きんとさんのお気楽ゴクラク日記

K.水谷


epicurean の年頭抱負


1月1日(土) 晴!(2000年!)

あけまして、おめでとうございます! v(^O^)v
朝早起きして、去年ご近所の人に教えてもらったご近所の初日の出ポイントに、ご来光を拝みに行って来た。
幸い雲もなく、朝日は丘の上からトロリとした赤をにじませながらせり上がり、やがて強い光を放って明るく照らしてくれた。
きれいな良いご来光だった。
今年も良い年でありますように。

ところで、新年を迎えて一番目の話題としては、今年の抱負なんぞを述べるのがよかろーかと思ったのだが、私は目標とか計画とかを立てるのがどーも苦手だ。
以前、心理学のワークで「1ヶ月、半年、1年後に達成させる目標を立てる」ということをやった時、やりたいことはあっても「いついつまでに」と期間を区切るのが嫌で、適当なことを書いてごまかしてしまったことがある。
目標を立てるのはすばらしいことだけど、いつもその目標に縛られてあくせくするのでは、かえって心理的に良くないのではないかとも思うのだ。
そう、私はあくせくしたくない、努力はできるだけ避けたいという快楽主義者なのだ。

人間のタイプには二種類あって、常に前向きに努力して目標を達成することに生き甲斐を感じる人もいれば、私のように今楽しければそれでいい、何を好きこのんでつらい思いをしなければならんのだ、と思っている人もいる。
日本では禁欲的に努力する人が良い人という風潮があって、子供の頃から努力が嫌いな子だった私はいつもその風潮のために、自分を恥じて卑小化していた。
ところが最近、頭のねじが一本とれて開き直るようになってしまった。
努力しなくたって何を恥じることがあるのか、自分が良ければそれでいーじゃんか、と思うようになったのだ。
自分は気楽になったけど、周りの者はいい迷惑だ。

ちょっと言い訳しとくけど、快楽主義者といってもいつも、のんべんだらりとしているわけではない。
無気力と快楽主義は同意義ではないからね。
やりたいことはいろいろあるし、その中の幾つかはちゃんとやり遂げている。
まあ、つまり努力が即快楽に結びつけば、努力はするのだ。
たとえば山登りなんかは、夫に言わせれば「何が悲しゅうてこんな苦労して登るのだ」だけど、私に言わせれば「だってそりゃ登るのは大変だけど、その成果は目に見えてわかるし、その成果の上に大きな達成感があるじゃない」となる。
努力が即快楽に結びついているから、その努力はしてもOKなのだ。
けど、習い事とかダイエットとかは全然続かない。
身体の変化は目に見えず、ゆっくりとしていて、成果が出るまで時間がかかる。
成果が出るまでに努力が苦痛になってしまい、快楽の範疇から外れてしまうのだ。
そんでもって、目標とか計画とかで自分を縛るのも快楽に反するからやりたくない。
できればそれでいいし、できなくてもいいさ、そのくらいに思っているのがちょうどいい。
ストイックに黙々と自分の目標に向かって進んでいく人はすばらしいと思うし、美しいと思うけど、自分にはできない。
できない!

そんなわけで新年一番目の話題として、今年の抱負は……、という話題は快楽主義者にはあまり意味のないことだ、ということを述べてみました。
敢えて言えば、やりたいことはいろいろあるし、やらなきゃいけないこともいろいろあるけど、その時々で必要に応じて努力しまーす、て感じかな。


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