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カエル 『パフュームある人殺しの物語』



パフューム香水の物語。パリと香水、このイメージで映画館に足を運ばれた観客は冒頭で、早くも度肝を抜かれるに違いない。

18世紀のパリのセーヌ河沿岸に並ぶ魚市場、狭い路地は人、人、人が溢れ、粗末な個小屋がけの店には、切り捨てられたの魚の臓器と血 が打ち捨てられ、悪臭を放っている。
クロード・ル・プティの詩「滑稽なパリ」で「俺の靴、俺の靴下、俺の上着、俺の帽子、何から何まで同じ色に染め上げる。こんな姿を眺 めると俺だか糞だか分かりゃしない。」と道を歩くことの苦悩が詠われたパリである。香水の歴史、それはファッションというよりも、悪 臭との闘いの中で生まれてきたことを思い起こさせられる。

そんな中、店先のひとりの女が突然産気づく。店の奥に隠れ、自分ひとりで出産してしまう女。赤ん坊をそのままに、何事もなかったかの ように再び店に戻る。息をしない赤ん坊。女は今までに何回もこうして子供を産み落とし、そのまま死なせた経験があった。しかし、今回 は少し様子が違っていた。切り落とされる魚の臓器、その血のしたたりで赤ん坊は息を吹き返し、産声を上げた。天才調合師グルヌイユ誕生 の瞬間である。

彼の産声は、周囲のものにその事実を気づかせ、それが母親を絞首台の上に送ることとなる。乳児殺害未遂の罪で。この誕生の瞬間から、 彼の運命は決まっていたかのよう思える。魚の臓器が産湯になってしまったことで、彼の魂は最初から悪魔に委ねられてしまったかのよう だ。人からは誰からも愛されず、また彼自身も愛するということを知らないで育つ。彼には体臭がなく、それは彼自身の存在が人から見れ ば無であることを意味していた。その後の彼が誰にも気づかれないままに、殺人を繰り返せるのはそのためだ。
また、母親をはじめ、彼と関わった人間は、次々と命を落としていく。まるで彼の面影が人々に残っては困るかのように。彼の生の証がこ の地上に残っては困るかのように。これらは、ある種悪魔の呪いのようでもある。

彼は人間らしさと引き換えに類稀なる臭覚を能力として得た。何キロも先の匂いを嗅ぎわけることさえできる能力はどこか悪魔的でさえあ る。

人を愛せない彼は、ただ匂いだけを愛した。プラムを売り歩く赤毛の少女、彼女の香りに包まれて幸福を知ったグルヌイユ。しかし、脅え た少女の悲鳴を塞ごうとした彼は彼女を殺してしまう。命が消え行くと同時に幸福な香りは次第に色褪せていく。彼には罪の意識はない。 それよりも香りが失われたことのショックが大きかった。
そして彼が目指すのは、彼女の香り、さらには誰もが幸福に包まれる究極の香水を作ることとなっていった。

映画では香水を作る過程が、じっくり描かれる。花畑から大量に仕入れた花を大きな水槽の中に入れ、水蒸気により蒸留する。とりわけ、 ダスティン・ホフマンが使っていた道具はどこか錬金術の道具を思わせるものだ。

それもそのはず、そもそもこの仕掛自体、アラビア人たちが、錬金術の装置の一つとして制作した蒸留装置でもってバラを蒸留したことに 始まるのだという。
そもそも錬金術は、中世ヨーロッパでは神秘主義や魔術を含む異教の知識と深く結びついていた。無生物から人間を作ろうとする技術を研 究をした者までいたという。そういう意味でとても非キリスト教的なものだったのだ。その装置に心惹かれ、金属や動物の死体までをも使 って、その匂いを取り出そうとしたところ、グルヌイユにはやっぱりどこか悪魔の匂いがする。

では、彼が求めて止まなかった究極の香りとはいったい何だったのだろう。彼にとってその香りは、ついぞ知ることができなかった「愛」 を感じさせるものだったのではないだろうか。人と肌を合わせることができない彼にとっては、人の温もりを感じさせるものだったのでは ないだろうか。あるいは、自身匂いがないということは、すなわち自分自身さえ愛することができなかったということなのだが、その香り に包まれることによって、自分自身を肯定したかったのではなかろうか。しかし、これは匂いを永遠に閉じ込めるのと引き換えに魂を奪う ことによって出来た香水である。文字通り悪魔の香水。香りはそこにとどまり続けるが、生の輝きが失われてしまったもの、生の記憶はあ るが、「愛」も「幸福」も失われてしまったものに過ぎない。そこに何の意味もない。しかし、彼はまだそこには気づいていない。

