20世紀最後の大傑作…
ここのところ、すっかり円熟味を増してきたチャン・イーモウ監督の最新作は、大変な傑作です。Jack&Bettyのふたりもすっかりこの
映画に感動してしまい、ノリまくり。今回はいつもの枠を拡大してお送りします。映画の核心部分にまで触れておりますので、未見の方は
2章以降は、ご覧になってから読まれることをお勧めします。
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J/
『初恋のきた道』は、本当に素晴らしい映画だったね。映画の途中からもう涙がとまらなくて、どうしようもなかったよ。
B/
映画が終わった後の女子トイレなんて、化粧直しが大変な娘がいっぱいいたわよ。(笑)
J/
いまどきこんな純粋な恋愛映画は珍しい。若いふたりが手をつなぐこともなく、会話さえぎこちなくしか交わせない。それなのに切ない気
持ちがここまで伝わってくる。古典的なくらい単純な話なのに、惹きつけられてこんなに感情移入できるなんて。
B/
チャン・ツィイーが素晴らしいのね。女の私から見ても彼女がとても可愛い。
J/
彼女を見ているだけで、もうウルウルしてきちゃってね。彼女の一喜一憂に胸がいっぱいになってしまった。
B/
あの純粋は、女優さんがマズかったら嘘になってしまうのね。けれども彼女の笑顔、彼女の思いつめた顔が素晴らしい。
J/
男として何とかしてあげたい。守ってあげたいと思っちゃうわけよ。この映画は映像も美しいし、表現も素晴らしいけれど、彼女無しでは
成り立たなかったって断言できるね。
B/
彼女が女から見てもとっても共感できるのは、あの一途さ、一所懸命さなのね。それがとても可愛らしい。
J/
他の出演者もとてもいいね。恋人役の若者もいい。決していい男というんじゃないけれども、誠実さがある。これがいい男だったら、また
違った映画になっちゃうんだろうな。
B/
おばあさん役の人たちも味があっていいわね。彼女たちがこの純愛映画にさらなる深みを与えているのね。とっても自然で、年輪を感じさ
せるこのプロの俳優ではない彼女たちの存在もとっても大きい。
J/
それでこの映画は単に恋愛映画っていうんじゃなくて、人生を感じる。もっと奥の深いものがあると思うんだ。懐かしいような何か。いっ
たいこれは何なのだろうって思う。セリフのひとつひとつも、ありふれているのにもかかわらず、心に染み入ってくるしね。
B/
今日はひとつその辺がどうしてなのか。なぜ私たちはこの映画にこんなに感動してしまうのか。チャン・イーモウはなぜ今ごろこんな純愛
映画を作ったのか。その辺を腰をじっくりと落ちつけて、お話してみましょうよ。
初恋のきた道…
父親が亡くなった。急報を受け息子は「田舎の道を車で」走る。荒涼とした冬の荒野。モノクロの映像だが、例えカラーだったとしても、
色のないくすんだ雪景色だったろう。家につくと、母親は父の死を悲しみ、夫の学校の前から離れようとしない。
村に人出が足りないので、トラクターで棺を運ぼうという村長の申し出にも聞く耳を持たない母。仏さんが「家路」を忘れないように、棺
を担いで山を越えるのが、古くからの村のしきたりだからか…。
この映画では、「道」が重要な意味を持っています。まずはそこから話はスタートします。
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J/
この映画でひとつ重要な意味を持っているのは、道なんだよね。ファースト・シーンの荒涼とした雪景色の広がる「一本の道」。
B/
映像がモノクロから鮮やかななカラーに変わった回想シーン。先生として新しく赴任してきた若者、のちの彼の父親になる若者を迎える村
人たち。彼が、「馬車」にひかれてやってきたさっきのモノクロのシーンに出てきたのと「同じ道」なの。憧れの眼差しを遠くから向ける
