第1場 2・賢者の結婚 - 第2場 第3場

翌日、ティアーナが“子供の家”の庭で子供たちを遊ばせていると、ドーラがやって来て、明日午後、自分の家に来て欲しいと告げた。

「なんでも、ユリウスがおまえに話があるとかで、うちに来ると言ってるんだよ」

「賢者さまが?」ティアーナは困惑した表情を浮かべた。

「もう、お断りのお返事なら婆さまに伝えて下さるだけでいいって言ったのに……。いくらわかってることだって、そういうの直接うかがうの、いやだわ」

「なにか別の話じゃないのかい?」

「まさか。ねえ、婆さま、お願い、お聞きしといて下さる?わたしは家の用事でいけないからってことにして、ねっ!」

仕方なくドーラは次の日、一人でユリウスが来るのを待った。約束の時間に、賢者は黒い服に青灰色のマントのフードを深く引き被って現れた。

「珍しいね、ユリウス。あんたがわざわざ出て来るなんて」

ドーラに迎えられて家に入り、フードを降ろしたユリウスはティアーナが来ていないのに気づいた。

「あれ、ティアーナは?」

「家の用事が忙しくて出られないから、代わりに聞いといてくれってさ」

「そう、それは困ったな……。彼女は今、家にいるの?」

「そのはずだけど……、でも」

「よし、じゃあ、彼女の家まで行こう。ドーラ、案内してくれる?」

すぐにでも行こうとするユリウスに、ドーラは慌てて言った。

「ちょっとお待ちよ。あんたねぇ、縁談断るのにわざわざ相手の家まで行くこたないだろう」

ユリウスは振り向いた。

「断らないよ」

「ユリウス、今なんて……?」ドーラは思わず聞き返した。

「断らない。この話、受けることにしたんだ。今日はそれを言いに来た」

ユリウスはドーラのほうに向き直り、はっきりと告げた。ドーラは予期せぬ事態に驚いて、目を丸くしてユリウスを見つめた。

「ええ?ほ、本気かい、ユリウス!!でも、あんた結婚はしないって……」

「ああ、気が変わったんだ。それに」ユリウスは肩をすくめた。

「誓いも立ててないしね」

「そ、そんなことってあるのかい?あたしゃ……」ドーラは混乱したまま、口ごもった。

「おいおい、しっかりしてくれよ。あんたが持ってきた話なんだぞ」

「そうだけど……、まさかあんたが承知するとは思ってなかったからさ」

ドーラはようやく平静を取り戻した。

「気が変わっただなんて、どういうことなんだい、ユリウス?ティアーナに惚れたのかい?」

「いや、彼女には申し訳ないが、そういう感情は持ってない」

ユリウスはきっぱりと否定した。

「じゃ、なんで?」

ドーラの問いかけにユリウスは一呼吸置いて、ぽつりと言った。

「初めてだったんだ」

「えっ?」

「今まで、わたしはいろんな人に必要とされてきた。でも彼らに必要だったのはわたし自身じゃない。わたしの力や術だ。力でも術でもなく、わたし自身を必要とされたのは初めてなんだよ。側にいるだけでいいなんて、自分がそんなふうに役に立つことがあるなんて、思ってもみなかった。だから、そうしようと思ったんだ。彼女には、わたしでなければだめなんだろう?」

「ああ」

「ならば、これもまた違った意味で、わたしにしかできないことだ。わたしは彼女を引き受けるよ。ただ、さっきも言ったけど、彼女に対して世間一般が言うような愛情は感じていない。それでもいいかどうか、彼女に確かめる必要があるんだ」

ユリウスの表情は淡々としていたが、ドーラはその言葉に彼の正直な心根を見て取った。

「そうかい。そうだったのかい……。それなら、ティアーナに直接言わなきゃね」

二人はティアーナの家へ向かった。村人たちは、めったに姿を見せない賢者がドーラと歩いて行くのを目ざとく見つけ、さっそく噂話を始めた。そして、二人がティアーナの家に入っていくのをいぶかしげに見ていた。

ティアーナ親子は賢者の突然の来訪に驚き、狼狽した。

「婆さま、どうして?」ティアーナはドーラに食ってかかった。

「安心おし、ティアーナ。断りに来たんじゃないんだから」ドーラは小声で言った。

「じゃあ、なんなの?」

「それはユリウスにお聞き」

ドーラはウインクした。ティアーナは改めてユリウスを見た。

「きみが来てくれないから、ドーラに連れてきてもらったんだ」

ユリウスは微笑んで言った。

「どうぞ、お入り下さい」

ティアーナは困惑したまま、二人を招き入れた。ユリウスは家に入ると、呆然と立っているティアーナの両親に丁寧に挨拶した。

「初めてお目にかかります。わたしは“賢者”ユリウス・アルアステル。“東の森の賢者”と呼ばれる者です。よろしく」

「存じ上げております、賢者さま。どうぞお掛け下さい」ハルが恐縮して言った。

「いえ、ここで結構。ティアーナ、話してもいいかい?」

「えっ、ええ」

ユリウスは不安げな顔で立っているティアーナに近づき、誠意を示すように右手を胸に当てて、彼女を見つめた。

「わたしはきみとの縁談を受けることにした」

「えっ?」何を言っているのかわからないという表情で、ティアーナは聞き返した。

「きみと結婚しようと思う。それを伝えに来た」

「賢者さま……、ほんとに……」

ティアーナは目を大きく見開いて、震える声でようやくそれだけ言った。

「ああ、本当だ。わたしは嘘偽りは言わない。ただ……」

ユリウスは言うのをためらった。ティアーナは身じろぎもせず、ユリウスを見つめていた。

「わたしは……、人を好きになるという感情を忘れてしまった人間でね。もし、きみがそういうものを必要とするなら、残念だがわたしには答えてあげることができない」

ティアーナは何も言わず、視線を落した。

「きみのことを引き受ける以上は、良き伴侶になれるよう努力するつもりだ。だが、これから先もきみを特別な存在として、愛せるようにはなれないかもしれない。もし、それでもいいなら……」

