きんとさんのお気楽ゴクラク日記

K.水谷


神様と言葉


3月 22日(木) 花粉症は絶好調?

とうとうバーミヤーンの大仏は破壊されてしまった。
早速その映像をマスコミに売りつけたやつがいたようで、何回もニュースで流れていた。
あ゛〜〜、もうそんなの見たくないよぉ…。

タリバンの所業には他のイスラム諸国からも非難の声明があり、タリバン政権を公式に認めている数少ない国、お隣のパキスタンももちろん抗議していた。
曰く、「アッラーは寛大な御方であるから、異教徒の残したものを何が何でも破壊せよとは仰らない」と。
つまり一般的なムスリム(イスラム教徒)の解釈では、「偶像崇拝はもちろんいけないことで、間違えがあっては困るから偶像も破壊した方が好ましいが、そのために世界から非難され孤立し、結果自分たちに不利益な状態になるぐらいなら無理に壊さなくてもよい」となるのだ。
確かに、偶像は否定されるものであるから何が何でも全て破壊せよ、と神が命じたとすれば、それはいかにも神らしくない狭量な感じがする。
そんなことをお命じになるぐらいなら、もともと異教徒なんてお作りにはならないだろう。

この話は「ディマシュクのウード弾き」の裏話でしようと思っていた話題なんだけど、タリバンのおかげで今したくなっちゃった。
イスラム教というのは、アッラーは唯一絶対の神で全世界の創造主で全知全能不可謬(間違えることができない)の存在である、と定義してしまった時から言葉のジレンマに悩まされている宗教なのだ。
まだ預言者ムハンマドが生きていた時代から、それは他宗教の人達に指摘され反論されていた。
例えば絶対間違えない神様なら、なぜ異教徒なんて作られたのか、とか、コーランの中で前に出た言葉が後で訂正されているのはなぜかとか。
実際、コーランに記された神のお告げは長い期間にわたっていて、その時々によって信奉者にとって都合のいいような内容に変わっていたりする。
最も顕著なのは、ユダヤ教徒やキリスト教徒に対する態度で、最初は親近感を持っていたのに、彼らに排斥されて後の方の記述では彼らを攻撃する態度に変わってきている。
それを排斥した人々が、絶対間違えないはずなのになんで急に変わるんだと、逆に指摘して反撃していたらしい。
あと、最も根元的な問題、神の意志と人間の意志の問題などもある。
神様が全てを知り全てを決め全てを作っているのだとすれば、人殺しをした人間の意志も神様の意志なのか、それなら神が人殺しはいけないと告げておきながらなぜ人殺しをさせるのか――それとも、それは人殺しをした人間の自由意志なのか…。

その辺のことは『イスラム――思想と歴史(中村廣治郎著、UP選書、東京大学出版会)』に詳しく記されていて、ちょっとわかりにくいけど、面白い。
ある一派の神学者たちは、人間の理解を超えた存在である神を言葉で表現しようとやっきになるのだけれど、言葉ではせいぜい「神に比べうるものはひとつもない――物体でもなく幻でもなく、容積もなく形もなく、実体も人格もなく、見ることも触れることももちろんできない」とないない尽くしで表現するしかなくなってしまう(『イスラム』より)。
神の特殊性を語れば語るほど、人間から離れていき、限られたものになり、結局極端に抽象化されたわけわかんないものになるか、否定的表現を重ねた挙げ句の矮小化された存在でしかなくなってしまうのだ。

世界に多々存在する(?)神の中でも、最も壮大な存在に謳われているアッラーなのに、その信奉者たちに矮小化されてるなんて、ヘンなの、と異教徒は思ってしまう。
でもそれは神様のせいではない。
人間の言葉のせいなのだ。
言葉というのはとかく信用されすぎているきらいがあるが、それほど完璧なものではない。
人間同士の認識のため、言葉には対象物を切り取り区別する機能がある。
しかし厳密に言えば、この世のものには完全に区別できるものなどほとんどないのだ(「あいまいとゆらぎの中で」参照)。
本とかペンとか物は比較的区別しやすいけど、本と一口に言っても、書かれた物が何でも本と呼ばれるかというとそうでもない。
雑誌とかは同じ書かれた物で同じ綴じられたものだけど、本とは言わないしね。
じゃあ、本という言葉の指す範囲はどこまでか、と考えるとその人によっても認識が違うし、その時々によっても変わってくる。
ま、そんなふうに実際はあいまいなものを無理やり区別しているわけですよ。
そういう制約があるのに、ただでさえ宇宙に等しい不可知なものとされる存在を、言葉で表そうってことに無理があるのだ。
区別する言葉に切り取られ切り刻まれた神は、いびつに小さいものでしかなく、それはもはや神と呼べるものではないだろう。

ロゴスを追求するあまりこんな極論に走ってしまった神学の一派に対抗して、そこまで追求することはないだろう、言葉が不完全なのはしょうがないのだから折衷でいきましょう、という一派もでてきた。
だがそもそも絶対だとか唯一だとかが大前提になっているので、折衷というのも中途半端で、なんとかいろいろ理由を付けて正しさを証明しようとしても詭弁に見えてしまう。
所詮、思弁は詭弁でしかないのかしらん。
というところから、スーフィーすなわち神秘主義者が出てきたのですね。
言葉でダメなら実践だ! と。
スーフィーの人達は言葉で表せない神をなんとか実感しようと、くるくる回ったり、「アッラーは偉大なり」と一日中唱え続けていたりするわけです。

異教徒だらけのこの世界も、罪を犯してしまう運命も、全てはこの世の試練だと、善良なムスリムは信じている。
だが神のために正しいと思ってやった行いが、果たして本当に正しい行いなのか、実は人間にはわからないこと、それは神のみぞ知ること、なのだ。
神の正義を信じて仏像を破壊したタリバンだが、そのためにアフガンの人々がまた苦しむようであれば、それは本当に神のお望みになった行いと言えるのだろうか。
人知を超えた神は知れず、人々は惑い悩むばかりだ。
ま、結局みんな自分の都合のいいように解釈しているんだけどね。f(^^;


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