若き日の母。彼女には若者もまた自分をちらっと見やったような気がするのね。「道のむこうからやってきた」、そこには街の匂いがある
の。育ちの良さからか、村のほかの若者とはちょっと違うのね。
J/
ほんのりと芽生える恋心に心がはずんで、嬉しそうにはねるように道を走っていく少女をキャメラはバスト・ショットで追いかける。その
少女の純真な笑顔に、なんだか胸が熱くなってくるんだ。この懐かしいような思いはなんなのだろうか。ここでうも涙が溢れてきちゃって
、困ってしまったんだ。
B/
これが邦題でもあるところの『初恋のきた道』なのね。それからのちに、若い先生が、子供たちを毎日家に送っていくっていうのを聞いて
少女がそれを待ち続けることになるの。毎日、毎日。丘の叢で待っていると、子供たちの声が「道」のほうから聞こえてくる。それでそち
らのほうをふりむく、こんな美しいショットが、繰り返される。彼女が「待ち焦がれたこの道」。
J/
その顔が、とっても嬉しそうで、もう可愛くて、可愛くて。
B/
若者が村から去っていった。「冬休みには帰る」って言い残して。そしてその日がやってきた。外はすっかり冷え切っているのに、夜暗く
なるまで、彼が帰ってくるのをまちつづけた少女。その「街と村とをつなぐ道」、ふたりの思いがその道のむこうとこちらにある。後で思
えば「そんな道」を、息子は車で帰ってきたのね。
J/
父親のお葬式には村に人出が足りないので、トラクターで棺を運ぼうということになった。けれどもお母さんは、それに納得できない。
だって、仏さんが家路を忘れないように、棺を担いで山を越えるのが、古くからの村のしきたりじゃないか…。昔と違って、中国でも村は
確実に過疎になってきている。それに車があるからいまどき、担いで棺を運ぼうなんて人はいない。
B/
最初、モノクロの現在のシーンでは、とってもかたくなに見えたその姿も、その昔の彼女の気持ちを知ったあとになっては、痛いほど気持
ちがわかるようになる。お年寄りがかたくななのにも、そのわけがある。なんとかしてあげなさいって思っちゃう。
J/
年とって、辺鄙な村で一人暮し。それで子供たちが心配して街でいっしょに住もうと申し出ても、かたくなに断り、ひとり寒村に残るなん
てことは、日本でもよくあることだね。でもこの映画を観ると、やっぱり無理やり連れてこれなくなっちゃうよな。
B/
この映画の風景は、私が田舎の農家育ちということもあってか、懐かしいような風景がいっぱい出てくるのね。もう失われてしまったもの
なのだけれど。うちにも釜戸や使われなくなったはた織機が物置に入っているの。考えてみると、「砂利道だった道が舗装される」。道が
変わることによって農村は姿を変えてきたと思うのね。この映画でも「馬車が車」に変わり、人々の暮らす世界が大きくなることによって、
村は変わり、昔のいいものも失われていった。進歩していく中でこぼれていってしまったものが必ずあるの。
J/
そういう意味では『初恋のきた道』はただ単にそういう意味だけではなくて、「過去と現在をへだてる道」、それと同時にそんな「過去を
たどる道」にもなってくるわけだね。そう考えると、この映画の道はとても重要な意味を持ってくるね。
B/
昔、「忘れられた日本人」(宮本常一著)っていう民俗学者の本を読んだのね。その中で村の古老もこんなことを言うの。「村が大きく変わ
りはじめたのは、道ができてからじゃった」って。私はそんなことも思い出していた。
純粋さが失われていく時代…
この映画は過去と現在、過去がカラーで、現在のシーンがモノクロになっている。これは普通の映画とは逆のパターンだ。しかし確かに人
の忘れがたい思い出というのは、いつまでたってもセピア色になることなく、色鮮やかなものではなかろうか。
貧しい、村の小さな昔ながらの家の一角に大切に飾ってある、父母の新婚時代の写真。息子が母の昔語ってくれたふたりの恋物語を思い出
