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第136回「永遠のマリア・カラス」

マリア・カラス 監督…フランコ・ゼッフィレリ
脚本…フランコ・ゼッフィレリ、マーティン・シャーマン
撮影…エンニオ・グァルニエリ
音楽…ユージン・コーン
キャスト…ファニー・アルダン、ジェレミー・アイアンズ
ジョーン・プローライト、ガブリエル・ガルコ


2002年伊・仏・英他(ギャガ・コミュニケーションズ配給)/上映時間1時間48分

<CASTジャック&ベティ>
ジャックの評価 /ベティの評価

…金かえせ!! / …いまひとつ
…まあまあ/ …オススメ
…大満足!!観なきゃソンソン


J/ これはマリア・カラスの伝記映画ではなくて、彼女と親交のあったフランコ・ゼッフィレリ監督の「もしもこんなことがあったなら」とい う想像の話なんだよね。

B/ これを故人への冒涜と取られるともうお話にならなくなっちゃうのだけれども、私はそうは思わなかった。実はゼッフィレリ監督の前作 『ムッソリーニとお茶を』も同じ発想で作られた映画だったのね。取り上げたのが無名人か有名人かの違いはあるけれども。

J/ あのイギリス婦人たちは、いつも同じカフェに同じ時間に集まり、ツンとすましていて街の風物のようになっていた。ところが戦時中は彼 女たちは収容所に連れていかれて姿が見えなかった。彼は平和が戻ってもまだ何かがこの街に足りないと感じていた。そんなある日のこと 、街でオリビエの『ハムレット』が上映された。その時彼女たちもまた街に戻ってきた。初めてここで彼は平和が戻ったことを実感したっ ていうんだね。戦争で喪失してしまったもの、伝統ある建造物、そして友人たち。その喪失の象徴が彼女たちだった。

B/ いわば彼女たちの実際には見ることができなかった戦中の姿、それを想像で穴埋めしたというのがあの映画なのね。

J/ 自分の思い出のパズルの中で欠けてしまっていたもの。それを彼は映画というメディアを使うことで作りだし、はめこんでいったというのが あの映画だった。そして実はこの映画『永遠のマリア・カラス』も欠けたパズルのひとつに他ならないんだね。

B/ ゼッフィレリがそこまでマリア・カラスに思い入れを持ったのには実はわけがあるのね。ゼッフィレリ演出マリア・カラス主演の舞台に 彼のお父さんが訪ねてきた。もう足もだいぶ弱り年老いたお父さんに、彼女はせいいっぱいの優しさを見せた。「私たちはみな息子さんを 愛しています。本当に才能があるんですもの」「こんな難しい息子さんを育ててきたのだから本当にあなたは素晴らしい人に違いない」 そんな優しい言葉をかけながら、客席から楽屋まで20分もかけて支え彼女はお父さんを連れてきた。ゼッフィレリはそこに彼女の優しさ を見たというのね。だから、例え喧嘩してもいつでもこの時が目に浮かび、何でも許せたというのね。

J/ ゼッフィレリ監督っていうのは、マリア・カラスの舞台の演出もずいぶんやっているだけあって、彼女の声が出なくなってしまった瞬間に も立ち会っているんだ。実はふたりは同い年なのだけれども、皮肉にも彼女の晩年、彼は逆に脂が乗ってきている時期でもあった。映画の 中に描かれていたようにひとり自分のレコードを聴く彼女の姿を見るにつけ忍びなく、もう一度彼女を舞台に立たせたい。そんな思いを最 期まで持っていた。その果たせなかった夢をこの映画で実現したとも言えるね。そういう意味ではとてもプライベートな発想から出てきた 映画なのかもしれない。

B/ マリア・カラスが口パクをする映画に出るっていうのはかなり誤解を受ける危険な設定ではあるけれどもね。彼女の晩年に結局自分が何も してあげられなかったことの後悔なのね。それと、彼は彼女の実写版『トスカ』を企画し、10000ドルもかけて準備に入りながら、 頓挫してしまったという過去もあるのね。オナシスが出資したと思っていたそのお金が実はカラス自身から出ていたことが後でわかる。 その後悔。それが物語りに色濃く反映されてるのね。

J/ もちろん、そういう設定にできたのは、マリア・カラスの生前の言葉があればこそなんだよね。「ドラマは音楽だけで形作られるものでは ありません。その半分は演技によって、言葉によって作られるものです」彼女が舞台で唯一演じることがなかった『カルメン』、歌は唄っ たがまだ演技はしたことがない『カルメン』これなら少なくとも興味は持つに違いないという、彼なりの確信あればこそなんだ。

B/ 映画では多少説明が足りないので、誤解を受ける部分でもあるのだけれどもね。実は彼女は演技にも大変興味を持っていたのね。演技者と して映画にという方法もあったのではないか…ゼッフィレリ監督はどこかにそうしたひっかかりを持っていたのね。

