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第118回「家路」

家路 製作…パウロ・ブランコ(『アブラハム渓谷』)
監督…マノエル・ド・オリヴェイラ
脚本…マノエル・ド・オリヴェイラ
撮影…サビーヌ・ランスラン(『友達の恋人』)
キャスト… ミシェル・ピコリ、ジョン・マルコヴィッチ
カトリーヌ・ドヌーブ、アントワーヌ・シャペー


2001年ポーランド=フランス(アルシネテラン配給)/上映時間1時間45分/ヴィスタサイズ

<CASTジャック&ベティ>
ジャックの評価 /ベティの評価

…金かえせ!! / …いまひとつ
…まあまあ/ …オススメ
…大満足!!観なきゃソンソン


J/ 『家路』は最近、好調なフランス映画の中でも最高の1本だったなぁ。

B/ 実に豊かな、映画的な魅力に溢れた映画だと思うわ。監督のマノエル・ド・オリヴェイラはなんと92歳。92歳という年齢に達した人が 到達した人生観みたいなものが、ひとりの老俳優の日常を通して描かれているのね。

J/ 達観したみたいなゆとりを感じさせてくれるんだね。舞台公演の真っ最中に、息子夫婦と自分の妻が自動車事故で亡くなったなんていった ら、重い展開になるんだろうなぁって思いがちなんだけれど、全然そんなことはなくって、あくまでも淡々と、物語が進んでいくね。

B/ お葬式とかの場面は無いし、涙に暮れる場面なんてのは一切ないのね。物語は、その不幸な知らせが届いたあと一足飛びに数ヶ月後に飛んで しまうのね。

J/ 朝ひとり、ベッドから起きあがるところに飛ぶんだね。この場面は何度か繰り返されるんだけれど、繰り返されるうちに、この人の日常と いうものが見えてくる。事故でひとり残された孫が部屋に挨拶にくる。、ひとことふたことしゃべって、彼を学校へ送り出す。カーテンを 開けて孫がお手伝いさんから「忘れ物」のおやつを渡されて、通りに出て行くところを2階の窓から眺めて、それから多分家族の写真をし ばらく見つめる。こうした毎日というのが見えてくる。

B/ 孫は孫でとっても寂しい思いをしているんだなぁというのが、「おやつ」をいつも忘れるというところでわかるし、寝てても起きてても、 おじいさんに挨拶してから学校に行くというところで、おじいさんを頼りにしているんだなぁということが想像できるのね。

J/ おじいさんは、家族の写真にいつも何か語りかけているんだろうなぁと思うよ。この朝が一番孤独が身にしみる時でもあるんだろうね。 彼も孫がいるということが、救いになっているんだな。そういうのが、たったワン・シーンで一辺にわかる。

B/ 老俳優はその後、いつもショッピングをして、お決まりの喫茶店に腰を下ろし、新聞を眺めて仕事に向かう。お店のウインドウには、若い 男女が踊っている一枚の絵、失われた若さを追慕しているのか…その間にファンからサインを求められたりといったシーンが、ゆったり と続いていく。

J/ このショッピングのシーンも実に魅力的だよ。それと面白いのは音の使い方。ウインドウの中の音、表の雑踏の音というのが、はっきりと 使い分けられている。実を言うと、サインを求められるシーンにしても、会話は色々とあるのだけれど、店の内側からその様子が映されて いるから、会話はまったく聴こえてこない。まるでサイレント映画を観ているような味がある。でも映像だけで充分わかってしまうのだけ れどね。

B/ この街の雑踏というのは、エージェントと打ち合わせをしている時には外の音としてかすかに入ってきているし、彼がお店で買い物をして いる時には、通りからお店の中をウインドウ越しに見つめているというキャメラ・ワークになっているんで、外の音として騒々しいくらい の音で画面に入ってきている。

J/ 入ってこないのは、舞台にいるときくらいなんだね。現実の人生っていうのと、虚構の人生っていうのがそれで分けられているんだよ。

B/ 彼が靴を買うシーンが本当にいいわね。まだはきなれない真新しい靴を、一歩一歩確かめるかのような足取りで彼がお店を出てくるところ。 ミシェル・ピコリが本当にうまい。

J/ 若い男女のダンスの絵、そしてサインを求められ、靴を買うとくるところから、それが単なる新しい靴というだけでなくて、彼の前向きな 決意みたいな感じがするんだな。

B/ その後その新しい靴をはいてエージェントとカフェでお話をするところ、ここが唯一彼が自分の心境を語るところでもあるんだけれど、永 遠と長回しで靴だけが映るのね。ミシェル・ピコリはなんと靴だけで演技をしているのね。孫の話をしている時、「孤独といっしょに住ん でいる」という時、自分がもう歳だっていう時、まだまだ仕事に意欲があるという時、靴に感情が表れている。