す。キャメラがぐっと写真に近づき、時代が一気に遡ると、目にも鮮やかなカラーの映像がスクリーンに広がる。そして再び現在に戻ると
またモノクロになる。
そして、時が流れてもそこにあり続けるもの。機織、学校、使われなくなった井戸、道…わずか1時間半あまりの間に、過去と現在が一本
の線でつながってくる。
その間、何が変わらなくて、何が失われたか。
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J/
この映画のすごいところは、そこなんだよな。過去と現在が一本の線でつながること。それで小道具さえもがが生きているように思える瞬
間がある。他人にはただの道具でも、それを使う人にとっては、多かれ少なかれ、必ず愛着があり、年月とともにその中に思い出が塗り込
められていくもの。それがこの映画にはあるんだね。年月が一気に飛んだことによって、小道具もまた、我々に何かを語りかける役割を果
たしているんだ。
B/
消費社会で、そうしたものがますます減っていく社会に生きる私たちにとっては、そうしたことがまた懐かしい気持ちをかきたてることに
もなる。私たちは何か大きな忘れ物をしてきてしまったのではないかと。
J/
やっぱり、最初に印象に残るのは、機織だね。学校の建設が始まる。村では、新しい家を建てるときに、村一番の美しい娘が梁に赤い布を
巻くという伝統があり、今回は彼女が選ばれた。一心に機を織る少女。これが現代のシーンで出てきたはた織機と同じもので、お葬式のた
め一心に布を織っていた年取った彼女の姿とだぶってくる。なんとか修理をほどこし、ギシギシと鳴っていた織機が、ここではまだ軽快な
音を立てて動いているんだね。そこに年月の重みが出ている。
B/
息子が母親の身体を心配して、お葬式の布なんて買ってくればいいじゃないかって言うのをこばんで、夜なべしてはたを織る彼女の気持ち。
自分の夫をそれで迎えたから、送るときも自分の織った布で送りたいって気持ち。これは買ってくればいいってもんじゃない。
J/
昔は今と違って、すぐに買ってくることができなかったのだけれど、だからそれが苦痛だったかっていうとそんなことはなくて、その分よ
けいに思いを込めることができたんだね。
B/
食事を作る行為ひとつにしたってそうだったわね。
J/
村では、この頃まだ古い伝統が暮らしに根付いていて、女性は建築現場には近寄れない。その変わりに彼女たちは男たちがお昼に食べる、
お弁当を作っていくことになっている。お昼時、誰が誰のお弁当を食べるか、女たちは遠くの井戸端からそれを見守るなんて光景が見られ
た。少女も、憧れの若者になんとか自分の作ったお弁当を食べさせたく、朝早くからはりきって料理を作るんだね。
B/
釜土の火を起こしとこからはじまるのね。朝の輝かしい光がお勝手の入り口付近に差しこんでくる。水を汲む少女がシルエットになる。
外の空気はまだ冷たい。包丁で食材を刻む。キャメラがそんな様子を、短いショットでもって切り取っていくの。台所に湯気が立ち込めて
きた。包子(パオズ)が蒸されて、皮にツヤが出てきた。その間も日の光が刻々と変化していく。ずいぶん時間が経ったように見える。
今の便利な暮らしと違って、手間はかかるけれど、その分ひとつひとつの行為に少女の心がこめられているのが伝わってきて、胸が熱くな
ってくるわね。
J/
お弁当を入れていくどんぶりにも思いがいっぱいつまっていたもんね。貧しいけれども、一番大きくていっぱい入るどんぶりに思いをたっ
ぷり詰め込んで、風呂敷に包み込む。いっぱいに詰みすぎてどんぶりのふたが浮き上がってたりするんだ。どうしたら、彼に食べてもらう
ことができるか。テーブルいっぱいに並べられるどんぶり。置く位置を工夫したり、彼がどこに置かれたものを手にするか、人に聞いてみ