J/ 映画では、彼女が学生相手にスクーリングをする場面があるよね。あれこそまさに日本でもやったというマスター・クラスの再現に他なら ならず、彼女の演技への興味が最も示される場面。ちなみにあの『トスカ』での彼女の演技はゼッフィレリの自伝に出てくる自身演出の 『トスカ』の情景そのままでもあるのが興味深いところでもあるんだけれど。

B/ マリア・カラスへの愛情がとっても感じられるのは、キャメラマンには実際彼女を映画で撮った経験があるエンニオ・グァルニエリを使い、、 音楽コンサルタントにはマスター・クラスでピアノ伴奏をつとめたユージン・コーンを使っているところね。細部まで完璧にしているのね。 劇中劇の『カルメン』の舞台セットなんて本当に素晴らしい。オペラの舞台をひとつ作れるほどの力を注いでいるのね。私はあのジプシー たちの酒場の美術なんてあまりの美しさにクラクラしてしまったほどよ。映画の一場面でここまでやるなんて贅沢よねぇ。

J/ 色々なスキャンダルも多いことで知られるマリア・カラスだけれども、ゼッフィレリ監督は彼女の芸術家としての側面にだけ焦点を当てた んだね。舞台に立っていた頃の彼女がいかに活き活きとしていたか。いかに晩年の彼女は苦しんでいたか。自分が世間に知って欲しいと 思う部分だけを映画の中で取り上げている。

B/ オナシスやルキノ・ヴィスコンティの写真が飾られている彼女の部屋で、自分のレコードを聴きながら泣き崩れるシーンのリアルさ。特別 の才能を持った芸術家がそれを失ったときの苦しみ。

J/ ある意味、偉大な芸術家のすべてが残された時間との闘いをしているとも言えるかもしれない。死の直前まで映画を作り続けたヴィスコン ティ、ジョン・ヒューストン、そして今や80歳のゼッフィレリ監督自身も。その点まだ若くして声が出なくなってしまったマリア・カラ ス、生きながら失ってしまった者の悲劇は計り知れないものがあるんだな。

B/ そんな彼女を傍で見ていたゼッフィレリ監督だからこその真実がこの映画にはあるんじゃないかしら。彼女を取り巻くあまり良くない男た ちなんてのもちらりと映る。空虚な生活。彼女が生涯で本当に惚れ込んだのはオナシスだけだった。しかし、彼に散々利用された挙句、 彼はジャクリーン・ケネディと結婚してしまう。アルバムに密かに閉まっている結婚を伝える新聞の切り抜き。しかし、その彼ももうこの 世の人ではない。

J/ 舞台にいる間は神経をすり減らすほどの興奮状態、人々の賞賛を浴び人生最高の瞬間を迎えても、舞台を離れれば、残るのは空虚さだけ。 その空虚さを埋められる人に彼女は生涯出会えなかった。そして今ではその賞賛と喝采の日々も遠くへ行ってしまった。その虚しい日々。 そんな感じが映画の中に散りばめられているんだね。

B/ その彼女が情熱を取り戻していく過程がそれだからこそ感動的なのよね。例え夢物語りではあってもね。久しぶりに外に出たファニー・ アルダン扮するマリア・カラスの華やかなこと。シャネルの衣裳がとても素敵でね。

J/ 俳優組合の協定でもって休憩を取らなきゃいけないのに、踊りの稽古を止めようとしないマリア・カラス。「マリア・カラスと仕事をする なら、昼夜ぶっ通しでやるのよ。完璧でなきゃダメ」監督も疲れきっているというのに、どこからあんなパワーが溢れ出すのか…ひとりの 本物の芸術家の魂を見るような思いがしたな。

B/ フランコ・ゼッフィレリは自伝の中でこう言っているの。「ヨット上のカラス、オナシスとキスをするカラス、傷ついたメルギーニ(かつ ての夫)などなど。私はそのすべてを嫌悪した。私にとってマリアはオペラであり、オペラこそ私にチャンスをくれたのだ」って。彼にと って一番輝いていたときの彼女がそこにいたのじゃないかしら。

J/ 芸術家同士その瞬間こそが、もっとも魂が通じ合うみたいなところがあったのだろうな。

B/ 撮影待ちの時間に初めて相手役ドン・ホセの若い俳優が現れるシーン、「あらいい男じゃない」っていうところから劇中劇に入っていくと ころなどは、非常にミュージカルっぽいのだけれども、マリアとカルメンがひとつになったような印象を与えていいわね。

J/ そうなんだよね。映画撮影が進むに連れてどんどんマリア・カラスがカルメンに近づいていくんだよね。これは実際全盛期の彼女を演出 していたゼッフィレリ監督の実感がこもっていたね。それと、おそらくファニー・アルダン自身にも起こったことだと思うんだよね。監督 自身もそこにマリア・カラスがいるみたいでとまどうくらいだったて言うんだから。あのシーンにはそんな感じがよく出ていたな。

B/ そこには50を過ぎ、才能も枯れた女ではなくて、若々しい昔のままの才能溢れる女がいる。

J/ その後、ドン・ホセ役の若い俳優が彼女の楽屋を訪ねてくる。憧れのまなざしでもってね。それでマリア・カラスがはずみでソファに座る 男にもたれかかりキスをするんだ。けれども、次の瞬間身を堅くしてすっとその場を離れ、化粧台のところへ離れていくんだ。ハッとした ね。彼の憧れの視線は芸術家としての彼女であり、自分自身もそうなりたいっていう憧れに過ぎないんだね。キスをした瞬間にそれがいっ ぺんでわかっちゃった。演出もいいけれど、ファニー・アルダンが上手過ぎ!

