J/
『ヘヴン』というタイトルは一体なんじゃろうと思っていたら、ダンテの「神曲天国篇」っていうことだった。こういうのあんまり知らな
いし、なんだか恐れをなしちゃったけれど、どうしてどうしてそんなかたい映画じゃなゃくて美しい恋愛映画だった。
B/
究極の純愛映画というのが本当のところなのよね。ただストーリーのヒントとして「神曲」が使われているぐらいに考えたほうがいいのか
もしれないわね。『オー・ブラザー!』が「オデュッセイア」をなぞっていたように。
J/
監督は『ラン・ローラ・ラン』を作った人だよね。あの映画はスピード感もあって、ずいぶんユニークな作りの映画だったけれど、その次
に作ったこの映画は一転して静かな静かな映画。『ラン・ローラ・ラン』の時には実は奇跡的によくできた映画なんじゃないかって疑いを
持って見ていたのだけれど、この映画を観てこの監督は本物と確信した。
B/
恋愛映画の中に、愛、罪、許しなど奥深いテーマを盛り込んだ脚本はもちろんいいのだけれど、監督の演出もとっても気が利いているよう
に思うわね。
J/
映画の冒頭にヘリコプターの運転シュミレーションの画面を延々映しているところなんかは、まさに『ラン・ローラ・ラン』の監督だなぁ
なんて気がしてね。この場面はちゃんとラスト・シーンに繋がってくるんだね。
B/
英語教師フィリッパ(ケイト・ブランシェット)が、自宅のアパートを出てある男のオフィスに忍び込み時限爆弾を仕掛けるところから映
画は始まるのだけれど、このあたりのサスペンスは素晴らしかったわね。人の目を潜り抜けて、時限爆弾のスイッチを入れ、それを持って
男のオフィスに入る。ゴミ箱に爆弾を入れると、彼女が立ち去ったあと運悪く掃除婦のおばさんがゴミを回収に来て、キャスターに乗せて
持っていってしまう。
J/
そのキャスターがあっちに行ったり、こっちに行ったりするんだね。いつ爆発するんだろうってもうドキドキしてしまう。ヒッチコックの
映画を観ているようだった。
B/
それだけじゃなくて、さらに並行してビルの展望台に向かう、子供たちとお父さんの姿がカット・バックで入るのね。玄関から入って、エ
レベーターに乗るところをずっと追いかけているんだけれど、それで段々嫌な予感がしてくるのね。そして案の定、エレベーターが途中の
階で止まる。そうするとやっぱりさっきの掃除婦のおばさんが外に立っているというわけ。もう観客の心の動きをつかんで離さないぞって感
じよね。
J/
おばさんは、親子の邪魔をしちゃ悪いと「先に行ってください」って言う。ああ良かったって思う…それから…もうすごいドキドキしちゃ
うよね…それともうこうなるとある種運命的なものも感じてしまうんだよね。たまたまその日は寝坊したので、電車の事故に遭わないで済んだみた
いなやつね。このへんが「ああやっぱり『ラン・ローラ・ラン』の監督なんだな」って思った。
B/
トム・ティクヴァ監督の個性と、脚本のクシシュトフ・キェシロフスキの個性がこんなところで意外に相性が合ったのかもしれないわね。
多分に運命論者的なところがねぇ。
J/
フィリッパはビルを出た後、警察に電話する。「今ビルに時限爆弾をしかけてきました」って。偽名かと思ったら本当の名前もちゃんと
言ってね。そしてすぐにビルでは爆発が起こる。もう覚悟ができているんだね。罪を逃れようという気はない。復讐かあるいは…
B/
だから彼女は自分のアパートに警察が突入しても抵抗もしないで連行されるのね。
J/
ところが殺そうとした男は死をまぬがれ、代わりに罪のない人たちが爆弾の被害に遭い死んでしまったことが知らされる。するとそれまで
堂々としていた彼女はショックのあまり失神してしまう。おそらく罪の意識と、目的を果たせなかった悔しさの両方からなのだろうね。
B/
失神した彼女の身体を受け止めたのが、通訳をしていた刑務官のフィリッポ。意識が戻ったとき、彼は無意識のうちに彼女の手をにぎりし
めていたわね。そしてふたりは初めて見つめ合う。フィリッポは彼女を初めて見た瞬間から恋心を抱いていたのね。彼女のほうは、まるで
彼のことには意識がなかったのにね。でもきっかけができた。
J/
フィリッパとフィリッポ…思えば同じ十二使徒の名前を持つふたり…のちに年齢はフィリッポのほうが下とはいえ、誕生日も同じであるこ
とがわかるのだけれども、ここにも運命的なものがあるんだよね。
B/
けれども、刑務官と囚人の恋。これは究極的な禁断の愛よねぇ。ふたりの仲をつなぎ、逃がす役割をするのはフィリッポの弟のアリエル。これは