たり。その気持ちがなんとも可愛くいじらしくなってしまう。
B/
この映画で、私は少女の純粋な気持ちに感動したのだけれども、なぜそこにそんなに感動するかといえば、それが今は少なくなってしまっ
たものだから。世の中が便利になり、ひとつのことに手間がかからなくなった反面、ありがたみは少なくなった。それと比例してこうした
純粋さが失われてしまったような気がするの。
J/
結婚式やお葬式にしてもそうだね。日本でも昔は家でやった。手間をかけて準備をした。ご近所の人が集まって、手作りで食事を作って、
みんなで送ったものだった。それが業者に頼んですべてまかせっきりの今となっては、ますますこうした儀式も形式化してくるんだな。
もっとも、じゃ今それができるかっていったら無理なのだけれどね。そうするには忙しすぎる。世の中の動きが速すぎるから。
言葉は心をつなぎ、世界を広げていく…
この映画は、美しい。秋の黄金色の森、少女が街へ去る若者を追いかけていく姿をキャメラが移動で追いかけていくシーン。丘をころげる
ようにして駆け下りて、手渡そうとしていたきのこ餃子の入ったどんぶりを落として割ってしまうその悲しい音。
望遠レンズも効果的に使われる。感情が高まる時に。一方、井戸端にいる少女と話したさに、水桶を奪い合う村の若者と先生をとらえるユ
ーモア溢れる場面は、広角レンズで遠景からになる。そのメリハリも素晴らしい。
ふたりがはじめて道の真中であいさつを交わす。少女が嬉しさで持っていたバスケットを置き忘れてしまう。それに気付いて呼び返す若者。
「きみ!」そうとは気付かず素晴らしい笑顔でふりむく少女。若者から少女にバスケットが手渡しされる。望遠レンズでふたりのその様子
を写す。画面にはふたりしか見えない。ただ背景には秋の黄金だけが広がり光輝いている。ふたりに何かが通じ合う。思えば映画はだいぶ
時間が経っているというのに、ふたりの間で交わされた言葉は「きみ!」このひとことだけである。言葉は少ないが、映画の表現の豊かさ
もあって、言葉は深みを持ってくる。
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B/
この映画は、とっても視覚的なのだけれども、とってもいいなと思ったのは、少女の母、「私」の祖母にあたる人が目が不自由なところな
の。ところがこの人が誰よりも敏感に少女の気持ちが見えている。そして先生として赴任してきた若者がとっても好人物だけれども、自分
のうちとは身分が違うということもすぐに見えてしまうのね。
J/
音に敏感なんだよね。若者の言葉が少女には美しく聞こえるだけだけれども、この祖母にはそこからこの人の育った環境まですべてを見抜
いてしまう。少女の一途な思いも、機織の音、食事を作る音、洋服を着替える音、声の調子でわかっちゃうんだろうな。この映画はそうし
たこともあって、音にもずいぶん気が配られているよ。
B/
この映画は言葉が極端に少ないのだけれども、実は言葉がとっても重要な役割を担っている。言葉本来の持つ力が発揮されているのじゃな
いかしら。
J/
現代のシーンで母と「私」がちゃぶ台をはさんで食事中交わす会話なんてとってもありふれたもの。自分らの日常のどこにでもころがって
いる言葉なのだけれども、一語一語がとても重みがある。一言に託された母の思い、息子の思いがこちらにせまってくる。それでその言葉
のすべてにとても共感してしまう。わかる、そういった気持ちは自分自身も持っていると。それでまた涙が出てきてしまう。
B/
映画が、回想シーンで少女、母の思いをスクリーンに描き出すことに集中していたからこそ、この後半言葉ががぜん意味を持ってくる。映
画の冒頭とこの後半に、実は同じセリフが出てくるのよね。「もう父さんに会えないんだよ」このひとことの重みが、まったく違ってきて
いるもの。
J/