こんな香水に群衆は、すっかり魅せられてしまう。幸福感が人々の心を満たす。司教でさえ、悪魔の仕業とは見抜けずに、それどころか天 使が降臨したと思い込んでしまう。人々は狂ったようにその場で服を脱ぎ捨て、隣の人と愛し合ってしまう。しかし、これは愛なのだろう か。どちらかといえば、地獄絵図に近い光景である。
やはり、偽モノからは本物は生まれては来ない。それがいかに素晴らしい香りであろうとも、そこにあるのは「生の輝き」ではない。 心の部分が決定的に欠けてしまっている。人間から心が抜け落ちてしまったら、そこに残るのは本能だけである。結果、一時的な悦楽、熱 狂だけがその場を支配してまうことになるのだ。

その香りが人々に広がっていき、自分自身も幸福に包まれたかのように見えたグルヌイユだったが、偶然に女がプラムを剥いた瞬間に幸福 も破られてしまう。あのプラムを売り歩く赤毛の少女の記憶が蘇ったのだった。香りは再現できても、あのプラムを剥いた瞬間に感じた衝 撃、それを再現することができなかったことに初めて彼は気づく。それは「生の輝き」である。あの場、あの瞬間、彼女が生き、そしてプ ラムの皮を剥いた。そのすべての偶然から生まれたものである。彼はこのとき初めて悟る。「愛」とは何なのであるかを。一筋の涙が彼の 頬を伝って流れ落ちる。出来たはずの「人々の支配」への道、それが何になるであろうか。これからも人を愛せず、また愛されることもな い彼は、自分が還るべき場所、あの混乱と悪臭が渦巻く、魚市場の石畳へと帰っていくしかなかったのだ。

脚色は『薔薇の名前』のアンドリュー・バーキン、プロデューサーはドイツ人で『薔薇の名前』の製作者として知られるベルント・アイヒ ンガーだ。この映画にキリスト教的なものと悪魔的なものが混在しているのも、彼らの趣味が反映されているからかもしれない。

原作はドイ人のパトリック・ジュースキント、監督は同じくドイツ人のトム・ティクヴァ。この映画はフランスを舞台にしているというの にやはりドイツの香りがそこここに漂っている。例えば、パリから離れたあの郊外の町がもういかにもドイツ的なのだ。この町には職人た ちが固まって住んでいて、雇い主である大市民と小市民という二種類の人間が住んでいる。ギルドのようなもの、それと神父がが町の中心 をなしている。これがいかにもドイツ中世の町を思わせてしまう。「ハーメルンの笛吹き男」でも出てきそうな雰囲気だ。
また物語もどこかゲーテの『ファウスト』を思わせるようなところがある。ファウスト博士の物語もまた、彼が錬金術や占星術を使う黒魔 術師であり、悪魔と契約して最後には魂を奪われたという伝説が元になっているからだ。

また、「天使が降臨した」と香りに熱狂した群衆の姿を見ると、この映画にはやはり過去のドイツの記憶が染み込んでいるようにも思えて くる。かつて独裁者を産んだ大衆の記憶が。それゆえにこの映画は余計に怖い。しかし、これはただ単に過去の出来事なのだろうか。これ はただの寓話に過ぎないのだろうか。宗教、政治、マスメディア、現代人もときにこれらに熱狂する瞬間はないのだろうか。このように悪 魔に魅入られた人間がどこかで生まれ、人々を支配しようとしてはいないのだろうか。その時、我々は、果たしてその魅力に抗うことがで きるのだろうか。映画は最後にそんなことも問いかけているようにも思えてくる。

<作品データ>
スタッフ
監督/トム・ティクヴァ
製作/ベルント・アイヒンガー
脚本/アンドリュー・バーキン
撮影/フランク・グリーベ
編集/アレクサンダー・ベルナー
音楽/トム・ティクヴァ他
キャスト
ベン・ウィショー
ダスティン・ホフマン
アラン・リックマン
レイチェル・ハード=ウッド

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