつもこんな力が出るわけじゃないよ。普段の力はあんたとさほど変わらない。これはまあ、そう、火事場の馬鹿力だ」

ユリウスは口の端にほんの少し笑みを浮かべた。

「ともかく、勝負はついた。さあ、夢の檻に案内してもらおうか」

「わかったよ。わかったから、力をゆるめてくれ」

ライシャは呪縛から解放されると、大きく息をつき、それから背を向けて闇を広げた。ユリウスは背後からライシャの腕をつかむと、そのまま闇の中へ押し入った。


第6場 5・大切なもののために - 第7場 6・夢を解く鍵