シネマ道楽の目次へ   ホームヘもどる
カエル 『ピエロの赤い鼻』〜追悼ジャック・ヴィユレ


<喜劇役者>
私の大好きな俳優で『ピエロの赤い鼻』に主演したジャック・ヴィユレがも2005年1月28日金曜日、脳出血のためフランス、エヴルー(ウール県)の病院で亡く なった。まだ53歳の若さ、惜しい。
ジャック・ビユレは1978年に『2人のロベール/花嫁募集中(Robert et Robert)』でセザール賞助演男優賞を、 98年には「奇人たちの晩餐会」で同主演男優賞を受賞したフランス映画にはなくてはならない貴重な喜劇役者であった。

ジャック・ヴィユレは1951年2月6日にトゥール(アンドル・エ・ロワール県)で生まれた。母は美容師、父は高校の事務員。
「学校の先生のマネをして同級生を笑わせるのが楽しかったから」……もう6歳か7歳の頃から喜劇役者になろうと思っていたという。 そして彼は、まさに喜劇役者にとっては美徳とも言える「チビ・デブ・ハゲ」という個性も獲得していった。

アメリカ映画で「チビ・デブ・ハゲ」の俳優といえば、ダニー・デヴィート、バート・ヤング(『ロッキー』)、ウォーレス・ショーン (『スコルピオンの恋まじない』)の姿が思い浮かんでくるのだが、彼らには少なからず毒があるのに対して、ジャック・ヴィユレには それがない。いつもとんでもないことをしでかして、人を呆れさせあるいは嘆かせるのだが、この人の良さげな笑顔を見せられると、 もうしようがないなぁーと諦めの気持ちにさせられてしまうのだ。


<俺たちは最後の自由人>
ジャン・ベッケル監督の『クリクリのいた夏』
30年代初頭フランスのとある沼地のほとりでのんびりと生活するジャック・ヴィユレ扮するリトンは、親友で彼の面倒 を何かと見てくれる流れ者の復員兵ガリス(ジャック・ガンブラン)と、森に入り鈴蘭の花を採取している。ブーケにして街で売り、ささやか な生活の糧にしようというのだ。いや、正確に言えば、鈴蘭の花を採取しているのはもっぱらガリスのほうであって、リトンときたら足が 痛いと言って小川のせせらぎに足を浸し、ふたりで仕事が終わったあとに飲もうと持ってきたワインをもう底が見えるまでに飲み干してし まっている。さらに鈴蘭を積み終わったガリスが、澄んだ水で汗や埃を流すべく顔を洗えば、その上流ではワインをひとりで飲みすぎ たのか、リトンが立小便をする。

彼はすべてがこんな調子なのである。怠け者で、我慢が足りず、おまけに気も利かないときている。 こんな厄介者は大抵は即刻お払い箱となるはずなのだが、ガリスは怒りの気持ちをいつでも抑え、そんな彼を見捨てられずにいる。 それも彼のなんの悪気もないあの笑顔があるからなのだと、信じさせる力がある。

この沼地を舞台にしたおかしくも素晴らしい日々。仲間たちとの友情の日々の物語。いっしょにかたつむりを捕まえ売りに出し、あるいは 歌を唄い小銭を稼ぎ、沼地のほとり陽光が降り注ぐ中をワインで乾杯し語り合った日々。沼地にはジャズのレコードが流れていた。
「俺たちは最後の自由人」こう言って、社会の束縛から離れ、気ままに生きる彼らの生き方は一見とても幸せそうだ。 しかし、彼らの友人アメデ(アンドレ・デュソリエ)は、家が資産家で働いたことがなく、一見何不自由ないといった感じだが、 神経を病んだ妹がいて家族はバラバラになっている 。没落していく一族の悲哀を彼ひとりが背負っているのだ。
ペペ(ミシェル・セロー)は、元々は沼地でカエルを取る生活をしていたが、一代で財を築き立派な邸宅に住むようになった人。 しかしあの沼地の暮らしが忘れられない。それは、実は自分の家族と折り合わず、自分の住む世界にも 窮屈さを覚え孤独だからということでもある。

そういえば、リトンの親友ガリスにしても戦争にいった時の心の傷が癒えずこの沼地にやってきたという事情を持ち、リトンは、ひとりで はどうにも生きていけないいわば社会不適合者ゆえにこの沼地に住みついているのだ。現実の居場所からはみ出してしまった人たちの憩い の場、ここなら自分の居場所があると思えるところ、思えばそれがこの沼地なのであった。

