きんとさんのお気楽ゴクラクのーと

K.水谷


お久しぶりに、いろいろと−その2


1月11日(金) 晴れ、あったかい!

いろいろと、と言っている割には前回はイティハーサのことしか書けなかった。
ほんとはもう一つ、本について述べたかったのだ。
で、今回はそのもう一つの本について。

「シュタイナー入門」小杉 英了 著、ちくま新書。
お気に入りでも以前ちょこっと紹介したのだが、あの時はまだ全部読んでいなかった。
ようやく今日、読了したのだ。
いや〜、面白かったです。
同時多発テロがあって、世界のことや社会、民族のことなど色々考えている時に、ちょうどそういう内容の論述が書かれてあったので、夢中で読んじゃったよ〜。
そんで、これは人から借りた本で返さなきゃなんないので、これはと思った所をここにピックアップしておくことにする。
シュタイナーについては「毎週のお気に入り」に簡単に書いたのでここでは省略する。
簡単すぎて説明になってないんだけど、この人はとても一言では言い表せない人なので、興味を持たれた方は本を読んでいただくしかない。

「人間に内在する本質を、シュタイナーは霊的なものとしてとらえた。それが、その人の肉体も含めて、生まれ育った環境の中で、みずからを開花させようとして成長する場が、魂なのである」(P23)
シュタイナーの考えた霊性と魂について述べたところ。
霊的なものという考え方は理解しにくいが、シュタイナーの全ての思想の基本は人間の内面に存在するものの洞察と啓発である。

「生命が物質の世界において、一連の形態を内部から生長させていくように、その同じ生命が、人間の思考の世界において、物質として変容する植物の形態に対応して、同じ一連のイメージを、言葉の中から生長させていくことができないだろうか」(P46)
ゲーテの自然観について述べたところ。
シュタイナーは当時全盛だった唯物論に対抗する考えとして、ゲーテの自然観を研究した。
事物を外側から客観的に観察することで自分が自然界から離れた存在になっている唯物論に対し、自然の中に入り主客の境をなくして物事を考えることができないのか、という問いに対する一つの答えを示している。
つまり、バラを見て「バラは美しい」とイメージすることで、そのバラは「ただのバラ」から「美しいバラ」へと変化している――そうやって自分もそのバラと関わりを持つ、ということが言いたいのだと思う。

「十九世紀、自然科学が聖書に記された諸権威を失墜させていったとき、人々は、教会の古くさい衣を脱ぎ捨てて、まったくの俗人として、もっぱら政治と経済に生きるか、それとも、教会の外で、霊的なるものを新たに研究するかの岐路に立たされた。そして、後者の側に身を置いた人々の中から、近代オカルティズム運動が起こったのである」(P74)
西洋におけるオカルトの源流と、近代に入って起こるべくして起こったオカルトへの傾倒について述べたところ。
キリスト教会がキリスト教以前や、原始キリスト教には存在した、自己の内面に神の智慧を求めるという考え方を異端として徹底的に排除し、神の智慧は教会の外には在り得ないとし信者を縛りつけたおかげで、一方ではオカルトは罪悪であるという偏見と一方ではオカルトに対する熱望的な憧れを近代に引き起こした。
シュタイナーは西洋の宗教観の中で失われてしまった自己の内面への探求を、オカルティストという立場に立ち運動しながらも、それに熱狂することなく、対する立場にある人々にも理解できるような方法論を模索していた。
著者はこの後、シュタイナーの思想を受け取る側の日本人にも、過去より育まれてきたすぐれた思想体系が近現代の歴史の中で断絶され、オカルト的なものに対する態度が無知なる拒絶か無知なる憧憬か両極端に走ってしまいがちだと言述する。

「オカルト的知識の秘密保持などアナクロニズムであり、むしろ積極的に、誰もが皆、みずからの能力に応じて自由に学びうる一般的な知識の一つとして、公開されなければならない」(P106〜107)
今度は近代オカルティズム運動の秘密主義に対する批判を述べたところ。
東洋でも西洋でも自己の内面から神、あるいは高次の自己を引き出す方法は、選ばれた人間だけが耐えうる厳しい修行と秘密の伝承によって行われてきた。
オカルトはその性格上、秘密主義とは切っても切れない関係なのだが、シュタイナーはそれに至る道は秘密のものでないし特別なものでもないのだ、と説いた。
オカルトに対する垣根を取り払おうとしていたのだ。
道は各個人それぞれに開かれているものであり、決して皆が同じものでもないし、限られたものでもただ一つのものでもないと。

「霊的な事柄に関する認識は、すべての人間の魂の根底にすでに存在しており、その認識を、自分で考えることを通して、自分の中に蘇らせることが、決定的に重要だ」(P125)
この辺はこの著書の核心部で最も根本的なところ。
難解な部分だが、要するにシュタイナーの言う人間を構成する三つの要素、肉体、魂、霊の中で、魂の根底にある霊的なものへと至る道は、霊的体験よりもまず先に思考することが大事なのだ、と述べている。
人間は思考によって認識する。
その思考による認識なくして、各種修行により霊的体験を得たとしても、それが現実世界でいかなる意味を持つのか認識できなければ、ただの異常体験にすぎないと、オウム真理教のことなども引き合いに出しながら説明している。
事物がそこに「在る」という認識、それが「どういうものか」という認識は思考によって引き出される。
その認識は形とは別の次元でその事物を在らしめている。
霊的なものという言い方はそんな感じのようだ。
こういう考え方は仏教思想とか物理学にもあって、難しいけど面白い。

