きんとさんのお気楽ゴクラク日記

K.水谷


エチュード


10月 27日(金) 曇り時々晴

子供の頃、ピアノを習っていた。
近所の子供達が皆習っていて、「わたしもわたしも」と親におねだりして習わせてもらったのだ。
けれど、本当にピアノを弾きたくて習い始めたわけではないので、練習が辛かった。
練習なくしては上手く弾けるわけがなく、上手く弾けないのでつまらない、という悪循環を繰り返し、結局小学校3年の時にやめてしまった。
その後、音楽の楽しさが理解できるようになり、ピアノを続けていればよかったと思ったが、後の祭り。
あの頃、先生が上手く弾くことより、弾く楽しさを教えていてくれればなぁと思うばかりだ。
そのピアノの練習曲にエチュードと名の付いたものが多く存在した。

その時のエチュードの訳が「練習曲」となっていたので、私はすっかり演奏者の練習のための曲だと思いこんでいた。
だが本来エチュードとは「習作」という意味で、音楽でも絵画でも、とにかく創作する人が自分の練習のために作った作品のことを指すと知ったのは、最近のことだ。
アスリートが本番でよい記録を残したり、勝負に勝つために毎日トレーニングを欠かさないように、芸術家たちも本番の作品を作り上げる前の練習は欠かさない。
運動と違って、その練習も作品として残るので「習作」となるわけだ。
私の義母は趣味で絵を描いているが、一年に一作、展覧会に出す作品を描く以外にも、しょっちゅうスケッチをしている。
義母曰く、いつも描いてないとダメなんだそうだ。
描くことをサボってしまうと、自分がこれまで築いてきた技術のレベルがすぐに落ちてしまう。
だから描き続けているのだとのたまう。
練習なんかいらない天才なら、習作なんて作らなくても、いきなり大作を描けるのかもしれない。
けれど天才レオナルド・ダ・ヴィンチも、たくさんの習作やスケッチを残している。
いい物を作るために練習を惜しまなかったのだろうし、描くことが好きだから練習も苦にならなかった、そんな感じだ。

実は物書きにも練習は必要だ。
練習なんかしなくても文章が天から降ってくるような天才はどうか知らないが、少なくとも私は普段から書いていないと書き方を忘れてしまう。
よく人から「どうして書けるのか?」と聞かれるが、なぜ文章が浮かんでくるのかは私にもわからない。
ただ、昔から書くことは好きだったし、よく書いていた。
小説という形ではないけれど物語のプロットをノートに書き留めたり、詩を書いたり、大学のレポートとか論文とかも、積極的に書いていたほうだった。
そういう積み重ねがあったから、今も抵抗なく書けているのだと思う。

書くことが好きだと言っても、私はとっても面倒くさがりやの不精者。
一つの作品を仕上げるのに、バカみたいに何年もかかっているし、そんなに筆が早いほうではない。
本当に書ける人って、のべつ幕なし書いてるし、書く量も私なんか比べものにならないほど多いのだ。
そういう人はわざわざ「練習!」なんて言わなくても、いいんだよね。
でも私はすぐにサボり出すので、練習が必要なのよ。
それで、いつも書き続けるために始めたのが、この日記という名のエッセー。
「習作」というなら、小説の小品をものすべきなんだろうけど、そんなことを言ってると面倒くさがってなかなかやらないので、とにかく何でもいいから書く!という主旨でやっている。
鉛筆のなぐり書きのスケッチみたいな文章で、エチュードとはほど遠いが、書き方を忘れない程度には役に立っていると信じている。


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