シェークスピアの「テンペスト」に出てくる妖精の名前と綴りがいっしょだわね。英語ではエアリエル。お芝居では、ミランダとプロスペ
ローの息子を結びつける役目をしていたので、それにひっかけたのね。
J/
「神曲」と言いながら、一方でキリスト教的ではない、もうひとつの西洋文化の原点「妖精」を出してくるあたり、作家の遊び心を感じて、
嬉しくなってしまったね。
B/
そこにロマンチックさがあるわね。
J/
映画の前半はこのようにスリル満点なのに対して後半は、ふたりの静かな逃避行がメインになってくる。そしてここからが実はこの映画の
本題に入ってくるんだね。トリノから汽車を乗り継いで、トスカーナへ。トンネルを抜けて、明るい世界に飛び出ると、世界がパッと開け
る。「雪国」じゃないけれど季節が変わる。感じとしては『オール・アバウト・マイ・マザー』のトンネルを抜けるとバルセロナみたいな
描写の仕方っていうとわかりやすいかな。
B/
ここからそれまでの世界とはっきり違ってくるわね。豊かな自然…監督によれば、このトスカーナを選んだのは、ここが神々が戯れる場所
といわれているからとのことなのね、そんな自然に囲まれた谷を昇り、また下り。
J/
最初はフィリッポの一方的な愛という感じだったのだけれども、彼の自分を犠牲にしてまでもつくす無償の愛、その純粋さにフィリッパの
心も開いてき、トンネルを抜ける頃にはピッタリと寄り添って、愛に包まれはじめる。
B/
一度はひとり死ぬ覚悟ができていたのに、今や彼の愛を受け容れたフィリッパ。けれども、ふたりが変装のためとはいえ、白いティー・シャ
ツを着て、坊主頭になるのは、多分に罪を背負って巡礼の旅をする男女のように見えてくるわね。俗世界を捨て、罪を清め、ふたりで至福に
到る道みたいな。
J/
ところが、この辺りからふと思ったのだけれども、僕はなにか文楽を観ているような感覚に陥ったのだけれど、そんな感じはしなかった?
B/
実は私もそれは思ったのね。これは文楽の「道行」に似ているなって。『冥途の飛脚』「恋は今生さきの世まで、冥途の道をこのように、
手を引こうぞや」
J/
映画になった『大経師昔暦』こと『近松物語』…手代とあるじの奥方との禁断の恋。罪を犯しふたりで逃げる裏街道。逃げ切れず罪に問わ
れて刑場へと連れられるふたり。しかし彼らの幸福な顔、そんなイメージが湧いてきた。
B/
もちろん、『ヘヴン』はキリスト教的なイメージで満ちているわね。ふたりの格好のさることながら、ふたりが初めて樹の下で愛を交わす
美しいシーンは、有名な「神曲天国篇」の挿絵「天使が空から舞い降り、ふたりで天国へと旅立つシーンの絵」のイメージになっているのね。この
ときすでにふたりは最期の晩餐も済ませ、一歩天国へと踏み出していたに違いないのね。丘を下って、また昇りあの樹の下に行くときの
ふたりの晴れやかな表情がそれを物語っているわ。そんなイメージからすると物語りの根底にあるのは、やっぱりキリスト教的「愛、罪、
許し」なんだと思う。
J/
近松の世界にあるのは、「義理、人情、情愛」ということで、実は全然違うようにも思う。けれどもふたりを助けようと訪ねてきた父親の
心境…とんでもないことをしてくれたという気持ちと、ふたりがそんなにも思いあっているならば、できるだけのことをしてやりたいと
いう親の心。同じなんだよね。
B/
それとどちらも禁断の恋であるからこそ、激しくも燃え、先のない生だからこそ純粋にもなりという部分でもまったく同じなのね。キリス
ト教では「贖罪」、近松では「義理が立たぬので、死んで義理を通そう」という違いはあるのだけれど、それはあくまでも社会の違いで
あって、「野越え山くれ里々越えて、往くは恋ゆえ捨つる世や」せめてあちらの世界で添い遂げよう。その気持ちには違いない。
J/
つまり「愛」をつきつめていったら、文化、宗教の違いを超えたところで結果、同じような物語世界ができてきたっていうことかね。
悲劇でありながら、行く先に至福があるという点でもね。
B/
「神曲」の中に「近松」を見るような思い。この不思議な体験。そんなところがとても興味深いわね。「僕がもっとも興味があるのは、
美と感情だ。しかし、もっとも大事なのは愛だと思う。」とは、キェシロフスキの言葉。そんな言葉のとおりの美しい美しい「愛」につい
ての映画だったわね。
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