J/ すごい大胆な演出だよね。それに応える俳優も立派なら、そんな画面の切り取り方をする監督も立派。

B/ ふたりが別れた後、突然パリの路地裏で若者が、注射器を片手に老俳優をおどかす。「サイフを出せ!」彼はサイフは持っていないと言う。 すると「コートを置いてけ!靴も置いてけ!」何も抵抗ができぬまま、買ったばかりのお気に入りの靴を脱ぎ、裸足で帰っていく、老人。 相手が、ナイフや、銃でも持っていたら話は別だけれど、小さな注射器で脅かされたに過ぎないのに何も抵抗できなかったというところが ミソ。老いが身に迫る瞬間でもあるのね。

J/ ずっーと、靴を映してきた理由がここでわかったような気がしたな。ここで何か前向きになりかけていたのを挫かれたような心持がするん だよね。映画を観ていて、なんか大きな不安がよぎったよ。多分に感覚的なものなのだろうけれど。

B/ 次の日、エージェントと打ち合わせをしている彼の足元は、また元の古い靴。彼の夕べの元気さはどこへやら、なんか靴をもじもじとさせ ているのをキャメラはしっかりと映し出している。そして決して悪くない新しい仕事も断ってしまってね。

J/ 「パリも変わったねぇ」の一言に、「パリのような大都市では世界中どこでも、表の顔とそういう裏の顔があるのは仕方ないことだよ」っ て涼しい顔で、さも愉快なことでもあったかのような軽い調子でしゃべるのだけれど、キャメラはやっぱり足元で、複雑な気持ちを見せて いたね。新しい仕事の話というのが、自分のポリシーっていうことだけでなくて、その時の自分の気持ちとあまりに重なり合う部分があっ て、断ったのかもしれないけれど…老いに抵抗しているけれど、前にも行けない、そんな彼の顔がそこにあるような気がする。

B/ 「パリのような大都市では」っていうセリフにもある通り、この映画の中でもうひとつ重要な役割を果たしているのは、このパリの町並み なのね。色々なものが混在している。旧いパリと、新しいパリ。彼が老いる中で、変わっていく街というのが、常に観客に意識させられて いる。音楽も旧きパリを思い起こさせるお馴染みのシャンソン、「巴里の空の下」「ミラボー橋」が今のパリに敢えて使われてるわよね。 だからそういうことが意識させられちゃうのよ。

J/ 孫のお土産を買って遅れていつものカフェに出かけていく。カフェの前では、今ではあまり見なくなったオルゴール演奏をやっている男が いる。曲はあの「巴里の空の下」…これもそんなことを意識させるシーンだったな。

B/ 遅れて入ったから、いつも彼の立った後に座るビジネスマンが、別の席に行かされてオロオロしているのがたまらなく可笑しい。『アメリ』 いうところの人のクセ。心理学的にも、人はいつも同じことを繰り返すことで心が安定するっていうのがあるみたいだけれど、まさにその 可笑しさ。

J/ まだ、バリバリと仕事をして生きている人間の姿がそこにある。そんな日常の風景に、ちよっとしたことで、波風が立ってしまうという、 危さみたいなのがそこにはあるんだけれどもね。

B/ これに続くのは、孫にお土産を買って、いっしょに遊ぶという、この映画の中で一番微笑ましいところなのだけれど、次にくる不安の影と いったものが、このワン・シーンでちゃんと出ているのね。といっても、これは後から思ったことで、観ているときはただただ可笑しかっ ただけなのだけれど。

J/ 2000年の文字がくっきりと夜空に浮かぶエッフェル塔。昔から変わることのないコンコルド広場の夜景。かと思うと、その噴水の後ろ に突然現れるチュイルリー公園の、2000年記念の大きな観覧車。すごく綺麗だったな。

B/ それと、エッフェル塔の傍のメリー・ゴーランドが夜の闇の中できらびやかに輝く。人々がこの街で生きているという実感がある。それと 同時に、2000年の文字がくっきりと夜空に浮かぶエッフェル塔やこれらのカーニバル的な雰囲気は、はかない夢のような感じを与える ことも確かなのね。

J/ はっきりとそういう意図があるんだと思うよ。あの魅惑的な夜景は、パリの点景っていう感じで主人公とは関係なく出てくるんだもの。

B/ その後の舞台にで上演されているのが、『テンペスト』のもっとも有名なシーン。「しっかりとした土台を持たないこの幻のように、雲を 戴いた塔も、豪華な宮殿も、荘厳な寺院も、数々の喜びをもたらすこの地球自体も、いつかは消え去るものだ。…私たち人間は、夢の糸か らつくられた織物なのだ。はかない夢は、眠りによって終わりを告げる…」パリの夜景とこのシーンが対になっているのね。

