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第124回「アイ・アム・サム」

蝶の舌 監督…ジェシー・ネルソン(『コリーナ、コリーナ』)
脚本…ジェシー・ネルソン、クリスティン・ジョンソン
撮影…エリオット・デイヴィス(『アウト・オブ・サイト』)
音楽…ジョン・パウエル『チキン・ラン』
キャスト…ショーン・ペン、ミシェル・ファイファー
ダコタ・ファニング、ローラ・ダーン、ダイアン・ウィースト


2001年米・ニューライン・シネマ(配給松竹、アスミック・エース)/上映時間2時間12分

<CASTジャック&ベティ>
ジャックの評価 /ベティの評価

…金かえせ!! / …いまひとつ
…まあまあ/ …オススメ
…大満足!!観なきゃソンソン


J/ 『アイ・アム・サム』は、泣きが売りの映画。もうおおいに泣いていだたいてかまわない。けれどもその後に何かが残る、そんな映画に なっているような気がする。特に女性の観客にターゲットを絞っているような気もするな。

B/ 女性監督ならではの視点みたいなのが確かにあるわね。

J/ 男がこういう映画を作ると『白痴』になるんだよね。「純粋な男が、社会に放り出されたらどうなるか」というドラマ。あまりに純粋ゆえ に周りの者たちがかえって翻弄されて、段々とおかしくなってくるというようなね。どこか突き放して登場人物を見るようなところがある。

B/ そういえば、東洋、西洋を問わず、映画の巨匠たちが、一度はこういうテーマに取り組みたくなるんじゃないかという気がするわね。 澤明監督の『白痴』ルキノ・ヴィスコンティ監督の『若者のすべて』など。形こそ変わっているけれどもね。

J/ フェリーニ監督『道』のザンパノも、ウディ・アレン監督『ギター弾きの恋』の主人公も、あまりにも純粋な彼女たちの存在のお陰で、孤 独な自分自身と向き合わされ、人生を狂わせていくというパターンだよね。

B/ 大人になるということは、智恵を身につけていくことよね。でもその過程の中で、純粋さを失い打算や計算をすることも覚えていくと思う の。それはもちろん人に対してということだけではんくて、自分自身にさえ向かうもの。それでいつしか自分の本来の姿にさえベールをか けていくものなのね。だからこそ、大人になっても純粋さを失わない、そんな智恵を身につけることができなかった人と向かい合うとき、 逆に自分に何かを突きつけられてしまうことになるのかもよ。

J/ 『アイ・アム・サム』では、7歳程度の知能しかない、男が主人公の映画。彼はひょんなことから、子供ができてしまうのだけれど、その ことで、彼らの世界から突然社会に放り出されてしまう。そういう点では、先に挙げたドラマの要素を持っているのだけれども、それらと は全く違うね。

B/ あくまでも姿勢がポジティブなのね。それと登場人物たちを突き放して見つめるのではなくて、同じ高さに立ってドラマを紡いでいくとい う点が大きく違うのじゃないかしら。

J/ この視点というのは、この映画を作るきっかけが、監督自身が子供を出産する前後に親友と話したという、知的障害のある父親の話だった ということから来ているのかもしれない。彼女自身が親になり、この思いがけない話がより身近に彼女自身に引き寄せられたからこそなの じゃないかな。一体親と子ってなんなのだろうっていう現実的な興味。

B/ 私なんか観ていると、やっぱりこの映画には母親の視点みたいなのを強く感じるのね。彼らを突き放して、人間観察をするというのではな くて、もっと引き寄せて自らの言葉で語っていく。そんな姿勢が映画から感じ取れるのよ。

J/ なるほどね。前半こそ、「スロー」な彼が世間に放り出されたことによるギャップをコメディ・タッチで追っていく。特に可笑しいのは、 ミシェル・ファイファーの弁護士とサムの出会いのシーン。テンポの速い音楽、慌しく動き回りイライラを募らせている彼女と、ゆっくり と動いているサム。まるで彼女がバカに見える。(笑)

B/ それとサムと娘のルーシーとの至福の時をまるで思い出のアルバムにとどめておこうとするかのように、積み重ねていくのね。ブランコに 乗ったり、本を読んであげたり、最後はいつも画面がストップ・モーションで止まるのね。

J/ ビートルズの音楽を上手に使ってね。「トゥ・オブ・アス」…♪きみとぼく。目の前に延びる長い道よりも、もっともっと長い思い出を持 っているのさ。「アクロス・ザ・ユニバース」…♪なにものも僕の世界を変えることはできない。「ストロベー・フィールズ・フォーエバー」 …♪どうやら僕の樹には誰もいないようだ。それだ高かろうと低かろうと、つまり誰も僕を理解することはできないのさ。なんて感じでね。

B/ どちらかというと、ここまでは被害者的な立場で物事が進んでいっているような気がするのね。娘を施設の人が引き取りに来て、裁判にか けてはみるものの、弁護士によって徹底的に痛めつけられちゃう。

J/ 一旦、裁判が終わってからの後半は、それがガラッと変わってくるね。前半と後半を繋いでいるのは、今まさに引き離されようとしている 親子、智恵遅れのサムと娘のルーシーが、この次はいつ会えるのかと、抱き合い別れる姿を逆光ぎみに捕らえたシーンかな。