ジャック・ヴィユレ扮するリトンの悪気のないあの笑顔には、そんな孤独な陰が潜んでいる。 世間から弾かれてしまった者の、卑屈、哀しみが潜んでいる。それがこの物語を豊かにしている。 あの沼地がなくなってしまった今彼らのような 「自由人」たちは一体どこへ行ってしまったのであろうか…


<バカにつける薬>
フランシス・ヴェベール監督の『奇人たちの晩餐会』
ジャック・ヴィユレは悪気のないあの笑顔を見ればおわかりのように、人を陥れようとか、 人に攻撃的になる役柄というのはあまりないようだ。むしろ逆にいじめられ役のほうが多かったのではないだろうか。 この映画もそのひとつに入る。

出版社を経営しているピエール(ティエリー・レルミット)と彼の友人達は、金持ちの暇つぶしというのか、 週一回「奇人たちを集めた晩餐会」を開いている。参加者は必ず一人奇人(バカ)を連れてこなくてはならないというのが、 このパーティーのルールだ。要は彼らに自分の可笑しな自慢話をさせ、みんなで笑い者にしようという意地の悪い会なのである。

友人たちから続々と情報が集まってくる。
「すごい男を発見したぞ、彼はいい歳して公園でブーメランを飛ばすことだけを生きがいにして いるんだ」「いや彼こそホンモノのバカだ。特急列車でいっしょの間ずっとマッチ棒で作るエッフェル塔の話をしていたぞ!」
このマッチ棒模型マニア・フランソワ・ピニョンが、ジャック・ヴィユレなのであった。 普段はしがない税務署の職員。出世からは見放され、冴えない日々を送っている。 そんな彼がお金持ちのパーティーに呼ばれた。しかも自分の生きがいである模型作りに大変興味を持ってくれているよ うだ・・・となれば、心は浮きたちすぐにこのパーティーの招待を受けるのは無理もない。自分が笑い者にされるとも知らずに・・・。

しかしピエールのほうは、こんな悪趣味なことはないと呆れかえった奥さんには出て行かれ、おまけに突然のギックリ腰になってしまう。 そこでパーティーは中止になるはずだったのだが、そこにひとり中止の連絡がつかなかったピニョンがやって来てしまう。自分を理解して くれる友達ができたという思い込みのため、彼は一所懸命何かをしようとするのだが、やればやるほど物事をこんがらかせてしまう。医者 を呼ぶのもままならない。なぜなら、どれだけ念をおしても言ったことをすぐに忘れて、やらなくてもいいことをしてしまうし、機転を効 かしたつもりが、おしゃべりのし過ぎで余計なことを言ってしまうからだ。
ピエールは最初はそんな彼の様子を面白がり、バカにして笑っ ているのだが、「バカ」と見下していた結果の天罰であろうか、逆にとんでもない災難にみまわれることになる。

例えばピニョンの力を借り、喧嘩して出て行った妻を捜すことになるのだが、 もう別れようと思っている愛人のほうに間違って電話をしてしまう。 あるいはせっかく戻ってきた妻を愛人のほうと勘違いして追い返してしまう。
バカにすればするほど、自分のほうがバカをみて、窮地においこまれていくという逆転現像がおきてしまうのだ。 いい加減にいやになって、ピエールはピニョンを追い返そうとするのだが、彼ときたら場の空気を読めずに、 一人ではしゃぎまわっていたりするありさまだ。

無神経で、求めてもいないのにマッチ棒模型の作り方をハイ・テンションでしゃべりまくり、相手がウンザリして白けている事にも 全く気付かない。人との距離感覚がつかめない。思い込みが激しく、何をやってもちぐはぐ。これは日本でいえば、まさにオタクの定義に 当てはまる。しかし彼も一所懸命なのだ。汗を流しながら、人に馬鹿にされているのにも気づかず、ピエールのために何かをしようとする。 そんな一途さも持ち合わせているこの男。一所懸命やっているのに、人から見たらコメディになってしまうこの男。ジャック・ヴィユレの この顔はまさに役にはまっている。しかもこんな人がそばにいたら、自分も困るだろうなと思わせるのだけれども、彼が真面目であることもあ って、同時に哀れささえ感じさせるのだ。

実は自分は利口でスマートと思っている人間が一番バカだったというこの映画。
そうした人間を好ましく思えない自分たちの気持ちをも代弁してくれている。 この映画もまたジャック・ヴィユレなしでは考えられない映画だったのではないだろうか。


