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ユリウスが東の森に住むようになってから2度目の春を迎えたある日、彼はいつものように部屋で書物を読んでいた。といっても、先ほどから思索の深みにはまって、ページを繰る手は止まり、視線は本からはずれていたのだが、ようやく本の内容に戻ろうとした時、初めて彼の心に呼びかける者がいるのに気づいた。目を上げると、目の前にその心話を送ろうとしている者の影が揺らめいた。
《ドーラ、なんだ?大きな声で》
ユリウスが心話で答えると、相手はしわがれ声で早口にまくしたてた。
《なんだはないだろ。さっきからずーっと呼んでるのに、気づきゃしないんだから》
心話の送り主は占い婆(ばば)のドーラだった。ドーラは東の森の側にあるフリルド村のはずれに住んでいて、村人相手に占いやまじないをしたり、病人を診てやっていた。面倒見の良い魔女でちょっとした相談事にも乗り、村人の信頼を得ていた。占いはよく当たると評判で、町からもわざわざ見立ててもらいに来る人がいた。
《すまんすまん、ちょっと考え事をしてたもんでね。何の用だ?》
ユリウスの問いにドーラは持って回った言い方で答えた。
《ちょっと折り入って話があるんだけど、そっちへ行ってもいいかい?なに、手間は取らせないよ》
《ああ、いいよ》
影は消え、心話は途切れた。彼は本を置き、入り口に回った。ドアの外でしばらく待つと、前庭にぽっかりと暗い空間ができ、そこから小柄な老婆が現れた。
「久し振りだな、ドーラ。この前渡した薬、試したか?」
「ああ、バッチリ効いたよ。おかげで患者もあたしも助かったよ」
ユリウスはドーラを家の中に招き入れた。ユリウスとドーラは同業者のよしみで、時折会って情報を交換したり、薬草を売り買いしていた。
「で、話って何だ?」
当たり障りのない世間話を一通りした後、ドーラはユリウスに促され、勧められたお茶を一口飲んでから、言いにくそうに話し始めた。
「うん……、実はね、今日、村の“子供の家”の手伝いをやってるティアーナっていう娘が父親と一緒にあたしの所へ来てね、結婚相手を探して欲しいって言うんだよ」
ドーラと向かい合って座ったユリウスは黙って聞いていた。
「もう28だから娘っていう歳でもないんだけど、6年前に夫を亡くしてね、3年前には再婚相手が見つかったんだが、祝言の前の日に相手が落馬して大ケガしちゃってね、縁起が悪いってんでその縁談、ご破算になっちゃったんだよ。本人はそれからはもう結婚しないつもりだったらしいんだが、父親のほうがね、最近病気してから気弱になって、一人娘の行く末が心配になったらしくてさ、どーしても結婚相手を探して欲しいってね」
一気にまくしたてて、ドーラはまた一口お茶を飲んだ。
「それで占ってやったんだが、かわいそうな娘でね。孤独という星の定めがあの娘(こ)の結婚に影を落している」
「孤独……」黙って聞いていたユリウスが初めて口を開いた。
「そう、両親のもとにいる時は両親の強い愛情によって庇護されてるんだがね、結婚するとその庇護から外れてしまい、孤独があの娘の運命に影を差す。だからどんな男と結婚してもうまくいかないと出てるんだ。まったく、いい娘なのにさぁ。だから、そう言ってやったんだが、父親がどんなに遠い町でも村でもいいから、一人ぐらい合う男はいないのかって泣きつくもんだからさ、あたしも一生懸命探したよ。そしたら、いたんだよ!あの娘をその定めから解放してやれる男が。たった一人だけね」
「………」
「ホント、探し物は自分の手元から探せってことさね」
「それで?」彼はぶっきらぼうに促した。
「それでって、だからあたしはここに来たんじゃないか」
「つまり、あんたはわたしに、結婚の世話を焼きに来たというわけだ」
「そのとおり。悪い話じゃないだろう。年回りもちょうどいいし」
ドーラは気まずい雰囲気を取り繕うようにニヤニヤ笑いながら言った。ユリウスはしょうがないなといった顔をして、ため息をついた。
