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第126回「ノー・マンズ・ランド」

蝶の舌 監督…ダニス・タノヴィッチ
脚本…ダニス・タノヴィッチ
撮影…ウォルター・ヴァンデン・エンデ
音楽…ダニス・タノヴィッチ
キャスト…サイモン・カロウ、ブランコ・ジュリッチ
レネ・ビトラヤツ、フィリップ・ショヴァゴヴィッチ


2001年仏・伊・ベルギー(配給ビターズ・エンド)/上映時間1時間38分/シネマスコープ

<CASTジャック&ベティ>
ジャックの評価 /ベティの評価

…金かえせ!! / …いまひとつ
…まあまあ/ …オススメ
…大満足!!観なきゃソンソン


J/ 最近では色々な戦争映画があるけれど、こういう映画は大変珍しいね。

B/ 『ブラック・ホーク・ダウン』とかにしても戦闘シーンのリアルさという点では映画はどんどんすごくなってきているのね。ところが怖さ というのはとっても伝わってくるのだけれども、一面的にしか伝わるものがない。それが私にはとっても不満だったのね。

J/ 『ブラック・ホーク・ダウン』の作戦の失敗、それがいかにむなしいものかはわかるけれども、じゃ彼らはなんで戦っているのか。それと 墜落したヘリコプターに迫ってくる相手側の気持ちはどんなものかっていえば、そんなことわかるわけもない。恐怖は伝わって来るけれど 、本質的な部分が見えてこないんだな。

B/ ああいう形で映画を作るとなると、視点は自ずから一定方向にならざるを得ないし、それが最近の戦争映画の限界と思っていたわね。

J/ ところが、『ノー・マンズ・ランド』ときたら、多分に演劇的な脚本だし、リアルさは、昨今のハリウッド映画とは比べようもない。しか もコメディ・タッチ。なのにボスニアの戦争がなんだったのかが、はっきりと見えてきてしまう。ユーモアの中に真実がある。怖さがある。 今まで観たことがないようなタイプの映画なんだね。

B/ 監督自身が、実際の戦場でキャメラを抱えてドキュメンタリーを作っていた。しかもジャーナリストという立場というだけでなくて、まさ に戦争の当事者として、その場に居合わせた。この体験が熟されてきてこういう形になっているのね。だからフットワークは軽くてもひと つひとつのパンチがものすごく重いのね。

J/ イタリアンネオレアリスモで出発したフェリーニ監督の映画がいつしか漫画のように戯画化されくる。けれどもその中にある真実のきらめ きが、リアルな映像以上にこちら側に迫ってくるといったのと同じ種類のものだと思うな。真実を追究していけばいくほど、それがこうい う形になってくる。「真の寓話作家は、リアリストである」僕はこの映画にもそれを感じたな…あっ僕もたまにはいいこと言うね(笑)

B/ 霧で道に迷って朝がくる。とても美しい夜明け。そこが戦場とは思えないような空気なのに、気づいてみればそこは相対するセルビアと ボスニアの戦線のど真ん中。一斉に射撃を受けて仲間の大半が死に、辛うじて塹壕にひとりのボスニア人が逃れる。その中を誰か無事な 者がいないか歩いてみると、ひとり仲間が見つかる。けれども、倒れたまま動かない。どうも死んでいるよう。

J/ その塹壕にセルビア人が偵察を出す。老兵と新兵。どこか頼りない新兵でね。彼らに気づいたボスニアの男は物置に銃を手に身をひそめる。 緊張感が高まって、ついにセルビア人新兵も彼の存在に気づいた瞬間、ふたりに銃が炸裂する。老兵は死に、新兵はお腹を撃たれて傷を負 い倒れる。ここまでは、かなりリアルな映像になっているよね。

B/ 大体において映像自体はリアルなのよね。ただここからのお話がとても面白い。展開が見えてこないのね。緊張感の中にユーモアがあって それがとても可笑しい。でも可笑しいのだけれどとても怖いという、この話術がとてもホント見事。

J/ 考えてみれば、塹壕の中には彼らふたり。イヤでも離れることさえ叶わない。逃げも隠れもできない空間に閉じ込められることによって そこが彼らの世界のすべてになってしまう。

B/ 取り残されたふたりが戦わす議論。「そっちが戦争を始めたのだろう」「いやそっちだろう」「僕の村はどうだ。誰が村人を殺した」「そっ ちだって村を焼いて勝手に自分の領土にしているだろう」どこまでいっても水掛論にしかならない。それで結局相手を説得するのには、 最終的には武器がものをいう。銃を持っているものが議論に勝つという構図。この個人の闘いはそのまま国と国との闘いの縮図となって いるのね。