「(議会制民主主義とは)実際には、既存の経済上の利益を代表する者たちによって議席が占領され、新しい社会形成を訴える者を法的に拘束する機能しか果たさない」(P163)
次は当時の歴史・社会に対するシュタイナーの活動を述べたところ。
第一次世界大戦が起こり、シュタイナーが生まれ育った中部ヨーロッパが戦場になったことについて、彼は西部ヨーロッパの政治的秘密結社による陰謀説を唱えた。
その真否は置いておくとして、西部ヨーロッパに起こった新しい社会のあり方が、民衆による民衆のためのものと信じ込まされていたが、実は新たな支配者に都合のよいものであるという考え方が面白い。
投票によって自分の意見は政治に反映されているはずだが、実際は多数決によって様々な少数意見が切り捨てられている。
多数決によって代議士が選ばれ、その代議士たちが多数決によって国の政策を決める過程で、人々の意見は別のものへと変貌しているのだ。
自分たちの意見が枷にはめられてしまう代償に、人々は「国家を支える国民」としてのイデオロギーを与えられる。
国民意識は支配者たちの都合のいいように操作できる。
実にうまくできたシステムなのだなあ、と思う。

「こうした国民意識を人々の内面に作り出す上で、もっとも効率的に利用されたのが「民族」という文化概念である。それは元来、文化上の概念なのだが、国民国家のイデオロギーが作り出されることによって、人々の帰属感情を強化するもっとも政治的な概念の一つになった」(P164〜165)
「人々が国民意識に覆われると、国家の枠を超えて精神が自由に働くことはむずかしくなる。利害の対立が生じると、たちまち人々は「○○人」の枠組みに閉じこもって、防衛的あるいは攻撃的な意識状態に駆り立てられる。その結果、国内的には、単純明快なスローガンの下に一致団結が可能になる」(P165)
このあたり、現代の世界情勢を端的に表しているようで興味深い。
自分は○○国の○○人であるという意識を政治的に持つようになったのは、国民国家という概念が生まれた近代以降なのだ。
特に、様々な民族が入り乱れて住む東部ヨーロッパ、バルカン半島では文化的な民族の概念は皆持っていても、それが政治に利用されることはなかった。
人は交流なくしては生きていけないし、そういう土地で垣根を作ることが不可能だったからだ。
ところが、そこに新しい国民国家と民族自決の概念を持ち込まれたために、バルカン半島は一気に紛争地域となってしまった。
バルカンの火種も中東問題の火種も、すべてこの国家と民族の枠組みの中にある。
いまや自由の国アメリカですら、国民意識に覆われ、単純明快なスローガンの下に一致団結している。
そこでは戦争反対の少数意見は切り捨てられている。
垣根で覆われた国民国家とガチガチの民族自決による社会ではなく、自由な精神と自由な文化経済の交流があるゆるやかな共同体としての社会を目指したシュタイナーの社会活動は結局挫折し、今もなお、民族対立の争いは根深い。

「エッカルト―「神の光が現れるために、いかにして人間は、他と峻別されるか」 シュタイナー―「神の光が現れるために、いかにして人間は、他と結びつくか」」(P198)
最後の章のナチスから迫害を受けるシュタイナーについて述べたところ。
エッカルトはゲルマン至上主義と反ユダヤ主義の思想家でヒトラーの師。
ここまで読んでシュタイナーという人は、人間の周りに存在するすべての垣根を取り払おうと努力した人なのだ、との感慨を持った。
自己においても自然においても、社会・教育・歴史etc.においても、人間は様々に垣根を作り、その中に閉じこもろうとする。
垣根のない開けっぴろげなところに自分をさらすことは、勇気のいることだし、無謀といっていいこともあるからだ。
しかし彼の説くところは、人間が思考するものである以上、その広々とした自由な認識の海へこぎ出していかなければならない、ということなのだ。
もちろん、操り方を知らぬまま船を出せとは言っていない。
彼はその方法も懇切丁寧に説明している。
方法を学んだとしても航海は困難を極めるし、船出しない人々の方が多いだろう。
それを知っていながらも、彼は人間に失望することなく一生懸命活動した。
そんなところは、仏陀やキリストの活動と似ているかもしれない、とも思った。
シュタイナーもまた青比古さんと同じように意識のゆるい広がった人だったのだろう。
彼自身、垣根のない世界を身をもって感じ、だからこそそれは秘密でも特別でもなく、当たり前のこととして、人々に知らしめようとした。

霊的なもの―それは秘密でも特別でもなく、気が付かないだけで当たり前のようにそこにあるもの―そんなところに私は感銘を受ける。
後はシュタイナーとこの本の著者が望んだように、彼の言ったこと、ここに書かれたことが真理だと思いこまないように、「信じるのではなく考える」ことができるように、新たな垣根を作らないように、心がけていかなければならない。


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