きんとさんのお気楽ゴクラクのーと

K.水谷


武と楽と書


9月 6日 (土) もうすぐ誕生日 (;_;)

「陰陽師」の安倍晴明の相棒、わたしの大好きな源博雅朝臣は皇孫で臣下に下り、武士をやっている人である。
もののふらしく、いかにも無骨者だし、いつも太刀を腰に帯びている。
しかし彼は楽の人でもあり、管弦に秀で、琵琶の秘曲を蝉丸法師から聴くために、法師の山の庵に三年も通い詰めるほど楽を愛している人なのだ。
武と楽、一見まるで正反対の技芸を修めているところにこの人の面白さがあるのだが、武と楽は実は密接な関係があるのだ、と語ろうとしたところ、昨日観てきた「HERO−英雄」にも同じことが語られていた。

中国では、楽が武の道に通じることは伝統として受け継がれている教えなのかもしれない。
私の気功の先生の先生――北京にいる万先生の所にいる直弟子たちは皆幼い頃から気功と武術の訓練を受けるが、同時に音楽の練習もする。
私たちが研修で万先生の研究所を訪れる時、お弟子さんたちは武術の表演や鉄の玉を飲み込んだりする硬気功の表演をしてくれるが、その後、同じ彼らが楽器を演奏し見事な音楽を披露してくれるのだ。
音楽はリズムや間合い、呼吸の取り方、人と合わせ和すすべ、五感をとぎすませ、心を調えるすべを教えてくれる。
だからこそ、武を行う人は楽を好み、武に秀でた人は楽にも秀でている、ということになるのだろう。
そういえば平敦盛も武士で笛の名手でしょ。
まだ他にも武楽に秀でた人はいるかもしれない(私が知らないだけで)。
あ、ちなみに拙作の「ディマシュクのウード弾き」でもアズラド家の人は中国武術の影響を受けているので皆武楽両道を修めているのであります。(^_^;
ペルシア人の彼らがアラビアの楽器ウードを弾くというのは変かもしれないが、聖者ヤフヤーが伝えたってことで。。。それにウードはペルシアのバルバドという楽器が元だしね。そんなに違和感はなかったはず――すみません、読んでない人にはわけわからない設定ネタです。(^o^;;;;

さて、書である。
「HERO−英雄」では書も武の道に通じると言っていたが、ここで言いたいのは漢字のこと。
映画で、帛に朱書きで「剣」の一字が書かれているのを見て、漢字ってなんて美しいのだろうとつくづく見とれてしまった。
漢字は不思議な魅力に満ちた字だと思う。
私はいつか漢字をもっと勉強して漢字検定を受けたいと思っているのだが、昨今の漢字検定ブームからいっても、そういう漢字好きの人は全国にごまんといるようだ。
現代だけではない。漢字が日本に伝わった当初から、日本人は漢字好きだったと言えるのではないだろうか。
お経や漢詩、漢文、何かにつけて日本人は漢字を書き続けてきた。
和文よりも漢文を尊び、それを修めることに特別な意味を持たせてきた。
仮名文字ができた時点で、漢字を捨てることもできたのに、今でも漢字に執着しているのはなぜなのだろう。
もちろん中国本土でも、漢字は愛されている。
これほど文字が書かれた国は他にないんじゃないだろうか、というぐらい、中国は書物と文献にあふれた国なのだ。
王朝が興るたび史書が編纂され、紀元前の昔から綿密な歴史資料が残されている国は中国をおいて他にはない。
文字を書き連ねることに腐心するということは、その文字にそれだけの魅力があるから、とも言えるのではないだろうか。

最近、NHKの幼児番組「にほんごであそぼ」という番組が人気なのだそうだ。
子どもたちは狂言の語りや落語の言い回しに嬉々として聴き惚れ、まねをするのだそうだ。
それは昔の日本語が人を惹きつけ理解させる力にあふれていた、聴かせる魅力を持っていたからだと大学の先生が解説していた。
文字も同じなのだと思う。
漢字はそれを読み理解し、書きたくなる魅力にあふれている。
それだけの力を持つ文字なのだ。
言葉や文字が力を持っているということは、そういうことなんだなあ、と理解したら、さっそく小説に取り入れたくなってしまった (^_^;。
まあなんにせよ結局、今の私は小説中心に回っているのであーる。f(^o^;;;;


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