J/ この狭い空間に閉じ込められたふたりの駆け引きがとっても面白いね。外に出れば、ふたりともどちらかの陣営の兵に撃たれてしまう。 そういう意味では対等なんだね。だからそこでは武器だけが、立場を強くする。しかも日常会話の先に武器があるというところがスゴイ。

B/ それでふたりは自分たちが救かるために、考えを出し合い、裸になって塹壕を這い出し、白旗を振る。両方が同じ所に立ち、かつ戦意のないこ とを示せば、どちらも撃ってこないだろうし、異常な事態に気づけば、その間だけでも停戦して救けてくれるだろうという目論見。滑稽だ けれども素晴らしいアイデアで。

J/ そうこうしているうちに、死んでいると思われていたボスニア人がなんと息を吹き返す。実はセルビアの新兵と老兵も彼が死んでいると 勘違いし、地雷を彼の身体の下にセットしていたから大変なことになってきた。この地雷は踏んだときに爆発するのではなくて、踏んで 足を離すときに爆発するという類のものだったんだね。だから彼は仰向けになったまま身体を一切動かすことができない。動かした途端に 周りの者まで吹っ飛んでしまうんで、周りの者も慌てるよね。

B/ 便意を催したり、背中が痒くなったりと、大変なことになってくるのね。笑いごとじゃないのだけれど、可笑しくてね。(笑)でもそんな 状況下で彼が見た青い空はとても美しい。それが逆にとっても辛い。この映画では、そんな美しいのどかな映像が時々挿入されるのだけれ ど、それがかえって痛々しいのね。

J/ 話しはここからこの寝たきりのボスニア人ツェラを取り囲むようにして進んでいくのだけれど、これがこの映画の上手いところなんだね。彼は 何も出来ない。しかも死と文字通り背中合わせになっている。そのためか、実は物事の動きをひとり冷静に捉えている。この彼の周りで 人がバタバタと動き回る。そこがこの映画の脚本の命の部分になっている。

B/ ただひとり彼だけが、死と直接向かい合っているから、他の者がやることは、何をやっても馬鹿馬鹿しい空騒ぎになってくるというわけな のね。それが可笑しくて、またとても皮肉に見える。

J/ 地雷のため置きあがれなくなったツェラの世話をするため、ボスニア人のチキが銃を手放したすきに、セルビア人の新兵が奪い取り、立場 が逆転したりするのだけれど、ツェラの必死(文字通り)の提案によりふたりが共に銃を持つことで停戦をする。これってまさに冷戦構造 だったりするのだけれど(笑)そうすると不思議なことに会話が和んでくる。

B/ なんとチキの元恋人がセルビア人の新兵と同窓生であったことがわかって、急に親近感がわいてくるのね。で、映画はこのまま和やかにい くことになるのかと思いきや、ちょっとしたきっかけで、また傷つけあい、憎しみがうまれてくる。辛いわねー。

J/ 憎しみという感情に憑りつかれて、頭の中はその執念だけでいっぱいになる。この映画では、直接的には自分が傷つけられたことに対する 怒りなのだけれど、実はその奥に家族や友人も「彼ら」に奪われたという心の中にある憎しみが結びついている。決して彼に殺されたわけ ではないのだけれども、「彼ら民族全体」と「彼」が同一になってしまっているんだね。

B/ 実はここに民族扮装の根っこがあるのかもしれないわね。もちろんそこにはその感情を利用しようとする為政者がいてね。彼らひとりひと りはごくごく普通の人なだけに、悲しい。またこの映画では仲間のボスニア人はたまたま戦場で出会ったという関係だけ。ところがセルビ ア人のほうは、共通する故郷という繋がりさえ持っているのに、憎しみあわなければならないという皮肉。ここに地域紛争の悲劇があるよ うな気がするのね。

J/ 間に挟まって、死と向き合った状態にいるツェラは、「もういい加減にしてくれ」と心から叫ぶのだけれど、そんな声も届かない。

B/ そんな危機的な状況で、チキが言うところの「森の妖精」たちがやってくる。これは国連軍のことなのだけれど(笑)最初は装甲車一台だ った。ところが、上司の命令で何もせず一旦引き返して、それで今度は大勢引きつれて戻ってきた。