「ドーラ、わたしは結婚などしないよ」
「ああ、前に聞いたよ。でも結婚しない誓いを立てたわけじゃないんだろう」
「それは、そんなもの必要ないからさ。わたしは結婚には興味ない」
今度はドーラがやれやれと肩をすくめた。
「ユリウス、あたしはあんたのためにもいいことだと思って、この話を持って来たんだよ」
「わたしのため?」
怪訝な顔をしているユリウスに、ドーラは言い聞かせるように話した。
「そうさ。つまりだね、あんたは、賢者としての力は人並み以上だし、人格も申し分ないと思うよ。だけどね、あんたは……、そう、人から離れすぎてる。世界の真理なんぞ探究するのもいいけどね。もっと身近な所にだって真理はあるだろう。ユリウス、その両方を理解してこそ真の賢者と言えるんだよ」
まっすぐに見つめているドーラをはぐらかすように、ユリウスはほんの少し笑みを浮かべて言葉を返した。
「それはごもっともだけど、結婚したら身近な真理が手に入るってものでもないだろう?」
「ユリウス!あたしはね」
「それに!」ドーラが言い立てようとするのを、ユリウスが遮り、きっぱりと言った。
「人から離れてるっていったって、別に嫌いだから離れてるわけじゃない。そうする必要があるから、そうしてるだけだ」
「クルトの血のせいかい?」ドーラは気遣わしげに口を挟んだ。
「そうだよ、ドーラ」ユリウスの答えはいつになく強い口調だった。
「この血のせいで、この力のおかげで、人より多くの物事を知ることができる。だけど、それはわたしと人との距離を遠ざけるばかりだ。わたしはね、ドーラ、人の愚かな行為も、移ろいやすい心も決して軽んじてはいない。むしろ、それを含めた上で人を愛しているよ。でも人の中にいちゃいけないんだ。わたしの力は人に不安定な心を呼び覚ましてしまう。わかるだろう?」
「それはわかるよ。だからクルトは他の民族と交わらないのだろう?けど、それじゃあんたの感情はどうするんだい?あんただって、クルトだって恋愛くらいするだろ」
「もちろん、それを求める心はクルトだろうがバドゥだろうが変わらないさ。わたしだって若い頃は恋もしたよ。だが今はもう、それを必要としてないんだよ。わたしはこのままで充分満ち足りているし、あえて求めようとする気もない。今、わたしが求めるものは、この世界の事象の原理と万物に巡る気を知ること、それだけなんだよ、ドーラ」
ユリウスはドーラの目を覗き込んで微笑んだ。ドーラは肩をすくめて、ため息をついた。
「まあ、仕方ないね。あたしはあんたのためだと思ったんだが、あんたに全くその気がないんなら、これ以上話の進めようがないよ」
「そういうこと。先方には丁重にお断りしといてくれよ」
「わかりましたよ。それじゃ退散しますか」ドーラは席を立った。
「悪いね、ドーラ。わざわざ来てくれたのに」
ユリウスも席を立ってドアを開けた。やれやれ、取りつく島もありゃしないね、とぶつぶつ言いながら、ドーラは外に出て、それから急に振り返って言った。
「そうそう、忘れるとこだった。例の強心剤、また少し分けてくれんかね。もうちょっと必要なんだよ」
「いいけど、今日はもう用意できないよ。明日の午後、また来てくれるかい?用意しておくから」
「明日はあたしゃ出かけちまうんだよ。あさってでもいいかい?」
「そりゃだめだ。大学に行くから。たぶん泊まりになる」
「じゃあその次の日でいいよ。それほど急いじゃいないから。じゃあね」
ドーラは手を挙げて別れを告げると、一言呪文を呟いた。すると目の前に暗い空間が広がり、ドーラはその中へ消えていった。それを見送ったユリウスは、ふとドーラが話していった娘のことを思い返した。
「孤独か……」その言葉が心の中に残っていた。
(わたしと同じか……)
彼は部屋に戻って、読書を続けた。
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