J/ さっき、現実の人生っていうのと、虚構の人生っていうことを言ったけれど、この映画の面白いところは、その二重構造なんだね。老俳優 の生きる、現実世界と舞台で演じられる役というのが対になっている。だからこの映画では劇中劇の部分が大変重要で、従ってそれに取ら れた時間も、一見アンバランスな位に長いんだな。

B/ 冒頭のお芝居『瀕死の王』では、「人生は短過ぎる。暇がなかった。気づいたら何もしてこなかった」っていう人生への醜いまでもの執着 が。『テンペスト』では、「人生ははかない夢」と、自分の弱さに気づいた老人の姿が描かれる。それを演じる老俳優自身にも、そんな 大きな葛藤があるというのが、間接的にわかるのね。

J/ 彼が、結局最後に選ぶ仕事っていうのが、新進のアメリカの映画監督の『ユリ・シーズ』でしかも代役っていうのが、象徴的。あれだけ 誇り高くで自分のポリシーを曲げなかった老俳優が、こんな急な話をあっさり受けてしまう。自分の実年齢より若い役、自分自身と重なる 部分がない役ということと、世界的に評価の高い監督作品ということがあったのか…

B/ ところが、自分を若く見せるメー・キャップをするシーン。カツラをつけて化粧をしてっていうところは、逆に彼の誇りの部分が失われて いくように見えたら不思議よね。

J/ 彼がとっても不安な顔をしているんだね。揺ぎ無い自信が崩れていくようなところがある。

B/ まるで、心と身体がアンバランスになったかのようね。孫が、いつものように二階のおじいちゃんの部屋に入ってみると、彼はそこにいな い。だだ、もうカーテンは開け放されている。それで階下に下りていくと、ソファの上で脚本を広げたまま眠っているおじいちゃんの姿が ある。今まで面々と続いてきた孫とおじいちゃんの日常に小さな波風が立っているかのよう。

J/ 結局、彼は舞台という虚構の世界と現実の世界を行き来しているうちに、区別がなくなってしまったのだろうね。小さな綻びが、映画の撮 影過程の中で、突然大きなものになって、彼は混乱してしまう。若くメーキャップした自分と年老いた現実自分が、いっしょくたになって 、彼は「家に帰ろう」って撮影を放り出してしまう。

B/ 一時的な混乱なのか、永遠の混乱なのか、映画の中では何も語られないのね。ただ階段を力なく上がっていく彼の姿を見つめる孫のアップ の顔でこの映画は終わってしまう。

J/ 老俳優のその後は重要ではないんだね。役者として彼は終わったのだなという気はするけれど。孫の彼を見つめる不安気な表情。そこにもう ひとつの人生の始まりがある。頼る者がなくなったという不安、そこから彼の人生が始まる。階段を上っていくおじいさんと孫。ここに人生 の終わりと始まりがあるんだね。舞台を去る者と、これから舞台に上がる者、それがそこに同時に存在している。

B/ そして、また同じことが繰り返されていく…この映画って老人と孫しか家族は出てこないのだけれど、その中にひとりの人生のたどる道みた いなものが、集約されちゃったみたいなところがあるのね。

J/ 老俳優が、映画『ユリ・シーズ』の中のセリフ「多いに楽しもうじゃないか。ウィスキーにビールにワイン…戴冠式の日だ」っていうのを うわごとのように繰り返して街をさ迷い家路に着く。それが最後の舞台『テンペスト』のプロスペローの最初のセリフとつながってくる。 「今日は祭りだ…」

B/ そしてその場面の最後にくるセリフはさっきも言った「はかない夢は、眠りによって終わりを告げる…」になるのね。人の歴史はまさに この繰り返し。劇中劇と、孫とおじいさんの関係っていうのが、またここでも二重の構造になっているのね。そう孫は人生の出発点にたち、 おじいさんは、ただ単に「人生の家路」に帰っていくだけなのだと。

J/ 淡々と日常を描いているようでいて、この映画は実は裏にそんな人生観みたいなのが隠されているんだね。

B/ そう考えると、実に豊かな内容を持った映画といえるかもしれないわね。92歳にして、この達観。その歳だからこそ、こんなにも豊かで 自信に満ちた映画が作れるのかもしれないわね。いやいや、なんか観ているこちらまで気持ちが豊かになったような心地のする映画だった わ。本当に見事な映画です。

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