B/ もう泣きなさいって感じ。私は泣かなかったわよ。だって後ろで大きな声を出して泣いている人がいて、それでスーと冷めちゃったんです もの。

J/ ここまで、ずっと純粋無垢な男と娘の愛情の深さを見せてきてのこの別れのシーンは、もうたくさんの女性の心をつかんで離さないことだ ろうな。だけれど、このまま終わっちゃったんじゃもう典型的なな「お涙頂戴映画」になってしまう。

B/ 実はこうして、女性の母性本能に訴えておいて、ずっと物語りを観客自身に近づけさせておいた上で、後半本題に入っていくのよね。そし てこの観客の視点こそが、監督自身がこの物語に感じている身近さとも重なってくるような気もするのね。そうするためにここで母親の視 点を観客にも持たせる必要があったということなのね。

J/ 実はその辺はしたたかなところなんだね。(笑)さっきも言ったこと、「親の視点」に立った映画というのはこのことなんだよね。特に母親と いったら良いかもしれないけれど。

B/ 後半でもっとも象徴的なシーンが、ミシェル・ファイファーが、サムの家を訪ねていくシーンなのね。いくらドアを叩いても彼は出てこな い。それで彼女は怒って一瞬諦めかけるのだけれど、思いなおしてドアを蹴破る。するとサムが、自分で部屋の中に壁を築いている。その 壁を彼女が崩す。

J/ 心の壁を彼女が打ち破って引っ張りだそうとするわけなのだけれども、ここでいいのは、彼女自身もドアを蹴破ることによって自分自身の 壁を突き崩しているところなんだね。これでふたりが障害者と健常者という壁を超えて実は初めて対等になったのだと思うんだ。だから こそ彼女は自分自身が抱えていたジレンマを彼に対して、ぶちまけることができた。それでまた彼のほうもそれを受け止めることによって 初めて自分の殻を破ることができたというわけだ。

B/ 彼女自身がどうして、仕事に対してあんなにむきになっていたか。人から嫌われてまでも、仕事の点数を稼ぐことにばかり集中していたか。 実はコンプレックスからきていたのだということがわかるのね。それで彼もここから変わっていく。そこには被害者はもういないのね。

J/ 健常者も、知的障害者も関係ない。本質はいっしょ。それぞれが互いに対等になり、相手のふところに飛び込んでいくことによって、初め て物事が解決していくんだな。その辺が実は「白痴」的ドラマとは違うところかもね。これらの映画では、片方が一方に取り込まれてしま うから、物語が悲惨な方向に向かってしまうのかもしれないな。

B/ とってもとてもポジティブなのね。

J/ その後の彼は純粋なだけではなくて、人を思いやるという風に変わってくる。娘が道を通るのを樹の上からそっと見つめていたりする。 ただ会いたい。けれども娘につらい思いをさせたくない。この時にかかる曲は「ブラック・バード」…♪今までの人生お前は自由になる瞬 間だけを待ちわびてきた。ツグミよ飛びたて。前半までの♪どうやら僕の樹には誰もいないようだ…とはずいぶん違う。

B/ 「時間がないから、ただ純粋に子供に会いたい。姿を見ていたい。」決して里親から子供を奪おうなんて考えない。なぜなら、子供の描い た絵に赤い色、母親の色が増えてきていたから。子供には母親も必要だということをそれで自覚しているのね。彼自身子供といっしょだ から、絵を見ただけでそれがわかる。

J/ まだ、彼といっしょだった頃の子供の絵には、大きな自分とその手にひかれて歩いている小さなお父さんの姿が描かれていたよね。彼が子 供のままだから、彼女のほうが、しだいに大人びてきている。

B/ 里親のローラ・ダーンは、子供が欲しいのにできない夫婦。やっと見つけた子供を育てるチャンスを逃すまいと一所懸命。最初は度々姿を 見せるサムに、辟易とするの。彼女はとっても優しい人なのだけれど、彼の存在はやっぱり不安なのね。ところがそんな子供と純粋な父親 を見ているうちに、そんな彼らを受け容れてくるのね。

J/ 3組の親たち。仕事に明け暮れ、いつも時間に追われ、子供からも嫌われていると感じている親。自分の子供を持つことができずに、養子 をもらってでも親になりたいと願う親。そして愛情は人並み以上なのに、世間に子供を育てる能力がないというレッテルを貼られてしまう 親。みな何かが足りない親たちなんだ。けれどもそれが何かはわかっていても認めたくない親たち。こんな三者がお互いに向き合い、そし てひとつの結論を見つけていく過程。これこそがこの映画のテーマなんだね。

B/ お互い向き合うことで、自分をみつめなおし、本当に大切なのものは何かということに気づいていく。

J/ 物事の複雑さを取っ払って、本質の部分を見つけていく過程。もちろん知的障害者のサムが触媒となっている。そしてこの映画でいいのは、 そのサム自身も、いっしょに成長しているということ。だからこの映画のラストはってもさわやかな感じがする。

B/ 画面が俯瞰になって、サムと子供たちを捉えると、最後に流れる曲は「マザー・ネイチャーズ・サン」母なる大地の息子。もっと「自然」 に素直になって、耳を傾けてみようよって。自然体で生きることって難しいけれど、それが問題の解決になるかもって。この映画は母親に なったばかりの監督が、これから母親になる人や、もうなった人たちに対して、「家族」の意味を伝えたいって、そんな映画なのじゃない かなと思うのね。

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