<生きている限り希望があるよ>
またまたジャン・ベッケル監督の『ピエロの赤い鼻』
これが今のところ私たちが観ることができた彼の最後の映画だ。
もはやジャン・ベッケル監督の作品はジャック・ヴィユレなしでは成り立たないのではないか、 そんな風にさえ思わせられるこのコンビの最後の映画にもなってしまった。 そしてある意味この映画はジャン・ベッケル監督がジャック・ヴィユレのために作ったかのような映画になっている ようにも思う…もちろん彼がこんなに早く逝くとは思うわけもなく、そんなつもりはなかったにしてもだ。 とはいえ、この映画の彼の役名がジャックであるのも偶然とは思えない。

ジャックは小さな田舎町の学校の先生だ。ところが日曜日になると、彼は大切そうにトランクを引っ張り出し、 そこからピエロの赤い鼻を取り出し、お祭り会場へと向かう。 そう彼は日曜日には町の公民館でピエロの出し物をしているのだ。
息子のリュシアンはなぜ父親が、わざわざ、ピエロの可笑しな扮装をしてみんなの笑いものになるのかどうしても理解できない。 丁度そんな年頃ということもあるのだろう、もう恥ずかしくて恥ずかしくて、そんなことをする父親が嫌でしようがない。

そんなリュシアンを見兼ねて、ジャックの親友アンドレ(アンドレ・デュソリエ…そういえばこちらも役名といっしょだ。 そしてこのふたりは役柄だけでなく、実生活でも学生時代からの親友なのであった)は、彼に 「赤い鼻」の秘密を語り始めるのだった。

これから映画をご覧になる方もいらっしゃると思うので、ストーリーのすべてを明かすことができないのだが、 この秘密は第二次世界大戦のある出来事に端を発している。その頃に起きた哀しい出来事…。

戦場にも行かず、近所の酒場の女性ルイーズにすっかりお熱を上げていたジャックとアンドレ。 ある日ふたりは、彼女にいいところを見せようということで、自分たちだけで密かに計画を建て、 レジスタンスをしようということになった。深夜、ドイツ軍の鉄道のポイント切り替え所、 ここに爆弾をしかけようというのである。ここなら見張りも手薄だし、自分たちでも簡単にでき、しかもドイツ軍の輸送を妨害で きると考えたのである。自分たちの軽はずみな行動がどういう結果を招くかも考えずに、まるで子供たちが原っぱでロケット花火で戦争を するくらいの感覚だった。計画は概ね成功するが、予期せぬことも起きてしまう。切り替え所に宿直していたひとりの罪のない老人をも事 件に巻き込んでしまったのだった。

そんなことも露知らず、彼らふたりはルイーズのところに身を寄せ、武勇伝を自慢げに話すのだった。ところが、これに怒ったドイツ軍は、 犯人が自首してくるまで村人の中から4人の男を捕虜にすることにした。ジャックとアンドレの元にもドイツ軍はやってきた。そして、ジャ ックの教え子エミール、彼らとはそりの合わない保険代理人ティエリーと共に連行され、ドイツ軍基地の大穴の中に放り込まれてしまう。

どしゃぶりの雨が降っている。大穴の下はぬかるんでぐしゃぐしゃになっている。穴を登ろうともがいてみても、足をとられ、土は崩れ 落ちるのみである。このままではいつか殺されてしまう、なんとか逃げる手段はないのか、度重なる口論。なぜ自分たちがこんなところへ 連れてこられなければならなかったのか。誰が真犯人か、罪のなすりあいに、罪の告白。

翌朝は晴れた。穴からも青空の一部が見えている。結局一晩中暗い中、ずぶ濡れになっていた。ただでさえ、いきなり連れてこられて何が なんだか判らないのに加えて、周りが何も見えなかった。それが今、陽の光が穴の中をも照らし出したことによって、自分の置かれた場所 がはっきりとしてきた。不思議なもので、そうすると急にお腹が減ってくる。
少しだけ余裕ができたのだろろうか。そうした中、ひとりのドイツ軍兵士が穴の上にやってきた。 肩からは銃が下がっている。ところが彼はやおらピエロの赤い鼻をポケットから取り出すと、それを鼻につけ、 ピエロの芸を始めるのだった。最初は何が何だかわからなかった彼らだったが、やがてその芸のうまさにひきこまれ、 本気で笑い出してしまうのだった。
「生きている限り希望があるよ」
彼はそう言って、パンとリンゴを穴の中に落としていってくれた…。