ここから先はこれから映画をご覧になる方は、読まないで出かけられることをお薦めします。


J/ 塹壕の穴の端に止められた装甲車の「UN」の太い黒い文字が、強烈に自己主張しているんだ。そのバックには例によって美しい青い空と、 上に向かって勢いよく昇る白い雲がいっそう装甲車に力を与えている。期待感が高まるよね。救ってもらう身にとっては。

B/ でも皮肉なのね。それがまったく頼りにならない。もっともフランス人の兵士は、上司の命令に逆らってでもと精一杯はやっている。けれ ども、英国人の大佐…サイモン・カーロウがまた例によってオックスブリッジの英語を使って好演…は、とにかく何もしたくない。下手な ことでもして巻き込まれたら、自分の出世や名誉に関わるみたいで。

J/ そこでフランス人の兵士は考えた。そうだマスコミを利用して彼らを動かそうって。ニュースでこの事件が取り上げられて、国連が批判さ れそうになると、案の定、イギリス人大佐は動き出す。地雷処理班、3人を救うにしては、多過ぎる兵士。そして自らヘリコプターに乗っ て、現地に駆けつける。さらにマスコミを連れていっていいところを映してもらおうっていう自己アピールも計算に入れて。

B/ そうね。それが「森の妖精たち」のメンバーなのね。けれども結局彼らは事態を悪くはせよ、何もできないのね。人を救いたいという感情 よりもメンツが先に立っているからダメなのね。

J/ マスコミの人たちも、一枚ひっぺ返してみれば、正義のためというよりは、他社に負けないという競争意識のほうが強い。現地のレポーター にしても自分が特ダネをという意識が強い。だから「地雷の男の映像を撮れ!彼にインタビューできないか」そんな会話が平然と交わされる んだな。結局、フランス人のひとりの兵士以外は、誰も彼らのことを心配していないんだな。

B/ たくさんの車が一列に並んで埃を立てて現場に向かうさま、停戦で静かになった現場が、彼らによってお祭りのような騒ぎになるさまは、 まさに「空騒ぎ」一編の「狂騒曲」。

J/ この映画は客観的で視点が色々なところにあるようだけれど、実は一定の視点があることに気づかされる。それは戦争当事者の視点。戦場で まさに闘っていた者だけが見える視点なんだよ。

B/ 監督は「戦っている間、世界中の人たちが僕たちのことを考えていると思っていた。戦争を終わらせるためのデモ行進が行われていると 思っていた」と言っているのね。ところが、国連軍が来てみれば、「結局各国の権力誇示のために送られてきただけだった」とも。 まさにこの映画は監督自身が感じていたものを、そのまま戯画化して見せたものなのね。結局それがこの映画の視点なのね。

J/ 彼にとっての戦争とは、あの塹壕の中の世界そのものだったというわけだね。

B/ 結局、チキとセルビア人新兵は殺し合い(ひとりは国連軍に撃たれたのだけれど)、マスコミにはその映像が流れる。地雷は、除去する ことができず、彼ひとりが塹壕に取り残されることになる。大佐は、別の死体を地雷の男と見せかけヘリで運び、マスコミには救出できた とおそらく発表する。フランス人は心を残しながらも、大佐に従い救出を諦める。

J/ おそらく、これで国連軍のメンツは保たれたし、マスコミもスクープを物にできたしということで、彼らは大満足とは言えないけれども、 それなりの満足をしてまた一列になって帰っていくね。辺りは静けさに包まれる。日暮れの穏やかな光もやがて少しずつ色を失い、夜が 近づいてくる。そしてキャメラは塹壕にひとり横たわる不幸なボスニア人の男を捉えると、ゆっくりゆっくりと、上昇していく。 この静かな静かなラスト、僕はもうすぐには立ち上がれなくなってしまったね。あんまりすごくて。

B/ そうなのね。あの余韻がなんとも言えないのね。嵐の後の静けさのようで。結局、ボスニアに限らず、民族紛争をあちらこちらに抱えた 世界というのは、あの男と同じように、地雷を背中に敷いて横たわっているようなものなのかもしれないわね。

J/ この映画はボスニアの戦争がわかるというだけでなくて、あのラスト・シーンによってもっと普遍的な、戦争の意味をも問うたような映画 になったような気がするね。

B/ この映画はあのラストによって、静かなでも真の意味での反戦映画になったわね。戦争映画も色々観て来たけれど久しぶりに大変な傑作に 出会えたという気がしたわね。

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