B/ 男の子がその場の空気を察して慌てて、彼女のそばに寄り添おうとするのだけれど、もうおどおどしちゃってね。そうすると彼女はきっぱ りと、「私たちは仕事だけの関係なのよ」と言い放つのね。必死にプライドを保とうとする。その様子が鏡にも映し出されるのだけれども、 そこに写る彼女の姿は白髪交じりの普通の50代の女にしか見えないのね。女としてはとてもつらいものがあるの、あのシーンは。残酷でね。

J/ 本当に映画を撮っているときの彼女とは別人のようなっているんだね、あの場面は。若さっていうのは気持ちの部分なんだね。けれどもあ あしたふとした瞬間に現実って出てくるんだね。夢から醒まされるみたいに。彼が出ていった後ひとり顔をふせ泣くのがとても孤独でつらい。

B/ あの瞬間もう彼女は悟ってしまったのかもね。映画もただの幻でしかないということを。自分は「カルメン」ではない。歌声を失ったマリア・ カロゲロプーロス(本名)に過ぎないということを。かつての情熱を取り戻したけれど、自分の肉体はもう戻ることがでないのであり、そ れは幻に過ぎなかったのだということをね。

J/ その後の完成試写ではたまらず席を立って外へ出ていってしまう。それまで活き活きと蘇った自分の姿にうっとりとしていたのにも関わら ず、完成したときには耐えられなくなってしまう。これもあの楽屋でのエピソードがあったからなんだろうな。

B/ 結局、プロデューサーのラリーは自分の財産を失っても彼女の願いを聞き入れ、この映画をお蔵入りにすることにする。ゼッフィレリ監督 自身も彼女がそんな映画を残すことを快しとしないだろうということが実は痛いほどわかっていたのね。

J/ 僕はなんかホッとしたよね。自分の夢は自分の夢。でも彼女の尊厳はこれで保たれる。「私のオペラ人生は幻想ではなかった。真実だった。」 このセリフは彼自身にも当てはまるんだね。またこんなことも言えるよね。私にとってマリア・カラスは真実だった。あの映画をお蔵入り にすることは、そんな意味を持っているのじゃないかな。

B/ 映画のラストふたりが語り合うシーンは、もうそこにファニー・アルダンもジェレミー・アイアンズももなく、まるで今80歳を迎え、晩年 に近くなってきたゼッフィレリ監督と晩年をすでに迎えていた50代のマリア・カラス自身が時空を超えて語り合っているように見えてし まったわね。

J/ 80歳になって、この映画を撮り終えたあともゼッフィレリは常に前を向きつづけていて、すぐに舞台の演出に入るなど精力的なのだけれ ど、心の奥では、「あとどれくらい自分は映画を撮り、舞台を演出できるのだろう」っていう意識が強いんだね。『ムッソリーニとお茶を』 そしてこの『永遠のマリア・カラス』まるで自分の人生の総決算をしているみたいだものな。

B/ あのラストの穏やかな日の中での二人の会話に監督自身の気持ちが表われているような気がするのね。

J/ ジョーン・プローライトの「才能のあるあなたが羨ましい。何もしないでいるなんて勿体無い。私があなたになれたら、きっと色々やって みるのに」っていうカラスを励ますセリフも、自分自身への励ましみたいなね。

B/ そういえば、ジョーン・プローライトもローレンス・オリヴィエを通じてゼッフィレリ監督と個人的なつながりのある人なのね。ヴィヴィ アン・リーと離婚して失意の日を送る彼を温かく包み、再婚したのが彼女なのだけれども、彼女はヴィヴィアン・リーとは正反対の何か ホッとさせるような雰囲気のある人なのね。ゼッフィレリはふたりのそんな仲も目の当たりにしている。そんな彼女をマリア・カラスの 気の許せる友人としたこと。ここにまた彼の思い入れみたいなのを感じるのよ。

J/ この映画が面白いのは、マリア・カラスを描きながら強烈にゼッフィレリ監督自身が出てきてしまうところなんだね。そのためかまるで ふたりのヨーロッパの芸術家同士の心が映画の中で共鳴しあっているような印象を受けるんだな。

B/ そういう意味では、やっぱりこれはとてもプライベートな映画なのかもしれないわね。けれどもマリア・カラスというだけでなく、芸術家 の心意気に触れた映画というもっと広い視点でも興味深い映画にもなっているのね。私は好きだなこの映画は…。

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