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楡の木陰 〜 想い出の日々 〜

見慣れた部屋。
すっかり薬の臭いに染まってしまったベッド。
開けられた窓辺に揺れる白いカーテン。
白いシーツにある黄色いシミは、おれの吐いた血の跡……。
傍らに座るきみはうつむいて静かに泣いている。

泣かないで、ティア。
きみが側にいれば、おれは怖くない。
きみの笑顔を見れば、おれはいつでも、あの懐かしい楡の木陰へ還ってゆけるから……。

学校の校庭の隅にあった大きな楡の木。
きみはその木陰でよく本を読んでいたね。
休み時間や放課後、他の娘たちがおしゃべりに夢中な時も、買い物に行ってしまった後も、きみはそこで独り本を読んでいた。
おれは、仲間たちと教室の窓際で話をしながら、校庭でボール遊びに興じながら、木陰に座るきみの姿を見ていた。
目立たないひっそりした娘だったけど、おれは木陰に座るきみが気になって仕方がなかった。
仲間の蹴ったボールを受ける時、受け損ねた振りをして、きみの方へ転がしてしまいたかったけど、どういう顔をして取りに行けばいいのかわからなかったから、ボールがきみの方にいかないようにしていたんだ。
でも、あの日。
泥だらけになってボールを追っていたあの日、ほんのちょっときみを見ていた隙に、本当に受け損ねて、ボールはきみの方へ転がってしまった。
きみはすぐにボールを拾って、追ってきたおれの方を振り返った。
そして笑顔を見せて返してくれたね。
あの時、きみが笑ったのはおれが泥だらけだったから?
おれが慌てふためいていたから?
それでも、あの時のきみの笑顔はとても優しかったよ。

あの後、おれは人づてに聞いて、きみがシスターになるためにわざわざ田舎から出てきて、知り合いの家に下宿してこの中学に通っていたことを知ったんだ。
本を読んでいたのは勉強のためだったんだね。
きみはとても熱心に勉強していた。
シスターになろうとしているきみに、おれは声をかける勇気もなくて、結局そのまま卒業し、家の仕事を継いだ。
きみの笑顔を心の中に残したままで。

一級下のきみが一年後、卒業してもシスターにならず村へ帰ったことは、たまたま耳にした級友のうわさ話で知った。
きみがシスターになってしまったら、もう会えないことはわかっていたけど、シスターにならなくてもきみは村に帰り、出会う機会はもうなくなってしまったはずだった。
そのまま、きみのことは想い出になってしまっても、おかしくはなかった。
それなのに、ああ、運命って不思議なものだね、ティア。
もう一度きみと出会えるなんて。
卒業して4年も経っていたけど、町の市場で偶然すれ違った時、おれはすぐに気がついたよ。
夢中できみの後を追いかけた。
さすがにすぐに声をかけることはできなくて、きみの後をつけて歩いていたんだよ。
きみは市場をいろいろ見た後で、ロッタおばさんの店で買い物をしようとして、財布をすられたことに気づいた。
慌てているきみが窓から見えたんだ。
おれはとっさに店に入って、ロッタおばさんにおれが払うと言った。
きみは本当に驚いていたね。
見ず知らずの人にそんなことしてもらえないって言われて、ちょっと傷ついたよ。
楡の木の下でボールを拾ってもらったのはおれだけじゃなかったから、覚えてなくてもしょうがないのだけれど。
きみの荷物を持って一緒に馬車の所に戻り、一ヶ月後の夏至祭にもう一度会ってお金を返してもらう約束をした時、おれがどんなに嬉しかったか、きみにはわからないだろうね。
天にも昇る気持ちってああいうことを言うんだろうな。
きみと別れた後、そのままその足で神殿へ感謝の祈りを捧げに行ったよ。

初めてのデートは夏至祭の時、最初はお互いぎこちなかったけど、祭の浮かれ気分ですぐに打ち解けた。
あんなに楽しい祭は初めてだったよ。
おれはきみにどんどん惹かれていった。
きみは他のどんな娘とも違って見えた。
きみは群れてさざめき合って咲く花々ではなく、草原に独りすっくりと立って、遠くを見つめて咲く花のようだった。
それでいて、きみは他人を拒絶することはなく、明るい笑顔で人と接し、親切で優しくて、意外と快活で、ちょっぴりそそっかしくて、ちょっぴり怒りんぼで、それほどおしゃべりじゃなかったけど、明るい茶色の瞳は口以上にくるくるとよく動いて、多くのことを語っていた。
おれの両親や弟も、きみの親しみやすい明るい笑顔で気軽に仲良くなれたんだ。
お袋なんて「おまえにはもったいないぐらいの良い娘だね」とまで言ってたんだよ。
本当に、おれにはきみがまぶしすぎるぐらいで、おれがきみにふさわしい男かどうか、まじめに悩んだよ。
でも、きみもおれに好意を持ってくれた。
どちらからともなく、また次に会う日を約束して、それから交際が始まって、おれがすぐに会えないもどかしさに苦しんでいた時、きみもまた、会えない日々が寂しかったと、約束の日が待ち遠しかったと言ってくれた。
おれがついに告白をした時、「あなたの誠実な優しさが好き。まっすぐな瞳と照れたような笑顔が好きよ。あの時偶然、あの店に入ってよかった」ときみは言ってくれた。
想い出深い学校の校庭へ遊びに行き、楡の木陰で初めてキスをした時、その時のきみの夢見るような瞳、今でも覚えているよ。

