きんとさんのお気楽ゴクラクのーと

K.水谷


平和憲法は守れるのか


3月 22日 (土)

とうとう戦争は始まってしまい、戦争反対と声高に叫んできた者にとってはやりきれないことだが、振り返って考えると反対反対と感情論だけで叫んでいても論拠が弱いなと思う。
実際私などは戦争を知らない世代であり、暴力とは無縁の生活をしているが故に暴力には弱い人間なのだ。
今は対岸の火事だから反対反対と言っていれば済むが、もし本当に自分に火の粉か降りかかってきた時に、反戦非戦を貫けるのだろうか。
弱さ故に間違った方向へ走っていくとも限らない。
だから、自戒も込めて反戦非戦のことについてきちんと考えたいと思う。

BBSの方で小泉クンが「日本を攻撃することはアメリカを攻撃することと同じである、云々」という発言をしたのに対し、恥ずかしげもなくと書いたが、コメンテーターの中には小泉よく言った、これで日本も安心だと言う人がいた。
現実的にはそうなのかもしれないけれど、やはり独立した国の一国民としては恥ずかしく思う。
右翼はきらいだけど、これほど右翼と意見が合うこともないだろうと思うくらいだ。
一つの独立した国家として、他国に左右されず独自の意見を言える国になってほしい。
しかし、アメリカの庇護を離れるとなると問題になるのは、平和憲法と自国防衛のことだ。

新聞に「日本は戦争を放棄したが、戦争は日本を放棄していない」という文章が載っていて、なるほど確かにそのとおりだと思った。
右派の人たちは、日本の真の独立のためアメリカの庇護から離れ、平和憲法を改正し自衛権を持つのだ、と主張する。
もし外国が問答無用で攻めてきたら、と思うとそれはすごく正しい意見のようにも見える。
日本は戦争しないといっても、それが他国から攻められない理由にはならないのだ。
では、憲法を改正し軍備を備えればそれで安心できるのだろうか。
安心できる軍備を持つということは攻めてきそうな国(仮想敵国?)よりも強い軍備を持つということだ。
だがそれをすると日本を仮想敵国とする国が更に上の軍備を持とうとして、軍備拡張の悪循環に陥る。
冷戦時代のアメリカとソ連みたいなものだ。
どんな軍備を持っていたって、それで安心できないのは今のアメリカを見ていればよくわかる。

軍備を持つには限界がある。
それなら、負けそうな軍備を持つぐらいなら思い切って捨てることはできないのか。
危ない人間もいる世界を丸腰で歩くのは確かに怖い。
銃を抱えて戦うより勇気のいることだろう。
だが、相手に銃を捨てさせるためには自分は丸腰で手を差し出すのが一番よい方法だ。
それを実行するためは攻めてきたらどうすると考えるより、どうしたら攻められないかを常に考えなくてはならない。
丸腰でいることの覚悟を持って、したたかに細やかに外交を駆使して他国とよい関係を保っていく、そんなことがこの日本にできるのだろうか。

今の政府や外務省ではできないだろう。
丸腰でやっていく覚悟もなさそうだし、積極的に平和を押し進めて外交する気概も全くない。
けれど、私は日本という国の未来にその理想を掲げたい。
平和憲法の下に、それを誰にも侵すことはできないと世界に認めさせ、平和を推し進めていく国家になっていきたいと心から願う。
もしそれでも日本が侵されるとしたら、その時は武器もなく戦うことなく死んでいくことを潔しと覚悟しよう。
人間はいつか死ぬ。
戦って死ぬとしても戦わずして死ぬとしても死ぬことには変わりない。
ならば自分が死に至るまでどう生きるかだけが重要なのだ。
信念を貫いて生きるのなら、その死はむなしくはないだろう。
子供たちが犠牲になるのはやりきれないが、戦うことになっても子供たちが犠牲になることには変わりないからなあ。
やはりそうならないように努力して生きること。
それだけなのだと思う。

覚悟を持って気概を持って平和憲法を守って生きていくために、どうしたらいいか。
前のノート「その116」でも書いたような方法も一つだろうが、その他にもよい方法があればぜひ教えてほしい。
今、反戦非戦を叫んでいる人々のためにも、私たちがそうやって生きていける方法を出し合って示してほしい。
みんながその方向へ進めるように。
ドラマ「僕の生きる道」で出てきた言葉
「たとえ世界が明日滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える(マルティン・ルターの言葉だそうです)」
この言葉のように私も努力をしたい。
その努力がむなしいとしても、生きている限りはそうやって生きてゆきたい。
そのための智慧を誰か貸してください。
平和のために強く生きていけるように。


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