「もとより、それは承知の上です」

ティアーナはもう一度ユリウスを見上げ、まっすぐに見つめている彼の視線を受け止めた。

「わたしに賢者の妻が勤まりますか?」

ユリウスは少し考えてから言った。

「賢者とは“流れのほとりに立つ者”だと言われる。天の河、地の河、人の河、その岸辺に立って、見守る者だと。人の流れと岸辺に立つわたしとの間にあって、きみは戸惑うこともあるだろう。しかし、賢者もまた人だ。そのことをわかっていれば、賢者の妻も決して難しい立場ではないと思う。きっと大丈夫。きみならできるよ」

「………」

「東の森に来てくれますか?」

黙っているティアーナに、ユリウスは優しく微笑んだ。ティアーナは振り返って両親を見た。マイラは両手を握り締め、はらはらして見守っていた。ハルは驚きと喜びで顔をくしゃくしゃにして、何度もうなずいた。彼女はそんな父の様子を見て、微かに口元に笑みを浮かべた。それから目を閉じ、自分の気持ちを確かめた。答えはもう決まっていた。ティアーナはユリウスの方を向き、はっきりと言った。

「はい、賢者さま、よろしくお願いします」

ティアーナはスカートのすそをつまみ、きちんと礼をした。

「こちらこそ、よろしく」ユリウスも礼を返した。

今まで黙って事の成り行きを見ていたドーラがティアーナの側に来て、彼女の背中をぽんぽんと優しく叩いた。

「よかったね、ティアーナ」

「婆さま……」

まだ信じられないといった面持ちで、ティアーナはドーラを見た。その時、ハルが感極まって泣きながらユリウスの足元にひれ伏した。

「あ、ありがとうございます。賢者さま!!ありがとうございます。どうか、どうかティアーナを……」

ユリウスはひざまずき、伏したまま泣いているハルに手を差し伸べた。

「どうか、立って下さい。わたしはドーラの託宣に従ったまでのこと。礼には及ばない。さあ、立って」

ハルは顔を上げ、差し伸べられた手を見た。しかし、その手には触れずに自分で起き上がり、恐縮して背を丸め、後ろに下がった。ユリウスも立ち上がり、ハルを覗き込むようにして言った。

「ティアーナが東の森に住まうようになっても、あなた方はよろしいのか?」

ハルは初めてユリウスの顔を見た。

「賢者さま、娘はいつか家を出て行くものでございます。その時、笑って見送ってやるのが親の努めでございます」

ユリウスはうなずき、ハルに微笑みかけた。それからドーラに向かって言った。

「ドーラ、そろそろおいとましようか。ティアーナ、今後のことはまた連絡するから、森へ来てくれる?」

「は、はい」

ユリウスとドーラは帰って行った。二人が帰った後の静まり返った部屋で、ティアーナ親子はあまりの急な出来事に、愕然としたまま座り込んでしまい、しばらくの間何も手につかなかった。

夜になって、ハルはもう休み、マイラとティアーナは二人で部屋の片付けをしていた。

「今日は大変な一日だったねえ」マイラは手を止めてしみじみと言った。

「ええ。お父さん、ほんと嬉しそうだったね」

ティアーナはテーブルの上を拭きながら返事した。

「よかったね、賢者さまが結婚すると言って下さって」

ティアーナは手を止めて、マイラを見た。

「お母さん……、お母さんは反対だったんじゃないの?」

ティアーナはマイラが、口には出さないが、賢者との結婚に賛成していないのを知っていた。マイラは賢者を恐れていた。ティアーナがそのような人と結婚したら、何か恐ろしいことに巻き込まれやしないかと心配していたのだった。しかし、彼女の気持ちは変わっていた。マイラは微笑みを浮かべ、首を振った。

「今日、賢者さまにお目にかかって、この方なら心配ないと思ったよ。きっと何があっても、おまえを守って下さるだろうよ」

「でも、わたしのこと、愛せないっておっしゃったのよ。お母さん、それでもそう思う?」

「賢者さまはわたしたちとは違うんだよ。おまえはそれでもいいと言ったんだろう。大体、おまえは賢者さまのことをどう思っているの?」

「わたし……、そうね、賢者さまとして敬愛の気持ちは持ってるけど、今はそれだけだわ。先のことはわからないけど」

「それでも結婚しようと思ったんだろう?おまえも、賢者さまも」マイラはティアーナに笑顔を向けた。

「いいかい、ティア、賢者さまは真実を語ってらした。わたしにはわかったよ。そして、おまえを引き受けると言って下さったんだ。賢者さまには賢者さまのお考えがおありだろうから、おまえの望むように愛して下さらないかもしれない。でも、引き受けると言われた言葉には間違いはないはずだよ」

「お母さん……」

「賢者さまを信じて、共に生きておいき……」

母親の子供を思う気持ちは、時に深い洞察力を生む。だが、この夜に語られた母の言葉の正しさをティアーナが知るのは、まだ先のことだった。


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