いつしか、きみは不安な表情を見せるようになった。
おれがきみとの結婚を真剣に考えるようになってからだった。
きみはおれと村にいる両親との間で揺れていた。
きみが恐れていたのは、結婚したら両親を残して村を離れなければならなくなることだった。
シスターになるのを諦めるほど愛している両親だから無理もない。
それでもきみはおれを愛してくれていたから、あんなに悩んでいたんだね。
おれだって、きみを本当に愛していたからプロポーズしたけど、すっかりきみを苦しめてしまった。
おれたちはそのことで何度も話し合い、けんかすらしたね。
きみも結構頑固だから、言い出したら聞かなくて、部屋を飛び出して行ってしまうときもあった。
おれが頭を冷やして探しに行くと、きみはいつもあの楡の木の下にいたね。
「ここにいると気が休まるの」そんな言葉をあの木の下で聞いた。
それからは時々するけんかの後、楡の木陰で仲直りするのがおれたちのルールになった。

最後には、おれはもう自分の両親と決別してでも家を出て、きみの家に婿入りする覚悟で、きみの村へ行き、きみの両親に会ったんだ。
きみの両親は町の男との結婚に反対はしていなかった。
むしろ本当に喜んで、喜んで娘を嫁にやりたがっていた。
家を離れたがらないきみを、優しく、ねばり強く説得してくれた。
ついにきみも決心してくれて、晴れておれたちは結婚することができた。
きみの両親の大きな愛情のおかげだった。
これからはずっと一緒、ずっときみの側にいて、きみの愛を感じて、きみを愛し、きみを守って、幸せに暮らしていこうと思っていた。
そう、神に誓った。
それなのに、こんなことになるなんて……。

きみと一緒に暮らした2年の月日はおれの人生で一番輝いていた時だった。
笑うことも怒ることも、喜びも悲しみも、きみと一緒に分かち合える日々が、ただ幸せだった。
おれは幸せすぎて、ばちが当たったのだろうか。
それとも所詮幸せというものは、こんなにももろいものなのだろうか。
きみと出会えたことが運命なら、きみとこんなに早く別れなければならないことも、運命なのだろうか。
突然、治らない病になんか、なってしまったことも?

ごめんよ、ティア。
きみが知っているように、おれももう知ってるんだ。
おれの生命が後いくらも持たないことを。
仕入れのためにたった一週間家を空けただけでも、とても寂しがっていたきみだから、永遠の別れはどんなに辛かろう。
どんなに悲しかろう。
ごめんよ、ティア。
ずっと一緒だと神に誓っておきながら、きみを守ると神に誓っておきながら、おれはいくらもその誓いを果たすことができなかった。
病に倒れ、起き上がることすらままならなくなってからは、きみを心配させ、悲しませ、苦しませ、泣かせることしかできなかった。
おれは萎えていく自分の身体が情けなくて、腹立たしくて、何度も自分を呪ったよ。
我慢できないほどの身体の痛みも、きみの悲しみを考えたら、罰だと思って黙って受け入れられた。
病の辛さより、きみの心配そうな顔を見る方が辛いぐらいだった。

ティア、きみを愛している。
もっともっと長く、きみと一緒にいたかった。
きみの笑顔を見ていたかった。
きみの温もりを抱きしめたかった。
きみとゆっくり時を過ごし、いつかきみの安らぎの場所に、きみの好きなあの楡の木のような存在になりたかった。
なりたかった。
おれは今でも、きみと生きることを、狂おしいほど欲している。
本当に諦めたくはないんだ。
諦めたくはないんだけど……。

おれはとうとう、昨日往診に来たマスターに聞いたよ。
きみが席を外している間にね。
人は死んだらどこへ行くのかと。
どこへも行かない、とマスターは答えてくれた。
人が死後形をなくし、還っていく原初の世界は、形ある生の世界と重なり合っているのだと。
同じ所にいながら、形なきものと形あるものは天と地ほどに隔たっているけれど、形なきものも確かに、ここに存在しているのだと。
それはさながら風のように自由に、束縛を解かれ、気ままに存在するものなのだ、と教えてくれた。
おれはそれを聞いて少しホッとしたよ。
おれの存在が、もうおれとは言えなくなってしまっても、まだここにいられるのだから。
きみには見えなくなってしまっても、感じられなくなってしまっても、きみの側にいられるのだから。
でもきみはそんなことを聞いても、見えないのなら、触れられないのなら、いないのと同じよ、と怒ってしまうのだろうね。

やがてきみは、おれが起きたことに気づいて、涙を拭いて笑顔を見せてくれるだろう。
やつれた顔を精一杯ほころばせて。
きみの優しさが胸にしみるよ。
きみの温かい手がおれを支えてくれるから、きみの明るい笑顔がおれに勇気をくれるから、きっとたぶん、おれは大丈夫だ。

ティア、きみを愛している。
きみと別れる時が来ても。
おれがおれでなくなってしまっても。
たとえきみにはわからなくても、おれはきみの側にいるよ。
散り散りになったおれの魂は、風のようにきみの周りを吹いていくだろう。
きみとおれとの懐かしい場所に還っていくだろう。
おれはきみを見守っているよ。
きみを守ることはもうできなくても。
いつかきみが本当の幸福に出会って、安らぎの場所を見出すまで。
きみの心の中で、おれのことが懐かしい想い出になってしまうまで。
その時が来ることを祈っているよ。
おれの魂が全ての束縛から放たれ、全てのことから自由になれる、その時が来ることを。

おれの人生がきみに向かっていたことを神に感謝している。
ティア、泣かないで。
きみを愛している……。


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