何も凝ったセリフなんていらないんだね。普通の会話だからこそ余計に心に入ってきたんじゃないかな。「おまえは仕事を頑張りなさい」
こんなひとことのセリフだけで、母親と息子の生きている環境の違い、それを気遣う母親の優しい気持ちが溢れ出してきて、どうにも涙
が止まらなくなってきてしまうものな。
B/
この映画で言葉が重要っていうのは、先生が学校で朗読する声に彼女がまず聞き惚れちゃったってことからもわかるのね。この言葉は中国
語を知っている人に聞いたら、本当に美しい発音をしているんだって。村の人たちが話す言葉とまったく違うと。彼女には意味はよくわか
らなかったけれど、まずこの言葉の美しさにひかれて、それが彼の亡くなる時まで続いたっていうのがいいのよね。
J/
この映画は内容はまったく違うのだけれど、チャン・イーモウ監督の前作『あの子を探して』とある部分重なってくるところがあったんだ。
同じような寒村で、同じような学校が出てくるということ。その中で言葉が大切に扱われている。『あの子を探して』では、子供たちが、
黒板いっぱいにチョークで知っている漢字を書いた。この映画の中で先生は子供たちに教える。字を書き、計算ができること。そこから世
界が広がると。
B/
最初に道が出来て、村は変わってきたというようなことを言ったけれど、その次に学校で言葉を覚えて世界が広がると、人が村から出て暮
らしはじめるということも言えると思うのね。これは今の日本にも言えること。けれどもこの映画はそうなることが決っして悪いこととは
言っていない。むしろ良いことだと言っている。だから先生は最後まで新しい学校の建設のために頑張った。
J/
自分の息子が学校を継いでくれることを心から望んでいた。けれども、色々学んだ息子は、もっと広い世界を求めて村を出てしまった。そ
れは彼にとっては、寂しいことだったのだけれども、学校を作り子供たちを育てることに最後まで熱意を燃やす。そういった子供たちが
他にもいっぱい出てくるだろうけれども、そのことに熱意を燃やす。このことの意味ね。
B/
もっと広い目で、物事を考えているのよね、きっと。例え外へ出ていってもそれは彼らにとっては幸福なことだ。広い世界を見ることによ
って、逆に子供たちはこの村のいいところを心に留めていくことだろう。それこそが本当の進歩であると。
J/
だから母親も息子に夫に対する思いから「先生をついでほしかった。」と言う一方で、結局のところは「仕事を頑張って」とひとこと言う。
彼が住んでいる世界は自分とは違うのがわかっているから。
B/
そういう意味では、この息子が最後に見せる優しさ、これこそが過去の世界と今との接点であり、世の中が変わっていっても、持ってくる
べきものなのじゃないかと思うわね。ラストで過去と現在が握手したような形になったものね。
J/
最後にこの映画のテーマをとってもよく表している文章を言っとくね。我々のつたない言葉では伝えきれないこともあるかと思うから。こ
の著者というのは自分の足で全国の村の古老の話を聞き歩いた民俗学者でね。その彼がそうした中で掴んだ言葉がこれだったんだ。
「忘れられた日本人」宮本常一著より…
私は長い間歩きつづけてきた。そして多くの人に会い、多くのものを見てきた。(中略)その長い道程の中で考え続けたひとつは、いった
い進歩というのは何であろうか。発展とは何であろうかということだった。(中略)
進歩に対する迷信が、退歩しつつあるものを進歩と誤解し、時にはそれが人間だけではなく生きとし生けるものを絶滅にさえ向かわしめつ
つあるのではないかと思うことがある。(中略)
進歩のかげに退歩しつつあるものを見定めていくことこそ、われわれに課せられている、もっとも重要な課題ではないかと思う。
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