私にはこの大きな穴が人生そのものに、見えてきてしまう。ふと何気なく、深い考えもなく行動してしまった結果が人を傷つける。あ るいは、自分自身も不幸のどん底に突き落とされる。そんなとき、人は周りが見えなくなってしまうのではないだろうか。 穴の底で泥まみれになって這いずり回り、ときには人の責にしてしまったり、自分にも腹を立ててしまったりする。 青い空ははるか彼方に見えるのだけれども、日光は直接には自分には当たってこない。 穴の底で見える世界は狭いから、外で何が起こっているのかが、まるで見えてこない。 それでも自分だけでいつかはそこを登っていかなければならない。

そんな時、手を差し伸べてくれる人がいたりする。最初は彼がなんでそんなことをしているのかわからない。 むしろバカにされているのじゃないかとさえ思ってしまう。
ようやく理解できはじめた時に初めてパンとリンゴを落としてくれる。必要最小限のものではあるけれども 、彼は自分のできるせいいっぱいのことをしてくれたのだ。そして言葉としては多くないけれど、 千金のひとことを投げかけそして去っていく。人生ときにこんなことがあるかもしれない。

穴を奇跡的に脱出できたときの彼らは今までの彼らとは、もう同じではいられない。 犠牲もいくつか伴った。外の世界に出て初めて知ることもあった。自分たちの軽はずみな行動がひき起こした不幸、 それを彼らは背負っていかなくてはならない。ジャックもまた自分の罪、そのことによるよる哀しみを 背負って生きていくこととなった。
彼はその顔にドーランを塗り、赤い鼻をつけることによって自分の哀しみをその中に押し隠し、 その反作用としての笑いとして爆発させる。もちろん赤い鼻は、あのドイツ兵から受け継いだものだ。 彼の苦しみといっしょに彼のかけがえのない優しさもいっしょに受け継いでいるかもしれない。

華やかで楽しさに溢れるピエロの芸…その奥にある彼の気持ち。この物語を知った息子は、もう父親を嫌ったりすることはないだろう。 それどころか、彼もまたこのピエロの心を受け継いでいくことだろう。父を理解した息子がせいいっぱいの拍手を送る中、それを知らずに 父親のジャックは、いつもの通りせいいっぱいの芸をして、人を心から笑わせ楽しませている。

この姿を見たとき、私はジャックがジャック・ヴィユレ自身の姿と微妙に重なってきてしまった。
彼が俳優としてつねに表現していきたかったことってまさにこれだったのではないかという気がしたのだ。 笑いの中にどかこ、哀しみを湛えた彼の演技。ジャン・ベッケル監督もまたそれがわかるからこそ、 この映画の役名を敢えて彼ら自身と同じにしたのかもしれない。


<ピエロの赤い鼻…苦しみはポケットに入れて>
インタビュー記事の中でジャック・ヴィユレはこんなことを言っていた。
「私の祖母はよくこんなことを言っていた。大きな苦しみそれをポケットに入れて、 その上にハンカチをかけてずっと持っていましょうねって…。」
なんて素敵な言葉なのだろうか。そしてジャック・ヴィユレ自身も、単なる喜劇俳優というのではなくて、まさにそんなことを表現できる 俳優だったのではないかと思う。まだまだこれからが楽しみな俳優であったのに、誠に惜しい限りである。

ただせめてもの救いは、今や良きパートーナーであったジャン・ベッケル監督によって、彼の今までの集大成的な作品、 この『ピエロの赤い鼻』が作られたことだ。 私にはこの映画から、彼のこんな声が聞こえてくるような気がしている。
「人は誰でも何かしら弱点や、人には言えない過去を持っているかもしれない。 でもそれでいいじゃないか。それは否定しようにも今さら否定できるものではないんだよ。それよ りピエロになって人を楽しませよう。赤い鼻の下にそんなものは隠して持っておこうよ。 そうすりゃ今度はまた誰かを幸せにすることができるかもしれないよ…」
あまりに早い死ではあったが、彼の残してくれた財産(フィルム)はこれからも、私たちの記憶に残っていくことだ ろう。

P.S.配給会社の皆様。もしこちらのページをご覧になっていたらジャン・ベッケル監督、ジャック・ヴィユレコンビの未公開作 『天国で殺しましょう』(00)の劇場公開をぜひともお願いします! 

メイルちょうだいケロッ

トップに戻る   ホームヘもどる